十一月。
ある臨港施設の従業員が、先月から失踪していたことが判明した。
当局は捜査に取り掛かったが、一向に手がかりは掴めず、その事件はニュースにも載らない。
その月はそれだけ。
/*/
十二月。
久方ぶりの深刻な動乱が、国の隔てを越えたところで勃発した。
それを契機に、ある条約の破棄が成される。
その月はそれだけ。
/*/
その翌年の一月。
「…………」
昨年秋から継続されていた大法官の調査により徐々に明らかになっていた、共和国内部の動乱の種に、皆の耳目が集まりつつあった。
人々は元大統領の暗躍の記録を追い、頭上の脅威に怯える一方で、肝心の足元が安泰だと、そう信じて疑っていない。
頃合だ。
レグ=ネヴァはHAに別れを告げ、連邦に戻った。
/*/
既に彼を彼と見分けることは、かつての級友にも不可能なことであった。
かつて灰色であった髪は白く染まり、長くなり、褐色を濃くしていた肌は、内側からの強い張りによって、さらに濃く、今や黒にさえ見える。細身の肉体は肩幅を変えるほど厚みを増し、盛り上がる僧帽筋が華奢だった首を短くしている。
何よりも、その顔立ちは、黒塗りの一振りの刃のような鋭さを帯びていた。
また、それらのすべてをさらに旅行者として装い直している。
強靭な意志力が、鋭さを、鞘に収めて温厚とし、しなやかな筋肉が、高い身体能力を最小限に殺して街並みに紛れさす。
いまや千人力にも匹敵する能力を持つ彼は、そのようにして一般人としてまったく埋没していた。
「じき、バレンタインになって観光客が増えるんですよ」
そう、親切にも船着場で解説したのは、出入国を管理している舞踏子の一人だった。
なるほど、とレグ=ネヴァは実感する。
若い女性の応対ならば険が立たない。こうして水際で感覚の鋭い彼女達が、不審者を炙り出すための警戒網も兼ねていたのだ。
かつて長く住んだはずの故郷の持つ、いくつもの顔を、何も理解していなかったことに改めて気付く。
その顔が、愛を語る一方で自分達を踏みしだき、そして救わなかったのだ。
それを思うと唇に、師と同じ、毒の滴るような笑みが自然と浮かんできた。
それをわかる自分に育て上げてくれた師を、誇る思いが浮かんできた。
今では自分には二人の父がいると思っている。
ムゥエという名の自分の父と、レグ=ネヴァという名の自分の父と。
愛は、必ず報いるか。
そうだなと冷笑し内心同意する。
一人の父を喪って、そしてもう一人の父を、自分は得たのだ。
いいだろう。それだけは認めてやる。
だが、それだけだ。
『俺』の愛は、お前に報いてお前を殺す。
お前の愛が、『僕』を殺したようにだ、連邦よ。
そう彼は心の中で呟いた。
半年振りの港通りには観光客が押し寄せていた。愛の国として知られているせいだろう、バカンスを楽しむにはもってこいのロケーションとして認識されているらしい。
また、この国はどうやらしばらく見ない間にいささかの蓄財をしたらしく、随分とあちこちが活気付いていた。かつて戦争が起こるたびに存亡の危機に瀕していた国とは思えない、成長振りであった。
レグ=ネヴァは視界を賑やかに満たすそれらの人々を眺めてほくそえむ。
今のうちに楽しむといい。
じきにこの繁栄はすべて消え去るのだから。
/*/
最初の数日間は、入手した情報が正確かどうかの観測に努めた。
「与えられたものをただ鵜呑みにするな。そんなものは鵜と同じだ。理解がなければ消化せず、ほんの少しの刺激で吐き出して、終わり。それだけだ」
情報を与えたHA自身の教えだった。
見ると、はたして王宮周辺の警備は手薄のようでいて、確かに幾重にもラインが敷かれていた。かつてはこの界隈で起きていたドタバタ劇を見ては、この国は大丈夫なのかと心配する事もないではなかったが、あれでちゃんと備えは成されていたのだ。
また、カール=T=ドランジは、やはり定期的に別の藩国へと移動しているらしかった。決行に際し障害となりはしないだろう。ACE蝶子は王宮の奥にいるのか一度も姿を見せた事はなく、たまに見かけたと思ったら、それは足の運びで藩王蝶子であるとすぐにわかった。
