あの夜、私は、南国に雪が降るという奇跡のような出来事の裏でひっそりと、人里離れた廃村で死にかかっていた。どこで奇跡が起ころうと、関係なしに人は死ぬ。私もその中の一人になったというだけのこと。
 しばらく呆然と雪中に佇んでいた私は、不意に、自分の体が雨の中で行った発掘(盗掘、盗賊と言った方が的確か)作業によって濡らされていたことを思い出し、飛びこむようにして車内に逃げこんだ。

「体さえ無事なら、なんてこと、ないのに。もう」

 狭い土地のことである。
 車で移動したのは、主に人手では運びきれない品物や量を、人目につきにくいよう素早く動かすためで、距離的な苦からではない。
 たとえ、ここで手に入れられたものが、こまごまとしていても、食糧などと交換すると、どっとカサが増える。リスクにはきちんとそれなりのリターンが伴っているわけである。
 とは言っても、ここで私が死ねば、そんな理屈、全部吹っ飛んでしまうんだけれど……。

「ちびたち、お腹空かせて起きてないといいけどな……」

 アキトさんが手元に引き取って養育している孤児たちの顔を思い浮かべる。個人であんなこと、なかなか出来やしない。ましてこんな時代にだ。だから私はアキトさんのことをずっと先生と呼び続けているんだ。

 車の中は、ドアを開け放していたせいで、すっかり温度が下がってしまっていて、そのおかげというわけではないんだろうけれど、窓から外がよく見えた。
 人生で初めてゆっくり眺めた雪の降り方は、雨と違い、とても静かで。
 広がる景色の美しさに変な回路を刺激されたのか、どうせならせめて最後まで死に抗ってやろうと私はもぞもぞと毛布の中で服を脱ぐ。
 昔も突発的な土砂降りでずぶ濡れになることはしょっちゅうだったが、ほったらかしにしておけば勝手に乾いて寒くもなかったし、なによりこんな寒さには慣れていなかったせいだろうか、それは本能から来た単なる思いつきだったけど、濡れた衣類から解放されると、思ったよりもずっと状況は改善されてきた。くそ、こんなことならもっと早く気づけばよかった。
 素肌に直接毛布を当てているうち、あったかくなってきたが、さすがに眠くはならない。と、いうより、このまま眠ってしまったら二度と目が覚めそうになくて、怖くて眠れない。
 とは言っても、体に力も入らないわけで、これもまずい。

 ええい、病は気からだ!
 私はまた本能の命ずるままに、しゃにむに欲望を声に出してみた。こんなことでも体が暖まれば儲けものだ。

「ああ、お腹空いた。
 ピーナッツバターたっぷりのビスケット、魚のクリーム煮、ハチミツ酒、肉とゆで卵入りの揚げまんじゅう、串焼き、ラムプ鳥の果実蒸しー!」

 私のお腹が盛大な自爆に、ぐう、と鳴ったのと、その衝撃の到来は、ほとんど一緒だったろうか。

「ええと……、
 ユーミ、さん?」

 ば、と、毛布から顔を出す。
 車のドアを開けてそこに立っていたのは、カオスな状況にさしもの彼の万年笑顔も引きつった、ルウだった。


 ごちゃごちゃと壁面に張り巡らされたパイプ、何を表しているんだかてんで見当のつかない計器群、ありがたくもないことに見慣れてしまったルウの汽車内で、私は山ほど砂糖のぶちこまれたコーヒー片手に、木箱に座らされていた。
 普段は作業をしている私を横目にルウが座っている指定席だ。
 服は、パイプを利用して張り渡した紐にかけて目の前をぶら下げられている。
 今着ているのは、ルウのものを借りた奴だ。
 南国人と北国人の体格の差で、上着だけでも膝上まで隠れてしまうほど丈のだぶだぶな奴である。

「ユーミさんは、味の濃い料理が好きなんだね」

 僕もなんだ、と、言いながら、何が嬉しいのかルウはにこにことストーブの上に置いたフライパンの中で、干し肉とポテトを焙っていた。

「寒いとカロリーが沢山いるんだよ。それで、お酒なんかも一杯飲むんだけど、僕は苦手だから、持ってきてはいないんだ。ごめんよ」
「べ、別に謝ることじゃ……。
 どっちかっていうと、それは私の台詞で、それも、もっと言うべきなのは、お礼のような……」

