ACE COMBAT04 THE OPERATION LYRICAL Project nemo
第25話 "Good luck / Last Flight"
時刻はすでに、深夜を通り越して早朝とでも言うべき時間帯に移りつつあった。この旧機動六課隊舎、その滑走路に不時着してから数時間が経過している。
眠気は不思議と、顔を見せない。短いとはいえ仮眠を取ったからか、それとも差し出されたコーヒーのカフェインが効いているのか。ひょっとしたら、ここは静かでも空の向こうでは戦闘続行中と
言う情報が、彼の思考を冴えさせているのかもしれなかった。
湯気の立ち上るマグカップを口に運び、中の苦味のある暖かい液体を一口飲む。砂糖は入れていない、ブラックのコーヒー。リンディスペシャルなるものもあるそうだが、さすがに甘すぎると言う
評判を聞いていたので遠慮しておいた。マグカップをテーブルの上に置いて、傍らに置いてあったパンをこれも一口、食い千切る。いまいち、味は分からなかった。食事と言うよりは、栄養補給と
でも言うべきだろう。
飛行服を着た青年の視線は、差し出されたコーヒーとパンではなく、目の前に開かれた一冊のマニュアルに注がれていた。決して分厚い訳ではないので、間もなく読み終わるところだ。内容も、新
たに付与された機能の起動、終了手順を記したものなので、理解するのに時間はかからない。
ちょうど最後のページを読み終えたところで、テントの天幕の向こうに人影がちらついた。誰だ、と声をあげる前に、人影は姿を現す。
「やぁ。読み終わったかい、メビウス1?」
「たった今、な」
飛行服の青年を、メビウス1と呼んだいくらか年下、まだ少年と言っても差し支えない年齢の男の名は、ユーノ・スクライア。膨大な情報量を抱える時空管理局のデータベース、無限書庫の長であ
るが、状況はすでに彼の肩書きを無視する形で進んでいた。無限書庫が輸送用に民間型のヘリを保有していたおかげで、あっちこっちへと資材や物資の搬送を手伝わされていたのだ。
そういや俺、こいつに殴られたんだよな――殴られた頬にさりげなく手をやって、メビウス1はふと思い出す。
すでに、鉄拳制裁をぶちかまされた頬の痛みは引いている。それでも、あの時のユーノの怒りに満ちた表情と来たら、今の様子が嘘のようにさえ見えた。眼鏡こそ外しているが、優しげな緑色の瞳
と、一見女性にも見えそうな優男。普段優しい人間ほど怒った時は怖いと言うが、案外事実かもしれない。
ふ、と苦笑いを浮かべるメビウス1に、ユーノは怪訝な表情を浮かべるが、それも一瞬のこと。通信室に入り浸っていた彼がやって来たと言うことは、報告すべき事柄があると言うことだ。
「吉報だよ。あの飛行物体、君の二番機のパイロットが内部に侵入して、自爆させた。海上に落ちたらしい」
「内部に侵入、って……何、ティアナが?」
思わず、戦場に残していた二番機のパイロットのファーストネームを口にしてしまった。
敵の巨大飛行物体が自爆。それ自体にも驚いたが、それよりもメビウス1としては、あのツンツンした態度を取る僚機が内部侵入という破天荒な真似をやらかしたことに驚異を感じた。そういや彼
女は戦闘機乗りである以前に魔導師だったか、と今更ながら思い出す。
何はともあれ、これでひとまず事態は沈静化か。結局あの飛行物体の目的は分からずじまいだったが、内部侵入したティアナが何か知っているだろう。
「残念だね、今回はもう出番がない」
せっかく用意したんだけど、とユーノの視線は、メビウス1が読んでいたマニュアルに降り注がれる。本局から持ってきた"切り札"だったが、使わずに済むと彼は言うのだ。
だが、機体無きパイロットである彼の表情は、どこか浮かない様子。何を心配してるんだ、と問いかけられて、理由を話す。
「終わりだと思ったら、また必ず次がある。俺の世界じゃ割とよくあることだ。JS事変もそうだったしな」
「意外と心配性だね、君」
「俺も杞憂だとは思うが」
そうは言っても、メビウス1の表情に変化は無い。無言で読み終わったマニュアルをユーノに返し、立ち上がる。脇に置いていたサヴァイバル・ジャケットを羽織り、あとは戦闘機のコクピットに
乗り込めばいつでも飛び立てる態勢へ。ユーノは何も言わず、眉をひそめるだけだった。
「司書長、メビウス1」
不意に、テントの中に第三者の声が舞い込んできた。二人は揃ってテントを出ると、整備員が彼らを待っていた。通信室から伝令らしく、お二人に念話による通信が来ているので出てくれとのこと
