SERIES 2. テスタロッサの少女
ステージの上は、四方から照らしつけられるライティングによって肌が焼けるように暑い。
それでも、笑顔を絶やさず、歌声を胸いっぱいに響かせる。
もっとも音声は別録音で、後からエフェクトなどで整えた上でミックスダウンされる。
ガラス張りのミキシングルームの向こうで、音響監督が腕で丸を作った。
「はいOK──!!おつかれさまー!!」
照明が減光され、セットを片付けにスタッフが走り始める。
マネージャーが持ってきたスポーツドリンクを、ひといきに飲み干す。
今日の収録はこれで全部だ。明日から2日間、オフをもらっている。
つまり、今夜は存分遊べるわけだ。
今日の主役だった金髪の少女は、足早にスタジオを後にしようとしていた。
愛車に乗り込もうとしていた少女に、マネージャーがあわてて追いかけてくる。
「もうっ、フェイト!いつも言ってるだろ、スタジオに来たらちゃんとあいさつしろって!」
フェイト、そう呼ばれた少女は構わずキーをまわし、イグニッションボタンを押してエンジンを始動させる。
オフィスビルの間に挟まれたような立地のスタジオ駐車場に、強烈なエンジン音が反響する。
「わかってんのか?これから半年が勝負なんだ。これから半年の仕事でキマるんだよ、
ただのアイドルで終わるか、一流の歌手になれるか!わかってんのかフェイト」
「そんな大声出さなくても聞こえてるって。次の金曜は、関口台のスタジオに12時だよね」
ゲート式シフトレバーの金属音を響かせ、ギアを1速に入れる。
メカニカルサウンドでうなりを上げるギアボックスの音とともに、巨大な車体が動き出す。
ガングレーメタリックの鋭角的なボディが、戦場を潜り抜けたバトルアクスのように路面に楔を打つ。
ケーニッヒマフラーを奢られたV型12気筒の澄んだ甲高いサウンドを響かせ、フェイトの操るフェラーリ・テスタロッサは走り出していった。
「あーっ!フェイトーっ!ったくもう!」
強烈な排気圧に飛ばされそうになって踏ん張り、走り去っていったフェイトに毒づいたマネージャーの名はアルフという。
駆け出しの頃からずっと二人三脚で頑張ってきたアルフだったが、フェイトの車趣味にはほとほと手を焼いていた。
テスタのカーステレオに、自分が歌ったお気に入りの曲をセットする。
このメロディと歌声とともに湾岸線を流すのがフェイトの楽しみだった。日本に来て、成功したら、夢だった幸せをつかみ取れる。
今夜も行こう、湾岸へ──
時間は24:00を回ったばかり。時間帯が早いため、湾岸には雰囲気組の車も多い。
もっとも、そういった連中相手なら互角以上に渡り合える性能をこちらも持ってはいる。
「速いのが来る……っ!?」
バックミラーに映る古めかしい丸型二灯にフェイトが気づいたときには、その車はテスタのすぐ後ろまで迫っていた。
反射的にシフトダウンし、アクセルを踏み切る。だが加速に移るタイミングが遅すぎた。
後方の車はテスタの動きを読みきったラインどりでレーンチェンジし、あっというまに前に出ていった。
「くっ!?」
3速のフル加速に移ったテスタの前方に、小ぶりなロングノーズ・ショートデッキの白いシルエットが見えた。
古い車だ。だけど、何かいいようのないオーラが満ちている。不思議な魔力がある。
「あれはZ……S30型!?まさか!?」
フェイトも、ここ十数年の日本車ブームはよく知っていた。しかしS30Zといえばもう半世紀近くも前の車だ。
パワーもノーマルなら120馬力しかないはずだ。
チューニングされているとしても、このフェラーリをここまで圧倒的に抜き去る性能差が生まれるものか。
白いZのテールからアフターファイヤーが飛ぶ。
マフラーはメインパイプも太い大口径だ。ターボチャージャーの排気を効率よく使うための太さだ。
4速にシフトアップ。Zはさらにテスタを突き放しにかかる。
「だめだ──完全においていかれた!」
話にならない。あれほどのマシンは自分は今まで見たことがなかった。
湾岸線の高架の向こうに小さくなっていくZのテールランプを目で追いながら、フェイトは自分の中の血が熱くなりはじめるのを感じていた。
翌日、早朝からフェイトの電話でたたき起こされたアルフは、渋い顔でマンションの駐車場へ降り、自分のR32スカイラインGT-Rに乗り込んだ。
フェイトの趣味に真っ向から付き合うつもりはなかったが、それでもフェイトを一人で走らせるよりは自分も一緒にいたほうがいいと思ったのは、なのはに対するアリサと同じだった。
色は純正カラーのワインレッド、外見はほぼノーマルでブーストアップ程度のライトチューン仕様。
それでも、ノーマルテスタと走るには十二分の速さだ。
フェイトのフェラーリ・テスタロッサはエンジンはノーマルのまま、マフラーのみケーニッヒを装着。
足回りとタイヤ、ホイールはF40のものを移植し、安定性とコーナリング性能の向上を図っている。
ブレーキについてもF512Mのキャリパーに交換し耐久性を上げている。
フェイトが懸案しているのは、いかなこのティーポF113エンジンといえども、現代の日本製高性能スポーツカーと渡り合うにはパワー不足だということだ。
テスタロッサに搭載されるF113エンジンは排気量5リッター、バンク角180度のV型12気筒。
日本向け輸出モデルは排ガス規制の兼ね合いもあり、最大出力は380馬力。
フェラーリ社の発表する公称最高速度は290km/hだが、実際に湾岸で走った場合の手ごたえとしては、そのはるか手前で速度の伸びが鈍ってしまうという印象だった。
たしかにサーキットやテストコースのような何もない直線を走ればそれくらい出るのかもしれないが、公道はそれだけでは不足だ。
アルフとフェイトは近場のパーキングエリアに車を停め、コンビニの軽食をほおばりながら話している。
「でもさフェイト、フェラーリをいじれるチューニングショップなんてそうそうないよ。
それに十分だろ、実際その辺のスポーツカーもどきにゃ負けないんだし、相手の車が異常なだけだよ」
アルフがGT-Rを選んだのは、リアシートがありきちんと4人乗れて、大きなトランクもあるセダンボディで普段使いの足もこなせるからという理由だった。
確かに、フェイトのドライビングテクニックを持ってすればそこらの下手な走り屋には負けないのは事実だ。
それでも、あのS30Zの圧倒的な速さは印象に拭いがたいものだった。
「自分の本業は忘れるなよ。心配して待ってる人間が居るんだってことも」
アルフの言葉が頭の隅に残ってはいたが、フェイトはその日のうちに、とある外車ディーラーに愛車を持ち込んでいた。
ここはオーナーが元々自身でチューニングとレース活動をやっていたプライベーターという成り立ちもあり、他のショップがあまりやりたがらない外国製スポーツカーのチューニングを積極的に行っていた。
