SERIES 1. 不思議な出会い
声が聞こえる。
魔法なんて信じるよりも、もっとリアルな力を手に入れたい。
渇望は、どこまでも果てしない。
「なのは、あんたまーだユーノんとこに入り浸ってんの?」
海鳴市、私立聖祥高校。
昼休みに屋上で一人飯としゃれ込んでいたなのはのところに、金髪の少女がいつものお供を連れてやってきた。
アリサ・バニングスは、腰に手を当てて仁王立ちの姿勢で、屋上の晴れた風にスカートをなびかせながらなのはを見下ろす。
「むー……、そんな言い方はないんじゃないかなあ、ユーノ君は悪い人じゃないよ」
どこか浮世離れした、ややもすれば間延びしているようにも見える茫洋とした表情でなのはは答えた。
アリサとなのはと、それから一緒に来ている月村すずかは、小学校の頃からの幼馴染で、ずっと同じこの私立聖祥学園に通っていた。
小学生の頃は、いつも三人でつるんで、わいわい騒いでいたのだが、やがて学年があがっていくにつれ、しだいに、それぞれ一人の時間を持つようになっていった。
異性の影がちらついたり、あるいは、ひとりで打ち込む自分の趣味を見つけてみたり。
「そうそうそれでさ、昨日聞いたんだ、S30の事故車が入ったんだって。いいパーツついてるかな」
「それよ、それ!いい女の子が、そんな油くさい趣味してちゃだめでしょ!」
「えー?」
すずかはアリサの後ろで、わたしも工業大学に行ったら自動車部に入るのは考えてますけどね、と苦笑いする。
「小さい頃から機械ものが好きだったんだよ、もう実際に手に入れられるようになったんだから」
「そりゃまーね……家電とかオーディオあたりで済んでりゃいいのになんでよりによって車なのよ」
「車はいいよ。機械が動いて、力を出してるってのが実感できるの」
「まーともかく、くれぐれも気をつけなさいよ、うちの校則からしたらほんとはあんたもやばいのよ」
「わかってるって。ありがとね、アリサちゃん」
そうは答えたなのはだが、正直、今更やめろと言われても、やめることなんて考えられなかった。
夜、多くの人々が寝静まり、街がひとときの静寂に埋もれる瞬間。
首都高速湾岸道路を駆け抜ける、一台の黒い影があった。
まばらに走る大型トラックの脇を、突き抜けるように倍以上の速度で通過していく。
背の低い車体に、猫の四つ足のように突き出たオーバーフェンダー。それが幅広のタイヤを飲み込んでいる。
他の車とは明らかに光量が違う強烈なHIDヘッドランプが、この車がストリートレース仕様であることを示している。
車体の色は、闇のように深い黒。
車種は、ポルシェ・911ターボ。リアウイング天面から見える巨大なインタークーラーが鈍い銀色に輝き、それはこの車のエンジンが強力にチューンされていることをあらわす。
“ブラックバード”の二つ名で呼び謳われる、湾岸の猛者だ。
ポルシェのドライバーが探しているのは、ここ最近になって湾岸に“再び”現れたと噂になっている、純白のS30Zのことだった。
過去に忌まわしき伝説を持つ車。
大量生産される工業製品である自動車という観点からならば、同じ色、同じ型式、同じ外観の車などいくらでもあるように思える。
だが、そのS30Zは、少なくとも首都高をホームグラウンドにしている走り屋ならば誰もが、噂を一度は耳にしたことがあるほどの異名をとどろかせていた。
“悪魔のZ”。
そう、呼ばれていた車は、新たな乗り手を得て、再びその悪魔の姿を復活させようとしている。
ポルシェのドライバーの胸中には、そんな予感が切迫していた。
海鳴市郊外のある高校の正門前へ、1台の黒いポルシェが停まっていた。
あくまでも普段は、昼間の一般道では普通のポルシェとしてゆっくり走っているものだ。
昇降口を降りてきた栗色のショートヘアの少女は、正門前に停まっているポルシェの姿を見て一瞬歩を止め、やがてかすかにうつむき加減になる。
近くに居たクラスメイトが何かを話しかけようとしたが、別の女子生徒がそれを止める。
