project nemo_26後編

あるいはどこかの部隊の訓練場か。ともかくも、以前起きた大規模なテロによって破壊され、復興を諦めた人々が捨てた暮らしの名残。テロの沈静後は市街地戦闘の訓練に使用されているとも聞くが、今はそんなことはどうでもいい。人はいない。ありがたい、ここならいくら暴れても構わないはずだ。
何より、立ち並ぶ建造物が彼の目についた。こいつを利用しない手はないだろう。
バックミラーに、ちらりと視線を送る。案の定、ナイトレーベンはこちらを追い続けていた。
いいぜ、試してやる――酸素マスクの内側で、彼はぺろりと上唇を舐めた――お前が本当に"俺"ならば。

「ついて来れるか、スカリエッティ」
「ほう、何をお考えかね。いや、君に訊く必要は無かったな。"nemo"によれば――何?」

通信機に舞い込む奴の声色が、ここに来て初めて変化を見せた。楽しさもなければ面白みでもない、純粋な疑問のような声。どうやら"nemo"は、メビウス1の考えを理解していたらしい。だが、追従できるかはまた別の話だ。
HUDに表示される高度計、その数値は低下を続けていた。比例する形で、キャノピーの向こうに広がる大地も視界いっぱいに広がり、近付いている。
ビ、ビ、ビと、コクピットに警報が鳴り出した。機体の無機質な合成音声が、高度を上げろと促してくる。メビウス1は、これを無視。高度計の数値は下がり続け、いよいよ愛機は立ち並んだ高層ビルの傍を駆け抜けていく。
ここだ、と操縦桿を引いた。機首を上げて、F-22は水平飛行に移る――中層ビルの屋上を、翼が引っ掻きそうなほどの低高度。ひとたび操縦をミスすれば、あっという間に激突しかねないほどの危険な、しかし彼にとってはもはや慣れた状態。こんなもの、メガリスのトンネルに比べればずいぶん楽なものだ。
軽くラダーペダルを踏んで、機体の針路を右に逸らす。目の前に立ちはだかっていた高層ビルを、難なく回避。
人のいない街、訪れる者さえ途絶えた文明の名残の最中を、ジェットの轟音が響き渡る。ビルの合間を縫うようにして駆け抜けるのは、鋼鉄の猛禽類。
正面からは目を離せないが、バックミラーが後方の状況を限定的にだが教えてくれる。敵影は――あった。生意気にも、自分と同じくビルの合間を飛び抜けてきた。どうやら、本当にナイトレーベンの戦闘機動を司る"nemo"は自分のコピーらしい。

「これはなかなか、スリルに満ち溢れているなぁ」

さすがの狂人も驚いたか。声は相変わらず不気味で不自然だが、先ほどと同様、含まれるものが違う。感嘆としたような様子。
今度は泣き言を言わせてやるさ。鋭い眼光、強い意志を持った瞳を持って、メビウス1は操縦桿とエンジン・スロットルレバーを握り直す。
追いつ追われつ、鴉と猛禽類は狭い空間でダンスする。だが、ナイトレーベンは先ほどと違い、積極的に接近を図ってこない。これだけ障害物があれば、敵を追うだけでも至難の技なのだ。今この瞬間でさえ、敵機の胴体中央からチカチカと発砲の炎が煌き、しかし赤い曳光弾は間に立ち塞がっていたビルの壁面を粉々に砕くだけ。
引き離すなら今だな――建造物の屋上にあった古ぼけた看板を、操縦桿を軽く右に倒して回避。エンジン・スロットルレバーの位置は、まだ押し込む余裕があった。
左手に力を込めて、握っていたものを前へと押し出す。通常推力最大。いや、まだ足りない。もう一段押し込む。ガチッとメカニカルな音を鳴らして、アフターバーナー点火。
ビルの、家屋の、廃墟の壁面を叩くF119エンジンの咆哮。F-22の魂の鼓動。エンジンノズルから赤いジェットの炎が伸びて、機体の速度はあっという間に音速を突破する。
メビウス1は、操縦桿を前に突いた。中層ビルが立ち並ぶ道路の最中に、猛禽類は舞い降りた。左主翼を垂直に立てて、狭い隙間を縫うようにかっ飛ぶ。
パリンッと。音速突破に伴う衝撃波は、まだ残っていた建物の窓ガラスを、片っ端から吹き飛ばしていく。
怖くない、なんてのは嘘だ。腹をこすりそうなほどのスレスレ飛行、歯を食いしばって恐怖に耐える。バックミラーに眼をやれば、F-22よりも大きな図体を持つナイトレーベンが、追って来れるはずもない。距離は引き離されていく一方だ。
このまま振り切れるか。全ての窓ガラスを粉砕されたビル郡に別れを告げる。右に九〇度傾いた姿勢を、操縦桿を左に倒して元に戻す。広い空間に出た――と言っても、どうにか水平飛行が可能なほど――F-22は、引き続き前へと進む。振り切れたとなれば、上昇し、反撃の姿勢を取る必要があった。