ウィングオブテイタニア、妖精の女王の異名を取る、このACEについては、やはり直接見た限りでは、奇襲が成功すれば問題なく無力化出来るレベルだった。主力として働いていたという話だが、所詮はこの国の中での事であり、戦場の主力にはなりえない。
不確定要素を一つずつ外し、頭の中で最大限の柔軟性を持った段取りを組んでいく。
妙な事に、この国にはいないはずのACEの存在が幾度か確認された。ただそれは、おおよそ高官達について回るものらしく、それらの行動範囲を避ければいいだけのことだ。
何十人もの行動パターンを、一枚のシートの上で重ね合わせて見る。
本来は完全に埋め尽くされているはずの、その警戒網に、自分の能力を含めると、少しずつだが空白が生まれてくる。
その、空白と空白とが重なりあうポイントは、限りなく少ない。
ようやっと見つかった隙間はほんの一点だった。
だが、一点でいい。
あちらはすべてを防がねばならない。だが、こちらはそのたった一点だけでいいのだ。
ゆったりと、かつて父と暮らした藩都の邸宅付近に宿を取り、彼は己をさらに鍛え上げながらその時を待った。
/*/
月と、風のない夜。
影が王宮の外壁へと忍び寄る。
星を見て、時を計った。
じき、ここを見張りが通る。
レグ=ネヴァは息を殺した。
息とは意気である。あらゆる意も、気も、己で殺して無にする。
そうすると、奇妙な事に、人は、人を認識出来なくなる。
心こそ、人の形、そのものなのだという、証のような現象だった。
必ずの成功を約束されたその行為に、だから不安も期待も何もない。
ただ、そうあるだけだ。
そうあるように、心を殺す、それだけだ。
「異常、なし……」
曲がり角から現れて、辺りを念入りに見回したのは、巨大なスパナを背負った女性だった。
青黒い軍服を着込んでおり、いちいちそうしているのだろう、人の潜めそうなところを、警戒して調べている。
そうして、レグ=ネヴァのいるところを、
あっさり彼女は通過した。
無防備な背中を見て、無感動に反射が思う。
いつでも殺せる背中だ。
いつでも殺せる背中は、いつまでも殺さなくてもいい。
そんなものはないと同じなのだから。
丹念な精査を続けつつ、進んでいく彼女の姿が見えなくなると、レグ=ネヴァは外壁の近くに忍び寄り、予め用意してきた布を取り出した。
その布の上には紋様が刻まれている。
確かにレグ=ネヴァには魔術の素養はない。また、それを学びもしなかった。
だが、そんなものはどうでもいいのだ。要はそれを扱えるものから協力を乞いさえすればいい。
術式が崩れないよう、HAから教わった通りに、見えはしないがそれが仕込まれているだろう場所へと、布を一枚一枚置いていく。
その上を、またいでから、また布を回収する。
それで終わりだ。
レグ=ネヴァは、そうして王宮の外壁を悠然と突破した。
/*/
機械的な警備システムについては少してこずった。
プログラムには手をつけられないため、ハードの方を欺き、無力化するしかなかったのだ。
HAが同型の設備を取り寄せ、それに対するシミュレーションを行っていなければ、到底ここを乗り越える事は出来なかっただろう。師に対する信頼を深めつつ、王宮内部へと忍び込む。
王宮内の廊下に敷き詰められた深い絨毯の毛足は、忍び込んでみるとおそろしくよく足音を吸い込んで、厳しいHAとの訓練を経たレグ=ネヴァにとり、まるで無防備な腹を晒しているかのように感じられた。
肝心の、藩王・蝶子の居場所はわからない。
だが、焦る必要はない。懐まで飛び込んでしまえば、わざわざどこかに自分のような存在が隠れていると、疑ってかかるものなどいないのだ。そうであれば、もはや誰にも見破られる事はない。
慎重に、予め決めてあった進路を進んでいく。
かたん。
「!」
不意に壁から音がした。咄嗟にレグ=ネヴァは身を隠す。
壁は、外に向かった側ではなく、部屋などのある内側だ。こんなところに隠し扉があるなどとは見取り図には書かれていなかった。
テイタニアだろうか。
だとしたら、気付かれる前に仕掛けなければすべてが台無しだ。人を呼ばれては、さすがに多勢に無勢、暗殺者であるレグ=ネヴァには成す術がない。また、テイタニアでなくとも、見回りの人間であれば、外の舞踏子がそうしたように、今隠れている場所も確実に確かめてくるだろう。隠蔽術には絶対の自信があったが、賭けになる事には違いない。