ガレージには、ポルシェやBMW、コルベットなどのハイパワーマシンがずらりと並んでいる。
ガンメタという珍しいカラーリングのテスタロッサと入れ替わりにやってきたのは、黒いポルシェターボだった。
バイパスへ向かって走り去っていくテスタの後姿を見て、リインはあのフェラーリもただものではない車だと気づいていた。
「どうだった八神ちゃん」
「パワーは申し分ないですね社長、いい感じです」
「この930ターボのエンジンだとブーストは1.2kg/cm2がベストなんだ。1.5かけるとなると負荷が大きいから、一応プラグの番手も上げたりしてるけど、長時間の全開は気をつけてな」
「わかってます。……ところで社長、あのテスタには何を?」
ここ最近、悪魔のZもまた湾岸に舞い戻ってきた。
二回目のバトルでのクラッシュの後、向こうもじゅうぶんにセットアップを重ねているはずだ。猶予はもうない。
「テスタはNAエンジンだからな、何をやるにしても大掛かりになりすぎる。
NOSをつけてやるってことで話はまとまったよ」
「車体のほうは十分煮詰まっているようですね」
「見ただけでわかるかい。さすが八神ちゃんってところだな……」
この社長は以前から、自分たちの車を見てくれている。
だが、あの頃の仲間はもう一人も走っていない。
最後まで残ったのがリインだった。
復活した悪魔のZの噂は、走り屋たちが駆る車をつくるチューナーたちの耳にも入ってきていた。
「あのZ、また走ってるんだってな。八神ちゃんがこのターボに手を入れるのは、
そいつと走るためなんだろうけど……あまり、ムチャはしないでくれよ」
「ええ……大丈夫ですよ。私は」
リインはいつも、はやてのことを胸に留めていた。
それが、境界を越えて永遠に戻ってこなくなってしまった者たちとの違いかもしれない。
フェイトはここ数日、あの白いZの姿を求めて首都高を流すようになっていた。
環状、湾岸、横羽、さらには第三京浜や東名などさまざまな路線を走り、コースを覚えると同時にその道その時間帯での車の流れも見ながら、あのZがいつどこで現れるかを探す。
もう一度勝負したい。今までの自分は、はっきり言って気が緩んでいた。
本気の戦闘モードでもう一度、あのZと走る。
それなら、きっと互角以上の走りができる。
「────いた!」
湾岸東行き、辰巳ジャンクションを通過したところで、深川線からの合流を下りてくるそのZをフェイトは目に留めた。
すぐさま全開。合流路が終わる前に、あのZと同等のスピードレンジにのせる。
本線を走っていたこちらのほうが速度は乗っているはず。立ち合いは有利なはずだ。
「今度は逃がさない!」
向こうも踏んだ。車体後部が沈み込み、扁平タイヤが変形するのが見て取れるほどの強烈な加速だ。
荒川橋のジャンピングスポットへ向かって全開で踏み込む。
ふわりと車体が浮き、着地と同時に襲ってくるホイールスピンをステアリングで押さえ込む。
こうなると、エンジン搭載位置が高く重量バランスの悪いテスタは苦しいところだ。
5リッターのトルクを生かし、立ち上がりでZに並ぶ。
右ハンドルのZと左ハンドルのテスタ。コクピットはすぐ近くだ。
「女の子……?」
フェイトは驚いた。あのZをドライブしているのは、自分とほとんど変わらないくらいの、年端も行かない少女だった。
走り屋といえば生意気盛りの若い男、というのはいささか時代遅れに過ぎるだろうか。
最近は女のドライバーも増えたとはいえ、だ。
ディズニーコーナーを抜け、Zはさらに加速していく。
完全にパワー負けしている。5速の伸びがまるきり足りない。
速度計の針は260km/hからじりじりと上昇を続けているが、Zはそれ以上の加速でテスタを引き離していく。
市川大橋を渡って江戸川を越える頃には、もうZの姿は完全に見えなくなってしまっていた。
Zを見失ったフェイトは、一旦湾岸習志野インターで降りて折り返すことにした。
今日のところは引き上げようか、そう思いながら、休憩のため近くのコンビニに入ろうとしたとき、そのZは再び現れた。
まるでそこにいるのが当たり前であるかのように周囲に溶け込み、コンビニの駐車場にたたずんでいる。
おそるおそる、テスタをZの隣に停める。
間違いない。あのZだ。白いボディに、砲弾型のエアロフェンダーミラー。鈍く光っているアルミホイールは16インチだろうか。
店内に入ったとき、その少女はドリンクコーナーの前で飲み物を選んでいた。
「こんばんわ」
声をかけ、その少女が振り向く。
心臓の鼓動が高まるのをフェイトは感じていた。
ただものでないドライバー……そして、不思議と人を惹きつける魅力がある。そんな気がする。
「ずいぶん速い車に乗ってるんですね。私も結構自信はあったんですけど、かないませんでしたよ」
そう言って外の駐車場に目線をやり、Zの隣に停めた自分のテスタを示す。
「見てみる?」
なのはの第一声がそれだった。この世界へ誘っている。きっと彼女は自分とは違う世界の住人なんだろうけど、彼女の世界へ立ち入ろうとしている自分を誘っている。そうフェイトは感じていた。
ボンネットを開き、Zのエンジンがあらわになる。
左右のサスペンションをつなぐタワーバーに囲まれた中に、長大な直列6気筒エンジンが収まっている。
うねる吸気管の途中には、2基の大型タービンが組み込まれている。
「すごい……なんてエンジンなんですか、これ」
「L28っていうの。2800ccだからL28。S30Zのノーマルは2リッターなんだけど、これはエンジン載せ換えてるんだ。
それにターボを2基掛けしてる。タービンは、確かKKKのK26だったかな。
この状態で解体屋に転がってたんだから、本当にもったいないところでしたよ」
なのはもフェイトの車を見やる。
「結構見かけない車ですよね、ガンメタのフェラーリって珍しいんじゃないですか」
「ええ、この色が好きだから塗りかえたんですよ」
こんなに楽しく話せるのは久しぶりだ。大事なオーディションや収録のときとはまた違う、心地よい心の紅潮。
最後に友達とこんな風に語り合ったのはいつのことだっただろう。
なのはの背後、コンビニの窓側に陳列されている書籍コーナーの中に、ある音楽雑誌をフェイトは見つけた。
もっとこの少女と話していたい、そう思ったフェイトは話を振った。
なのはの方もすぐに気づいたようだった。
「あれ、もしかしてあなた……」
なのはが指差した音楽雑誌の表紙に写っていたのは、ステージ衣装をまとったフェイトのグラビアだった。
先月のオリコンチャートにランクインしたときに特集記事を組んでもらうことになっていたのだ。
「うん、ちょっとだけ有名なんだ私」
はにかむしぐさをしている自分が、初々しくて自分でもうれしくなる。
