連邦の夏に蝉は居ない。そもそも、夏そのものが存在していない。あるのは長い雨季と長い乾季、季節を問わないスコール、それくらいだ。

 あのしゅわしゅわと油の細かく爆ぜるような鳴き声も、また、樹肌と一体化した茶色い姿も、土中で何年もじっと過ごし、空でつがいと巡り合うために飛ぶ、儚きたった一週間を象徴する、どこか物悲しさを感じさせる羽化の透明な抜け殻も、砂漠の国には無縁の風物詩なのだ。

 砂中に潜むのは、日本人である私達にとり、もっと得体の知れない、馴染みの薄いものたちばかりである。

 アイドレスの世界は、日本であって日本でない。現実を、手で触れられる領域に限るなら、アイドレスの世界はあらゆるフィクションの世界がそうであるように、現実ではない。しかし、人の心がそこにあると感じさえすれば、いくらでもフィクションは現実に変えられる。悠久の昔より、人は、そうして現実を自らの意志の力によって作り変えてきた。

 かつて確かにどこにも実現しなかった存在を、人は常に夢想というフィクションの中から生み出し続けてきた。
 同じように、人の心は今、ネットワーク環境の中に入り込もうとしている。アイドレスという、一つのゲームシステムを使って。

 砂中に潜む、砂虫や、サソリ、蛇、トカゲのような顔ぶれを、今、この日本に現実として身近に感じているものたちがいる。
 アイドレスの世界の中で生きる、連邦の国民達である。
 灼熱と潮風が蜃気楼生む砂漠の上で日々を送る彼らは、時折考えてしまうのだ。

 連邦の島々は海に囲まれている。塩害が土を殺し、植物を殺し、そうして砂漠が生まれたと、誰もが信じきっている。
 しかし、他方で島に湧き出すオアシスの水は、まったく混じりけのない淡水である。
 この水がどこから湧いてきているのか、合理的な説明自体は簡単だ。
 謎解きをすれば、ネットワーク世界という情報の広大無辺な宇宙に浮かぶ、情報の殻に覆われて成長を続ける一種の宇宙船こそがアイドレスにおける国土の正体であり、船内の循環システムのどこからか、引かれてきているだけのことなのだろう。

 だが、物事には因果がある。
 なぜ、そのように迂遠な仕組みを構築してまでオアシスを湧かせたのか。因果に従い、定められた現在より導き出される過去。この一連の因果を起こす中心となっている、情報の中心核には、一体どのような心が篭められているのか。
 謎を解き明かした研究者は、未だ連邦国内には一人も居ない。

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 しゅわしゅわと炭酸の弾ける音が、ストロー越しに吸い込まれていく。
 絶妙のバランスを保って維持されていた四角い氷のひしめきが、崩れ、細長いグラスの中で、さんざめく光と共に無数の気泡を攪拌した。
 氷は正確に立方体に削り出されており、それぞれの面には一~六つまでの小さな穴が彫り込まれている。
 ロック・ダイス。
 ロック・アイスをダイス状に削って出来た、この店の名物の一つである。
 ドリンクに入れる氷がサイコロの形を真似ること自体に深い意味はない。だが、飲食店としては、些細なところにまで手を行き届かせてありますよという、お客様へのアピール材料にはなるのだろう。
 この召喚喫茶【SUI-GU】が人気なのも、実際こうした細やかな気遣いが隅々まで行き届いているところに理由があった。
 ドリンク類につきものな氷を、単に冷やし続ける目的や、ましてや水かさを増すためだけではなく、美味い氷の味わいでふくよかに広げている。
 毎日わざわざオアシスから汲んできた水を凍らせて作っている、このソフトドリンクの肝とも言える最後の素材は、なるほど、作り置きのしないジュースの原液同様、確かに一杯2にゃんにゃんの価値ぐらいはあるかも知れなかった。
 水乃宮天空(みずのみや てんくう)は我が家の稼業のことながら、そう、しみじみと述懐する。

「天空ちゃん、サボってないでご飯食べたら手伝ってよぉ。」

 くねくねとした甲高い男の声がする。
 途端、まるで嫌な現実を見まいと逃げるみたいにして目をつむりながら、天空は眉間に皺を寄せた。
 オレンジソーダをなるべく底まで飲み残しのないようにストローですすり、最後に氷をばりぼりと噛み砕いて立ち上がる。