(どうする……)
一瞬の間に思考が分岐する。殺すか、やりすごすか、二つに一つだ。
「…………」
結局彼は決断をではなく、忍耐を選んだ。つまり、身を潜め続ける事を。
「ん…なんか、知らないにおいがしたような…」
はたして、壁の一部を押し上げて、ことん、という小さな音と共に出てきたのは、一匹の、黒い毛並みの猫だった。
一旦いないことを確認した後では、猫はまったく警戒の対象外だった。だが猫は、夜目が効く。そして声が高いので、よく響く。何よりサイズが小さく、天性の暗躍者である。こういう猫用の隠し通路があるなどという事態を想定していなかったことは、完全な自分の油断だった。
一瞬でも隠れるのが遅れていたら、姿を見られ、鳴かれていただろう。また、殺す事を選んでいたら、人体とは勝手が違うため、口を塞ぐのが間に合わず、その断末魔が住人達の目を覚ます結果になっていたかもしれない。
ひやりとした。
「んー……」
その黒猫は、しかし面倒くさそうにあくびをすると、とふとふ絨毯の毛並みを踏んで、彼の潜む場所とは反対側へと行ってしまった。
猫の嗅覚は人間並みだ。
犬であれば、アウトだった。
危なかった。
HAでさえ知らなかった隠し通路があるとは思わなかったが、見取り図についてはさすがに管理が厳重で、新しく入手出来なかったので、鵜呑みにしてしまっていた。
反省しなければ。
今度は壁にも注意を払いながら進んでいく。
/*/
一つ一つ、普段、藩王蝶子が使っているという場所を、確かめていく。
まずは寝室。
ここにはいなかった。眠っていたのは虎縞の雌猫だけだ。
次に、私室。
ここにも姿はなかった。誰かと嬉しそうに二人で写っている写真が、机の上に飾られているだけだ。
その無邪気な笑顔に、写真を引き裂いてやろうかとも思ったが、行き違いになって侵入者がいると気付かれてはいけないので自制した。
最後に向かったのは、藩王の執務室だった。
ここにいなければ、後は可能性の高い順に、使われそうな部屋をしらみつぶしにするしかない。
(内通者さえ一人でもいれば、たやすかったものを……)
だが蝶子は慕われていた。少なくとも、彼が噂を聞いた限りでは、高官達に藩王に対する不満はないようだった。
もし、知らないところで確執があったとしても、それは彼女の身の危険を招く恐れのある密通行為には手を貸さないだろうという、そういう評判だった。
仲がいいことだと皮肉に思いながらレグ=ネヴァは執務室へと近づいていく。
身内に優しい藩王様。しかし、あくまで脆弱で、自分達のような民草にまではその対象を広げることのない、愚かで矮小な愛の持ち主。
無能は、罪だよ。王様。
結果だけが世界のすべてなのだから。
そう傍白しながら胸にたぎる殺意を抑えつつ、近づくにつれ、徐々にはっきりとしてくる、人の気配に、レグ=ネヴァは緊張を高めていった。
いる。
この室内の中に、誰かが。
ついに、たどりついた。
レグ=ネヴァは、音で気付かれないよう扉の各所に油を回し、執務室の扉に手をかける。
/*/
彼女はそこに佇んでいた。
その佇まいからは、彼女がACE蝶子であるのか、藩王蝶子であるのか、見分けはつかない。
なぜなら、彼女はただそこに佇んでいたのだ。
思いのすべてを、仄かに差し込む月明かりに、まなざしでなげかけながら、佇んでいたのだ。
そこに、思う以外の心はない。
そこに、思う以外の姿はない。
佇まいから、能力の多寡を推し量ることが、出来なかった。
レグ=ネヴァの脳裏にHAの言葉が甦る。ACE蝶子、お前に彼女は殺せない。
しかし。
しかし、今だけが、唯一のチャンスなのだ。
まだ彼女はこちらに気付いていない。
右腕の付け根、義腕の接続部位が、痛みで軋んだ。
胸の中の空白が、際限もなくその痛みを押し広げる。
もうすぐだよ、父さん。待っていて。
やっと仇が討てます。
そう、なだめすかしてもなお、痛みは消えることがない。
痛みを抱えたまま動くのは意識が散漫になって危険だが、これ以上ためらっていては気付かれる。そうすればすべてが終わりだ。