「同じ趣味の人を見つけられるとうれしいですよね」
「そうだね」
それぞれの買ってきたジュースのふたをあけ、口をつける。
首都高に走る何百、何千台という車の中で、自分たち2台がこうしてめぐり合った。
それはきっと果てしない確率の先にあったんだとフェイトは思っていた。
「クラスの友達がよく話してるの聞いたことがあるんだ」
「あ、学生さん?」
「まあね、最近あんまり授業出てないんだけど、そこはね」
悪戯っぽい笑顔を浮かべて、なのははZのボンネットをなでた。
この少女は本当に好きなんだ、ただの遊びではない。
趣味、という言葉を使ったが、それだけではあらわせない、何かもっと強い意志を持って走っている。
「私はそろそろ行きますけど」
「あっうん、私はもう少しここにいようかな」
エンジンをかけ、走り出していくZ。
その後姿をじっと見つめながら、フェイトは頬が熱くなり、胸の高鳴りが収まらなくなっていた。
なのははクラブでのバイトの前にもう一つ、メイドバーでのバイトも新しく始めていた。
実家での菓子作りの経験を買われて、ウエイトレスだけではなく厨房にも立つことがある。
もっともなのはとしては、Zの修理にかかる金がさらに必要だった、という事情が第一だった。
そんなある日、一人で来店した若い女の客が、カウンターで同僚の店員と何かを話しているのを見つけた。
しばらくして、同僚がなのはを呼びに来た。
「なのちゃん、なんか学校の先生とか言ってるよ」
やば、となのはは内心舌を出した。ここのところずっと学校はフケっぱなしだった。
女の客はカウンター席に座り、厨房の中をうかがっている。
「お帰りなさいませお嬢様ー」
いつもの営業トークで料理を出したが、静かな凄みをきかされてなのはは早々に観念した。
「こんな時間にどーしたんですか、シャマル先生……」
「それはこっちのセリフよ、高町さん」
ウエイトレスたちは大きなフリルのついたエプロンドレス、いわゆるメイド服を着ている。
客も相応の男たちばかりで、若い女の養護教諭にとってはあまり居心地はよくないだろう。
「ここ2週間一度も登校してこないんだもの、何事かと思うわよ」
「あー、明日はだいじょうぶです行きますから」
なんとかのらりくらりと話をはぐらかしたが、シャマルはなのはのシフトが終わる時間までずっと粘っていた。
さらに裏手の通用口から外に出ても、まだ引き下がらない。
「すいません次のバイトあるんで失礼しまーす!」
なのはは足早に、裏路地へ駆け込んでいった。
シャマルは追いかけようとしたが、すぐに見失ってしまう。
仕方なしに、改めてスーツの胸ポケットからメモを取り出した。
「仕方ないわね……こうなったら待ち伏せしましょう」
学生名簿に記載された住所を頼りにアパートを見つけたシャマルだったが、なのはの姿はそこにはなかった。
次のバイトに行くと言っていたので、それからまだ帰ってきていないのだろう。
アパートの大家を訪ねてみたが、その老人もなのはのことはよく知らないようだった。
既に日はとっぷりと暮れている。自分も明日の授業に備えて家に戻らなければならない。
どうしたものか、と考えあぐねていたところで、車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。
アパートの裏手に回ると、宅地の隙間に小さな畑が点在する空き地の中に、一軒の車庫があった。
明かりがついている。近くによってみるが、ひとけはない。
音がやがて道を曲がり、背後に来て止まった。
振り返ると、そこには古めかしい白い車と、その運転席から身を乗り出したなのはの姿があった。
「そこ、どいてもらえます?先生……」
今度はなのはが凄みをきかせる番だ。
学校では見せることのないぎらついた表情に、シャマルは一瞬たじろいだ。
なのははフロアに乗せたままの左足でアクセルをあおり、エンジン音を響かせる。
普通の車とはまるで違う爆音だ。暴走族、という単語がシャマルの脳裏をよぎった。
「いきなりバイト先に押しかけてきたと思ったら今度は家にまでですか」
「そ、そうよ、高町さん、みんな心配しているのよ、アリサちゃんやすずかちゃんも」
「あの二人なら大丈夫ですよ、みんなわかってますから」
「みんなって、この事を?あなたがこんな派手な車で遊び歩いてることを知って、何も言わないの?」
なのははやや不機嫌そうに振り返り、頭をかしげた。
「遊び歩いて?そんなことしてませんけどね」
「夜遊びじゃなきゃなんだっていうのよ、さっきのバーの店員さんに聞いたのよ、あの後はクラブですって?
高校生があんないかがわしい場所で働いてちゃだめでしょう」
なのははふっとため息をつき、ガレージのシャッターを下ろして鍵をかけた。
「話してわからないんなら、実際に見せましょうか?車の中でゆっくり“おはなし”しましょうよ、先生」
ごくりとつばを飲む。今更すごすごと帰るわけにはいかない、とシャマルは目の前の少女を見つめていた。
シャマルをナビシートに乗せ、白いZは海鳴市から横浜湾岸を上って首都高へ向かった。
慣らしがてら環状を一周する。アップダウンも激しく、コーナーが連続する環状は強烈な横GをZに与える。
遮音材が省かれたZの車内には、デフギアの噛む音や、リアタイヤが滑る音が容赦なく飛び込んでくる。
高速道路としては混雑過ぎるほどの交通量の首都高を、文字通りすり抜けるようにしてZはスラロームを繰り返す。
ひととおり走り、なのははZを芝浦パーキングへ入れた。
夜の東京湾に、レインボーブリッジのイルミネーションが浮かび上がっている。
ビルや車の明かりはまるで地上の銀河のようだ。
「本当に……ひとりきりでこんなことして……毎晩なんでしょ?あきれたわ」
シャマルは緊張を抜くように、大きく息を吐いた。なのはは自販機でスポーツドリンクを買ってきて渡す。
「ひとりじゃないですよ。仲間が居ます。仲間、っていうか、走ってるとめぐり合う同類、ですかね。
似たもの同士、けど、まるきり似てるわけじゃないんです」
なのはの瞳には、目の前の、目に映る範囲よりもずっと遠くが見えている。
見えないものは見えないのではなく、見ようとしないから見えない。
空き缶をくずかごに放り、なのははZの運転席に戻った。
「帰りますよ、先生。明日はちゃんと学校行きますから」
シャマルもここまで言われては、なのはの言を信用するしかなかった。
帰り道、湾岸線を下っているとき、扇島の発電所を過ぎたあたりでその車は現れた。
猛烈な速度で追い上げてくる。ヘッドランプの形と配置を見て、なのはは見知った車だと気づいた。
「ちょっと、なにあの車!?」
「フェラーリですよ、知らないんですか?」
「そうじゃなくて運転してるの、あれフェイト・テスタロッサじゃないの!?