クラスでは、割合地味な性格と思われているので、学校ではおとなしくしている。
そんな少女が、いかつい外国製スポーツカーに向かって歩いていくのはある種危険な香りを漂わせる。
ポルシェのサイドウインドウが降り、赤みのかった瞳が少女を見上げる。
「ええよ……。わざわざ毎日迎えにこんでも。学校から家まで歩くくらいやったらもう大丈夫やから……」
そう呟くように言い、少女は自分の脚をさする。少女は幼少の頃、脚に障害を負い、歩けなかった時期があった。
「いいから、乗って」
短く促され、少女はナビシートのドアを開けてポルシェに乗り込んだ。Uターンのための操舵と共に太いタイヤが路面を噛み、砂粒を押し付ける音が地面を伝わる。腹に響くような排気音とプロペラ航空機のような独特の空冷エンジン音を残して、ポルシェは走り去っていった。
少女を自宅へ送り届けたポルシェが首都高へ向け発進していったのと同じ頃、なのははある解体所兼修理工場のガレージに居た。
若い眼鏡の整備士が、エンジンのヘッドカバーを締め、最後にゆっくりと前開きのボンネットを閉める。
「とりあえず、これで一応走れるようにはなってるよ──なのは、本当にいいんだね?」
「うん。ヘンな話かもしれないけど、運命、そんな気がするんだ。こいつと出会ったのは」
若い整備士は、なのはとほとんど年のころは変わらないように見える。
「──気をつけてよ。本当なら、確実にスクラップにしてくれ──そう、前のオーナーに言われて預かったものなんだ。僕も少しだけ動かしてみたけど、こいつは、本当にやばい。僕じゃとても手に負えなかったよ。単にパワーがありすぎるとかそういうレベルじゃなかった」
そう心配そうに語る整備士に、なのははにこやかに微笑み、親指を立てて見せた。
「大丈夫だよ、ユーノ君。私とこのZ、本当に相性がいいみたいなんだ」
純白のS30Z。最初にこの解体所で見つけたときは、錆だらけで薄汚れて、そのへんの廃車と見分けがつかないくらいだった。だが、なのはの目に留まったことで、こいつは再びよみがえった。
不屈の意志、レイジングハート。
ユーノでも組まれているパーツをとっさには全て把握できないほど、徹底的なチューニングがされていた。
それでも、整備して軽く流してみた程度でも、現代の首都高でも通じる一線級の戦闘力を持っていることはよくわかった。
そして、なのはは今夜、このZで首都高へ飛び立つ。
初めて手に入れたZ。
初めて手に入れた力。リアルな力。
それは、機械という無骨な無機質でありながらも、隠しがたい魔力を秘めていた。
そして、その魔力はすぐに、もう一人の走り屋の目にも、見つかることになった。
「横浜33 て 53-68 ……間違いない。あの悪魔のZ」
黒い翼を力強く羽ばたかせるように、ポルシェはリアを深く沈めて加速体勢に入る。駆動輪の真上にエンジンを置くリアエンジン・リアドライブのポルシェは、瞬発力では他のどんなスポーツカーよりも優れている。
ナビシートに座る栗色の髪の少女も、そのZの姿を認め、驚きに目を見開いている。
ポルシェは相手が気づくよりも早く、一気に並びかけ、そして体勢を整える隙も与えずに圧倒的なパワーで抜き去っていく。
「あれはなのはちゃん!?」
「知っているの?」
ポルシェのドライバーが、少女に呼びかける。
「うん……小学校で一緒やった子……でも、本当にあの車に……まさか……?」
「誰が乗っていようとも私には関係ない」
そう言いきると、ポルシェのドライバーは再び視線を真正面に据え、ギアを3速にいれ、アクセルを踏み切った。
高速道路の高架が衝撃で大きくうねるように見えた。それほどの加速だった。
一方、なのはもようやく相手の姿を見つけ、気合を入れていた。
「ブラックバード……今なら負ける気がしないの、あなたにも!」
なのはの声に応え、Zは狂おしいアフターファイヤーを吹き上げ、絶叫のようなホイールスピンとともに猛然と加速していった。