だった。
魔力資質皆無のメビウス1だけならともかく、ユーノにさえ直接ではなく、通信室を中継しての交信希望。いったい誰からだろう、と怪訝な表情で互いの顔を見合わせる。
「――あ、やっとつながった! ユーノおにいちゃん、メビウスおじさん!」
二人は再び、互いの顔を見合わせた。メビウス1は、少し半泣きになりそうな顔をしていたが。
ユーノが開いた通信回線のディスプレイ、魔法の産物に飛び込んできたのは、幼い少女の声だった。それも、聞き覚えのあるもので。
予想通り、足の速い戦闘機や空戦魔導師たちに大きく遅れを取る形で、ミッドチルダ上空に本局からの次元航行艦隊が布陣しつつあった。
旗艦『バーベット』を中心とする二〇隻からなる大艦隊に残されていた仕事は、傷ついた戦闘機や魔導師たちの回収だった。特に戦闘機隊は燃料切れを起こしているものが多く、また着艦も管理局
の次元航行艦では不可能な場合が多々あった。パイロットたちはベイルアウトし、パラシュートでふわふわ宙を漂いながら魔導師に、あるいは艦の回収用アームに引っ張られて収容されていく。
すでに敵の中核、今回の戦闘の根源である敵飛行物体については空中分解を起こし、海に墜落したと言う情報が届いていた。敵影もレーダー上になく、戦闘配置も小回りの利く小型艦艇などは救難
活動を優先するため、解除しているものさえある。
故に、地上本部に所属する空中管制機から、墜落した飛行物体について続報が入った際、彼らにとってはまさしく寝耳に水の状態だった。慌ててオペレーターが通信回線を開くなり、飛び込んでき
たのは管制官の緊迫した様子の声。
「こちらスカイアイ、バーベッド以下、次元航行艦隊全艦艇に報告。敵巨大飛行物体より、更なる目標が現出。そちらに向かっている、警戒されたし」
「更なる目標? レーダーには何も……対空監視」
『バーベット』艦橋にて、艦隊司令は監視員に確認を命じた。同時に、艦隊に救難活動を中止を下令。ただちに戦闘配置に戻るよう、命令を下す。
直後に、対空監視を行う乗組員から、報告が舞込んで来る。えらく、慌てふためいた様子だった。
「レーダーに報告のあった目標が出現! 速度、毎時マッハ3以上! 魔力反応、高い! まっすぐ本艦隊に接近してきます!」
「――対空戦闘、用意!」
艦隊司令の一声が、全艦艇にたちまち伝わっていく。二〇隻の艦隊は、まるでそれ自体が一つの生き物のような動きを見せて素早く回頭。まだまだ夜の闇が抜けきらない空を大海原に見立て、対空
防御の構えを取る。
とは言え、乗組員たちはみんな不安の色を隠し切れない。これまで行われてきた演習で、次元航行艦は小回りの利く航空機による、多数機からなる波状攻撃に大変脆いことが判明していた。魔導師
による艦隊直掩があって、初めてその大火力が生かせるのだ。今は、上空を守る魔導師たちは一人もいない。収容したばかりの者は消耗激しく、とても飛び出せるものではなかったのだ。
不意に、艦隊司令は艦橋より窓の外に眼をやった。闇夜の向こう、漆黒の空の最中で、チカッと何かが光る。あれか、と彼が呟こうとした。
――次の瞬間には、真っ白な光が夜空で瞬いて。何もかもが、消え去った。
唐突に感じた、妙な違和感。未だ空を覆う闇夜に目を向けて、メビウス1は首を捻ってみせた。
今、空が光らなかったか? 胸のうちで生まれた疑問に、答えはやって来ない。見間違えか何かだろう、と自分を納得させて、彼は視線を元に戻す。
目の前に浮かんでいたのは、魔法の産物。通信相手の顔が見える、液晶でもブラウン管でもないディスプレイだ。ユーノが通信室から中継を受けて開いたもので、半透明の画面の奥には、宝石みた
いな綺麗なオッドアイをした幼い女の子が映っていた。
「ヴィヴィオ、どうしたんだい?」
第一種警戒態勢は解除されいないが、それにも関わらずユーノの声は穏やかなものだった。決して怒鳴ったり急かしたりせず、ヴィヴィオと呼んだ少女に優しい口調で問いかける。
ヴィヴィオは、しかし急な用件なのか、年齢に相応しくない緊迫した様子だった。自分を落ち着かせるように唾を飲み込み、一呼吸置いてから、口を開く。
「あのね、なのはママが、目をさましたの。二人に、しらせようと思って」
「何だって?」
なのはが目を覚ました。そう聞くなり、メビウス1は横からグイッと割り込んできた。