「どーーーしてうちは男所帯なのに、こんなにインテリアが繊細かねっ!」

 そこには、口では悪態をつきながらも、その悪態さえも様になる、少年ならではの、ウィスキーのような色気を醸したウェイターがいた。 
 骨格の、育ちきっていない細さと、女性にはない太さとが、15,6というこの年代の若者に、奇跡のようなバランスで作用しているのだ。
 美しい女は珍しくなくとも、美しい男というのは本当に稀有な存在である。成人しきってしまえば野太く逞しい体つきになり、台無しだ。
 少年だけが、このバランスを実現出来るのだ。
 今だけしか保ち得ないという儚さが、美しさに、一層の危うい色気を注ぎ足していた。
 まじまじとそんな天空の姿を眺め回しながら、水乃宮陸(みずのみや りく)は、ほぅ、と、惚れ惚れとした溜息を漏らす。

「手塩にかけて育てた甲斐があったわぁ……。」
「実の息子を怪しい目つきで舐め回すように見るなっ!!」

 ひょいとつっこみを避けて、ぱたぱた女走りで厨房に引っ込む陸は、無論、この喫茶店のマスターだ。
 華奢な息子とは違い、190センチを超える身長に、同じく1メートルオーバーの胸囲という、もはや悪夢のような体格でもって、今までのように女性めいた仕草をしているわけである。唯一服装だけは口ひげも蓄えた渋い顔立ちにきちんと合わせてシックなしつらえになっているが、たった二人で切り盛りしている店のこと、衛生上の問題で調理のために着けているエプロンが、動くたびにいちいちふりふりと揺らされていて、これまたすべてを台無しにしていた。

「まったく……我が父とは信じられんね、我ながら。」

 ぼやきながらもまかないの乗っていたトレイを片し、ぽいとカプセルを口の中で噛み潰す。

 鈴が鳴った。

 特殊な仕掛けにより、扉が開いてから、閉じるまで、一度きりしか音色を転がさぬかわり、キ……ン、と、殷々と響いて店内で、そのたびごとに気持ちを快い緊張感と共に浄化してくれる、ガラスのベルだ。

 悲しいかな、条件反射で玄関へと訓練された微笑みを向けてしまう天空。

「いらっしゃいませ、お客様。」
「は、はい。」

 はにかみを交えたその笑みは、香りの利いたチョコレートボンボンのような甘やかさでもって、来訪者をその一歩目から店内の雰囲気に酔わせてしまう。

 西国らしい煉瓦造りの室内に、上質で使い手のありそうな黒檀の家具各種、壁に掛けられた歴史を思わせるタペストリー、同じく絨毯、鮮やかな緑の彩り、そして何よりもあちこちに湛えられた水そのものによる飾りつけが、立体的な肉体を持つ人間にとって本能的な快である、意志ある配置によって整然と切り出された美しい空間に浴すること自体の心地よさと響き合い、視覚、嗅覚、汗と潮風に湿った肌にと、五感のすべてから深く入り込んでくる。

 召喚喫茶は今日も繁盛であった。 

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 ひんやりとした冷気が小さな窓から吹き込んでくる。既に時刻は夜である。
 天空はペンの頭を下唇のくぼみにあてがいながら、眉間に皺を寄せていた。

「夏はなくとも夏休みはあるっていうのは、どうなんだろうね、こう、我が国ながら。」

 休みを愁う学生など、古今東西いた試しがない。
 無論、天空の嘆きは長期の休みに伴って必ず出される宿題の類に向けられていた。
 机上には、どこから手をつけるべきかわからないほど参考書とプリントが散乱している。

「愛に勉強なんているのかね。」

 冷めた呟きが口をつく。

 連邦の国是は、愛ゆえに、だ。
 勤労も、教育も、この国ではおよそ考えうる限りのすべての行為が、その動機に確固たる愛を備えていることを求められる。といっても、愛にも色々あるように、なんでもかんでも一面的な愛で価値観を強制するのではなく、むしろ、その価値観を養うために、愛という物の見方を通してもらいたい、という趣旨らしい。憲法にもなっているこの言葉を、戒める言葉もまた、極めて単純だ。他人に迷惑をかけないこと。難しいことを考えるのが苦手なこの国の雰囲気にとても良く似合ったわかりやすさである。

