それが三ヶ月前の出来事だった。

多額の労災で借金を返済したムゥエは、一人で市場取り引きに臨み、今度は惨劇でもなんでもない、初歩的なミスを犯して破産した。

父がいれば犯さなかったであろう、ミスだった。

出来ることは何もなかった。

家賃も払えず、路上で這いずるように暮らすようになったムゥエの心が折れるのは早かった。

そこまできてなお自分が折れていないと信じ続けていた時点で、もう取り返しようもないほどに心の剣は折れていたのだと、気付けなかったことに思い至った時、ムゥエは笑った。心の底から、笑った。

そして自分の人生を諦めた。

死のうかとも考えた。

だが、同僚達と医師から話を聞いて、それも出来なくなった。

あの時父は落ちてきたコンテナからムゥエをかばうようにして、突き飛ばしたのだという。

その父の手を、自分は覚えていないが握りしめ、助けようとしたらしい。

それで、右腕がもがれたのだという。

即死だったという。

それがせめてもの幸いだった。

のみならず、父の遺体に残っていた血液は、大量に失血した自分へと輸血されたのだという。

今、ムゥエは二重の意味で父によって生かされているのだ。

自分の手で命を断つ事など、出来はしなかった。

「でも…」

だからといって、絶望したまま生きるのはつらいよ、父さん。

そう、ムゥエは心の中で呟いた。

見上げた空は、黄色く濁っていた。

/*/

噂によればレンジャー連邦は今も順調にやっているらしい。
共和国全体も、長かった戦乱が終わり、一息ついているところだという。
藩王や高官達は恋人達とのレジャーを楽しんでいるらしく、ムゥエのいるような界隈にも、華やかな噂が流れてきていた。

