空の植木鉢に今日も水をやる。
 赤い素焼きの鉢植えの中で、湿った黒土の色が、さらに濃くなる。毎日の中の違いといえば、それだけの変化。
 店は、棚も、客足も、ついでに言えば私の人生にも閑古鳥が鳴いていた。
 これは私に限った話ではなく、共和国の、大半、とまではいかなくとも、少なくとも半分以上の人には実感を持てて共通しうる、単なる経験談の一つだろう。世界は運命という名のテクノロジーによって、変わってしまった。それも、気がつく間もなく、何度となく。
 乾いた空気が吹きこむので、ケホリ、と、一つ、咳が出た。
 虚ろな家に、虚ろな風、か。

「不景気なことだね、今日も、ユーミちゃん」

 しわ深い笑みで、そう言って挨拶しながら入ってきたのはアキトさんだった。砂避けを脱ぐと、その内側にぶら下げていた水のボトルと、店内の棚に置いてあった数少ないココの実を交換していく。
 しゃくり、しゃぶりつきたくなるような瑞々しい音を立て、ココの実がかじられた。
 アキトさんはしかめ面をして自分のかじった痕をながめる。

「苦いな、こりゃ」
「仕様がないですよ、先生」

 子ども時代の恩師であるこの老人のことを、私はいまだにこう呼んでいた。
 何もかも懐かしい。ほんの十年もしない前のことなのに、百年も遠く感じられる。
 私は植木鉢をカウンターの上から足元にそっと移す。それを目ざとく横目に捉えていたアキトさんは、汁のついた指をなめながら、いかにもそれとない顔で話しかけてきた。

「まだ、続けてるのかい」
「…… ええ。馬鹿みたいと思われるかもしれないけど、私、頭、良くないですから」

 私は目を伏せて静かに笑う。
 そうかい、と、自分で話を振っておきながら、アキトさんは言葉に詰まった様子で、何ともつかない頷きを返す。それから、うろうろと空棚の前を食後の牛のようにのったり、数歩分だけ歩き回ると、長い、鼻から抜けるようなため息を洩らして、

「優秀な生徒だったよ。
 彼なら、星見にでも、医師にでも、望むものならなんだってなれただろう」

 共和国にもう何度目か忘れるくらいの死が訪れた時、私の弟は死んだ。
 悲しくはなかった。諦めもなかった。
 何も、なかった。

 人の心は既に、共和国では長いこと、病みすぎていた。帝國のことは知らないし、わからない。手回しラジオも随分前に壊れてそれっきりだ。多分、砂が中にまぎれて故障したんだろう。無理もない。
 少なくとも、それが配られた当時、ここは確かに南国で、肥沃な土と、浴びるほどの湿り気、雨、水分、そういったものには慣れていても、誰もこの国が砂漠化するなんて思ってもいなかったんだから。

 弟が死んだ夜、私は彼の肉体を焼いて土に混ぜた。植木鉢に入れてあるのはそれだ。
 ずっと彼が育てていた花の、種がそこには植わっているはずなのだが、一向に芽が出る様子はなかった。それでも私は種に水をやる。たとえ種が腐っていたとしても。
 父も、母も、そのほかの兄弟や親類も、既にいなかったから。
だから、せめて弟だけは、たとえ法を犯そうとも、そばにいてほしかったのだ。

 火にかける前、最後に確かめた彼の死に顔は、とても安らかで、どこにも汚れたところなんてなくて、私は、そんな彼のくすんだ金色の髪を、そっとなでてやった。太陽の光に触れると優しい輝きを帯びた、彼の髪。なでると、支えのなく、揺れる頭。きっと目を開けば、彼はまたいつもの調子で浮世離れしたことを言い出すんだろう。

 けれど、
 それでも、
 彼は何にも喋らなくて。

 ただ、
 静かに目をつむっていた。

「弟には、詩人の方が、きっと、ずっと似合っていたと思います。先生」
「そうか」

 そうだね、と、アキトさんは一度だけ頷くと、また来るよ、と言い残して店を後にした。
 私の乏しい知識によれば、詩人とは、帝國の、雪降る国で、旅をしながら歌う人たちのことだという。足元の植木鉢を見つめながら、私は、きっと弟は、歌うのが下手だったから、それで恥ずかしがってまだ顔を見せないんでいるんだろうな、と、思った。旅は、したことがなかったけれど、きっとすごく、好きだったろうから。

 ポオー、と、遠くから甲高い汽笛の音がした。
 おかしいなと思って表に顔を出す。
 環状線は、もっと、ずっと都心の方を走っていたはずだ。こんなところに線路はない。
 同じ疑問を抱いたのだろう、あちこちから人が、続々と、しかしおっかなびっくりで顔をのぞかせている。中には、また、何かの戦争か、などと疲れた様子で呟く人もいた。
 音の源は明らかで、遠くに白い煙が立ち上っているのが見えた。煙はどんどん近づいて来ている。ポオーッ。また汽笛の音。

 やがて見えてくるのは鉄の車体。何の連結もしていない、一両きりの汽車が、人の、蜘蛛の子を散らすように逃げた街の入り口で、停まる。
 車体を見ながら、妙だな、と私が訝しがっている視線のその先で、砂避けと呼ぶには暑苦しすぎるコートをまとい、洗練された印象を受ける鍔広の帽子をかむった男が、汽車の側面、やや後方寄りにある扉を開けて、降りてくる。
 彼は、何か、こまごまとしたものの揃う店はありませんか、と、その場に集まっていた誰にともなく暖かな声で尋ねた。

 切れ長だけれど緩やかに目尻へと落ちこんだ曲線を描く目蓋、そして淡いくせに、やけに目立っている灰色の、子どもみたいな、まあるい瞳。すらりと長いが華奢な体つき。綺麗な手指は、きっと農作業なんかしたことがないと確信出来るほどに、上品で。
 その出で立ちはおろか、肌も、髪も、真っ白で、そして何よりも、私が今まで見たこともないような、遠く、ほんわりとしていて掴みどころのない、月のような微笑み方をする男だった。

3

(城 華一郎)

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最終更新:2010年04月25日 16:17