今話題なのよ、アニメの主題歌歌ったり、ヒロインの声もあててる有名な歌手の……」
「へえ先生、そういうこと知ってるなんて意外ですね。でも、今日はバトルの走りじゃないですから」
「バトル、って、まさかやめてよここでレースなんて」
「大丈夫ですってー」
ガンメタのテスタはZが横に人を乗せているのを見てとり、高速クルーズのモードに戻って走り去っていった。
翌朝、なのはが聖祥に登校してくると、なのはたちが通っている高等部の校舎前に、場違いな少女が一人、いるのが見えた。
初等部の制服を着たおさげの少女が、誰かを待ち構えるようにしている。
その少女が待っていたのは自分のことだとなのはは気づいた。
とりあえず昇降口へ向かおうとすると、その少女はなのはの前に走ってきて立ちふさがった。
「おい!おまえ、高町、だな!」
開口一番、上級生に呼び捨てで名指しする少女の声に、周囲の生徒たちが一瞬何事かと見る。
少女の背負っているランドセルにはよれよれのウサギのぬいぐるみがぶら下げられている。
「えっと、どうしたの?」
「どうしたじゃねえ!昨夜、シャマルをシュトコーに連れまわしてっただろ!今朝聞いたんだ」
「シャマル先生のこと知ってるの?とりあえず、私教室に行かなきゃ、今日は必ず来るって先生に言っちゃったし」
「あっおい待て!」
制服のすそを引っ張り合ってやいのやいの騒いでいるところに、なのはにとってはもはや耳に染み込んだ、空冷フラットシックスエンジンの音が近づいてきた。その音の主は校門の前で止まる。
「何をやっているヴィータ」
そう言ってポルシェのコクピットから呼びかけたのはリインだった。
ヴィータ、と呼ばれたおさげの少女はあわてて振り返る。
「はやてを送ってきた戻りだ。全く、こんなところで油を売っている時間じゃないだろう」
「でもっ」
「いいから乗れ」
初等部の校舎はここからやや離れた丘の下にある。
なのはにとっては、シャマルやこのヴィータが、リイン──ブラックバードの知人ということが意外だった。
世の中、意外な接点がある。
しぶしぶヴィータがポルシェのナビシートに座り、リインはもう一度なのはの方に呼びかけた。
「事情はシャマルから聞いた。正直乗り手の素性に興味はなかったが、まさか現役の高校生だったとはな……。
Zの仕上がりももう十分のようだな。そろそろどうだ」
バトルの申し込みだ。今まで、ずっと追いかけるばかりだった相手が、ついに自分のほうを振り向いた。
なのはは背筋に気持ちのいい冷や汗が流れるのを感じ取った。
「何いってんだリイン!こいつはあのZの……」
「いいですよ。次の水曜でどうです?やるなら早いほうがいいでしょう」
「わかった。……それに気づいているだろう、もう一人、われわれの匂いを嗅ぎつけたハンターがいる」
「もう一人……?」
「あのテスタだ。ここのところ毎日のように走り込んでいる。
湾岸の黒い怪鳥を撃墜しようとするのなら、こちらも全力で迎え撃つ」
「(フェイトさんだ──!)」
ポルシェが走り去った後も、なのははしばらくその場に立ち尽くしていた。
昼休み、なのははシャマルに話を聞きに保健室へ行った。
シャマルとヴィータは、八神家が縁を持つドイツのある医師の家の親類で、現在はやての家にホームステイしている。
その関係で、シャマルは聖祥に養護教諭として赴任し、ヴィータは聖祥大付属小学校に通っている。
はやての家は、両親が亡くなって以降、ヨーロッパの親類に財産管理などの世話をしてもらい、はやては中学まで一人暮らしをしていた。
はやての兄が事故死してから、両親はどこか疎遠がちになり、いつしか、はやてを置いていずこへともなく消えた。そばにいたのはリインだけだった。
「彼女も海鳴大学病院に勤めて長いし、はやてもよく懐いていると思ったんだけど……」
シャマルはそう言って言葉を伏せた。
身内を車で亡くし、それでも走り続けるのはどういう気持ちがあってのことなのか。
なのはにとっても、他人の家庭の事情など遠く理解も及ばないところではあった。
フェイトは遠見市の自宅マンションから、横浜郊外へ向けテスタを走らせていた。
常盤台インターを降りてすぐの、横浜国立大学を中心とした学園都市の片隅にそのファクトリーはあるという。
先日、テスタを持ち込んだガレージの社長から聞いた噂だ。
あのガレージは首都高最速といわれる走り屋、ブラックバードの駆るポルシェターボを組んだショップとしてその筋では有名であり、そしてそのブラックバードから伝え聞いた話として、フェイトにもたらされた情報だった。
悪魔のZを創りあげた男が、そこにいる。
「ここが……?」
それはチューニングショップとはとても思えない、朽ちた小屋のようなサイクルショップだった。
ママチャリが数台、無造作に置かれているだけで、とても商売をしている風には見えない。
社長が言っていたところでは、かつてブラックバードも当時Zを手に入れた仲間とともにその男を訪ねたが、すげなく追い返されたという話だ。
フェイトが訝しげに店内を覗き込んでいると、ふと、後ろに立つ足音が聞こえた。
悪寒を感じ、あわてて振り返ると、作業着の上に白衣という風変わりないでたちの、ざんばら髪の男が立っていた。
「そこで何をしているんだね」
フェイトが何も返せずにいると、その男はのそのそと店のガラス戸を開け、奥のパイプ椅子に腰掛けた。
やがてタバコに火をつけながら、外に停めていたテスタに視線をくれる。
「何の用かねお嬢さん。困るね、あんなハデな車で乗り付けられちゃ」
フェイトはつばを飲み、思い切って、声に出した。
「ある人から聞いてきたんです。あなたが作った、悪魔のZといわれたS30が今、走っています」
「ほう……それで?」
「私の車を……悪魔のZに勝てるフェラーリにしてください」
鋭い眼光がフェイトを見上げる。ここで竦んではならない。意志の強さを見せるんだ。
そうフェイトは自分に言い聞かせる。
「お願いします。“ドクター”ジェイル・スカリエッティ」
深夜、湾岸線を流す一台の赤いGT-Rがいた。
一般車の流れよりもやや速いペースで、攻め込んでいる車がいればすぐに探せるペースで首都高を大きく周回する。
「それでなんでアタシが引っ張り出されるんだよ」