湾岸の深い時間帯、平日ということもあって一般車は少なくなり、走っているのは長距離トラックだけになっている。
道路のところどころに、暗礁のように居座っているソレを、右に左に交わしながらポルシェとZは突っ走る。
白いZは、レインボーブリッジから有明ジャンクションを抜けて湾岸線に入ると、じりじりとポルシェとの差を詰めつつあった。
「ついていける……ついていけてるよ、ブラックバードに!」
Zの、パワーステアリングのついていない重いハンドルを握り締めながら、なのはは歯を食いしばって笑みをこぼした。
「(こんな顔、アリサちゃんやすずかちゃんに見せたらどんなにびっくりするだろう)」
「いけるよね、Z!」
アクセルを踏む右足に力を込め、Zがそれに応えた。答える声が聞こえたような気がしていた。
ゆるやかに左へそれる13号地コーナーを抜け、2台は海底トンネルへ飛び込んでいく。
ぎらつくトンネル内の照明で、互いの顔が見える。ポルシェは右車線を、Zは中央車線を走る。互いのコクピットが数十センチの距離まで接近する。
「間違いないの?」
ポルシェのドライバーは、トンネルの轟音にかき消されないように叫ぶようにして、ナビシートの少女に呼びかけた。
「(どうして……どうして、なのはちゃんがあのZに乗ってるの……)」
少女は何も声に出せない。
トンネルはやがて登りへ転じ、再び夜の闇が迫る。
坂を登りきってトンネルを抜ければ、すぐに大井のコーナーだ。ここで一気に減速をかける。
一般車は居ない。道幅を三車線ぶんいっぱいに使ってポルシェはコーナーを駆け抜ける。Zがややフロントを流し気味にしながらそれを追う。
「初めて乗る車でよく頑張った……けど、もう限界でしょう」
ちらりと、バックミラーに映る丸型二灯に目をやる。
「それ以上追えない……」
東海ジャンクションが迫り、またたく赤色灯が二人の目に飛び込んでくる。
工事だ。車線が、ふさがれている。
ポルシェは速度を落とさない。いちばん右側の車線が空いている。だが、Zがいる左車線がふさがれている。
「────ッ!」
吸い寄せられるように右へレーンチェンジしようとしたなのはだったが、Zは向きを変えようとしなかった。
ステアリングから、まるで自分が拒まれているかのように手ごたえが消えていくのをなのはは感じ取っていた。
視界の左前方から、工事現場のバリケードが迫ってくる。
身体の軸と、重力加速度の掛かる方向がずれ、自分の姿勢がわからなくなる。
直後、激しい衝撃と金属音がなのはを打ち据えた。
空転するリアタイヤが車体を押し出そうとするのを、なのはは腰に感じていた。
スピンしながらも、Zは前へ進もうとすることをやめない。
立ち止まらない。迷うことを許さない。
跳ね飛ばされてきた警告板がZのフロントガラスに激突し、飛散防止の加工を施された強化ガラスが一面真っ白にひび割れる。
小さい頃から、手のかからない子供といわれていた。
年の離れた兄姉と、共働きの両親を持ち、いつも家で一人で遊んでいた。
それはもっぱら、機械をいじることに費やされた。
ビデオデッキやラジオを分解して、部品を取り出してみたり、また組み立ててみたり。
そうやって遊んでいたのは、心のどこかで、ものごとの摂理に興味があったからなのだと、なのはは思い返していた。
学校の勉強よりも、自分で計測器や試料を集めてきて実験をすることのほうが楽しかった。
父が親戚から譲ってもらったお古のパソコンでプログラムを書いたりもした。
高校に上がって、一人暮らしをすることになったのは、どちらから言い出したことだっただろうか。
ただ、両親は、聖祥の学費と生活費だけは出させてくれ、と言っていた。
湾岸線には、静かな風のざわめきだけが虚ろに響いていた。
ドアは開く。自分の身体が動くことを確かめながら、なのははよろよろと道路に降りた。
フロントノーズを中央分離帯のコンクリート壁にめり込ませるようにして止まったZは、ボンネットの先、おそらくラジエーター辺りだろうか、かすかに白煙を上げている。
