その日も私は夜の仕事に出かけていた。
もう、半ば以上も砂に埋もれた廃村の、車中で一人、毛布に身を包み、息を吐きかけてアカ切れの両手をこする。
いつもは眠りを誘う雨足の単調さも、今は間断なく神経に障る厄介者だ。
振り返った後部座席のシートには、日用品だけれども生活必需品ではない、たとえばダイアリーだとか、おもちゃだとか、そんなものだけがそぞろに積まれていた。毛布みたいな実用品は、真っ先に持っていかれているので、これだけが自前だ。
「…………」
ひどく寒い。
空では狂った月が蒼然と雨の砂漠に光を振舞っている。
雨なら雨らしく曇れよ。
乾いた陸は、熱を吸わない。ただ、水を奪うだけだ。
降る雨は水を与えない。ただ熱を奪うだけだ。
金属の車体は氷のように冷え切っている。ウィンドウを下ろしていても、ガラス越しに冷気の這入ってくるのは避けられない。
「失敗、したなあ」
エンジンが、エネルギー切れで、止まっていた。
新し物好きの父が、太陽電池とセットで買い付けたものだったが、このところの雨続きで発電出来ていなかったのだ。
雨も日差しも共に激しい南国で、半分ソーラーカーみたいな自動車を買ってきてしまう父だから、実りの豊かであまり機械文明を必要としない南国でも雑貨商を営めたんだけれど、性格がそんななので、まあ、一旦暮らし向きが悪くなると、没落するのもすぐで。
子どもながらに苦労させられたなあ、と、懐かしく、唇だけで笑む。
頬は冷えて強張っていたから動かなかった。
砂漠の夜が寒いのは、地図が書き換わって以来、身に染みてよく知っていたつもりだけれど、今日は、いつにも増して冷えこんでいる気がする。濡れた足から首からそこかしこから、悪い風に入られてきているせいだろうか。
黙って震えているのも精神的に辛いので、気を紛らわすつもりで、私は、後部座席の山から、一番上に置いてあった写真立てを、何とはなしに、手に取った。
嵌めこまれていたのは見知らぬ家族の肖像。
まだ、みんな、裸同然の、熱帯に気安い格好だ。
ここに住んでいたはずのこの家族はどうなったのだろうか。
「どうでもいいか」
自嘲する。
父母の生きていた昔よりも、今はさらに厳しいご時世だ。
私は、こうして勝手に掘り起こした、いわば死人の思い出を好事家に売り渡して暮らしているようなものなのだ。そんな私が、今さら当人たちの心配など。
バチが当たったのかな、と、呟いた。
意識が朦朧としてくる。
ばちばちとウィンドウに雨の当たる音さえ今は高ぶった神経に障って痛い。
帰れない。
帰りたい場所もない。
さむいよ。
ねむいよ、おかあさん。
*
……。
…………。
黒い獣がじっと横たわってこちらを見ている。大きな角のある、巨大な獣。
私は獣から視線を外すことが出来ない。
夜はいつの間にか薄墨色の星月夜を見せていて、私もいつの間にか車の外に立っていた。
少年が獣の背に腰掛けている。
「ラァネ」
私は弟の幼名を呼んだ。
それは死んだはずの私の弟の、幼い頃の姿だったからだ。
プラーネは、いつも子ども部屋でそうしていたみたいには、もう、空を見上げてはいなかった。星を散らしたような、その穏やかな瞳で、いつもみたいには笑いもせず、じっと私を見つめていた。
「ラァネ」
私はもう一度、弟の名を呼んだ。
「砂は、どうしてこんなにも静かなんだろうね、おねえちゃん」
プラーネは、獣の背から降りることなく、私に向かって喋り始める。
「砂はね、石が最後に行きつく姿なんだよ」
「違う、この砂は……!」
遮ろうとした私をやんわりと見つめ、彼は私を黙らせた。
「うん、そうだね。
この砂は、マンイーターの毒素を吸って砕け散った、世界樹の欠片だ」
マンイーター。
私たち姉弟から両親を奪い去った病毒。
「どんな怒りも憎しみも、やがてこんな風に砂になる。
砂が静かなのは、すべてが終わりつくした悲しみに似ているからなんだと、僕は思ったんだ」
「…………」
「おねえちゃんの言った通りだよ。
この砂は、違う。砂だけど、砂じゃなくて、砂だ」
それが。
それがどうしたのさ、と、言おうとして。
言えなかった。
弟の瞳は私をのぞきこんでくる。
月光に照らし出された銀色の砂地平線。それを背にしてプラーネは語る。
どこか遠い、星のまなざし。
けれど、ああ、今は、本当に彼は遠いところにいるはずで。
「砂は、悲しみは、終わるとどこに行くんだろう」
見上げるのは月輪。
「悲しみに、僕らは何を奪われたんだろう」
プラーネを乗せた黒い一角獣が、巨体を震わせて、滑るように遠ざかり始めた。
駆け寄る私を置き去りに、世界は色を変えていく。
いかないで。
一言がいえなくて、届かなくて、私は泣きながら彼に追いすがろうとして、転んでしまって。
*
「ラァネ…………」
目覚めた時、顔は涙で濡れていた。
ごしごしと服の袖で拭う。
体の節々が痛いのは、転んだからじゃなく、狭い車内で少しでも体温を逃がすまいと、無意識のうちに丸まって眠っていたせいで。
夢を見ていたんだということに、私は気づく。
「…… 夢は、嫌いだ」
夢を見て喜ぶ時代は終わったのだ。
夢なんかで幸せになんてなれはしない。その逆は確かにあったとしても。
嫌なことを連想しそうになって、意識を自分の内側から逸らした。
そういえば、心なしか、眠る前より寒くない。
ううん、そもそもあれほどうるさかった雨音自体、聞こえない。
不思議に思って窓ガラスをのぞきこむ。
駄目だ。
そこは真っ白で、どうやら内外の空気の温度差で曇ってしまっているようだった。
手で直接窓ガラスを拭いてみる。
「……!」
そこから見えた世界はすべて、それでもなお、銀色に白く。
不意に何かを悟った私は、毛布を羽織ったまま、急いで車を降りてみる。
「う、あ……」
それは夢に出てきた彼が、かつて、あれほど待ち望んでいた光景で。
砂漠の上を、しんしんと降る、銀白の氷の結晶が埋め尽くしていた。
手で触れたそれは、身を切る雨粒の痛さと違い、同じように冷たいのだけれど、意外なほどに優しい感触で。
差し出した掌の中でほんわり溶けて、可愛らしい小さな水玉になる。
夜の灰色に見上げた空は、ああ、
雪ですべてが覆い尽くされ、
驚くほどに、白かった。
(城 華一郎)
最終更新:2010年04月25日 16:18