「いい腕だ。腕だけでなく度胸もある。さすがはエース、リボン付き」

褒められたって嬉しくない。だが、メビウス1は通信機に飛び込んできた狂人の声に、何かを感じた。後方、黒い翼はすっかり離れてもはや点のようにしか見えないほど。
その間にも、猛禽類は鴉を振り切ろうとしていた。ようやく高度を上げ、中層ビルの合間から飛び出す。今度は目の前に高層ビルが並んでいたが、超低空飛行に比べればどうと言うことはなかった。
"nemo"によれば、とその時。また、スカリエッティが何か企んでいるらしい。メビウス1はもう間もなく、高層ビルの群れに突っ込む構えを見せていた、その時に。

「君の操縦技量は非常に高い。おそらく難なく回避してみせるだろうね――例え、目の前の建物がいきなり崩れたとしても」

背筋に、悪寒が走った。エンジン・スロットルレバーは限界いっぱいだが、急かすようにして押し込む。
行け、相棒。メビウス1は、愛機に叫ぶ。奴は、この高層ビルを崩す気だ。その前に飛び抜けるぞ。
予感は、当たっていた。バックミラーに映る後方の視界、その中で何かが光ったかと思った次の瞬間。薄暗い空を引き裂くようにして放たれた白い光の刃が、高層ビルの群れをチーズでもスライスするように、切り裂いた。

「――っ!」

目前に差し掛かっていた建物、切り取られた一部がズルズルと、地面に引きずられていく。旋回は――駄目だ、間に合わない。このまま突っ込むしかない。
間に合え。酸素マスクの中で、呟く。重力に逆らえない高層ビルは、切られた部分をとうとうアスファルトの大地に向かって投げ出した。その真下を、リボンを付けた猛禽類が恐れなど知らないように駆け抜けていく。
コクピットが一瞬、ふ、と暗くなった。見上げるまでも無く、崩れ落ちるビルの一部がすぐ真上に差し掛かったのだろう。運を天に任せて祈る。
間一髪。F-22は落下物に巻き込まれることなく、突破に成功した。直後、背後よりズシンッとした響き。高層ビルの切られた部分が、大地に着地したのだろう。
安堵のため息は、しかし漏らさない。身構えたまま、振り返る。どうせまだ次があるんだろう、早くやってみせろ。酸素マスクから送られてくる命の糧を貪り吸いながらも、エースは次の襲撃に備えていた。どうした、早く来い。

「私に構っている暇があるのかね?」

何だと、どういう意味だ――前に向き直って、パイロットの顔が大きく歪む。立ちはだかる巨人、高層ビルがF-22の行く手を阻んでいた。
くそったれ! たまらず、エンジン・スロットルレバーを引く。アフターバーナーカット、エンジン、アイドリング。音速の世界から通常速度、もっと低下して着陸速度まで。とはいえ、飛行機は止まれない。操縦桿を引き、機首を上げる。キャノピーに映る視界は、少しずつ空を捉えようとしていた。
ぎりぎりのところで、猛禽類は巨人への体当たりをやめた。ビルの何メートルか手前、空中で一瞬静止する愛機は、今度は失速警報を鳴らす。
ほうら、止まった。ヘッドホンに響く声。まずいことは重なるもので、失速警報に続いてロックオン警報すら鳴り響く。ビービーと、コクピットの中が賑やかになる――冗談じゃない。下げたエンジン・スロットルレバーを、今度は押し出す。
上がれ、昇れ、行け、猛禽類。文字通り尻に火がついたように、主の命を受けてF-22は垂直上昇。ビルの壁面を駆け上るようにして、天を目指していく。そのすぐ後ろを、ナイトレーベンの放ったミサイル群が次々と着弾。真後ろで繰り広げられる爆風と衝撃、黒煙と破壊のカーニバル。破片の一つも掠ってないのが奇跡だった。
屋上を越えて、メビウス1はついに無傷のまま超低空より高空へと帰還する。正面に広がる空、未だ薄暗い夜明け前の世界が、生きていると言う実感を彼に与える――違う。まだ
終わってない。敵はどこだ、敵は。

