もしも彼女と彼が……
なのは・ユーノ編
「うーん……」
机の上にある一枚のプリント、それと対峙する少女。シャーペン片手に文面を睨むが、口から漏れるのは悩んでいるような唸り声ばかり。
質素ながらも年頃の女の子らしい、華やかな部屋も、現在は限りなく無音に近い。響くのは時の鼓動、時計の秒針が秒単位で鳴らす機械音
のみ。
ちらっと、サイドポニーにまとめた栗毛色の髪を揺らすことなく、彼女は隣に立つ少年に眼をやる。色素の薄い、長く伸びた髪。一見女性
にすら見えそうな知的な雰囲気を持つ眼鏡の彼は、今回少女が対決するプリントをもたらした張本人である。
「あと三〇秒」
「え、嘘」
不意に、少年が口を開いた。視線を向けられていたことに気付いたのか、それは定かではない。ただ、腕時計を見て努めて事務的な声で残
り時間を宣告する。慌てて彼女はプリント、そこに書かれている文面に眼を戻すが、やはり答えは浮かんでこない。
とりあえず「ア」は違うよね。「ウ」もたぶん不正解。となると残るは「イ」と「エ」と「オ」だけど――何とか三つにまでは絞った。フ
ル回転する思考は、しかし正確な解答がどれなのかまでは判別出来ない。もう少し、もう少し考えれば分かりそうなのだが。
「残り一〇秒。九、八、七……」
ここで、少年が無慈悲にも残り時間をカウントし始めた。うっと露骨に少女は表情を歪め、焦る思考を急げ急げと急かす。
それでも答えは出なかった。やがてカウントが三秒を切ったところで、彼女は悲鳴のような声を上げる。
「にゃ、にゃー! ちょっと待って、あと、あと二〇秒、ううん、一五秒ちょうだい!」
あとちょっとなのだ。あとちょっとできっと答えが絞れる。必死の懇願を受けた少年はそれじゃあ、とニッコリ笑い
「あと五秒ね。はい、五、四……」
「ちょ、ちょ、ちょ、五秒!?」
延長は認められたが、わずか五秒。戸惑う間に二秒もロスした。普段は滅多に怒る事の無い、顔立ちからして優しげな彼が、この時ばかり
は悪魔にも見える。
結局、答えは絞れなかった。彼女に残された唯一の手段は、己の勘と運を信じてそれが当たっていることを祈ること。要するに、絞った三
つの解答候補の中から適当に一つ選ぶ。とりあえず「イ」にしてみた。
「はい時間切れ。正解は?」
「イ!」
「ぶぶー」
幼稚な擬音は、彼女の答えを一撃で粉砕した。あぁ、と残念そうに少女はガックリ首を折り、シャーペンを手放す。
少年はそんな幼馴染兼教え子を見てやれやれ、と肩をすくめ、プリントを手に取った。
「正解はウだよ。ここの訳文はちょっと難しいけど、前後の文章は簡単に訳せる。そしたらだいたいの意味も分かる」
「えー、そうなの?」
そうだよ、と疑問の声を口にする少女に、彼はプリントを返して間違えた部分を指摘する。渋々、彼女は再度シャーペンを手に取り、少年
の教えを受けることとなった。
少女の名は、高町なのはと言う。私立聖祥大付属高校の二年生。現役の女子高生である。
少年の名は、ユーノ・スクライアと言う。なのはと同じ聖祥大の、大学部に通う大学一年生。歳は彼女と同じなのだが、飛び級で大学生と
なっている。そして、現在はなのはの家庭教師も兼ねていた。
「フムン。なのははやっぱり文系苦手みたいだね、特に古典」
「うん……訳分かんないんだよね、同じ日本語なのに」
一通りの問題を終えて、ユーノは確認するように一言。今更言われなくても分かっているのだが、"先生"からのご指摘になのはは素直に頷
いた。理数系は学年でもトップクラスを誇る彼女だが、こと文系に関しては中の下と言ったところ。赤点は回避出来ているが、時折ヒヤッ
とすることもある。だから、彼女は幼馴染に頼み込んだのだ。もっとも、最近は若干後悔している一面もあるが。
「それにしてもユーノくん、さっきの時間延長は酷くない?」
「テストは常に時間との戦いでもある。なのはが遅いんだよ」
うぅ、と事実を指摘されて少女がたじろぐ。確かに、問題文を読むのに時間をかける傾向があるのは自覚していた。計算は速いので数学な