ひたいに冷たい感触がある。手でなでると、ぬるりとしたものが滴り落ちた。
携帯電話を取り出し、おぼつかない指でボタンを押す。
「そうだ……発炎筒、おいてこなくちゃ」
シート下のレバーを引いてロックを外し、リアハッチを持ち上げる。
みしり、と音がして、シーリングにこびりついていた錆くずがぽろぽろと落ちてきた。
リアタイヤから伸びているブラックマークに沿って、ガラスの破片や金属片が道路いっぱいに散らばっている。
いったいスピードは何キロ出ていたのだろうか。狂ったように路面に刻まれたタイヤのスリップ痕は、何度も壁にぶつかって跳ね返っている。
これは機械だ。
人間よりもはるかに強大な力を持ったマシーンだ。1トンを超える質量と数百馬力もの動力を持つ。
自分はついさっきまで、この巨大な機械を操っていた。
そして、操りきれなかった。
そんな重い実感が、今更のように襲ってきた。
「…………どうして、私のいうことをきいてくれなかったの……」
Zは何も答えない。
白いボディが、星明りを反射してきらめていている。
あのポルシェはもう影も見えない。
なのはは自宅のアパートの他、小さなガレージを借りて、そこに車を置いていた。
海鳴市は少し郊外に出るとすぐに建物がバラける。
ジャッキアップされたZは、ホイールとフェンダーとボンネットが取り外され、内部の機器がむき出しになっている。
昨日、ユーノが働いているスクライア商会の工場から、押し問答の末ようやく引っ張り出してきたのだ。
ユーノはZを修理しないと言い渡したが、なのははそれに納得せず、結局、車体だけでも引き取るということで、損傷した状態のままローダーでこのガレージに運んできたのだ。
ガレージの家賃は自分のバイト代から払っているので、家族はこのことは知らない。
その日から、なのはの生活はZを直すことが中心になった。
古い書籍をかき集めて純正パーツの型番を調べ、地元の日産ディーラーや部品工場を訪ね歩いて必要なパーツをそろえる。
購入したパーツの代金は、バイトを増やして払うことにした。
エンジンとフレームのダメージがさほどでもなかったことが幸いだった。フレーム修正が必要なほどであれば、ボディパネルを取り替えるだけでは直らなかっただろう。
「なのちゃん、店長が相談があるって言ってるんだけどどうしても12時以降は出られないの?同伴もいつも断ってるみたいだしさあ、やっぱこの仕事やるからにはとことん稼がなきゃ」
クラブの先輩ホステスは何回か、なのはにそう聞いてきた。
「もしかして彼氏?二人の時間を大切にしたいとか?」
「ええ、まあ……そんなとこです」
金もそうだが時間も足りない。東の空が白み始めるまで作業を続け、部屋に戻ったら熱いシャワーで眠気と身体の汚れを落としてから、やっと学校へ行く支度を始める。
授業中にうとうとしていると、時折、アリサがノートの切れ端を丸めて投げつけてきた。
Zのエンジンルームに新しいボンネットを取り付け、赤いZエンブレムを貼り付ける。
絶対にくじけない、レイジングハート──不屈の心の象徴だ。
シートに腰を下ろし、キーを起動位置へ回してアクセルを踏み込み、キャブレターにガソリンが充填されるのを待つ。
十分にキャブが温まったのを待って、キーを始動位置へ入れる。セルモーターが長大なクランクシャフトを回し、噴射されるガソリンの鼓動とともに、轟然とエンジンが目覚める。
Zの心臓が再び、動き出した。
ステアリングに手を置き、しばらくアイドリングの具合を確かめていたなのはは、やがて窓から顔を出して微笑みかけた。
Zの前で見守っていたユーノも、仕方なさげな苦笑を浮かべる。
「正直あきれたよ。本当にこのZを一人で直しちゃうなんて」
「これでまた、走れるよ」
「……わかった。僕はもう何も言わないよ」
「ありがと、ユーノ君!」
なのはのまぶしい笑顔に、敵わないな、とユーノは思った。
自分もそんなことを言える年齢ではないが、今時、これほどの情熱を持った若者は珍しい。