「私をお探しかね。こっちはもう君が見えてるよ」
「!」

顔を跳ね上げた。垂直の姿勢を維持するF-22の無防備な背中に向けて、黒い翼が急接近。度重なる連続攻撃、これでとどめを刺すつもりか。

「舐めるな!」

"nemo"だかナイトレーベンだか知らないが、機械風情が――叫ぶと同時に、つい先ほど押し込んだエンジン・スロットルレバーをまた下げた。虚空の中、響き渡っていたF119エンジンの咆哮が途絶える。同時にこちらも再び、操縦桿を引いた。思い切り強く、力の限り。
乱暴な操縦にも、鋼鉄の猛禽類はしっかり応えてくれた。推力を失った機体は、背中に一瞬真っ白な水蒸気のドレスを纏い、すぐに脱ぎ捨てる。機首は突っ込んできた鴉に向けられたかと思いきや、そのままくるりと一回転。敵機が咄嗟に放った機関砲弾がピュンピュンと掠め飛ぶが、一発たりとも当たらない。
クルピット。コブラと同じく、空戦機動では実用性の低いサーカス芸のようだが、結局のところ、それはパイロット次第だ。ほとんどその場で動かず宙返りと言う常識外れな機動は、高速で迫っていたナイトレーベンをオーバーシュートに追い込み、機首が水平に戻る頃には敵機の後ろを真正面に捉えることに成功する。
一〇メートルもないほど、戦闘機にとってはほとんど零距離にも等しい間。それほどにまで、猛禽類と鴉は接近していた。
好機到来。さすがの急加速もこの距離では間に合うまい。左手はほとんど自然に、本能に従うようにしてウエポン・システムを操作。使用兵装、二〇ミリ機関砲を選択。操縦桿の引き金にはすでに、指をかけていた。
終わりだ、スカリエッティ――視界いっぱいに映る黒い翼。照準の必要すらない。メビウス1は、攻撃の意志を露にする。

「素晴らしい、さすがメビウス1だ」

これで、奴の声も聞くことは無い。くたばれ、と引き金を引こうとした。

「だが、忘れたかね? "nemo"は、この機体は、君自身だと――君のやることなど、お見通しだ」

ブンッと、空気が唸った。追いかけていたはずの黒い翼が、信じられない動きを見せる――クルピット。今、自分がやったばかりの機動。
ナイトレーベンと、正面から向き合う形となって、メビウス1は気付く。
相手にとって自分の機動は全て、予測の範疇だった。

「さようなら、古き英雄。もう、君は要らないよ」

死神に、微笑まれた気がした。まずい、と咄嗟にラダーペダルを踏み込んだ時にはもう遅く、黒い敵機の胴体中央で、閃光が走っていた。
ステルス性向上のため、表面に金を塗布していたキャノピーが砕かれた。左肩が焼けるように熱い光によって切り裂かれ、コクピットに鮮血が舞い散る。
体中から、力が抜けていく。ナイトレーベンは何も言わず反転、そのまま行き去ってしまう。追おうとしたが、動かない。
悲鳴すらも上がらなかった。彼が最後に見たのは、穴の開いたキャノピーの向こうにまで散っていく、自らの赤い血飛沫だった。






幻聴だったと言えば、その通りかもしれない。
だけど、彼は確かに耳にしたのだ。


――ねぇ、聞こえる?


彼女の声を。


――みんながあなたの無事を祈ってる。あなたの勝利を祈ってる。ほら、思い出してみなさい。


『――約束、ですよ』

『帰ってきてください、必ず』

『だから――必ず、帰ってくるんだ! メビウス1!』


――ほら、ね。妬いちゃうわぁ、元彼女としては……まぁ、いいんだけどね。


――すまない、割り込むぞ。おい、リボン付き。いい加減、眼を覚ませ。


――あら、この人もお友達? 交友関係広いわねぇ、だってこの人エルジア空軍の人でしょ?


――あぁ、自己紹介が遅れたな。すまない……いや、あとでゆっくりやろう。


――そうね、先に起きてもらいましょう。ほら、起きなさい。敵はまだ生きてるわよ。


――レジアスの旦那も言ってたぞ、起きろと。リボン付き、おい。








「……うる、さいな」

うめき声にも等しい声ではあったが、喉は潰れてないらしい。瞼をゆっくりと開くと、少しずつ、身体の感覚が復活を始める。
生きている。メビウス1は、まだ死んでいない。そう自覚が出来たところで、頬を刺すような冷気と、叩くような風圧がいよいよ彼の正気を取り戻しつつあった。
ピッピ、ピッピと、計器の方が何か言っている。警報らしいが、むしろ今の彼には機体からのメッセージに思えた。起きろ、急げ、早くしろノロマ。そんなので俺のパイロットが務まると思うな。はいはい分かったよ、と左手を動かそうとして、こちらの方だけ感覚が無いことに気付く。仕方なく、操縦桿を握っていた右手を伸ばし、警報のスイッチを切ることにした。
静かになった愛機のコクピットで、メビウス1は自己の状況を再確認する。まずは身体。右手と両足は問題なく動くようだ。頭は、出血多量で上手く回らないが、とりあえずまだ使える様子。眼も無事なようだが、左眼が上手く開けない。残った右眼で確認してみれば、失明した訳ではなく、穴の開いたキャノピーから吹き込んでくる風のせいで瞼を抑えられているのだ。右眼は何とか開けられる。これで何とかするしかない。
そうだ、左腕は――操縦桿を手放し、右手で残っているかを確かめる。あるにはあったが、軽く上に押し上げただけで、とてつもない痛みが彼を襲った。ぐぁ、と短く悲鳴を上げて、エンジン・スロットルレバーを握る左手は使い物にならないことを確認する。
参ったな、と酸素マスクの内側に呟き、次は機体の状況を見た。不思議なことに、身体は重傷であるにも関わらず、機体の方はピンピンしていた。主翼、垂直尾翼、水平尾翼にエンジン、胴体、レーダーまで。損害らしい損害は、キャノピーに開いた穴と言うことになる。あとはせいぜい、コクピット左側がべっとりペンキでもぶちまけたかのように、自分の血で汚れていることくらいか。ただ、HUDに浮かぶ高度計は、数値が低下を続けていた。すでに一万フィートを切っているらしく、慌てて操縦桿を引いた。パイロットが気を失っ
ている間、降下を続けていた愛機はゆっくりと機首を上げて、水平飛行に復帰する。
ふと、姿勢が安定したところで、電子音が鳴った。視線をディスプレイ、何滴か自分の血が付着しているレーダー画面に送ると、一つの機影が映し出されていた――IFFは、依然として"ENEMY"のまま。奴だ。スカリエッティの、ナイトレーベンだ。
敵機はもはや遮るものがなくなり、悠々と、しかし高速を維持しつつ北上している。このまま行けば、三分後にはクラナガン上空に到達するだろう。
クラナガンには確か、なのはが――くそ、こんな時に。
追いたくても、エンジン・スロットルレバーを握る左手が言うことを聞かない。右手で動かないそれをどかし、スロットルレバーだけでも奥に押し込もうとしたが、出血多量と負傷によって失われた体力は、その程度の力すら彼から奪っていた。