どでは一度読みきってしまえばスラスラ進めるのだが。
はいこれ、とユーノはプリントの束を差し出す。受け取ると、結構な厚みがあることになのはは気付いた。文面を見れば、古典の問題集。
「今週中にね」
「……来週の火曜日じゃ、駄目?」
駄目、と無慈悲な一声。逆らうことは出来ない。勉強を教えてくれるよう頼んだのは自分であるし、ユーノだって自分の時間を削って問題
を作り、教えてくれているのだ――とは言え、プリントの枚数は多い。なのはは明日以降が若干憂鬱になってしまう。
ちょうどその時、部屋の扉がノックされた。はーい、と部屋の主が答えると、母親の桃子がやって来た。手には、二人分のジュースと特製
シュークリーム。
「お疲れ様、ちょっと休憩したら? ユーノくん、いつもありがとねー」
「あ、いえいえ。こちらこそ……」
女神のような微笑と共に差し出されたシュークリームは、高町家が経営する喫茶店「翠屋」の目玉商品だ。一流のパティシエである桃子の
作ったそれは高い人気を誇り、常に売り切れは必至である。そんなものが家庭教師をやっているだけで提供されるのだから、ユーノとして
は恐縮するばかりだった。
「じゃあ、なのは。しっかり教えてもらいなさいね」
「……頑張る」
母親からのお言葉に、しかしなのはは気の抜けた返事しか出来なかった。苦笑いしながら桃子はお願いね、とユーノに告げて部屋を出た。
「――なのはは、さ」
「何?」
ともかく休憩。
思考をフル回転したが故、不足した糖分を補うべくシュークリームをむしゃむしゃ食べながら、彼女は幼馴染からの問いかけに反応する。
「その、なんて言うか。将来の夢とか、あるの?」
「将来の夢?」
「夢って言うか、今後の進路だね」
うーん、と。ユーノからの唐突な疑問に、なのはは思案顔。たっぷり三分は悩んだところで、それでも答えは浮かばないようだ。見かねた
少年は、彼女の友達の名を引っ張り出す。
「フェイトは確か、前に警察官になりたいって言ってたよ」
「あー、うん。前に聞いた」
少女の脳裏に浮かぶ、親友の顔。
容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、人望すらあるというあらゆる面でパーフェクト、ビューティホーな彼女は過去にいろいろあって、警
察に保護された身でもある。実母が亡くなって養子となってからは、同じく警察官の義兄の影響もあるのだろう。
で、とユーノが付け加える。なのははそういうの、ないの?と。やりたいこと、したいこと。
「やりたいこと……うーん。と言うか、なんで急に?」
「進路によっては、今よりもっと勉強しないといけない場合もあるからさ。今から大まかな目標を決めておくと、いいかなって」
「うーん……」
回答に一応納得はしたようだけども、やっぱりなのはは答えを出せない様子。悩むような唸り声を繰り返した末、彼女はあっと何か思いつ
く。口から出たのは、ユーノへの質問。
「ユーノくんは決まってる?」
「僕? 僕は、考古学がやりたいな」
「こーこがく……」
そういえば、幼馴染が飛び級して通っている大学の学科はその手の分野だったように思う。一度だけ彼が授業で使っていると言う資料を見
せてもらったが、古代の文化に関して何たるかが難しい言葉で延々と羅列されており、二分で持ち主に返した。
それでも、である。ユーノにとってはその難解な文章は興味の一つになり得る訳で、彼は本気で好きなことを仕事にする気なのだ。
やりたいこと、したいことに全力全開で挑む――親友も幼馴染も、それを実践している。
振り返って自分はどうだ、となのはは思う。勉強は理系なら自信はあるが、文系が足を引っ張っている。運動神経などは、体育の時間が来
る度に憂鬱になるのでもはや言うまでもない。料理や家事は得意だが、果たして海外で武者修行してきた母親に敵うのだろうか。正直疑問
符がついてしまう。何をやるにも、何かが欠けてしまうのだ。
だから、やりたいこと、したいことが分からない。思いつかない。
「何にも出来ないからね、私……分かんないや、自分のしたいこととか」