これほど、ひとつのことにあきらめずに打ち込む人間を、少なくともユーノは見たことがなかった。
「(確かに、そんな人間でなければコイツは認めてくれないのかもしれないな──)」
純白のボディに、赤いZエンブレムが、芯の強い乙女のハートのように輝いている。
海鳴大学病院の駐車場に停めていたZに乗り込もうとしたところで、なのはは見知った顔を遊歩道の中に見つけた。
向こうも、Zに乗り込もうとしていたなのはを見つけて同じように驚いていた。
バッテンの髪飾りをつけた栗色ショートの少女と、赤みのかったサイドポニーの少女。
二人は、Zをはさんでしばし向かい合った。
「はやてちゃんなの?」
「その声……やっぱ、なのはちゃんやったんや」
「わかんなかったでしょ、小学校の頃と髪型変えてたから」
なのはは小学生の頃は短いツインテールにしていた。はやては、髪型は同じおかっぱだが、やや伸びてセミロングに近くなっている。
「なのはちゃんは今日は?」
「ちょっとこないだ事故って頭ぶつけてね、その検査で。はやてちゃんは……脚はもう治ったんだね」
「うん、おかげさんで……なのはちゃん、わたしこないだ図書館でなのはちゃん見かけたんよ、なんや熱心に分厚い本抱えとって、声かけようか迷ったんやけど」
ああ、となのはは相槌をうった。
Zを直すため、旧車雑誌や当時の車両名鑑などを片っ端から読み漁っていたのだ。
「送ってこうか?」
なのはの誘いに、はやては一瞬迷うしぐさをして、あわてて手を振った。
「う、ううん大丈夫、迎えはおるから……」
「そっか。わかった。それじゃはやてちゃん、またね」
「うん」
Zのエンジンに火が入り、走り去っていくのをはやてはずっと見つめていた。
やがて、職員駐車場の方から独特のエンジン音が聞こえてきた。
黒いポルシェがゆっくりと駐車場から出てきて、そしてはやての待っている遊歩道の入り口の前へ停める。
「……なのはちゃん、来てたんやね」
「彼女があのZを?」
「自分で本読んで部品買って直しとったて……」
あの夜、バックミラーに映る、のた打ち回るようにスピンするZの姿をはやても見ていた。だけど、ポルシェは止まらずに走り去った。
「なるほどね……さっき、私のところ(形成外科)に来たのよ。おそらく気づいたわね、彼女も」
「…………やっぱり、もう一度走るん?」
「……ええ。あのZは、私がツブす。……不幸な思いをする人間は、少ないほうがいいからね」
はやてはそれ以上答えることができなかった。
海鳴市の海岸沿いを走る臨海公園と工場地帯をつなぐ産業道路は、なのはがいつもZのセッティングに使っている場所だ。
道幅が広く、荷物を積んだトラックが出発してしまえば日中でも人通りがまったくなくなるため、走るにはうってつけの場所だった。
何往復もドリフトやターンを繰り返し、エンジン回転数の全域にわたって手ごたえを確かめる。
少しでも気になるところがあれば、すぐにエンジンフードを開けてキャブレターを調整する。
S30Zは現代の自動車用エンジンでは主流となっている電子制御式の燃料噴射装置を搭載していないため、機械制御でエンジンのセッティングをすることが必要だ。
ふと、聞き覚えのあるアイドリング音が聞こえているのに気づき、なのはは公園のほうを振り返った。
一目見てそれ以来ずっと忘れられない、漆黒のポルシェターボ。
そして、今の自分の最大のライバル。首都高を走っているとたまに絡んでくる他のそれっぽい車たちなど、なのはは目にもくれていなかった。
「ずいぶん熱心にやっているみたいだな。昔から、そいつはいいセッティングが出にくかったんだ」
艶やかなストレートロングの銀髪が、太陽の光を浴びて宝石のようにきらめく。
黒のレザーパンツに黒のノースリーブハイネック。肌の白さとのコントラストがひときわ際立つ。
心のうちを隠しているようにも見える赤い瞳は、鋭くZを見つめている。
なのははZのキャブレターをいじりながら、手を止めずに視線だけ上げて答えた。