「……動け」

それでも、諦める訳にはいかない。動かない左手に向かって呟くように、メビウス1は命令する。
奴を行かせたら、大勢の人が死ぬ。なのはも。首都が消えたとなれば、その後に続く動乱で、もっと大勢の人が死ぬ。その中に、ユーノやティアナがいないとは限らない。


「動け」

奴を止められるのは、今は俺だけなんだ。俺しかいないんだ。
俺という存在、"メビウス1"と言う俺しか。

「動け、動け」

俺は、空を飛ぶのが好きだ。その空から、奴は死を降り注ごうとしている。許されることじゃない。
ましてや、俺をコピーしたと言う機械がそれをやろうとしているんだ。言うなれば、俺は俺自身によって虐殺が行われるのを黙って見過ごそうとしている。

「動け、動け、動け!」

くそ、なんで動かない。このボロ、根性見せろ。まだやれるだろう。何とか言え、おい――ピクリと、指が動いた。ほんのわずか、意図して動かそうとしたのではないが、それで
も確かに、左手の指が動いたのだ。
そうだ、動け。エンジン・スロットルレバーを奥に叩き込むんだ。あと一息なんだ、頼む。
動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動けぇ!

「!?」

果たして、思いが通じたのか否か。不意に、左腕に感覚が戻った。痛みは無い。痺れたように麻痺している。だが、動く。少なくとも言うことは聞く。
迷わず、エンジン・スロットルレバーを叩き込んだ。通常推力最大、F119エンジンが咆哮を上げる。F-22は速度を上げ、同時に高度も上げていく。戦闘機F-22、鋼鉄の猛禽類の復活だ。
しかしどうする――左腕は動いたけれども、懸念はつきない。敵機の、ナイトレーベンの速度はマッハ3以上。こちらはアフターバーナーを点火してもマッハ2かそこらだ。
加速魔法を使えば追いつけるが、その後はどうする。また格闘戦をやったところで、勝ち目は薄い。何しろ、相手は自分自身。これまでの戦闘データから、自分がその時取る行動を全て予測してしまえるのだから。
燃料だって、残り少ない。計器の目盛りを読むが、加速魔法を使用し続ければあっという間に切れる。追いつくまでにのみ使用を留めたとしても、その追いつくだけでも消耗が余儀なくされる。以後は通常モードに切り替えて戦闘するにしても、残り時間はあまりにも少ない。
不意に、コクピット左側を染める真っ赤な血が目についた。燃料一滴血の一滴、なんて言葉があったかな。要は燃料は大事に使えって事なんだろうけど、いっそこのべったり付いてる血がみんな燃料に使えたらいいんだが。いや、それでも焼け石に水か。血液不足で考えもおかしくなったか、お笑いだ。
――待てよ、燃料?
単なる思い付きに過ぎない。しかし、今は藁をも掴む思いだ。やってみるだけ、やってみるべきではなかろうか。

「行けるか、お前は?」

返答は期待していない。F-22の計器に向かって独り言を投げかけただけ。電子音が、ピ、と短く一度鳴った。
OK、悪いがもう少し付き合ってくれ――身体はボロボロ、出血多量。左手だって、いつまた動かなくなることか。燃料もほとんど、残り少ない。
ヘルメットと酸素マスクの顔に覆われたメビウス1の顔はしかし、不敵に笑っていたという。