「仕方ないじゃない、テスタじゃ3人乗れないんだもの」
「くくく、まあ夜は長いんだ、気長に待とうじゃないかね」
「フェイトほんとに大丈夫なのか、気味悪いよこのオッサン」
この男、ジェイル・スカリエッティは、元々は在日米軍附きの軍医として来日した。
上層部との確執によって軍を離れた後、アメリカでやっていたチューニングの経験を生かし日本で店を起こした。
その経歴から、当時の最高速アタッカーからは“ドクター”とあだ名されていたのだ。
当時、日産の日本国内での販売車両にラインナップされていなかった排気量2.8リッターのL28エンジンは、スカリエッティの手によって日本に持ち込まれ、S30Zの車体に搭載された。
そのL28はさらにツインターボ化され、まさに悪魔のようなパワーを発揮するに至っている。
「しかしどういう風の吹き回しかね。すっかり客が居なくなって、自転車屋をやっている私をわざわざ訪ねてくるとは」
GT-Rは有明ジャンクションから台場線へ乗って一旦環状へ戻り、江戸橋から深川線へ入る。
「客が居なくなったって、はやらなかったのかい、アンタの店は」
アルフがぶっきらぼうに問いかける。スカリエッティは含み笑いを漏らした。
「いや。みな死んでしまったよ。私の芸術品を乗りこなせずにね」
箱崎から合流する車がところどころ途切れ始めている。走り出す時間帯になりつつある。
「(やっぱヤバイってフェイト)」
「(でもこの人があのZをつくったのは間違いないんだよ)」
こそこそとささやき合うアルフとフェイト。スカリエッティはGT-Rの後席で、腕を組んだままずっと笑みを浮かべている。
「いい道だね首都高というものは。これ以上の舞台はないよ」
「……そうですね」
GT-Rのサイドミラーに瞬く光が映った。
来る。フェイトはとっさに後ろを振り返った。スラロームしながら上がってくる車が、2台。
「速いのが来ます!」
フェイトは後ろを振り返りながら叫んだ。
「アルフ、加速して左に寄って!道をあけるよ」
「わかってる!」
一般車の影から脱出してきたのは、まず先に黒いポルシェターボ。
さらにその後ろに、白いS30フェアレディZが続く。
「悪魔のZ!!」
フルスロットルのエキゾーストノートを響かせ、2台は辰巳ジャンクションの合流路へ向かって飛び込んでいく。
「アルフ!」
「これでも全開だよ!いっぱいいっぱいだ!」
今夜の湾岸はけしてすいているとはいえないが、それでも2台はお構いなしに加速していく。
速い。文句なしに速い。こうして見ているだけでも、今の自分のテスタでは手も足も出ないのがわかる。
「あれがそうなんですよね、スカリエッティさん!」
スカリエッティはじっと黙り、湾岸の道の先を見つめ続けている。
「あーっ、だめだついていけない」
このGT-Rではブラックバードと悪魔のZには追いつけない。
それは仕方ないとしても、いずれ、テスタはあれと同等以上の速さにしなくてはならない。
「……君が昼間もって来た車、あれはフェラーリかね?アレは確か2000万以上する車だったね」
「ええ……」
テスタはフェラーリのロードカーとしては生産数は多いが、人気車種ということもあり、荒く乗られた個体も多い。
フェイトは91年式の最終型を購入していた。これでも車齢は15年を軽く超えていることになる。
歌手デビューしてからためた貯金はほとんど使い果たしていた。
「じゃあとりあえずチューニング代として1000万持ってきたまえ。
君は2000万する車にさらにその半分つぎ込む。その金額と引き換えにあのZの前を走ることもできるだろう……」
アルフは黙り、フェイトも固唾をのんでスカリエッティの言葉に傾注する。
「だが……もしかしたら命を落とすかもしれない……速さを求めるとはそういうことなのだよ。
無限の欲望、ジェイル・スカリエッティのつくる車はそういうものだと理解しておいてくれ……」
嵐のような一瞬が過ぎ去り、首都高湾岸線はいつもの混雑のざわめきに戻っていた。
スクライア商会のガレージに、Zは久しぶりに戻ってきていた。
数日前から違和感はあったのだが、ついにはっきりわかるほどにエンジンに異常が起きている。
いつもの産業道路で、ユーノを横に乗せて一往復してみたが、Zのエンジンははっきりと息つきの症状を起こしていた。
キャブの同調を疑ってみたが、3基すべてフロート面もジェットも安定していて特におかしな点は見当たらない。
「やっぱり6000回転あたりに谷があるよ」
「そこを越えると結構回るには回るんだけどね……パワー的にもタレた感じはないし」
ユーノも唸った。ガレージにはスクライア商会の社長であるコウちゃんも来ている。
一応ユーノの先輩にあたり、近所なので小さい頃はなのはも遊んでもらったことがある縁だ。
「まーなんのかんの言ってもベースは40年前の車だ、それでこんだけ走りゃ上等だろ」
S30型のデビューは1969年だ。もはや、旧車どころかクラシックカーといってもいい。
「レイジングハート、私が迷ってるからだめなのかな……?私がもっとうまくならないと、私を認めてくれないのかな……?」
なのはは呟く。このZを乗り始めてまだいくらもたっていないが、その短い間に2回もクラッシュしてしまったのはなのはにとってもかなり悔しいところではある。
「なのはちゃん、気持ちはわかるが、車は所詮キカイだぜ、それ以上でもそれ以下でもねェんだ」
この辺りはさすがに女の子だな、とコウちゃんは苦笑する。
「まぁとりあえずだな、オレもなのはちゃんの熱意をくんでだ、できる限りは見てやるよ。
アライメントとかも全部自己流だろ?ユーノもなんだかんだでまだ半人前だし、プロがキッチリ足回りみりゃあ少しはシャキッとするさ」
「すみません、お願いします」
コウちゃんは今でもバリバリのアフロヘアで見た目はちょっと怖いが頼れる兄貴、といった感じだ。
実家でまだ暮らしていれば、こんな風に恭也と談笑することもあったのかな、と、なのはは少し思い返していた。
一方、リインの方も今まで乗っていた930型ターボを下取りに出し、新たに93年式の964型ターボ3.6をオーダーしていた。