ベルカ公国を名乗るテロリストが保有していた核弾頭の破壊、確保の作戦の帰り道で、彼女は抱えていた身体の"爆弾"が破裂し、メビウス1の目の前で気を失い、危うく墜落死に陥るところだった。
助けようと伸ばした手は、キャノピーに阻まれて届くはずがなかった。戦闘機では、操縦桿を握る腕では、女の子一人、助けられない。かろうじてユーノの救出が間に合ったからいいものを、リボ
ン付きの戦闘機乗りの心に、一つの大きな事実を刻み込んだのは変わらなかった。
「ヴィヴィオ、今どこにいるんだい?」
「クラナガンの病院だよ。ママといっしょ――通信、代わるね!」
メビウス1とは対照的に、ユーノに動揺の様子は見られない。ひょっとすれば必死に抑えていたのかもしれないが、とにかく彼の見た目からは、愛する人が意識を取り戻したと聞いて、喜んだり嬉
がったりするようなものは感じ取れなかった。淡々と、司書長は通信回線の相手が切り替わるのを待つだけ。
――いや、実際のところ、飛び出したくなる衝動をこいつは必死に抑えていたんだろう。そうでなけりゃ、こんな素っ気無い反応なんか、かえって不自然だ。
メビウス1の予想通り、傍らの青年はディスプレイに入院着に身を包んだ彼女が映り込むなり、画面に食いつくような勢いで口を開いていた。
「なのは! 大丈夫!?」
いきなりドアップで映った幼馴染の顔を見て、なのはは驚くよりも先にプッと笑みを零してしまった。まったく、どれだけ心配していたんだろうと。
義娘が開いてくれた――いつの間にかヴィヴィオは、念話による長距離通信を覚えていたのだ。義娘の成長を喜ぶと同時に、今の自分にはもうそれすら出来ないと言う事実が胸に重く圧し掛かる――
半透明のディスプレイの奥で、飛行服を着た同じ"エース"の肩書きを持つ青年が「落ち着けユーノ」と、彼の首根っこを掴んで画面から引き剥がしていた。二人とも、私の知らない間に仲良くなっ
ちゃったんだなぁと、どこか寂しげな気持ちが脳裏をよぎる。
「ごめんね、心配かけて。私はもう、大丈夫だから――魔法は、全然使えないけど」
「いや、無事ならいいんだ。あぁ、よかった……」
よくない。決して、いい訳がない。
傍らをずっと離れずついていてくれたヴィヴィオの話では、自分のリンカーコア、魔力の源はボロボロに磨り減っていると言う。魔力資質のない人間と、ほとんど変わらないほどに。事実かどうか
相棒のインテリジェントデバイス、主が気を失ってもなお、離れなかったレイジングハートに問いかけても、残念ながら本当です、と言う回答しか来なかった。
今のなのはは、飛べない。翼を失った鳥と同じく、もはや地面から空を見上げることしか出来ない。込み上げて来た悔しさを、身を寄せるベッドのシーツと一緒にギュッと握り締める。
そんな彼女の胸のうちを知ってか知らずか、画面の向こうの二人は、揃って勇気付けるような言葉を投げかけてくれた。
ユーノは「大丈夫さ、きっとまた飛べるようになる」と。メビウス1は「今はちゃんと、養生しておけよ」と。優しい微笑みを浮かべる彼らに、なのはは少し、潤んだ瞳を見せながらも頷いた。
その時、画面の奥で誰かが慌てふためいた様子で二人に駆け寄ってくるのが見えた。緑色のつなぎを着込んだ若者、整備員らしい。通信中にも関わらず彼は、メビウス1に何かを伝えた。報告を受
けたエースパイロットの表情が、一瞬深刻なものになったのを、翼なき少女は見逃さない。
「あの……メビウスさん、何かあったんですか?」
「いや――ちょっと野暮用でな。これから飛ばなきゃならん」
飛ぶ。その言葉に、今度は幼馴染さえもが反応してみせた。普段なら眼鏡越しに見える優しげな瞳が、真剣な眼差しを持って背後にいるメビウス1に送られる。何も言わずに、彼らは互いの顔を見
てただ頷くだけ。
いけない。咄嗟に、なのはは身を乗り出していた。横からヴィヴィオが動いちゃ駄目だよと制してくれなければ、目覚めたばかりの身体を引きずってでも、彼らの元に向かおうとしかかもしれない。
予感でもなんでもない、確信があった。
行ってしまう。
彼がもうすぐ、飛び立ってしまう。
通信が切られてしまう。
もう二度と――会えなくなるかもしれない。
繰り返すが、予感ではない。なのはには、確信があった。何故ならば、そうでなければ説明できないものがある。
ユーノとメビウス1が一瞬、ほんの一瞬見せた深刻な表情のどこかに、何かを決意したようなものが垣間見えた。
否、それは決意だったのだろうか? もしかしたら、覚悟かもしれない。覚悟――何の覚悟?