 ごにょごにょ。
 こう、普段ぞんざいに会話している相手と真面目に話そうとすると、気まずいっていうか、どう振舞ったらいいか、わからないっていうか……。
 ぐうう、と、胃に物を入れてもまだ腹が鳴るのがまた恥ずかしい。
 肉の脂とポテトの香りに食欲が揺さぶられたせいだ、ええい畜生、と、半ば、やぶれかぶれに言ってみる。

「あはは」

 笑われてしまった!

「はい、じゃあ、お待たせ様です」

 フライパンから小皿に移された中身を、フォークを添えて差し出され、受け取るや否や、がっつく。これ以上かける恥なんて、どうせないんだ!
 ポテトの上に肉を乗せて一緒に刺し、口に放りこんで、
 噛む、
 噛む、
 そして、飲みこむ。

 ああ……。
 おいしい……。

 しばらくそんな風にして私が至福の時を過ごしていると、頃合を見計らっていたのだろう、ルウは、やおらに話を切り出し始めた。

「どうしてあんなところにいたのか……は、聞かなくても、大体合ってる、かな」
「…………」

 飲み下すためのコーヒーを口に含んだまま、頷く。
 復興の目処が立たない廃墟からの収奪は、割と一般的だ。
 生きることが、最優先。

「じゃあ、理由を聞いてもいい、かな」
「…………」
「ユーミさん一人が生きていく分には、このあたりの物々交換のレートなら、結構あまりが出るよう、僕からの報酬は渡していたと思うんだ」

 今度は、頷けなかった。
 言葉の裏で彼が示唆していることを、首肯出来なかったから。
 ずくん、と、とても痛いところを突かれた。

「先生って呼んでる人のところ、かな。
 ほら、君を最初に紹介してくれた人」

 そんなことよく覚えてるな。

「恩師なんだっけ。いつか話してくれたよね」

 そんなことまで話したかな。

「……車、牽引してあげられなくて、ごめんね」

 話題を変えようとするその一言と一緒に、ルウの笑顔から、力がなくなった。
 胸によぎった痛みを塗りつぶそうとして、私はさらに痛みを重ねようとする。
 毒なくば、皿だけ食らえ。

「いいよ。また、晴れさえすれば、結構どうにでもなるから。
 パーツに分解されてなければね」
「……うん」

 皿食らわば、指まで。
 痛みは痛みで塗りつぶせ。
 フォークを置いて、私は彼の前へと言葉を積み上げていく。

「どうしてあんなところに現れたのか……聞いたら、答えてくれるかな?
 今日こそ」

 ルウは、昼は汽車を街外れに停めている。
 夜はどこへともなく消えている。
 私は彼の、最終的な目的までは聞いていても、そこに至る具体的な過程までは聞いていない。
 今、銀色の煙を噴き上げながら走っているこの汽車の正体を、一度も教えてもらってない。
 小さな丸窓からのぞける外の景色は、真っ暗だ。

「教えて、くれるかな」

 停車している普段は聞けることのない、細かな粒子の高速で駆け抜ける音が、ひっきりなしにパイプの中から響いている。
 死にかけたという非日常が、テンションをおかしくしてしまっていたのかもしれない。あるいは彼に命を助けられたという事実に、私の中で、ずっと眠らせていた、ある、一つの感情が芽吹いてしまったのかもしれない。
 私は自分の体を切り刻むように最後のカードを切り出した。
 これを問うてしまえば、最悪、もう、ルウとは二度と会うことも出来なくなるだろう。
 それでもなお。
 いや、だからこそ。

「砂漠化のせいで雨なんてほとんど降るはずがないのに、どうしてあなたが来てからだけ、雨が一ヶ月以上も降り続けたのかな?」

 知りたい。
 この男が所属したいという機関、この男の、本当の望み。

 沈黙が車内を支配した。
 銀色に鈍く光っている、食べさしの皿に置かれたままのフォーク。

7

(城 華一郎)

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最終更新:2010年04月25日 16:20