レグ=ネヴァは、一つ、ゆっくりと呼吸をすると、
痛みを噛み殺し、腰からナイフを抜き放って、旋風のようにその身を前方へと翻した。
/*/
鋼の軋る、音がした。
星明かり一つ射し込まぬ暗闇の中で、唯一確かなその音は、まるで眼前に立つ人物そのもののように無感動なほどの揺らぎのなさで轟いて、聞く、胸の中に軋みが伝う、そんな響きを帯びていた。
装いすべてが漆黒に塗り潰された侵入者の、薄くつむっていたまぶたが開く。
強く、問いかけるように見開かれた瞳が金色に明るい。
「動くな」
滑り出た声は鋼であった。
今にも溶け出しそうな灼熱を帯びた、かろうじて形を取る、高圧の殺意を放出する、鋼であった。
その切っ先は今喉元にナイフとして現実の形を取って突きつけられている。
低く、しかして他に音を生み出すものもないこの限られた室内においては、その小さな押し殺された声は充分過ぎるほど耳に刺さった。その声色からは、意外にも彼が年若であることが察せられた。
「……どなたですか」
「レグ=ネヴァ」
言葉と共に、金色の殺意が視線を渡り、伝わってくる。
その金色は、闇に灯された唯一の光の如く、回答以外のいかなる動きに対しても殺意でもって応じると、そう語っていた。
「答えを」
見つめる先で、唇が動いた。
「俺達は、何のために生かされている?」
それははたして問いかけなのだろうか、と、『あなた』は思う。
生まれた意味を求めることは、問いかけではなく、もはや苦悩なのではないか。
そう感じた時、初めて彼のことを理解出来そうな気がした。
伝えたいことがある。
答えたいことよりも、もっと、多く。
『あなた』はそうして手をのばす。
『この体』を通じて、彼の頬へと。
/*/
「……ある人は、世界に生まれた意味を求めることなど無意味だと語ります。我が意を通し、あくまで敵と認めた存在を退け続ける意志のはびこる、とても一方通行に都合のいいこの人界に答えを求めることに、意味なんてないと、そう言います。
またある人は、そんな事、語るまでもなく、その身に感じることで理解するものだと信じています。
私にはわかりません。
誰かにとって、『あなたたち』は帰るべき居場所、そのものです。
誰かにとって、『あなたたち』は消せない自分の分身、そのものです。
私にはわかりません。
私が今、ここに生まれてきた意味の答えを知らないように、私には、命が生まれてくる意味の答えを知り得ません。
ただ私は、あなたに、あなたたちに幸せに生きていてほしい」
そ、と、男の頬に、手を添える。
「どうかお願いです、笑ってください。
私は罪と共に生きます。生き続けます。
それを知らない人がいたとして、それを記憶に残すことなく通り過ぎた人がいたとして、私は、私だけは、あの日のことを忘れません。
私だけではなく、そう思う人もいるでしょう。
けれど私は死ぬわけにはいかない。私が死ねば、大勢の人たちが巻き込まれてしまうから。
私は、けれど、本当はあの日、あの時、裁かれるべきだったのかもしれない。
だから、いつか、こんな日が来る事を、望んでいたのかもしれません」
突きつけられた刀身を、素手で、握りしめる。
「私達は、笑います」
そう告げながらに見せた彼女の微笑みは、痛みでだろうか、細く歪んでいたけれども、
けれども、確かに微笑んでいた。
「皆と一緒に、笑いあい続けます。
人を、殺したその手で……
何も見えていなかった瞳で……
誰かと手をつなぎ、誰かを抱き締めて、そうして私達は、未来を見つめながら、生き続けます。
あなたが私を殺すというのなら、どうすればよいか、私にはわかりません。本当に、わかりません。けれども、私も、あなたも、共に生きる道はないのでしょうか。
殺されてもよいと思う気持ちもあります。けれども、殺されるわけにはいかない理由もあります。だから、殺しあうことになるのかもしれません。
でも……
ぶつかり合う中で、それでも、あなたと私がわかりあうことは、出来ないのでしょうか?」
刀身を、握る手が震えている。
滴る血が刃を伝い、握る彼の手、腕を伝い、服の内側にまで流れこんでくる。