しかし、何も出来ない。今のなのはは、エースオブエースでもなければ魔導師でもない。翼を失った鳥と同じく、無力な、普通の少女に過ぎなかった。
「ごめん、なのは。僕も行かなくちゃ……ヴィヴィオ、この通信はもう切るよ」
「あ、うん――ママ?」
「待って、ユーノくん。メビウスさんも!」
通信を切っていいかどうか、義娘は迷うような視線を見せた。その隙に割り込むようにして、彼女は彼らを呼び止めた。
画面の向こうで、名前を呼ばれた二人の男たちは動きを止めて、こちらに振り返る。
やっぱり、と。なのはは、二人の顔を見て、改めて確信する。
ユーノは、これから誰かを悲壮な覚悟を持って送り出すようなものを見せていた。決して表情には見せないけれど、それがかえって不自然さを際立たせる。普段の彼は、どんな時ももっと穏やかで
優しい顔をしているのに、今はそんな様子を一欠片も感じさせなかった。
メビウス1は、これから死地へと向かうような覚悟を持って、愛機へ向かう様子を見せていた。こちらは、ユーノよりもずっと分かりやすい。振り返った彼は、顔こそこちらに向けているものの、視
線はなのはに向いていない。覚悟が鈍るからなのか、それとも別の理由か。どちらにせよ、エースパイロットは決してこちらを見ようとしてくれなかった。
「そう心配するなよ、"エースオブエース"」
何より、彼は自分を名前で呼んでくれなかった。教えたはずなのに。相手の眼を見て、名前を呼んで。
友達になる第一歩を、彼はもう忘れてしまったのだろうか。
「お前がいずれ空に戻ってきた時のために、先に掃除に行ってくるだけだ。安心しろ」
「そうだよ、なのは。それに、彼を誰だと思っているんだい?」
違うよ、ユーノくん。それは、彼の本心じゃない。義務とか責任とかで、無理やり自分にその名を背負わせているだけ。
伝えたいことがあるのに、声が出ない、出せない。何故。こんな時に限って、考えがうまくまとまらない。言いたいことが、口にすることが出来ない。
違う、違う、違う。彼の名前は――
「俺は、"メビウス1"だ。伊達じゃないんだぜ、この名は」
「そういうこと。じゃ、なのは、ヴィヴィオ。またね」
通信は、切れた。半透明のディスプレイは宙に消えて、もはや欠片も残さない。
取り残された少女は――わずかに、嗚咽を漏らすが、ただそれだけ。決して涙を見せるような真似はせず、ベッドから立ち上がろうとする。
「ママ」
「大丈夫――大丈夫だから」
ヴィヴィオは、いきなり動いた母である少女の行動に驚き止めようとしたが、彼女自身が呟いた言葉を聞いて口を閉じ、見守ることにした。幼い子供なりに、察したのだ。
なのはが、今どうしてもしたいこと、聞こえるはずがないと分かっていても、伝えようとせずにはいられないことを。
彼はもう充分戦った。見ていてこちらの胸が、痛くなるほどに。
それは、なのはのみが知り得る事実だった。あのパイロットは、もう"メビウス1"であることに疲れを感じている。誰かに、本当の名前を呼んで欲しいと願っている。だけど、そんな本心を押し殺
して彼は、自身をつい先ほども"メビウス1"と呼んだ。
帰ってきて欲しかった。帰ってきて、名前を呼んであげたかった。その上で、再び共に、空を飛んで欲しい。
今度は、"メビウス1"としてだけではなく、一人の人間として、共に。
病室のカーテンを開ける。外はまだ暗い――いや、地平線の向こうに、かすかだが明るいものが姿を見せ始めている。朝日、太陽だ。あと一時間か二時間か、もうすぐ夜が明けようとしている。
間もなく、彼はこの空に向けて飛び立つのだろう。ならば、と言う訳ではないが、彼女は窓を開けて、空に向かって静かに呟く。
「帰ってきてください、必ず」
どうか届いて、この祈りよ。
空は何も、答えない。
「一応、聞いておきたいんだけどさ」
「何だ?」
通信を終えて、離陸準備に向かうメビウス1に、並んで歩くユーノが問いかける。
「君、死ぬつもりじゃないだろうね」
エースパイロットは、すぐには答えない。苦笑いを浮かべ、困ったように頬を掻いて、ようやく口を開く。
「まぁ、今度の敵は、そのくらいの覚悟で臨まないといけないかもな」
「ちょっとちょっと。本気かい、それ?」
「さっきの報告じゃ、新たに出現した目標は最大速度が毎時マッハ3以上らしい。二〇隻の次元航行艦隊が、一瞬で蒸発しちまったんだとよ」