邪魔する者は、もういない。そのはずは、後方警戒レーダーが突如として捉えた機影によってすぐ、潰えてしまった。
フムン、と人間であれば顎に手をやり怪訝な表情を浮かべるように。プログラムの身であっても、スカリエッティは考える、と言うことを忘れない。
メビウス1だろうか。しかし、あれは確かにコクピットを狙ったはず。運良く生き延びたのだとしても、負傷した身がどこまで戦えるのやら。人間の肉体など、戦闘機の設計上では操縦者と言う役割が無ければ、最初に省かれて然るべき存在であるのに。
だけど現実に、レーダーには反応がある。ステルス機ではあるが、魔力反応が出ている辺り、やはり彼のF-22なのかもしれない。念のため"nemo"に命じて、戦闘態勢の維持を命令する。
同時に、機体の中枢部分であるスカリエッティは各部の周辺索敵用カメラに命じて、後方より飛来する機影が何者なのかを確認しようとした。間もなく視認距離に入るため、ズーム機能などは使う必要は無い。
朝日がそろそろ、水平線の向こうを赤く染め上げだした空。その最中で、蒼い閃光を纏った一機の戦闘機が――戦闘機? 機種は? データ照合。F-22ラプターと判明。
突きつけられた事実に、プログラムは驚愕する。まだ、生きていたと言うのか。ひょっとしたら別人ではないかと可能性を探るが、尾翼にはしっかり、ユージア大陸を囲むメビウスの輪、
リボンのエンブレムが描かれていた。戦闘中に録画していた映像記録との照合からも、同一であることが判明し、ますます驚く羽目に陥った。

「逃げるな、戦え」

通信回線が受信した音声を受け取り、ようやく狂人は目の前の事態を受け入れた。
生きていた。メビウス1は死ぬことなく、私を追撃してきている。

「フ、フフ、フフフ」

それはエラーだったのかもしれない。何の必要も無いのに"笑う"のコマンドが発生してしまい、合成音声によって出力されてしまった。
――いいや、違う。これは、エラーなどではない。普通の機械なら無意味な行動としてエラーメッセージに出すだろうが、違う。

「考えてもみたまえ」

誰に対してでもなく、彼は合成音声による声を発する。

「私は普通の機械ではないんだよ。いや、機械ですらない。と言って古い人間とも違う」

無論、聞き耳を立てる者はどこにもいない。だからと言って、狂人の声は止まらない。
何故ならば。答えはすでに、皆が知っている通りである。彼は狂人。そう呼ぶほかないのだから。
通信回線のスイッチを入れる。音声出力を最大へ。世界のどこにいようと聞こえるような声で、彼は宣言する。

「私はジェイル・スカリエッティ! 世界を変える、新しい人間、新人類の第一人者! 死損ないの古き英雄、君は私を止められるか!?」




相変わらず狂ってやがるな。
通信機に飛び込んできた狂人の叫びに、メビウス1は何も答えない。シュッと短く酸素マスクから息を吸い、頭を戦闘へ切り替えるだけ。
燃料計に眼をやる。残り一分。加速魔法を切ればいくらか伸びるだろうが、正攻法で勝ち目が薄いのは先ほど実証されたばかりだ。
朝焼けが、世界を満たそうとする最中。蒼い閃光を身に纏い、F-22は空を舞い、駆け抜ける。狙うは最後の敵機、ジェイル・スカリエッティの"nemo"及びナイトレーベンの撃墜。
正面に捉えていた機影、黒い翼を持つ全翼機が、大きく機体全体を横に揺らして旋回開始。格闘戦の構えのようだが、あえてメビウス1は、加速魔法のスイッチを切らない。そのまま、コクピットで操縦桿を薙ぎ払い、ロールで敵機を追う。

「どうしたね、その速度のまま空中戦をやる気か?」

答える必要は無い。行動をもって示せばいいだけだ。F-22は蒼い光を纏ったまま左横転し、ナイトレーベンの針路に先回りを図った。
そうかそうか、なるほど。ヘッドホンに聞こえたスカリエッティの声は、どうやらこちらの考えを見抜いた様子。いいだろう、超音速の空中戦だ。古い人間では絶対に、私の"nemo"に勝てないと言うことを教えてやる、とも付け加えた。
互いに速度はマッハ3を維持。猛禽類の前に出た鴉は撃たれる前に翼を翻し、真下へと強引に潜り込んできた。そのまま滑るように後方下位を占拠、F-22のエンジンノズルを狙う。
やらせない――敵機の動きを見て、メビウス1は操縦桿を右に倒し、ラダーペダルを踏み込む。左主翼をパッと上げて、右方向へと沈み込むF-22は、下に回ったナイトレーベンのさらに右下へと機動する。左眼は相変わらず風圧で開けられなかったが――加速魔法に伴う防御魔法が機体全体にかからなければ、機体はともかくパイロットが致命傷を負ったか
もしれない――残った右眼が、黒い翼の先端がキャノピーの左側に現れているのを目撃。ここだ、と操縦桿を逆方向に倒し、ラダーペダルも反対方向を踏む。たちまち、猛禽類は背後を奪い返す。
無論、敵機も黙って撃たれるはずがない。照準を合わせる間もなく、漆黒の機体は翻り、再び後ろに着いた。それを、F-22はもう一度取り返す。
ブレイク&シザース。相手が諦めて離脱を図るか、力尽きるまで後ろを奪い合う機動。有人機が相手なら我慢比べだが、相手は無人機だ。粘り強さは、有人機の比ではない。にも関わらず、メビウス1は敵機と一歩も譲らず、組み合った。
何度目かの旋回のうち、再起動した左腕がまた言うことを聞かなくなってきた。まだだ、持ちこたえろと喝を入れる。
もう少し。奴が、"nemo"が俺自身だと言うのなら――幾度も幾度も、左右に揺らされ、時として強い横からのGが入る。負傷の身には、明らかに行き過ぎた負荷。額を流れる水分は汗なのか血なのか、もう彼には分からなくなっていた。それでも耐える。
交差する鋼鉄の翼。キャノピーの向こうで、自分自身が翼を翻し、再び背後に回りこもうと――主翼がふらついてる。今だ!