半年前の戦勝パレードが、遠い昔のことのようだった。

あの時は、

父がいて、

父と共に、自分の右腕は、共和国と連邦の旗を、彼等に振っていたのだ。

今の自分には何もない。

右腕も父も、何もない。

「ほんと、どうしようもないよな……」

路地でうずくまるように、身を縮めた。

こつ、こつ、こつ。

足音がする。

「!」

慌てて立ち上がったが、もう遅かった。

足音はこちらに向かって走り出している。

「おい、いたぞ!」
「この無宿者め!」

追い立ててくるのは役人だ。
家を持たずに路上で生活している自分を、何度も捕まえようとしている。

捕まったらどうなるんだったか、学生だった頃の記憶をたぐって法律を思い出そうとするが、一つも出てこない。とにかく、きっとよくないことになるに違いない。

必死になってムゥエは逃げた。

「あっ」

転び、握りしめていたコインが道端に転がる。

「……!」

背後からは声が迫ってきている。

諦めて、ムゥエは急いで立ち上がるとその場を後にした。

その日彼は何も口にする事が出来なかった。

/*/

夜が空を満たしている。
星天は、こんな時でも綺麗だった。

「星座かあ……」

幼い頃、父と、母と一緒に帝国で見た覚えがあった。

今、見上げてもろくにわからない。

はは、と笑いが口をつく。

「教えてもらったはずなんだけどなあ。北極星の見つけ方」

Wの形をした、カシオペヤ座の、その弓の先の方にあるのだという。もう一つ、見つけ方があったような気がするのだが、どういうものだったか思い出せない。

「駄目だなあ……」

思い出せないや、と、呟くと同時に涙がこぼれた。

母の顔も、父の言葉も、どんどん、どんどん思い出せなくなっていく。

父も母も、もういない。

もう二度と、今ある記憶以上に思い出が強まりなんてしないのだ。

それなのに…

「それなのに、僕は、二人のことを忘れるんだな…………」

砂漠の夜は冷たい。
役人の手を逃れるために市街地を出た彼は、砂丘の一つに腰を下ろして、身を小さく縮めながら、ゆら、ゆら、自分の膝を抱えこんで、揺れていた。

動かしていないと、体が冷えて凍えそうになる。

何かを考えていないと眠ってしまいそうになる。

砂漠の夜は零下にもなる。潮風の吹く、レンジャー連邦で、砂漠で何の備えもなしに眠ってしまえば死が待っているだけだ。

懸命にムゥエは、一つ一つ、思い出を手繰っていった。

それは心に灯したマッチの火のようで、一つ、灯っては、一つ、見失う、消費していくだけの行為。

やがて何も思い出せなくなった時、自分の指が白く凍えているのに気がつき、ああ、こうやって死ぬのも悪くはないかな、と、ムゥエは思った。

その時。

「―――――哀れだな」

前触れもなく、黒い影が彼の前に、立っていた。

/*/

影は長身の男であった。
目深につば広の帽子を被っており、その目元は見えない。唇には、紫の紅が塗られており、それが異様な雰囲気をかもし出している。

身にまとう、すべてが黒衣であり、厚手のコートで装っていた。

男は唇だけでムゥエを見下ろして、蔑むように笑っていた。

「聞こえなかったか。もう一度言おう、哀れだと、そう言ったんだ」

ほうけていたところへの突然の来訪者に、とっさには反応出来ず、ムゥエはもう一度、眠たい頭の中でその言葉を反芻する。

「哀れ……?」
「ああ、そうだ」
「……」

自分の格好を思い出す。なるほど、確かにろくに身だしなみを整えることも出来ない、ぼろきれのような格好だ。それに引き換え、この男の着ている衣服は上等なあつらえである。彼からすれば、この境遇はまったく哀れにも程があるだろう。

「そうかもしれないね……」
「違う」

すると男は、まるで心の中を見透かしたかのように即座にムゥエの言葉を否定した。

「格好がではない。その心根が、哀れだというんだ」
「なん、ですか…あなたは、一体…」
「なんでもいいだろう。それよりお前は、そのままでいいのか」

跪くようにして、顔をのぞきこんでくる、男の目は、

まるで人間ではないかのように冷たい青色をしていた。

「仕方ない。運が悪かった。それだけのことで、生きることを諦める。実に下らない。実に愚かだ」
「…………」
「お前はそのまま死んで、何も後悔がないというのか?」
「でも……何をすれば、どうすれば……」

あえぐようにムゥエは求めた。
答えを、貪るように心の底から求めた。
ぼろぼろと涙を流しながら、この、見知らぬ男に、本心を心底吐露した。

「わからないんだよ…もう、何をしたらいいのか…僕は……」

肩を、男の手が掴む。
その力強い感触に、びくっとムゥエは震える。

「思い出せ」
「……?」
「思い出せ、お前をそこまで貶めたものは、誰なのかを」
「そ、れは……」

その後、クレーンの操縦者には直接詫びをしてもらった。父の墓前に立ち、頭をこすりつけるようにして彼は詫びていた。ムゥエの生活の面倒を見ようと言ってもくれていたが、彼はそれを断った。今更そのような贖罪をしてもらったところで、何一つ、還ってくるものなどないのだから。

「……わからないよ……」
「ふん」

と、男は彼の弱々しいいらえを鼻で笑う。

「その腕は、事故で失ったのだろう」
「どうしてそれを…」
「ちょっと情報通であれば、有名な話だ。元資産家、没落の果てに港で死す…とな」
「でも、アガタさんは悪くないよ。クレーンの鎖が切れたのだって、避けようがなかった事故なんだし」

くつ、くつ、くつ。
男はおかしそうに肩を揺らしてうつむき笑う。その笑いの震動が、肩に置かれている手から伝わり不気味に感じられるのは、ムゥエの考えすぎなのだろうか。

「どこまでもおめでたい男だな、お前は。本当に、おめでたい……」
「…………」

何も反論する気力のなかったムゥエは、ただじっと、相手が何かを告げるのを待ち続けている。
そんな彼の様子に、男は、ぎゅうと肩に置いた手に力をこめ、彼の肉を握りしめる。