微笑みは、とても穏やかであったけれども、ほんの少しだけ強張ってもいて。
強く、挑発しているようでもあり、ぎゅうと愛しくまなざすようでもあり。
罪を重く担ぎながらも、しかし諦めを知らずに輝いている。
「お願いです。笑ってください。
そして、私にあなたを教えてください。
この国で、あなたがどのように暮らしていたのかを。
この国で、あなたが何を失ったのかを。
そんなに悲しい顔をしないでください。
生きていてくれて、ありがとう。
それでもここにいてくれて、ありがとう。
私にあなたを愛させてください。
私にあなたの名前を呼ばせてください。
私の名前は蝶子です。
私の名前はレンジャー連邦です。
私の名前はみんなのものです。
私の命はみんなのものです。
けれど、今、ここにある、この意志だけは、私のもの。
お願いです、顔も名前も見知らぬあなたよ、どうか私に、あなたの名前を教えてください」
血を、止めることもせず、
力いっぱいに彼を抱きしめる。
手が、男の背を汚した。
うなじが、ナイフに向かって晒された。
鍛えられた肉体に対してあまりにか細い。
突きつけられた殺意に対して、あまりに無防備で。
けれど、彼女は彼を、抱きしめた。
「もう、私は誰も殺したくない。だから、私はどうしても死ぬわけにはいかない。
償うことが許されるのなら、私を信じてはくれませんか。
償うことを許されぬのであれば、あなたは生きてはくれませんか。
あまりに甘えた弱い自分と、あまりに甘えた無知な自分を、私は今、乗り越えるために、ここにいます。私は今、乗り越えて、ここにいます。
笑ってください。そしてどうか、幸せになってください。
それだけを、望む生ではいけないのでしょうか。
それだけを、望む私ではいけないのでしょうか。
私から、あなたを取り上げないでください。
だから」
お願い、と、その唇は言った。
「あなたの名前を、呼ばせてください」
/*/
生まれてきた意味を、知ることは誰にもできないけれど、
自分で決めることは、できるでしょう?
そう告げた彼女の背を、レグ=ネヴァは無機質に刺した。
/*/
「死ねばいい!!
何もかも、消えてなくなればいい!!!!
お前等の矮小な愛にはもううんざりだ、もう飽き飽きだ、自己満足のために語る偽善と愛ならそんなものは捨ててしまえ、くそっくらえだ!!!!!!!
お前達が笑って生きるそのために、俺達が、どれだけ大勢の『俺達』が、巻き添えになった!!!!
お前達が誰かを愛して守るそのために、どれだけの『俺達』が巻き込まれた!!!!!!
俺達が一体何をした、お前達に望まれてこの世に生を受け、しかしそれも、ただの『ゲーム』か!!!!
もう無力なままの木偶でなどいてやるものか。俺には力がある。お前をこのまま殺せるだけの、力を、得た!!!!!!
オーマ!!?
アラダ!?!
世界の運命!!!!!??
知ったことじゃない、知ったことじゃないよ、そんなもの、誰が望んでそんな世界に生まれてくるものか、産み落としたのは『お前等』じゃないか!!!!!!
そんな世界で生きるくらいなら、他の連中だって死んだ方がましだ!!!!!!」
なおも頬に触れてくる蝶子の手を、レグ=ネヴァはまるで悲鳴のように払いのける。
「俺に触るな。
罪を思うなら死ね。
すべての終わりをこそ望んで俺はここに来た。
父は言ったよ。人殺しとは、もっとも罪深い事だと。それは世間がそう定めたからではない。己の心を一文字に意志の力で切り裂いて生み出す、もっとも尊いはずの『必ず』の意志を、自ら汚す行為だからだと。それをすれば、人の心はそこで死ぬ、と。
だが、もう、この世界ごと俺は終わって構わない。
他の誰が巻き添えになろうと、もう俺に、世界なんて残されていない。
俺が失ったのは、すべてだ。
あんた如きに俺の何も残してなどやらない。
だから、死ね。
最後にもう一度言ってやる。
俺の名は、レグ=ネヴァだ」
「…………!」
く、と、
抉りこまれた分だけねじり出されるように、空気が蝶子の口から漏れた。
「ありがとう、命をくれて。
あんたが大人しくしていてくれたおかげで、俺は逃げ延びるチャンスが出来た。
言われた通り幸せに生きるとするよ。
笑えだと?