な、と青年が言葉を詰まらせる。戦闘機のことは詳しくないが、メビウス1の口から出た情報はそんな彼であっても充分に驚愕させられるものだった。
対して、当のパイロットにそこまで動揺している様子が見られない。返事に窮し、うろたえるユーノの胸を、彼は笑って叩いてみせた。
「安心しろよ。覚悟は結局覚悟ってだけだ。軽く捻って撃墜してやるからさ」
「……なら、いいんだけど」
叩かれた胸を撫で下ろしながら、彼はため息を吐く。ハハハ、とメビウス1は、笑みを絶やすことはなかった。
不時着し、今この瞬間彼らが身を置く旧機動六課隊舎は、六課解散後ずっと埃を被っていた訳ではない。非常時の緊急避難施設や、遠くの訓練空域に向かう地上本部の戦闘機の燃料補給基地として
再利用されていた。解体された建物もあるが、多くは手付かずのまま使用され続けており、忙しなく動き回る通信要員の陸士や整備員も、時折見覚えのある顔がチラホラしていた。
そんな隊舎の敷地内の滑走路の片隅で、一匹の鋼鉄の猛禽類が、出撃の時をじっと待っていた。
鉄の鳥の名は、F-22ラプター航空支配戦闘機。ステルス性、電子戦能力、機動性、武装、あらゆる点で既存機を上回る、メビウス1の愛機。
ベルカ公国を名乗るテロリストたちは本機にメビウス1のデータを搭載した無人機として首都攻撃を企んだが、なのはとティアナの手によってそれは阻止され、最終的に鹵獲された。機体はその後
本局に運び込まれて、無人機から有人機に戻す改修が加えられて、今ここに晴れて主の下に舞い戻ってきたと言う訳だ。
「整備班長、どうだ?」
久しぶりに出会った愛機にメビウス1は感慨深いものを覚えながら、しかし感動の再会とは行かない。テキパキと部下に指示を下す整備班長に声をかけて、機体の状況を確認する。
整備班長は、何故だかすぐに返答を寄越さなかった。難しそうな表情を浮かべ、猛禽類を一瞥してから答えた。
「すまない。弾薬の搭載は終わったんだが、本局が新しく乗っけたって言う例のシステムが曲者でな。調整に手間取って、今終わったとこなんだ。これから燃料を入れるんだが――」
「そうか……いや、燃料は半分でいい。それだけあれば何とかなる」
「っ、待ってよ、メビウス1! 君、マニュアル読んでなかったのか!?」
いいや読んださ、しっかりとな。メビウス1の発言を聞くなり割り込んできたユーノに、彼はさも当然のように答えた。
無論、ユーノはだったら何で、と追い討ちをかける。あのシステムは、燃料を馬鹿食いするものなのに。
「ユーノ、時間がないんだ。敵の速度はマッハ3だ、人口密集地の上空に達するには一〇分とかからない」
「それは、そうだけど」
「なら、急ぐべきだろ」
ポン、と肩を叩いて、彼はF-22のコクピットに向かう。ユーノは、納得いってない表情を浮かべつつも、黙ってパイロットの言うことに従うしかなかった。
整備員が用意していた梯子を昇り、メビウス1は何ヶ月かぶりの愛機のコクピットに座り込む。
サイドスティックと呼ばれる、現代戦闘機のトレンドである右手一本で握る操縦桿。
使用する兵装を選択するウエポン・システムの操作スイッチなどが並んだ、左手で握るエンジン・スロットルレバー。
両足を乗せて、機体のラダー(方向舵)を操作するラダーペダル。
自機が捉えたレーダー情報や、機体の状況、AWACSとのデータリンクを表示する計器、ディスプレイの数々。
背中を預け、万が一となればパイロットを脱出させるイジェクションシート。
これらだけなら、何も変わった部分は見られない。いつもの愛機、何も変わらぬ愛機、F-22がそこにあった。
もちろん、本当に何も変わっていないならば、わざわざユーノが梯子を昇り、コクピットにやって来る訳がない。本局から機体を輸送したのは無限書庫のヘリだが、その際彼は、本機に有人機化以
外に加えられた改修について知らされていた。
「いいかい、メビウス1? マニュアルに描いてあった通り、このF-22には加速魔法の術式を組み込んである」
「あぁ、描いてあったな」
これだな、とマニュアルの内容を思い出すようにして、メビウス1は計器に並ぶスイッチ群の一つに手を伸ばす。エンジンが回っていないので機体に電源は入っていないが、その操作だけは以前か
ら搭載されていた大容量魔力コンデンサに直結されているのだろう。ディスプレイの一つに光が灯り、起動画面が表示される。