「八神先生……でしたっけ。はやてちゃんを横に乗せてましたよね」
「あの子は心配していたよ」
「そうですか。でも、今はそんな話じゃないんじゃないですか?」
翌日、なのはは久しぶりにアリサとすずかと一緒に下校していた。
Zの修理が一段落したので、授業にも余裕が少し出ている。
「……で、その、ブラックバード?だっけ?そいつと水曜またやるっての?」
聖祥学園指定のスクールバッグを背中に担ぎながらアリサが横目に言う。
「うん。今度は絶対負けないよ」
「死ぬわよ本気で……ま、そういう人生もアリかもね」
アリサは何度か、なのはのガレージにやってきてユーノとも顔を合わせていた。
何とかZに乗るのを諦めさせようとしていたユーノだったが、説得はことごとく失敗していた。
こうなったら梃子でも動かないんだから、昔から一度やると決めたらそれを絶対に曲げない人間だったんだと、アリサはユーノに話していた。
親友とはいえ譲れないものを何度もぶつけ合ってきたアリサは、今となっては大分理解したところではあるが、ユーノもそう言われると引き下がらざるを得なかった。
しばらく黙って二人の話を聞いていたすずかが、思い出すように口を開いた。
「そういえば、形成の八神先生……だっけ?あのヒトが、首都高ではブラックバードと呼ばれているんだね」
「すずかのお姉さん海鳴大学病院に通ってんだっけ」
「うん、はやてちゃんの介助のこともあって、八神先生とは何度か会ったことが」
「そっかー、はやては別の高校行っちゃったからねー」
なのはたちのグループに、はやても小学校の頃は加わっていた。
聖祥はバリアフリー設備も充実していたが、すずかやアリサは積極的にはやての車椅子の手伝いをしてやっていた。
はやての家に遊びに行ったことは、そういえば無かったなと、なのはは思い返していた。
約束の水曜日、深夜。海鳴市から首都高へ向かったなのはは、一旦湾岸線を千葉まで走って折り返し、市川パーキングに入っていた。
今日はユーノが自分のFC3Sで同行し、それにすずかとアリサも一緒に乗ってきている。
さすがのアリサもなのはのことが心配になって、見に来ることにした。自分が見ている前なら無茶はしないだろうと。
やがて、ポルシェターボがパーキングへ入ってくる。
ポルシェのナビシートには、はやても居た。
お互いに車から降り、しばらく見詰め合う。それは獣が互いの縄張りを意識しあうように。
「そういえば、名前をまだ聞いていなかったな」
「高町なのはです」
「どうも。私は八神凛……あなたたちのことは、はやてからよく聞いていた」
アリサとすずかは思わず顔を見合わせる。凛はついで、ユーノを見やった。
「そのZはあなたが?」
「僕はたまたま、業者経由でこれを引き取ったんです。前回のクラッシュからの修理はなのはが一人でやりました」
「……わかった。それじゃあ行きましょう。ここを出発したら湾岸西行きを直進、大黒を通過してベイブリッジゴールでどう?」
「わかりました。それでいいですよ」
ずっと黙っていたはやてが、思い切ったように声を上げた。
「なっ、なのはちゃん!隣、乗ってええ?」
「!?」
アリサ、すずか、そしてユーノも驚く。なのはははやてをしばらく見つめ、それから凛に視線をやった。
「ごめんな、リイン……でもわたしは」
「かまわない。だが何があっても知らないぞ、そのZに乗る以上──」
「(ちょっといいのあんなこと言っちゃって、もしはやての身に何かあったら……)」
「(とはいっても僕らにはどうしようもないよ)」
ユーノたちは当惑したまま、FCに乗り込む。
力をみなぎらせるようにエンジン音を張り上げ、Zとポルシェは順次、湾岸線に向かって走り出していった。
湾岸線への合流路を上がり、先行するポルシェがハザードランプを3回点滅させる。
それを合図に、Zとポルシェはいっきにアクセルを全開にした。
やや距離をとってFCも続く。