今までの3.3リッターエンジンでは、もはや悪魔のZと、そして現代の最新チューニングカーと戦うことは厳しい。
ガレージの社長も最初は迷っていた風だったが、すぐにリインの希望通りの、黒色の964を探してきてくれた。
「こいつはノーマルでも360馬力、トルクは53キロある。前のオーナーもそれほど激しい走りは
してなかったようだから、まずはブーストアップから様子を見ていきたいが」
「それで結構です」
工場のほかの作業場に入庫しているのは、同じポルシェでもより新しい997や、より街乗り志向のカレラなどがほとんどだ。
「ですが最終的にはビッグツインターボでしょう。少なくとも600馬力はほしいですね」
社長はしばらく黙り、気を紛らわすようにいつもかけている茶色のサングラスをいじった。
「悪魔のZに勝つにはまずパワーが必要です」
「……こんなこと言うのもあれなんだが、実は今度、この工場も陸事の認定を取るんだ。
車検整備とか、ディーラーからの仕事ももらってね……意外とこれが大口なんだよ」
「チューニングカーに入れ込むのは世間体的によくない……と?」
静かな工場は、表の通りから伝わってくるバイパスの流れの騒音と、コンクリートの反響が複雑に混ざり合ってくぐもったように声が伝わりにくい不思議な空間を醸し出している。
「八神ちゃんの気持ちもわかるんだけど、それでももう十分じゃないかな、と……
僕も君たちの車をやれて本当に楽しかったよ、でも、あの頃の仲間はもうみんな走っていないし……
僕はね、あくまでも僕の考えなんだけど」
「わかってます、社長。……急がせてすみませんでした」
リインは新たなポルシェのキーを受け取り、運転席に乗り込んだ。
メーカーオプションの本革バケットシートががっちりと身体をホールドする。
「はやてちゃんも、確かもう来年から大学だったよね、僕が今更言えた義理じゃないかもしれないけど、それでもやっぱり──」
「ありがとうございます。気持ちは受け取っておきます」
ギアをいれ、道路へ向かって走り出す。
十分。もうじゅうぶん。そんな言葉は飽きるほど聞いてきた。
あの頃の仲間はもうみんな走っていない。
そうだ。もう自分だけだ。残っているのは自分だけだ。
はやてを悲しませる結末に、いつ自分が遭遇してもおかしくない。
夜になるたび、生きて明日の朝日を見られないかもしれないという恐怖が襲ってくる。
走るなら、逃れることはできない。だからみんな去って行った。
それでも自分がこだわり続けているのはなぜなのか、そして、そう問われてなぜ自分は答えに窮するのか──
その理由は、それ自体が他人に理解されるものではない。ましてや、家族になど。
長引いた収録からフェイトが帰宅したときには、すでに時計は深夜0時を回っていた。
これからすぐに寝て、また明日は12時からスタジオへ行く。
テスタを預けている間はどちらにしろ、夜は身体を休める以外なにもすることがない。
そういえばしばらくチェックしていなかったな、と、1階の集合ポストフロアへ足を向ける。
まばらに入っているダイレクトメールはすぐにくずかごへ捨て、いちばん下に、筆記体のラテン文字が綴られた封筒が入っていた。
母からの手紙だった。
しばらく封筒を手にして見つめ、見慣れたはずの自分の実家の住所を見つめる。
イタリアの実家を離れ、無理を言って日本へ上京することを、母は何も言わず見送ってくれた。
今、自分は充実しているだろうか?
仕事と、遊びと。歌と、声と、そして走り。
どうして自分は湾岸に魅せられているのだろうか?
サブカルチャーのメッカである日本で成功する。成功するのは何のためだったのか?
アルフも言っていた。これから半年の仕事で決まるんだと。
数多の泡沫アイドルに埋もれることなく、歌手として声優として、自分を売り出していくために何が必要なのか。
この仕事は自分の夢だったのではないのか?
テスタを駆って湾岸を走っている時だけは、そんな疑問から逃れられる気がしていた。
だが、それは所詮、逃避でしかなかった。
あのZに出会ってからだ。
あの白いZと、それを駆る少女。
彼女が湾岸を走っている理由は、少なくとも自分のような逃避などではありえない。
あのZと彼女を知れば、きっと自分の探しているものに出会えるかもしれない。
もしかしたら、彼女が自分を救ってくれるかもしれない。そうフェイトは思い始めていた。
家族のしがらみと、母への贖罪の意識。
親不孝な娘でごめんなさい。ずっと不幸だった母さんだから、幸せにしてあげたい。
元気づけてあげたい。
それなのになぜ、自分は湾岸を走りたいと思うのだろう。
フェイトは詰まる胸をこらえながら、マンションのエレベータに乗り込んだ。
学園都市の片隅にある貸し倉庫を、スカリエッティは臨時のチューニングガレージにしていた。
使い古した工具を引っ張り出し、ほこりだらけのガレージの中に、薄汚れた建物には不似合いな車が入れられている。
フェラーリ・テスタロッサ。
リヤカウルが外され、パイプフレームシャーシとエンジン、リヤサスペンションメンバーがむき出しになっている。
この日の夜、フェイトはアルフのGT-Rで送ってもらい、テスタの仕上がりを見に来ていた。
「ずいぶん気が早いんだね、お嬢さん。そんなに急ぎの用なのかね?」
身を乗り出してテスタのエンジンをいじりながらスカリエッティが言う。
「ええ……。私には、時間がないんです」
「まあ待っていたまえ。すぐに未知のパワーを味あわせてやるよ」
新しく交換した大容量インジェクターを12気筒分取り付け、各パイピングを繋ぎなおす。
実際のところ、フェラーリのエンジンというものは工場出荷状態ですでに高度なチューニングがされた状態でもあるため、あえて内部をいじることはあまりない。
日本車のエンジンでは必須なバランスどりやポート研磨なども、最初から行われている。
今回行ったのは、ハイリフトカムへの交換とそれに対応したコンピュータの書き換えだ。
これだけでも、ノーマルからプラス100馬力の上積みが期待できる。
「レブリミットは」
「ノーマル6800rpmから、8000までは回せるね。もちろんナラシはしてくれよ」
「わかってます」
アルフがこの場にいたら怒るだろうな、と思いつつ、フェイトは疑問を口にした。