笑えるはずがないだろう。
父さんは死んだ。この右腕も偽りだ。俺に生きる場所は残されていない。俺を救わなかったあんたたちに、何を言われても届かない」
ゆっくりとナイフが押しこめられていき、肉の繊維の千切れる音が、互いの体の中に響く。
苦痛に顔を歪めながら、それでも彼女は彼を抱きしめ続けた。
「嘘…でしょう…」
「何?」
「名…前、です」
鮮血がヒールを伝って床を赤く濁す。
「レグ(Reg)=ネヴァ(Neva)…裏返せばそれは復讐者(Avenger)、あなたの本当の名前ではない」
「だから…どうした!!」
「そのような名前は捨てて…本当の、あなたの名前を、聞かせてください」
ドン!
とレグ=ネヴァは蝶子を突き飛ばす。
崩れ落ちるように蝶子は膝をついた。
左手で、溢れ出る鮮血をかばうようにして、ナイフが刺さったままの肩甲骨のあたりを抑える。
「私の名前は蝶子」
「う…うる、さい!!!!
だから、どうした!!!!!」
一瞬の怯みがレグ=ネヴァを支配する。
なぜだ。なぜ、この女は怯まない。
なぜ、この女はこうまで俺の、名を聞くことにこだわる。
「お前の名前なんて嫌というほど知っているんだよ!!!!!」
振り払うような怒声。
突然光が生まれた。
全館に明かりが灯り、警戒態勢のサイレンが鳴り響く。
「ちッ……!」
騒ぎすぎたか、と、レグ=ネヴァは舌打ちする。
駆けつけてくる足音に、彼はなおも予備のナイフを一振り抜き放ち、咄嗟に蝶子へ飛び掛ろうとする。
「く……!!?」
蝶子は既に立ち上がっていた。手の中に、己の肉を抉ったナイフを収めている。
相手は、殺されるわけにはいかないと言った。
そのためには、殺しあうしかないのかもしれないと。
もし彼女がACE蝶子であるならば、襲い掛かるのは致命的だ。
白兵において、万人力にも匹敵する相手を屠る手段を彼は持っていない。
だが、もし彼女が藩王蝶子であるならば……
「何事ですか!!」
「蝶子さん!!」
声と共に、体当たりで扉をあけて飛び込んできた人影に、反射的に彼の身体記憶は飛び退り、ナイフを投げつける。
「うお!?」
「曲者か!!!!」
腕にナイフの刺さった男が怯む。
(機を、逸したか……!!)
疾風のようにレグ=ネヴァは扉の方へと踏み込んでいき、わけもわからず自分を取り押さえようとしてくるものたちを吹き飛ばす。
「くそ、警備は何をしてた!?」
「す、すみません…!!」
「いい、それより、早く包囲を!!」
続々と押し寄せて来る人手に、もはやこれまでと思ったか、彼は王宮の壁を素拳でぶち抜く。その衝撃に耐えかねて、義腕が根元からもげ砕ける。
「くうっ……!!」
苦痛に顔を歪めるレグ=ネヴァ。
「逃げるのか!!」
「お前は何者だ!!」
それらの声には反応を示さず、レグ=ネヴァは蝶子の方を振り返る。
「そんなに…そんなに知りたければ教えてやる、蝶子。
俺の名はムゥエ。ただの、ムゥエだ!!!!」
「ムゥエ……」
レグ=ネヴァは、壁の穴から闇夜に身を翻し、落ちていく。
「追え、追えー!!」
「暗殺者だぞ!!」
さすがに穴から追いかけるわけにもいかず、駆けつけた人員は再び廊下を駆けずりまわって降りていく。
その、人が潮のように引いていく中で、身を案じて駆け寄るものの手を遮り、蝶子は穴から向こうを見た。
「ムゥエ…これからも、生きていてください」
呟く彼方に、“彼女”の視力でも、もはや男の姿は見られない。
それでも彼女は、傷口を抑えながら、闇の彼方を見据えた。
「私は、『私達』は、罪と共に生き続けます」
/*/
レグ=ネヴァは闇夜を走りながら、泣いていた。
なぜだ。
なぜ、俺は殺せなかった。
なぜ…あんな、問いを。
悔いが全身を走る。
名乗ってしまった。
これでもう、彼に安寧の地はない。
藩王暗殺未遂の罪人として、全土に手配書が回るだろう。
HAの元に戻り、匿ってもらうより他に生き延びる方法はない。