「…痛ぅ…!」

反射的に湧き上がる、原始的な怒りの感情に任せてその手を振り払った。

「何をする…!」

ぱち、ぱち、ぱち。
目の前でされる、拍手。まるでそれは馬鹿にされているような気がして。

「そうだ、それでいい…怒れよ」
「……一体あなたは何なんですか…僕に何をしたいんですか…」
「私が誰でも何でもいいだろうと言ったはずだ。ただ、哀れな迷える盲目の子羊に、正しく物事を見させてやりたいだけだよ、私は」
「馬鹿に、してるんですか…」
「馬鹿にしてやいないさ。言っただろう。哀れんでいるんだ。何も見えちゃいない、この期に及んで甘ったるい考えを抱いているお前にな」

歌うような調子で指をつきつけられ、びくり、震えた。

「お前は誰も悪くない、何も悪くない、そう信じ込もうとしている。だがそれは本当に事実か?正しいことなのか?」
「…………」

胸が、うずいた。

「お前の父を殺した男が憎くはないのか」

今更詫びてもらっても、と、右腕の付け根を抑えながら、男の流す涙を冷たく見下した時のことを、思い出した。

「お前から、すべてを奪っていったものが、憎くはないのか。憎まないでいいと、お前は本当にそれでいいと思っているのか。だとしたら…」

お前の死んだ父は、哀れだよ。

そう、毒を含んだ冷笑を、紫の唇に浴びせ掛けられる。

「息子に仇も取ってもらえず、浮かばれない」
「でも、父さんは…」
「そんなこと望みなんかしなかった、かい?」
「……そう、だよ」

父は、どんな時でも笑顔を絶やさなかった。
そして、この愛の国を信じていた。

だから。

「誰かを憎むのは、何も生み出しはしないから…」
「しないから、お前だけが割りを食って、損をして、そのまま朽ちていいと!そういうのか!
まったくなんておめでたい、哀れを通り越して、なんておめでたいんだろうな、お前は!!」

あざ笑うようにして男は肩を揺らした。
左胸に、指を、突きつけてくる。

「信じた結果が、今のありさまだろう?」

びく、り。

「レンジャー連邦は愛の国?
頑張れば必ずいつか報われる?
はっ、笑わせるな!!
その連邦がお前達を殺したんだろう!!
その連邦がお前達に何をしてくれた!?」

じくん。
突きつけられた指の先、胸の中で、毒が躍る。

「何もしやしないさ、国民の何人何十人が死のうがあいつらには何の痛手もない、だから結局何もしなかった!!
そうだろう!?
だから今、あんなに奴等はせいせいと厄介事が片付いて、存分にいちゃついて、自分事に耽っているのさ、何もかも放り出してね……」

じくん。
ぐりぐり押される胸の中で、熱が点る。

「さあ、立てよ。何をしている?そこでお前は死んでもいいのか」

ばさあっ!

男はコートを翻し、まるでその腕の中に彼を招き寄せるかのような仕草をした。

その向こう、彼方の空には星が浮かんでいる。

「その格好のままでは寒いだろう?
さあ、ほら…これを着なさい」

奇妙なほどに、優しい声で、そして優しい手付きで彼は自分の着ていたコートを脱ぐと、それをムゥエに着せてやった。

「さあ、私と一緒に来るんだ。
おいで?
やるべきことがお前にはあるだろう」

ぎ、り…

唇を、食いしばる。

最後に見た、父の弱々しい笑顔と言葉が脳裏をよぎる。

「私は君の、味方だよ」

ムゥエは、

男の手を取り、

立ち上がった。

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星が頭上に瞬く。

その星の名の、何たるか……

忘れていた、北極星の見つけ方と共に、

それを彼はやがて知ることになる。

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最終更新:2008年04月02日 10:05