「スカリエッティさん……どうして何も言わないんですか?自分で言うのもなんですが、私みたいな若い子どもが、ポンと1000万円持ってきたことに口を挟まないのは……」
くくく、とこの夜何度目かの含み笑いを漏らし、スカリエッティはトルクレンチをゆらゆらとかざしながら言った。
「私としては客の素性には興味がないのでね。君がどんな手段でその金を用意したかに興味はないのだよ。
興味があるのは自分のつくる車を乗りこなしてくれるかどうかだけさ」
「…………」
「例の……木村のオヤジに私のことを聞いてきたんだろう?私が車をつくってやるのは、死んでも構わないような、死んだほうがいいようなろくでなしだけさ。
人生を引きかえにするほどのカネをかけて車をつくり、それで一晩走ってそれだけで死ぬ、そういう人種がいるんだよ、この世の中にはね」
しばらく黙り、その辺に転がっていたオイルの空き缶の埃を払ってから腰かけ、スカリエッティの作業を見つめる。
電装系を繋ぎなおせばあとはエンジンをかけるだけだ。
「まずは様子見……ですか?まだ全然本気のチューンじゃあないですよね」
「わかるかねやはり」
「少しは……最終目標は何馬力くらいですか?」
「そうだね。こいつの場合、シリンダーボアを87ミリまで拡げて排気量は5.4リッターまで可能だ。
鍛造ピストンで圧縮比を12まで上げ、それにハイリフトカムを組み合わせる」
「今回組み込んだものとは別の?」
「とりあえず現状を見なければならんからね。最適なカムプロフィールをキメてから発注をかける。
最後にもう一度全バラシして消耗品と各部メタルを強化品へ交換する。エンジンの状態次第だが、600馬力はくだらないよ」
片側ずつ、リヤカウルをねじ止めして元通りに取り付けていく。
外観が市販車であっても、フェラーリの車体構造は他の多くの一般乗用車が採用するスチールモノコックではない。
クロームモリブデン鋼材のパイプフレームにアルミとFRPを被せただけの、真のレーシングカーだ。
日本製チューンドであっても、市販車両を購入して改造する限りは基本として、ノーマルのモノコックボディを使う。
ロールケージを取り付けていてもそれは単なる見た目だけのものだったり、直接車体構造の強化に寄与しない乗員保護目的のものであったり。
ロールケージによる剛性確保が必要なレベルまでチューンされた車というのはほんのひとにぎりだ。
そう、ほんのひとにぎり。
車に限らず、どんな業界であってもトップに立てるのはほんのひとにぎりの人間だけだ。
自分のいる芸能界、アニメ業界でも、そしてこれから踏み込もうとしている走り屋の世界でも。
そのひとにぎりの人間になれることを夢見て、人は高みを目指す。
振り返れば、かつての自分と同じように、これから登ってこようとしている人間が見える。
追いかけてくる後進がいる。いつか、夢を追う立場から夢に追われる立場になる。
追いつかれてしまったら、そのときが、自分の終わりの時だ。尽きるのは夢だけではない。夢を見るための命が尽きてしまう。
すでに自分は一歩を踏み出してしまった。もう、立ち止まるわけにはいかない。
数日もする頃には、湾岸を走るガンメタのフェラーリ・テスタロッサの噂はすっかり広まっていた。
その噂はもちろん、なのはにも聞こえてきていた。
「やっぱり、行くしかないよね。たとえ何があっても……走ることでしかわからないんだ」
思えば、名乗りあったわけでも、連絡先を交換し合ったわけでもない。
それなのに、会える気がした。
今夜、首都高に行けば、彼女に会える気がしていた。
なのははガレージからZを出し、首都高へ向け発進させた。
フロントウインドウには、海鳴の夜景が広がっている。高速に乗ればすぐに首都高だ。
迷ってはいけない。迷いを見せたら、このZは許してくれない。
信じて、踏み込む。それだけだ。
テスタのコクピットでギアの感触を確かめながら、フェイトはナビシートに座る男を見やった。
いつでも不敵に笑う表情を崩さない。この男もまた、その車が現れることを予感している。
「驚きましたよ、まさか隣に乗ってくるなんて……どうなっても知りませんよ」
「やはり自分のつくった車の走りはきちんと自分で見なければね」
大パワーに対応するため、クラッチはメタルツインプレートに強化しギアオイルも高耐久のものに変えている。
明らかに重くなったクラッチペダルをそっと戻し、テスタを発進させる。
2速のままランプを登り、合流路に入ったところで踏み込んでいく。そのまま8000回転まで引っ張って140km/h。
3速へ上げ、一般車をかわしながらスラローム、そして5速にいれての高速クルーズ。
ピークパワーを引き上げながらも、大排気量ならではの中速トルクが失われていない。
ステアリングを握る手のひらから腕へ、そして胸へ、寒気のような快感が伝わっていくのをフェイトは感じていた。
まだパーフェクトの仕上がりではないにもかかわらず──
勝てる。この車ならZに勝てる。
わきあがってくる熱いものは、闘争心か、それとも、もっと別の恐ろしい何かか。
横羽線を上っていき、平和島を過ぎたあたりで、フェイトは前方を走る小ぶりなシルエットを目に留めた。
古めかしいテールコンビランプ、白いボディ。初めて遭遇した夜、湾岸でちぎられた時のことを忘れてはいない。
「見とれてます?」
「くくく、いいから踏んでいきたまえ」
悪魔のZ。それをつくったといわれる男、ジェイル・スカリエッティ。
その男に依頼して自分はこのテスタをつくらせた。
何百基ものエンジンを組んで悪魔のようなパワーを与え、そしておおぜいの人間の人生を狂わせてきた。
自分もまた、悪魔にとりつかれてしまうのか。
でもそれでもいい。いや、そう見えるのは周りの人間だからだ。
当事者にはわかる。
こいつはただ純粋なだけなんだ、と。
Zの走る後姿を見ていると、吸い込まれそうになる。それは悪魔のささやきではない、純粋無垢な命の叫びだ。
「あのテスタ──やっぱりフェイトさんだ」
なのはも、追い上げてくるヘッドランプの光をバックミラーに見て取っていた。
速い。以前に見た時とは動きが違う。エンジンの出力が相当上がっている。
Zは何馬力出ているのだろうか?