戦闘機に魔法をかけるなんて、いよいよコイツもファンタジーの世界に足を踏み入れてきたな――苦笑いを浮かべて、パイロットはユーノの解説を聞きながら操作手順を実践していく。
「どのぐらいの速度が出るんだった? 通常ならF-22は巡航でマッハ1.58、最大ならマッハ2以上だ。例の目標は、マッハ3以上だそうだが」
「理論上はマッハ4まで出せるってさ。本局の技術部からの話だけど」
たまらず、口笛が零れた。マッハ4、そんな速度で飛行した戦闘機がかつて存在しただろうか。つくづく魔法とやらは恐ろしい。
だけど、とユーノが付け加える。本来ならば出せるはずもない速度のため、そのままではF-22は耐え切れずに空中分解の危険性があった。
そこで、機体正面に防御魔法の応用で障壁を張る方法が考案された。さすがに本当の防御魔法のように、敵の攻撃をはじき返すとはいかないが、機体を急加速の衝撃から守るには充分だった。だが
そのための魔力は、もともと搭載されている魔力コンデンサだけでは足りない。何よりこの魔力は、質量兵器禁止の法に触れないため改修されたミサイル、及び機関砲の発射の動力源でもあった。
「だから、専用の魔力炉を組み込んだんだ。加速魔法を起動する場合は、コイツが魔力の供給源に切り替わる。その代わり――」
「魔力炉を回すためには、燃料を余計に燃やす必要がある、ということか」
「その通り。だから、本来なら燃料は満タンにしていくべきなんだ。余裕があるならドロップタンクも搭載して」
しかし、その余裕が今はない。燃料補給は間もなく終わるが、先ほどメビウス1が注文した通り、機体内の燃料タンクには通常の半分しか搭載されていない。空中給油機とランデブーする時間もな
いとなれば、せっかく目標に追いついても、喰らいついていられる時間は非常に短いことになるだろう。
「つまり、後は俺次第な訳だな」
任せろよ、と。不敵な笑みを見せて、彼は自信があるように振舞った。虚勢だったかもしれないが、今はとにかく、そうでもして己を鼓舞せねば。
対空戦闘は不得意とは言え、二〇隻もの大艦隊を一瞬で葬れる敵と聞いて、さらにこれからそれと直接対峙するのだとなれば、身震いしても仕方ない。怖いと思うのも、やむを得ない。そうならな
いために、エースは、リボン付きはさも自信があるような言動を取ったのだ。
ユーノは、そのことに気付いたか定かではない。ただ一言、呟くのみだった。ごめん、と。
「……なんで謝るんだ」
「この機体を持ってきたのは僕だ。本局の連中、まだテストもしてないって言ってたんだ。そんなものを君に与えて、君は得体の知れない敵にぶつかろうとしている」
「あぁ、そういうことか――よし、だったらいい解決法がある」
え? と怪訝な表情を露にした青年の顔に、パイロット用のグローブに覆われた拳が一発、叩き込まれた。
完璧な不意打ち、思いもよらぬパンチを受けて、ユーノは梯子から落ちて、硬いコンクリートの地面に尻餅をついてしまう。すぐさま「何するんだ!」と怒鳴り込む。
「いつぞやのお返しだよ、これでおあいこだ」
「――っ、僕はこんなに強く殴ってないぞ!」
「そりゃそうだろ、お前は二発殴ったのに俺は一発なんだから」
何なのさ、それ。痛む頬を撫でながら、しかしメビウス1の言うことに逆らえない彼は、苦笑いを浮かべるほかない。一方でメビウス1も、F-22のコクピットで笑顔を浮かべていた。
そのうち、燃料補給が完了したという報告が彼らの下に飛び込んできた。あとはエンジンを始動し、キャノピーを閉じて滑走路までタキシングすれば、リボン付きは空に舞い戻ることになるだろう。
整備員の手で、コクピットにかけられていた梯子が外された。エンジン始動時はインテークが空気を吸い込むので危険なため、ユーノも安全な距離まで機体から離れる。
さて、エンジン始動だ――ヘルメットを被り、酸素マスクを固定。再び機体を得た、翼を取り戻したパイロットは水を得た魚の如く、滑らかな動きでF-22に命を吹き込む。
バッテリースイッチをオン。続いて、スタートスイッチを入れる。JFSスタート、F119エンジンがゆっくりと回転を始めて、その間にエンジン・スロットルレバーを一番手前、アイドリングの状態に
まで下げておく。自動化が進んだF-22は、これだけでエンジンが始動出来る。鋭角的な高音が鳴り始め、いよいよエンジンスタート。猛禽類が、眼を覚ました。