「行け、猛禽類!」

叫ぶ。同時に、操縦桿を薙ぎ払った。ラダーペダルも踏み込む。
白の水蒸気のドレスを纏い、翼の各部を駆動させ、パイロットと一体化したように。猛禽類は黒い翼へ切り込みをかけた。
ナイトレーベンは、敵が突然見せた機動に驚き、回避に入ろうとする――回避。こいつはつまり、逃げようとした。
"このままでは喰われる"と、敵機がそう判断したのだ。その回避のための機動でさえ、無様に大きく弧を描いて、射撃標的のように狙いやすい旋回でしかない。
ウエポン・システムはすでに操作済み。使用兵装はAIM-9サイドワインダー、短距離空対空ミサイル。推進器から零れる魔力反応を、弾頭が易々と捉える。
ピ、ピ、ピと小刻みに続いていた電子音は、すぐにピーッと絶え間ないものに変わる。ロックオン。鴉の尾を、ようやく掴んだ。

「フォックス2」

メビウス1は、ミサイル発射スイッチを押す。主翼下ウエポン・ベイに搭載されていたAIM-9は、カバーが開くなりただちに切り離されて発射。魔力推進の証、白い航跡を残しながら、敵機目掛けて直進する。
ミサイルに狙われていることを悟ったナイトレーベンは、機体を水平に戻した。急加速。あのデタラメな機動でAIM-9を振り切るつもりなのだろう。
AIM-9は、しかし引き離されなかった。蒼の閃光を纏ったF-22、発射母機はマッハ3にまで加速している。ならば、その状態で放たれ、さらに自分自身の推進器を持って加速するミサイルは、どれほどの速度になるだろうか。爆発的な加速力を見せるワタリガラスは、炎と鉄の矢を振り切れない。
着弾寸前、黒い翼から赤い炎の塊が複数放たれる。直進していたAIM-9は、それを見て迷うような様子を見せ、爆発。炎と黒煙、衝撃が咲き乱れるが、ナイトレーベンに損害はない。

「……これは、どういうことだ?」

攻撃失敗。されど、通信機に舞い込むのは明らかな動揺。
それもそうだろうな、とメビウス1は狂人の心中を察してみせる。これまでどうと言うこともなかった通常機による攻撃が、初めて彼と彼の機体を危険に晒したのだから。驚くのも無理は無い。

「何故だ。"nemo"の反応も悪い。これが君か、あのメビウス1か。おかしいぞ、データのコピーは完璧なはず」
「データが古いんだよ」

露骨に声を変貌させるスカリエッティに、彼は呟くように言ってやる。

「人間はな、日々成長するんだ。お前がコピーしたデータとやらに、マッハ3での格闘戦なんて載ってる訳が無いだろう」

だいたいこんな速度で空中戦なんて、俺だって始めてだ。吐き捨てるように付け加えて、右眼だけで敵機を睨む。残り時間は、もう少ない。
燃料、残り一分。やはり加速魔法は消耗が激しい。F-22が纏うこの蒼い光は、文字通り命を削って得られる力だった。
では認めよう、と狂人。君の成長を。確かに、コピーしたデータは以前の君だ。今この瞬間の君ではない。だけど――などと言う辺り、こいつはまだ諦めていないのだろう。ナイトレーベンを注視していれば、そのくらいすぐ分かる。黒い翼は、動きを止めていなかった。