「え?」
「魔法でも使えたらね」
自嘲気味な苦笑い。本当に彼女は普通の、ただの女の子でしかない。
しかし、ユーノはそれに対して否定的な意見。
「なのは。僕はね、出来ることとしたいことは別だと思うよ」
「――でも、ユーノくんは飛び級で大学行って、考古学やってるんだよね?」
「それは結果論だよ」
覚えの悪い子供を優しく諭すように、ユーノは続けた。
結局考古学に興味を持ったのは、両親親戚がみんなその手の分野の仕事に就いており、その影響を受けたから、と。決して、大学に飛び級
で行けるほどの成績があるから考古学をやろうと考えたのではない。
「フェイトだって、最初から自分が警察官に向いてるからそれになろうって思った訳じゃないと思う。彼女はほら、クロノとかの影響が絶
対あるだろうし」
「そう、なのかな」
そうだよ。
笑って、彼は幼馴染の言葉を肯定する。
「だからさ、出来ることを基準に考えるんじゃなくて、したいことを基準に考えてみたら? 何でもいいし、だいたいの方向でいいんだよ。
そりゃ、向き不向きはあるだろうけど、そこは本人の努力で何とかなる場面もある」
「したいことを基準に、ね……」
ふんふん、となのはは妙に感心したように頷く。納得した、と見るべきか。もちろんすぐに答えは出せないだろうけど――
「ユーノくん」
「ん?」
「……ありがとう、頑張ってみる」
ただ、屈託のない花のような微笑を見せてくれて。笑顔のなのはに、ユーノも釣られてどういたしまして、と笑う。
「さぁ、休憩終わり。さっきのプリント出して」
「えっ、まだやるの!?」
「したいことが分かっても、能力が足りてないんじゃどうしようもないからねー」
あぁー、と疲れたような悲鳴が上がる。ほらほら、と幼馴染に肩を叩かれ、渋々彼女はプリントを机の上に置く。
長い長い勉強の時間。やがてそれらも終わりを迎え、夜が明け、新しい一日が始まる。
それから数週間後。
夕日が眩しい時間帯。大学の授業が終わり、駐輪場から自転車を引っ張り出していたユーノはふと、背後に気配を感じた。
「なのは。これから帰り?」
「うん。一緒に帰ろうよ」
振り返れば、眼鏡越しに見えた学生服に身を包んだ幼馴染の姿。大学部と違って、彼女たちはまだ制服の着用が義務付けられていた。
徒歩のなのはに合わせて、ユーノは自転車に乗らず押して行くことにした。二人乗りはやろうと思えば出来るけども、学校の近くでは教師
の目もあるので迂闊にやれない。
「いつもの仲良し組は?」
「アリサちゃんとすずかちゃんはお稽古。フェイトちゃんは部活で助っ人頼まれちゃって、はやてちゃんは足の治療で病院」
「残ったのはなのは一人、か。なるほど」
取りとめのない話を続けながら、帰路に着く。途中でなのはの提案により、海鳴市の商店街に立ち寄った。
ちょうど学校も終わり、主婦たちは夕食の買い物に出る時間。視線を向ければちらほらと、なのはと同じ制服を着た女子生徒が何人かで並ん
で歩き、楽しそうにお喋りしている。子連れの主婦は子供と今夜の夕食のメニューを相談していて、希望が通ったのか嬉しそうに子供が笑っ
ていた。
「あ、ユーノくん。ここだよここ」
服の袖を引っ張られて、はっとユーノは振り返る。なのはの指差す方向からは、美味しそうな揚げ物の香りが漂ってきていた。以前、彼女
から揚げたてコロッケが美味しいお店がある、と聞いたことがあった。なるほど、作りは古いが店の前には匂いに釣られて集まってきた客
が賑わっており、カウンターの向こうで夫婦らしい二人の中年の男女が忙しなく動き回っていた。
「あー、凄い美味しそう……」
「――素直に食べたいって言えば?」
にゃははは、とユーノに本心を見抜かれ照れ笑いするなのは。早速店の方に向かい、カウンターのおばちゃんにコロッケを注文。調理を担
当するおじさんが素早く馴れた手つきでコロッケを揚げて、食べやすいよう紙で包んでくれた。料金を払って、彼女は幼馴染の元に戻る。
「はい、ユーノくんの分」
「え……僕の?」