3台の視界の先には、東京ディズニーランドのイルミネーションが星団のように瞬いている。
湾岸西行きで最初の難関ポイント、ディズニーコーナーが迫る。
中央車線にいたトラックを路肩からかわし、Zは早くもブラックバードに並んだ。
「ちょっ、いきなり速過ぎない!?しっかりついてってよユーノ!」
初めて見る圧倒的なスピードに驚くアリサ。FCのステアリングを握るユーノも、Zのラフな動きに冷や汗をたらしていた。
「(やばい、やり過ぎだよなのは)」
ディズニーコーナーの右曲がりへ、2台並んで突入する。
アウト側のZは、白線をまたいで側壁すれすれをかすめながら、それでもブラックバードがぐいぐいと前に出ていく。
「(ラインが苦しい……!そっちは余裕なの)」
コーナーを抜けたとき、ブラックバードはZの20メートル前方を悠然と走っていた。
立ち上がりで振り切ることもできただろうが、あえて勝負を仕切りなおすために待っている。なのはもそう直感した。
「OK、Z。後ろから狙おう……!」
ナビシートでじっと黙っているはやてを、なのはは横目に見た。
このスピードにも怖がるそぶりはない。ブラックバードの横で、かなりのバトルを経験しているのだろう。
はやてが迷っているのは、スピードの恐怖ではない、もっと別の理由だ──。
荒川橋を駆け抜け、葛西ジャンクションを通過する。
左手に、東京ビッグサイトの特徴的な逆台形のシルエットが浮かび上がってくる。
Zはぴったりとブラックバードのテールに喰らいついている。
「はやてちゃん、私に何か言いたいことがあるんじゃないの?」
スピードメーターの針は270km/hを超えたあたりで震えている。
このS30Zに装着されているのは、400km/hフルスケールメーターだ。
速度の数字は400まで刻まれている。
「まだまだ余裕たっぷりだよ」
「……だめや」
はやては絞り出すように声を漏らした。
「このZは裏切る。みんな、みんな死んでまう……!」
辰巳ジャンクション通過。
前方に、一般車が固まっているのが見える。客を拾いに都心へ戻るタクシーだろうか。
この速度では、有明に着く前に追いついてしまう。
5速から3速へ。シフトダウンによってエンジン回転が跳ね上がり、2台のマフラーから炎が吹き出す。
アフターファイヤーを激しく鳴らしながら、Zとブラックバードはそれぞれのラインで一般車をかわすスラロームに入っていく。
少しでもロスの少ないラインを探す。2台横に並んだトラックの脇を、すれすれでかすめていく。
Zはまたも、車線の外側へ飛び出してトラックをパスしていった。
「右が速いッ!!」
FCも車間をあけて追う。ユーノも湾岸の走りはそこそこやっていたが、このスラロームで多少遅れ気味だ。
視界を阻まれ、2台の姿が見えなくなっていく。
「あーっ、置いてかれちゃうじゃないのっ!!」
アリサがじれったそうに叫ぶ。
一般車の集団を抜け、ついにZがブラックバードの前に出た。
すかさずフルスロットル、レッドゾーンぎりぎりまで引っ張って4速へシフトアップ。
「もう前には出させない!」
アクセル全開のままではステアリングはほとんど効かないほどに重くなる。
さらにもう一台のトラックをパスして、Zはブラックバードの頭を抑えた。
「兄ちゃんはこの車で死んだんや……それからみんなよそよそしくなった、
おとんも、おかんも、わたしをおいていなくなってもうた」
「初耳だね、お兄さんがいたんだ」
「幼稚園の頃とかこの車で送り迎えしてくれた、兄ちゃんはとても大事にしとったんや、それなのに──」
パスしたトラックの風圧で、Zのサイドウインドウが激しく叩かれたように震える。
「兄ちゃんが死んでからみんなおかしくなった、何かに取りつかれたようになっていった……」
「小学校の頃って、確かもうご両親は亡くなってたんだよね──」
「忘れよう思てた、もう昔のことやから、もう過ぎたこと、もう終わったことやからて……
……それなのに、それなのになんで!何で今更なのはちゃんがこの車なおしたん!?