「例え昨日の君だろうが、勝てるのかね。機体性能は、こちらが圧倒的だ」

ドッと、空気が揺れるほどの轟音。黒い翼が、力強く羽ばたいた。
力を溜め込むようにして、その場で反転。黒の胴体を覆う、白の水蒸気によるドレス。またクルピットだ。機首は当然、こちらに向けられていた。
性懲りも無い奴め――メビウス1は、敵機から目を逸らさない。ラダーペダルを蹴飛ばし、操縦桿を薙ぎ払う。真正面から、F-22はナイトレーベンへと立ち向かう。
黒い翼の中央、白い光が収束し、瞬こうとする。遅い、二度も同じ手を食うか。乱暴に操縦桿を前に倒す。ふわっと身体が浮くような感覚と共に、愛機は機首を下げた。その真上何センチか何ミリかを、白いレーザー光線が掠め飛ぶ。当たれば即死は免れまいが、当たっていない。それで充分だった。
黒と蒼の交差。互いに再度攻撃を図ろうと反転するかと思いきや、蒼の閃光はそのまままっすぐ、行き過ぎてしまう。逃げるつもりか、とスカリエッティは嗤い、同調するように黒い翼は素早く反転、F-22の背後に着く。
予想通りだ、と。バックミラーに浮かぶ影を見て、メビウス1は一旦操縦桿を手放し――左手はまだ動かなくてもいい。こいつには仕事が残っている――右手で計器に並ぶスイッチ群に手を伸ばす。
燃料、残り三〇秒。ちらりと燃料計の数値を確認して、"燃料投棄"のスイッチを強く弾いた。
猛禽類の尾部から、白い煙のようなものが散布される。いきなり目の前で攻撃でも回避でもない奇妙な行動を取られ、ナイトレーベンの、"nemo"のプログラムは思考を停止してしまう。
何故だ。何故、こいつは燃料をばら撒いた。自ら命を削るような真似をして、何故――答えは、オリジナルが知っていた。オリジナル、猛禽類を駆るリボン付きが。
一五秒分の燃料だ。これでもたぶん、俺の給料より高いぞ。動きを止めた自分自身のコピーを見て、メビウス1は笑う。

「コピーにこんな真似は、出来ないだろう?」

右手が、計器の上で踊る。チャフ・フレア放出ボタンを叩く。途端に、F-22は後方目掛けて赤い炎の塊をいくつも散布する――自身がばら撒いた、燃料に向けて。
炎が放り込まれた燃料は、着火した直後、一気に燃え広がった。爆発、と呼んでも差し支えないほどに。朝焼けによってようやく明るくなり始めた空で、太陽がもう一つ出現する。



まったく、面白い手を使う――!
ガタガタと機体が揺れる。自己診断プログラムが各部で異常を検知し、中枢部に知らせてくるが、あえて彼は相手にしなかった。どの道、対処のしようが無い。いきなり発生した炎の壁は、ナイトレーベンを覆うにも充分な大きさだった。機体表面にあったセンサー、カメラの類は一部が文字通り焼かれ、機能を消失してしまうほどに。
それでも、灼熱地獄を突破し、無事な姿を見せるワタリガラス。驚きはしたが、多少の索敵機能の消失くらい、どうと言うことは無い。
ただ一つ、難点を上げるとすれば。炎を突き破った先に、メビウス1のF-22は存在しなかった。
丸焼きにしようとして放置は酷いね。スカリエッティは、この期に及んでなお、笑う。

「出てきたまえ、メビウス1。続きをやろう――どこにいるんだい?」
「見えないか? 俺からは見えてるぜ」

と言うことは、すぐ近くか。生き残ったセンサー、カメラ、レーダーをフル稼働させるが、見つからない。焼け死んだセンサーが担う部分は死角ではあったが、他のセンサーが首を可動範囲いっぱいにまで動くことで、ある程度補える。これも反応無し。
そうだ、"nemo"なら何か分かるかもしれない。一つの希望のようなものを求めて、戦闘を司るプログラムに尋ねてみる。答えは、あまり思わしくない。ただ一言、不明とあるだけ。
そして、答えはすぐにやって来る。他ならぬ、彼自身の手によって。




敵はこっちに気付いていない。おそらく、これが最後のチャンスとなるだろう。
少しでも燃料消耗を抑えるため、メビウス1は一度、エンジンパワーを最小限にまで下げた。推進力を失った機体は、あっという間に重力に引かれて自由落下。結果として、ナイトレーベンとの距離は上下に大きく広がった。
逆探知や攻撃の気配を察知されぬよう、APG-77も電源をカット。HUDも必要ない、これも電源オフ。AIM-9は先ほど撃ったもので最後だった。残すは機関砲のみ、照準は完全に目視で行うこととする――出来るのかよ、と自問自答。それに対して、彼はこう答える。出来る出来ないの問題じゃない、やるしかない。
上を見上げる。ほとんど瞬きすれば見失いそうなほどだが、はるか上空、黒い翼に乗った狂人がいる。背後に広がるのは、無限の空。朝焼けに照らされ始め、青さを取り戻しだした碧空――俺の、生きる場所。
う、と一瞬、意識が飛びそうになる。まずい、血を流しすぎた。マスクから酸素を貪るように吸うものの、効果はたかが知れている。肩からバッサリ切られた左腕だって、ちゃんと言うことを聞くかどうか。
燃料、残り一〇秒。躊躇う暇は、あるはずない。
最後に酸素を一息吸って、メビウス1は左腕を前に出す。動く。どうやら大丈夫らしい。握り締めたエンジン・スロットルレバーを、一番奥へと叩き込む。ガチッとメカニカルな音が鳴り響き、ドッと背中を蹴飛ばしたような感覚が走る。アフターバーナー、点火。ただし、噴出すジェットの炎は通常の赤ではなく、蒼。
鋼鉄と魔導、両方の翼を持ったF-22は光り輝きながら、まっすぐ上昇していく。
急激な加速は、傷ついた身体にも容赦なかった。ドンッとシートに身体を押し付けられ、そこから動くことが出来ない。それでも敵機だけは見放すまいと、低い唸り声を上げてパイロットは身体を前に出す。
燃料、残り七秒。
パッと、ナイトレーベンの動きに変化があった。気付かれたか。まだ機関砲の射程内には入っていない。このままでは、逃げられる――