 がちゃんと部屋の扉が開かれる。

「心に覚えて想いを強く育てることを、勉強というのよ、天空ちゃーん!」

 手に差し入れのカットフルーツ(店の残り物)と珈琲を載せたトレイを持ちながら、陸が突撃してきた。
 私と夜のお勉強しましょー、などとのたまっている。

「ノックと常識の概念二つをゴミ捨て場から拾い直してきやがれえええええ!!!!」

 椅子に座ったまま器用にオーバーヘッドキックで迎撃する天空。
 丸太のような腕と、グローブのように分厚い掌が、片手で蹴りをにこやかにキャッチする。

「んもう、のん・のん。椅子の接地で体重が分散してるから、そんなキックじゃ効かないわよ。」

 ぺいっと陸が蹴り足を放ると、録画映像の逆回しでも見ているかのように、天空の体はまた机に向かって椅子ごと向き直らされた。

「はい、お・夜・食!
 はかどってないみたいだったから、少し一息入れましょ。」
「………がと、パパ。」
「?」

 陸が聞き返すと、天空は怒鳴りつける。

「ありがとうって言ったんだよ! 知らないよ、もう!」
「まぁまぁ天空ちゃん、ツンデレね! デレというには照れが足りないように感じられるけど、お父さん、天空ちゃんが立派に育ってくれて嬉しいわ!」

 自分で持ってきたカットフルーツのメロンをつまみながら、それで、と陸はつなげる。

「さっきから何を悩んでたの?」
「この父は……。」

 天空は、わなわなと肩を震わせた後、まともにやりとりすることを諦めたのか、自分もカットフルーツをつまみ出す。
 しばし最後の一切れを巡る攻防を黙々と繰り広げた後、不毛さに気付いて天空は机を叩いた。

「相談に乗りに来たんじゃないのかよ!?」
「あら。」

 相談してくれるの? と、下目遣いで伺う父に、してやられた……、と、溜息をつく。
 机の傍に立っている陸へと半身を傾けると、天空は渋りがちに話し始めた。

「高校でレポート課題が出たんだよ。」
「まあ、高等学校とも銘打つくらいだから、当たり前よね。参考書解くだけなら小学生のドリルと質が変わらないわ。」
「さりげに厳しい意見を言うなあ……。
 ともかく、その題目がちょっと、面倒くさくて。」

 これなんだけど……、と、机の上からプリントを探して差し出す。

「まっ。」

 書面には、『連邦の生態系について論じよ。ただし、単なる観察結果ではない、系としての全体を俯瞰したものであること。』と、個性を感じさせない無機質なフォントで印刷されていた。

「これ、何の授業? 生物? 社会学?」
「数学。」
「変わってるわねえ。いい題目じゃない、実践的数学って奴ね、勉強になるわよ!」
「それだけじゃない。」

 気だるげに山を崩して引き抜いたA4サイズの横書きプリントには、『連邦を題材にした中編を描け。評価点は選択されたテーマ及びテーマの明確さを中心とする。』と、流麗な崩し字で記されている。どうやら手書きをコピーしたものらしい。

「現代文?」
「自国史。」
「あらー。手強いわ、どうしましょ。」
「くねるな、まだある。」
「OKわかったわ天空ちゃん、もう十分。」

 ごっそりとプリントの束をすべて引き抜こうとしたその手を制止する。
 陸は息子の目を見ると頷いた。

「明日からしばらくお店はお休みしていいから、取材してらっしゃい。」
「人手が足りないでしょう、そんなこと言っても。」
「水城ちゃんちから住み込みのコ、借りるわよ。あそこ、お客さん滅多に来ないし。」
「ああ……うちが忙しいから、忘れてた。向こうは大型専門なんだっけ。」
「そ。」

 だから、安心していってらっしゃい。
 この国のこと、もっとよく知るためにも、ね。

 ウィンクする陸のダンディな髭面に一抹の不安を覚えつつ、お手伝いの人がいろんな意味で頑丈であることを天空は祈った。
 どうか俺のいない間にお客様が店から離れませんように。

(城 華一郎)

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最終更新:2010年04月25日 16:03