なんで、今更このZに乗ってきたんよ!?」
どうしてこのZを見つけたのか。
声が聞こえた。自分を呼んでいる声が聞こえた。それはあるいは本当に、魔法だったのかもしれない。
「……わからないよ。このZは私の車だよ。過去がどうあれ、今は私のものだよ」
「もうええっ!なのはちゃん、この車にもう乗っちゃあかんよ!なのはちゃんまで死んじゃうのはいややっ!」
13号地コーナー。
ブラックバードがラインを変え、立ち上がりから海底トンネルにかけてのオーバーテイクを狙ってくる。
レーンチェンジでブラックバードの立ち上がりを抑えようとするZだが、わずかに早く並ばれた。
このまま2台並走で海底トンネルへ突入する。
「本当にいい車だよ……あのブラックバードとタメで走れる」
「知ってるんやろ、なのはちゃん……この車が、“悪魔のZ”て呼ばれてるて……」
トンネルを抜け、大井コーナーをクリア。
前回のバトルでなのはがクラッシュした工事現場は、まだ車線制限が解かれていない。
ブラックバードは右車線、Zは中央車線。このまままっすぐ行けばクリアできる。この前のようには行かない。
なのははそう自分に言い聞かせ、ステアリングを握り締める。
「この車に心を奪われて……事故っても、事故っても、また何度も走り続けようとして、
しまいに命を落としてしまう……自分だけやない、周りの人間までそれにつられてのめりこんでいってしまう……」
「…………」
「こいつはホンマモンの悪魔や!兄ちゃんは悪魔に殺されたんや!みんな、みんな……!」
バリケードを横目に突っ切る。車線が戻った先にまた一台、トラックがいる。
「違う!」
なのはは叫んだ。フロントガラスに映るはやての目には涙が浮かんでいた。
「こいつは私のものだよ!私のZなんだ!」
ブラックバードが左車線へ移る。東海ジャンクションを越えて、京浜大橋の直線が現れる。
「悪魔でもいいよ!たとえ悪魔でも、私はこのZがいいッ!」
東海ジャンクションの左コーナーをインベタでクリアするため、ブラックバードは左車線へ移っていた。
アウト側に位置するZ。トラックをパスした後でクリップにつくにはラインがきつすぎる。これで前に出られる。
「(結局、私が一番あのZに心を奪われているんだ──はやてには誤魔化せない)」
Zの姿を横目に見ながら、リインはステアリングを握る掌の感触を今一度確かめる。
「(今夜、はやてがあのZに乗ろうとしたのは……あのZを追う私の姿を見たくなかったから──
あのZを追おうとする私の姿を見たくなかった──私までもが、自分の前から消えてしまうのを恐れていた──
──だが、それは彼女も、高町なのはであっても同じはずだ──)」
ここでZを突き放す。ラインを制限されたZはコーナリング速度を大きく落とさざるを得ない。
ここで前に出たら、そのまま振り切る。
「(振り切られたら、そのまま諦めてくれ──それがはやての願いだろう──)」
「くっ……ここで前に……!!」
トラックを交わして大きくラインをアウトに振ったZは、凄まじい慣性質量を持ってステアリング操作を拒む。
このままではアクセルを踏めない。ひたすら、グリップが回復するのを待たなくてはならない。
Zの右リアタイヤが路肩を踏むのをなのはは感じ取った。それに振られて、フロントが左へ巻き込む。
「(えっ──?)」
エンジンの叫ぶ音が、空回りするように吼えた。
フロントガラスに映る景色が、滑るように横を向いていく。
やがて目の前に現れたコンクリート壁に、Zはゆっくりと──そうなのはには感じられた──タッチした。
大井南インターを通過したとき、ユーノは2対のハザードランプが道の先に点滅しているのを見て取った。
心臓がすくみ上がるのをこらえつつ、アクセルを抜いて減速する。
「うわーっ、やっちゃってるー!!」
ナビシートのアリサが叫ぶ。後席のすずかも身を乗り出して、目を凝らしている。
Zはコーナーを抜けた先の左側の側壁に後ろ向きに張り付いて止まり、その数十メートルほど先の路肩にポルシェが停車している。
Zの傍らにはやてが立ちつくし、リインもポルシェから降りてZのほうを見ている。
なのはの姿は見えない。
ユーノはFCをZの前に滑り込ませ、降りて後ろを振り返った。
「なのは!!」
「はやて!!なのははっ、大丈夫なの!?」
アリサとすずかもFCを降りて、Zに駆け寄る。
Zは一見、損傷は軽いように見えるが、なのはは運転席から動かない。
「あっ……、アリサちゃん、わたし、わたし……」
泣き震えるはやてをすずかがなだめる。
アリサは割れてなくなったZのサイドウインドウに顔を突っ込んで、なのはの肩を揺さぶる。
「なのは!手と足、ちゃんとくっついてる!?立てないの!?しっかりしなさいっ!!」
「大丈夫だよアリサちゃん……気分いいから浸ってるだけだよ」
「はあ!?」
緊張が抜けて、なのはは穏やかな表情になっていた。
カーブに沿ってスピンしたので衝撃はそれほどでもなく、バンパーとドアををこすった程度で止まれていた。
「ね、はやてちゃん。今の、私のミスだったよね。Zのせいじゃない……。
──ブラックバードに伝えて。必ずまた湾岸に現れるから、
そのときはアッサリとちぎってやるから、ってね──」
なのはたちの横を、トラックがクラクションを鳴らしながら通過していった。