「――っ、上がれぇぇぇぇぇ!!」

咆哮。口を覆う酸素マスクを突き破らんばかりの、魂の叫び。
脳裏に浮かぶのは、過去の記憶。友の顔と――おそらくは、愛していた人の顔。
まるでパイロットの精神と同調するかのように、F-22は加速力を増す。速度は、マッハ5を超えていたかもしれない。設計者の意図した性能と目指した数値を、超えた瞬間だった。
距離はすぐに無くなった。視界を埋めるのは、ナイトレーベン。"自分自身"の、黒い胴体。一切の躊躇無く、操縦桿の引き金を引いた。
響き渡るは、野獣の唸り声。獲物に向け、闘争本能を剥き出しにした機械の獣が二〇ミリの牙を突き立て、弄り、叩き、砕き、貫いていく。舞い散る赤い火花は、飛び散る鮮血のよう。
毎分六〇〇〇発の連射性能、二〇ミリ機関砲四八〇発を全弾叩き込んだ。
最後の一発を撃ち尽くしたところで、二機は交差する。
燃料、残り無し。




果たしてどれほどの時間が経過しただろうか。
F119エンジンは、すでに息絶えた。推進力を失った機体になす術はなく、今はひたすら、降下していくのみ。ジェネレーターは風で回転しているから最低限の電力はあったが、もはや何の役にも立つまい。計器は赤いランプを点灯させ、早く脱出しろと促してくるが、彼にその気は無かった。
穴の開いたキャノピーからは、相変わらず冷たい空の空気が入ってくる。だが、寒くはない。何も感じないのだ。かろうじて、意識はまだ保っているに過ぎない。
なんて言ったっけな、奴は――貧血でぼんやりとしか、思い返すことが出来ない。
覚えているのは被弾し、穴だらけになって燃え盛るナイトレーベンと、狂人の死に際の捨て台詞。



『通信アンテナが……データリンクも……これでは私自身の転送は無理……』


『残念だ……私はここで、君たちで言う"死"を迎えるらしい……残念だ』


『君、メビウス1……知っているか? "nemo"とは、"何もない"と言う意味だ』


『君は、メビウス1だ……他に名前は無いだろう。それこそが、君の存在価値なのだ』


『君のコピーを作ったはいいが、名前が無かった……"メビウス1"と言う名前は、君が持っていたのだから』


『君を撃墜し、殺した後……私は、君のコピーに"メビウス1"と名付けるつもりだった。"nemo"は、名前の無い彼への、仮の名……』


『君は、生きている限り"メビウス1"であり続けるだろう……他に、名前など無い。あるとすればそれは……"nemo"だろうな……』


『あぁ、残念だ……いよいよお別れだな。では諸君、さらばだ。二度と会うことも、ないだろう』



あとはもう、覚えていない。血が回れば思い出せるかもしれないが、その血はもう、身体の外だ。今はコクピットの中にぶちまけられて、左側など真っ赤に染まっている。
勝ったと言う実感はあるが、それだけだ。何も、考えることは出来ない。
痛みもない。
寒さも無い。
悲しみも無い。
無い、無い、無い。何もない。
お笑いだ、これじゃあ奴の言う通り今度は俺が"nemo"じゃないか。
出来るとすればただ、仲間たちの無事を祈るだけ。
不意に、視界の片隅に眩い光を覚えた。何だろうと思って、どうにか首を向ける。
それは、水平線から昇る、ミッドチルダの朝日だった。東の空からの朝焼け。長い夜が、もう間もなく終わる。夜間飛行が。俺の戦いが。
機体の警報は引き続いて鳴り続ける。うるさいな、眠いんだ。今はゆっくり、寝かせてくれ。
思考が暗くなっていく。肩の力が抜けていった。あぁ、もうすぐ楽になれるんだな。長かった――

「   」

最後に、誰かの名前を呟いて。彼の意識はゆっくりと、闇の向こうに落ちていった。
彼が誰の名前を呟いたのか。
昔の恋人の名前だったのか。
素直になれずとも慕ってくれる、女の名前だったのか。
同じエースの名を背負い、今の名となってから唯一、本名で呼んでくれた女の名前だったのか。
それとも別の誰かか。
答えを探す術はない。
朝日に溶け込むようにして、尾翼に描かれたリボンのエンブレムが最後に輝きを見せる。




AWACSが捉えたレーダー情報。アンテナの回転に合わせて、ディスプレイ上を緑の針が反時計回りに一周していく。
画面の中には、光点が一つ。IFFには友軍とあり、コールサインも表示されていた――「Mobius1」と。
緑の針が、光点の上を行き過ぎた時。
「Mobius1」と表示されていた光点が、フッと、消えた。




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最終更新:2010年12月31日 23:52