警戒網の張り巡らされた市街地を、いちはやく抜ける。
これも事前にルートを決めておいたからこそ出来る芸当だ。
そしてそれを可能にしてくれたのは、すべてHAなのだ。
情けない。
悔しい。恥ずかしい。
あれだけ自分を鍛え上げてくれたHAに、どの面下げて会えばいいのだろう。
砂漠を歩き、ほとぼりをさまそうとする。
今港に行けば、リンクゲートから逃げようとするものを捕まえるための検問が張られているはずだ。
うかうかとそんなところに出てはいけない。
「…………」
見上げれば、今夜は満月だ。
ふ、と、舞い上がる砂塵と共に、笑いが浮かんだ。
「暗殺にはもっとも向かないはずの、満月の夜にしか、勝機を見出せなかった。
その時点で俺の計画は、最初からこうなる運命だった、って事かな…………」
乾いた笑いが、喉を鳴らす。
だとしたら、運命なんてくそったれだ。
もうお前には何も期待しない。
運命なんて、必ずの殺意で塗り潰してやる。そして今度こそ、あいつを…
そう、レグ=ネヴァが思った時だった。
「運命か」
「!!」
声に、振り返る。
そこにはクラディスがいた。
/*/
「なぜここに、とか聞くんじゃねえぞ。そんな三文芝居みたいな台詞、真っ平御免だ。お前の運命とかいう戯言と一緒でな、ムゥエ」
「………」
どうして俺のことがわかったんですか、と、レグ=ネヴァは聞かなかった。
わかっている。
そんな理由、とっくにわかっている。
「正直見違えたぜ。大したもんじゃねえか。腕は、ま、ちいっとばかしビビったが、ミードに聞いてたからな」
「……何、やってんですか、先輩は」
「お前こそ何やってんだ。そんなナリして、傷まで負って」
そう、あごでぞんざいにクラディスは彼の腕の傷を示す。
「先輩、元文族志望なんでしょう。それくらい、わかるんじゃないですか?」
「わかるか馬鹿。だから法官志望になったんだ。
人間の考えてる事なんざ俺にゃわからねえよ。わからねえもんなんか、扱えるか」
「…………」
「どうした。悲劇のヒーローでも気取りたかったのか。わかってもらいたかったのか?」
「そんなわけ、ないでしょう…」
「ああ。俺も正直お前の転落人生なんぞに興味がない。よかった、安心したぜ」
「…………」
クラディスは、砂丘の上に、腰を下ろして星空を見上げていた。
「かわりに俺の一人語りを聞かせてやろう」
「結構です」
「いいから聞けよ。どうせ暇なんだろ」
「嫌です」
「おうおう、しばらく見ないうちに随分反抗的になったなあ。今更反抗期か?」
「死にたくなかったら黙って下さい」
「黙らねえよ馬鹿。聞く気がねえなら要点だけまとめて勝手に話してやるこの馬鹿。
運命なんてな、今ここで俺とお前が出会うぐらいの適当な偶然みたいなもんだ。くそったれだ。だがな、そいつが運命なんだ」
そう言うと、クラディスは手元の砂を、掬ってみせる。
さらさらと指の間から砂粒が舞い散った。
それを満足げに見やるクラディス。
「こんなもんだ。
何かが起きる確率なんて、いつだって砂粒の確率だ。
でも、砂粒なんざいっくらでも転がってんだ、世界には。
そんな程度のもんだよ、運命なんてーのはな。
どれにぶつかろうが、どれを拾おうが、好きにすりゃあいい。
俺はどれか1つを拾う事なんて、どうしても出来なかった。こんな馬鹿でかい砂漠の中から、たった一粒ずつを拾い上げて、物語を紡ぐなんて無茶苦茶な事、どうしても出来なかった。だから文族を辞めた。文族志望を辞めた。今も正直こんな奇怪な職業を目指すミードが不思議でならないぜ。
ほんっっと、ミードは馬鹿だよな。お前なんかをずっと気にかけてやがった。知ってるか、大学でお前を待ってる人間の数。お前が何も言わないで姿を消してから、気にかけていた奴の数。