以前にキャブの中を見たときには、インナーベンチュリが取り除かれているのが分かったくらいだった。
相当な高回転型にセットされているのは間違いないが──
堀切までは回らず、箱崎からすぐに湾岸へ向かう。
新木場の右コーナーで、テスタがラインを変えてオーバーテイクの体勢に入った。
「──!」
パスされる瞬間、目が合った。テスタのナビシートに乗っている男が、Zをじっと見ていた。
自分を見ている。自分の走りを、そして、自分が乗っている車の走りを見ている。
大胆にインをカットして前へ出たテスタはさらに加速していく。ここから先、辰巳までは長めの直線が続く。
すこしでもレーンチェンジが遅れればあっというまにおいていかれてしまう。
速い。
本当に、競うとはこういうことだ。
辰巳ジャンクションより湾岸合流、西行き。決戦は、海の上で。
時間帯が早く、流れる車は荷物の配送を終えて埠頭へ帰るトラックが多い。
ほぼ第1車線をキープしつつ、Zとテスタは突っ走る。
東京ビッグサイトを後目に見ながら東京港海底トンネルへ飛び込む。
テスタのスピードメーターはトンネルの底で315km/hを指し、登りに転じて小刻みに震え始める。
「(──ミッドシップエンジンの宿命か……フロントの手ごたえがかなり薄れている)」
ただでさえ重量がリア寄りのテスタは、揚力を強く受ける超高速域ではフロントのリフトを抑えきれない。
登り坂でZが追い上げてくる。
「(こらえろ!)」
トンネルを飛び出して大井コーナーへ。右車線を維持したまま230km/hで通過。
ここでZが並んできた。
「すごいパワーですね」
「不満かね?」
「そんなことありませんよ……ただ、あのZがもっとすごいだけです」
ナンバープレートの数字がはっきり読み取れる距離まで近づく。
前に出たZのスリップストリームを使い、ぴったりと後ろにつけていく。
羽田トンネルに入ったら、いったん減速してクーリング走行に移る。トンネルを抜けて浮島料金所を越えれば、日本で唯一の超高速ステージ、湾岸神奈川エリアに入る。実に全長10キロメートルに及ぶ直線道路だ。
「うれしいですか?こうしてZに会えて」
スカリエッティは返事をしなかった。もしかしたら、エンジン音にかき消されて聞こえなかったかもしれない。
フェイトは再び視線を前に据え、道の先へ向かってアクセルを踏み込む。
静止状態から並んでスタート。
Zは9000回転まで引っ張ってシフトアップし、ギアチェンジの瞬間にぐいっと頭を出していく。
「そうだ……そうやって走ってくれ」
フェイトには聞こえた。ひとりごとのつもりで言ったのかもしれないが、この甲高いフラット12のエンジン音の中でも、Zとなのはに向けたスカリエッティの言葉が聞こえた。
東京湾の埋め立て地、扇島の、巨人のはらわたのような巨大建造物が、闇の中に浮かび上がっている。
その中を突っ切る神奈川湾岸線、そして、今、そこを走るZとテスタの速度は310km/hを超えている。
もう横を見る余裕もない。
ステアリングを握る手は、ほんの1ミリの舵角、ほんの1グラムの荷重さえも感じ取れなければ、車体を制御できない。
「(あのZに……魅せられたものたち……それはつくった本人さえも)」
東扇島を抜けるあたりからトラックが増え始める。本牧に下りるための列を作って固まっている。
「(いや……すこし違う──それは自分を認めてほしいと思う心──)」
この男の、不敵なポーカーフェイスの陰にも、隠しきれない欲求がある。
地獄のチューナーと呼ばれ、畏れられ、しかしそれをどこかで拒否しようとしていた──
畏れは、ひとびとが自分を見る目にフィルターをかける──
自分を、ほんとうの自分を見てくれなくなる──
「(この人も──私と同じ──?)」
一定間隔で道路端に立てられている照明水銀灯の列が、流れ星のように残光を引いて光の帯になる。
「(悔いがないといえば嘘になる……仕事としては失敗もいいところだった)」
車体を路面に押し付けるようにしてZが加速する。回転の立ち上がりに若干のもたつきがあるが、消耗品を取り換えてオーバーホールすれば直る。エンジンそのものは健在だ。
スカリエッティの金の瞳に、Zのテールランプが焼き付いている。
「(店はツブしたし家族も逃げた──日の当たるところを歩けないと思っていた──
──あのZがまだ走っていると知るまでは)」
「(認められることなんてありえないとわかっているのに──
みんなに迷惑と心配をかけるだけだとわかっているのに──私はこうして走っている──
私がこんなことをしてると知ったら母さんはきっと悲しむのに──)」
水平線の彼方に、つばさ橋のきらめきが見えてくる。
「(Z──心からお前に向き合おうとする乗り手に──前は出会えた──)」
「(たったひとりの観客もいないステージでも──私は歌い続けられるの──?
私は誰のために歌って、誰のために声を演じていたの──?
私はどうして湾岸を走っているの──教えて、テスタ────)」
高架中央に向かってオフセットされたつばさ橋に、吸い込まれるように風の流れが変わる。
Zがゆらりと車体を揺らす。前方200メートル、中央車線を走るトラックを右からパスするラインに乗せる。
「(ごめんね──母さん────)」
それは一瞬だった。
スリップストリームの境界、大気の流れの境界面に触れたテスタは、左後輪をリフトさせてパワースライド状態に陥った。
前方からトラックが迫り、フェイトはたまらずステアリングを右へ切る。スライドに合わせて左へカウンター。
Zは左からパスするラインに移っていく。
距離は60メートル。こちらの速度は290km/h、トラックは速度抑制装置がはたらいていれば90km/h。
追突でも200km/hもの相対速度になる。
テスタの右テールが中央分離帯をかすめ、左フロントに激しい衝撃。同時にステアリングから鈍い圧迫が伝わる。
おそらく、トラックのホイールナットに接触した。高速回転する巨大な質量に、テスタの操舵システムは一瞬で破壊されただろう。
タイロッドが折れたか、キングピンが脱落したか──右へカウンターステアが入ったまま、制御不能。
スピードメーターの針は280km/hで止まった。前輪が死んだ今、この数値は当てにならない。
暴れるタイヤがフェンダーに接触する音が聞こえたと同時に、フロンドウインドウには空しか見えなくなった。
「!!」
トラックを左車線からパスしたなのはの目に、破片をまき散らしながらスピンするテスタの姿が飛び込んできた。
タイヤをロックさせないよう細心の注意でフルブレーキ。テスタは宙に浮きながら転がり、タイヤで速度を落とせない。
つまづいても、傷ついても、倒れても、それでも走ることをやめない──どこまでも走ろうとしている。
いつか、自分とZもこうなってしまうかもしれない──
それが宿命だったとしても、その刻を迎えるのは自分の意志だ。
「踏ん張ってください!」
ほとんど動かないステアリングを握りしめ、焼け焦げるオイルと金属の臭いの中で、かろうじて生きている駆動輪を使ってフェイトはテスタの車体をガードレールにこすりつける。
いちばん怖いのはキャビンが変形して脱出できなくなることだ。
横転しないよう、車体を直進状態に保ちつつ速度を殺していく。
何十秒たっただろうか。
最終的に左側の路肩に止まって動かなくなったテスタに、なのはが駆け寄ってきた。
「大丈夫──ッ!?フェイトさん──!!」
名前を呼んでくれた。それが一番最初にフェイトの感情に浮かび上がった。
笑顔になっている。横のスカリエッティも笑っている。二人とも、車内にあちこちをぶつけて血だらけだが、笑っている。
「くくくっ、生きてるのかね。どうやらあの悪魔は私たちを逃がすつもりはないようだね」
「あはは、生きてるよなんとか!救急車おねがい!」
呆気にとられるなのはに、フェイトは笑顔で手を差し伸べた。
いつのまにか、湾岸の空は薄く白み始めていた。