とは言え、まだ人間で言えば寝起きの状態だ。アビオニクス、電子装備関係のスイッチを全てオンに。計器の上でピアニストの如く指を踊らせ、次に操縦桿を握る。
左手は本来エンジン・スロットルレバーを握るが、この時点ではまだ必要ない。自己診断機能のスイッチに左手を伸ばし、システム起動。ディスプレイに表示される機体の各部の動作状況、いずれ
もオールグリーン。異常無し。
チェック項目はまだある。操縦桿を左右上下に倒し、ラダーペダルを踏み込んで自分の目、見えない部分は整備員に確認してもらって主翼、尾翼の動作をチェック。操作に合わせて翼の一部がパタ
パタ動き、これも異常無し。OK、離陸準備は整った。
脚のタイヤを固定していたブレーキを解除、タキシング。エンジン音を高鳴らせながら、鋼鉄の猛禽類は夜の滑走路へ向け歩き出す。煌く誘導灯の光が眩しい。ヘルメットに手を伸ばし、バイザー
を下ろした。ついでに酸素マスクの固定も確認し、いよいよ愛機は滑走路端へと到着する。
「グッドラック、メビウス1」
管制塔に離陸許可をもらうため、通信機のスイッチを入れるなり、ヘッドホンに青年の声が舞い込んできた。振り返れば、暗い駐機場の向こうでユーノらしき人影がいた。グッと、彼は親指をこち
らに突き立てていたように思う。
「ありがとう、ユーノ。グッドラック」
呟くように返答。恋敵と彼はこちらを認識しているようだが、同時に友人であるとも思ってくれているようだ。その事実が、出撃直前のパイロットの緊張をどれほどほぐしたことか。
酸素マスクの内側で照れ臭そうな笑みを浮かべながら、メビウス1は管制塔に離陸許可を求める。もちろん、許可はすぐ下りた。
「Mobius1, you are cleared for take off」
「Mobius1,roger. Cleared for take off」
さて、後は行くだけだ――エンジン・スロットルレバーを握り直して、ふと、彼は思い止まった。
視線は、駐機場の方へ向けられる。その中で、先ほど見つけた人影。おそらくユーノであろう影は、じっとこちらを見つめていた。
「ユーノ」
「え?」
「彼女を頼む」
人影が、大きく動揺するのが分かった。何だって、もう一度言え、おい、メビウス1! 拳を振り上げて飛び出そうとする人影を、周りの影たちが何事かと驚き、必死に止めていた。そうしなけれ
ば、おそらく彼は滑走路に飛び出していただろう。
エンジン・スロットルレバーを一番奥まで叩き込む。久々に感じたF119エンジンの咆哮、背中にドッと伝わるアフターバーナーの加速。滑走路を力強く蹴って、猛禽類は速度を上げていく。
離陸。海に面した旧六課隊舎、そこから見える水平線の向こうにようやく見え始めた日差しを目指すようにして、尾翼にリボンのエンブレムを描いたF-22は、大空へと舞い上がっていった。
"彼女を頼む"だと――ふざけるな!
一方で、離陸を見送ったユーノは怒り心頭だった。危ないから飛び出さないで、と自分を取り押さえる整備員たちを振り払う頃には、すでに猛禽類は空へと飛び立っていった。
「卑怯だ、君は!」
聞こえなくても、構いやしない。力任せに、彼は叫んでいた。
「そうやって、僕になのはを押し付けていくのか! 自分の気持ちもはっきりさせないまま! 許さないぞ、そんなこと!」
怒りは収まらない。勝手なことを抜かして飛び立っていった彼が、どうやっても許せない。また一発殴ってやらないと気が済まない。
だから――叫ぶだけ叫んだため、喉が痛い。ゲホッと短く、咳き込み、それでも構わず、ユーノは最後に一言、また叫んでいた。
「だから――必ず、帰ってくるんだ! メビウス1!」
悪いことしたかな。
今更ながら、コクピットの中でメビウス1は罪悪感に苦しめられていた。こりゃあ戻ったら、一発殴られるのは覚悟した方がいいだろう。
と言っても、戻ることが出来ればだが――AWACSとのデータリンク、コールサイン"スカイアイ"が捉えたレーダー情報がサブディスプレイに表示されている。
視線を落として確認してみれば、明らかに速度が高すぎる光点が一つ、首都クラナガンに向けて進行している。管理局の残存戦力は追撃や待ち伏せを試みているようだが、敵機の速度はそれすら上