差し出されたコロッケを見て、思わずきょとんとした表情。そうだよ、となのはは笑みを浮かべて、揚げたてのアツアツを彼に手渡した。
戸惑うユーノだったが、渡されたコロッケは確かに美味そうだ。匂いを嗅ぐだけで食欲が刺激され、思わず唾液を飲み込んでしまう。ふと
なのはを見れば、すでにはむっとコロッケに頭から口に含み、美味しそうにモグモグしていた。
ありがとう、ととりあえず礼を言って一口。ザクッと衣を食いちぎると、途端に火傷しそうに熱いコロッケが舌の上で踊る。はふ、はふ、
とみっともなく声を漏らすが、揚げたてコロッケは確かに美味かった。あらかじめかけられたソースも、いい感じに肉やジャガイモの味を
引き立てている。
「うん――なかなかイケるね。これいくら?」
二口目を食べてコロッケが残り半分になったところで、ユーノはズボンのポケットから財布を持ち出そうとした。代金を渡そうとして、し
かしいらないよ、となのはは首を振った。それはお礼だよ、と付け加えて。
「お礼? 僕が何を」
「これ、こないだの古典のテスト。今日返ってきたんだ」
礼をされるようなことをした覚えがない彼に、少女は学生鞄から解答用紙を一枚取り出す。点数は、九八点。
おぉ、と思わずユーノは歓声の声を上げてしまう――いや、でも。何故だか、少年の顔は納得した様子ではない。
「ユーノくんのおかげだよ。古典でこんな高得点、初めてだし――」
「なのは。僕は教えただけだよ、それは君の実力だ」
嬉しそうに話す彼女の言葉を、強引に遮る。結局のところ、自分自身が努力しなければ勉強というものは意味がないし身に付かない。
だからコロッケの代金を、と財布を出そうとするユーノを彼女は止めた。お礼をした理由は、それ以外にもあると。
きょとんとする幼馴染に、なのはは照れ臭そうに笑みを浮かべて話し始めた。
「ええとね。今日テストが返ってきた時に、みんなに問題の解き方とか教えたんだ。そしたら、すっごい感謝されちゃって。ありがとうっ
てみんなに言われた時に、なんて言うか、凄い胸がポカポカするって言うか、とにかくそんな感じがして」
ほとんどはユーノくんの受け売りなんだけど――ぺろっと舌を出す彼女の表情。夕日に照らされるその顔が、ユーノにはとても嬉しそうに
見えた。まるで、探し物を見つけたように。
「それからよく考えてみて、なんとなく分かってきたんだ。私のやりたいこと、したいこと。出来るかどうかは、まだ分かんないけど――
私、人に何かを教えることがしたい」
「教えるって……学校の、先生とか?」
「うん、それもありだと思う。でも、何でもいいんだよ。とにかく、何でもいいから、人に何か教えること」
そっか、とユーノは笑う。はっきりとした目標ではないけれど、彼女は自分のやりたいことを見つけた。生き生きとした表情を見せる幼馴
染を見て、喜ばない理由はないだろう。
しかし、一つ疑問が浮かぶ。何故、なのはは自分のやりたいことを見つけて、僕にお礼と言ってコロッケを差し出してきたのだろう。
そのことを口にすると、彼女はぷっと吹き出し、おかしそうに笑った。なんで笑うのさ、と怪訝な表情を浮かべる彼に、なのはは訳を話す。
「ほら、ユーノくんが前に話してくれたじゃない。出来ることを基準に考えるんじゃなくて、したいことを基準に考えてみるって。あの言
葉があったからだよ、したいことが見つかったの」
「あぁ――別に、お礼をされるようなことじゃ」
私がしたいのー、と。言葉を遮り、頑なに代金を払おうとするユーノの口に、彼女は持っているコロッケを押し付けた。食べかけとはいえ
まだ出来立ての熱いコロッケ、あちちちと悲鳴を上げる少年を見てなのはは楽しそうに笑う。
でもまぁ、よかったかな――じゃれ付くなのはをどうにか押し退け、しかし彼の表情もまた緩かった。
生き生きとした彼女の顔は、とても美しいものだった。
その日、なのははユーノを自宅に招いて手料理を振る舞い、母と姉に色々いじられ、幼馴染をどこか睨むような瞳で見る父と兄を牽制する
などしたりしたが、それはまた別の話。
最終更新:2010年03月15日 19:24