アホだよな、馬鹿だよな、運命とかのたまいながら怪我してあからさまにうさんくさいナリでこんなところに、こんな時間にいる、こんな大馬鹿野郎のために。どいつもこいつも、馬鹿も馬鹿、大馬鹿の塊だ。
俺だけだ、賢い天才は俺だけだ。
俺は好きなように生きるさ。お前も好きなように生きろよ。黙ってなんか、やらねえよ。物思いに何か浸らせてやらねえよ。とっとと生きろ。生きて、生きて、それから死ね。殺したきゃ殺せ、自慢じゃないが文弱の徒だ、今のお前みたいなマッチョマンに抵抗なんて、俺は出来ん。
さあ、好きにしやがれ!」
クラディスは大の字になってその場で寝転がる。
砂が髪に入り込むのもおかまいなしだ。
「…………」
その姿を見下ろしながら、レグ=ネヴァは溜め息をついた。
「どうして先輩が大学で有名だったか、やっとわかった気がしますよ……」
「知るか、馬鹿」
レグ=ネヴァは、踵を返して歩き出す。
「興が冷めました」
「俺も冷めたよ馬鹿、折角の天体観測がお前の登場のせいで台無しだ馬鹿」
「…」
「天体観測って柄か、とか思ってるんならぶっ飛ばす」
「どうぞご自由に。好きなように生きて下さい」
「おう、言われなくてもな」
どこへ行こう。
砂漠はそれなりに広いが、所詮、街道に囲まれた袋小路に過ぎない。そう何時までも潜んでいるわけにはいかないだろう。
ならばいっそ、泳いで海を渡り、諸島のどこかに身を潜めるか。
それぐらいの体力はある。確かちょうど一年前に調査が入ったばかりで、どれかの島が、無人島だと判明している。
ぐい、と傷を縛り、出血を抑えると、もう一度だけクラディスの方を彼は振り返る。
「…僕がここにいた事」
「ああ、言わねえよ。だからお前が泣きっぱなしでいる事も誰にも言わないでやるから、とっとと失せろ、ほら」
「!!」
言われて目元を拭い、初めて気付く。
涙は、王宮を脱出した時からずっと流れっぱなしで、服の胸を濡らすほどになっていた。
それだけ大きな自分の変化に気付かなかった事に、レグ=ネヴァは強い衝撃を受けた。
あれほどHAから、感覚を研ぎ澄ませと教え込まれて来たのに、
よりにもよって、こんな一般人のクラディスの気配に気付かず、
よりにもよって、自分の流している涙にも気付かなかったのだ。
「どうして…………」
「んなもん、自分で考えろ。知らんし、付き合ってられん」
呆然とするレグ=ネヴァに、素っ気無く言うクラディス。
「…………」
そのまま彼は、クラディスへと別れの言葉も告げずに歩き出す。
一度だけ振り返った時、クラディスは本当に天体観測をしているのか、それともただ寝転んでいるだけなのか、じっとその場に留まっていた。
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「…………」
足は、何故か海とは反対の方角へ向かっていた。
以前、父と話したオアシス公園へと、気がつけば彼は訪れていた。
清澄な水が星月夜を面に浮かべてたゆたわせている。
泣き続けていたせいだろうか。無性に喉の渇きを覚え、彼はオアシスの水を手で掬って口に運んだ。
うまい。
傷と疲労と、極度の緊張が、水を貪るように求めさせた。
ざぶざぶと、飲み続けているうち、また、涙が零れ出て来ている事に、彼は気付いてしまった。
ああ、そうか。
『ムゥエ』はその時理解した。
父さんが死んだ事も運命なら、
僕が先輩とあそこで出会ったのも、運命か。
なら……
運命なんてものは、本当にくそったれな代物だな。
元の名前を、きっちり思い出させられてしまったのだから。
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自分が何故泣いているのか、それを考えた時、彼の脳裏に浮かんだのは見た事もない女性の面影だった。
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最終更新:2008年04月02日 10:08