回る。滅茶苦茶に動き回って、防空部隊の陣形を大いに崩してさえみせた。発砲は最初に次元航行艦隊を全滅させて以降確認されていないが、何かしら強力な武装を持っているに違いない。そいつ
を人口密集地で、ましてや首都で使用されれば。そうなる前に、捕捉せねばなるまい。
メビウス1は、計器に並ぶスイッチに手を伸ばす。離陸前にユーノに教えてもらい、マニュアルでも確認した加速魔法の術式。それを今発動させる。
スイッチオン。ディスプレイの一つに起動画面が点灯し、システムスタートを選択。途端に、コクピット内で響いていたエンジン音に加わる異音があった。もし、この世に運命を決める転轍機など
が存在すれば、きっとこういう音を鳴らすだろう。そのくらい、表現しがたい奇妙な音だった。
「うわっ」
たまらず、驚いてしまった。空を駆けるF-22を、突如として光が包んだ。これが加速魔法とやらか。なんとなく理解している間に、機体のすぐ真下で円形のミッドチルダ式魔法陣が浮かび上がる。
魔導師が魔法を行使させるのと同じ手順で、この機体も魔法が発動すると言う訳だ。
――あぁ、なるほど。そういうことか。
青色に光り輝く愛機を見て、彼は納得する。
魔法で空を飛ぶと言う気分、重苦しい金属の翼に跨ることなく、自分の力で自由に空を駆け回ると言う感覚。彼女が、なのはが空を飛ぶことにこだわる理由。
今、ようやく分かった。これなら、こだわる理由も理解できるだろう。
翻って、自分はどうなのだろう?
何故、俺はパイロットであり続けるのか。
何故、俺は戦闘機乗りをやめないのか。
何故、俺はメビウス1であることにこだわるのか。
このまま飛び続ければ、あるいはこの空の向こうにいるであろう敵機と出会えば、それが分かるのではないのだろうか。
「……いや、違うな」
操縦桿と、エンジン・スロットルレバーを握り直す。
答えなど、とうの昔に見つけているはずなのだ。今まで俺はそれを、見失っていたに過ぎない。
ビビるなよ。彼は、愛機に向けて呟く。新しい機能が加わったからと言って、萎縮する必要はない。
全ては変わりゆく。だが恐れるな、友よ。何も失われてはいない。
F-22は、答えない。ディスプレイに表示される数値にも変化はない。ただ一つ、何もスイッチには触れていないのに、ピ、と小気味良い電子音を鳴らした。
これにはメビウス1も最初は驚き、しかしすぐに満足そうな笑みを浮かべた。整備員たちが聞けば何かバグが起きたと慌てるだろうが、彼は気にしなかった。
OK、それじゃ行こうぜ相棒。たぶん、これがこの戦いのラストフライトだ。
左手に握るエンジン・スロットルレバーを、押し出す。ゆっくり、優しく、丁寧に。通常推力最大。もう一段押し込む。ガチッとメカニカルな音が鳴って、アフターバーナー点火。F119エンジンか
ら伸びるのは、いつもの赤いジェットの火ではなく、青い幻想的な炎。
ドンッと、周囲に衝撃波が走った。音の壁を突き破り、鋼鉄の猛禽類は魔導とジェット、二つの力で加速していく。
HUDに浮かぶ速度計の数値に眼をやる。マッハ1はとうに超えていた。マッハ1.5、1.6、1.7、1.8、1.9、マッハ2、さらに速度は伸びる。
「奴を逃がす訳にはいかない」
クイッと、操縦桿を引く。主の命を受けて、F-22は機首を軽やかに上げた。
高度二万フィートを突破、まだ足りない。限界高度まで上昇、最大戦闘速度で目標を追う。
現在の速度、毎時マッハ2.5から上昇中。マッハ2.7、2.8、2.9、マッハ3に到達。まだ伸びる、マッハ3.2、マッハ3.3、マッハ3.4――燃料計に、一瞬だけ目配り。案の定、
物凄い勢いで数値は低下を続けていた。時間との勝負になる。
そうだ。俺は、空を飛ぶのが好きだ。戦闘機に乗って飛ぶのが。"メビウス1"と言う役割は、空を飛ぶ上での代価なのだろう。
ならば、受け入れてやる。俺は、今まで通り"メビウス1"であり続ける。どの道、"メビウス1"と言う俺も、本名の俺も、俺であることに変わりはない。
空を飛ぶのが好きな、俺と言う存在は、決して不変なのだから。
翼が、大気を引き裂いていく。夜明けが近いとは言え、まだ暗い空を、青の閃光が駆け抜ける。
高度計の数値は、高度五万フィート。
速度計の数値は、マッハ4。
「さぁ、俺たちの空を取り戻しに行くぞ」
互いに自律し合い、最高性能を発揮して。
一人と一機が、ワタリガラスを追いかける。
最終更新:2010年12月31日 23:34