SERIES 3. モンスターマシン
湾岸を疾走する一台の黒いポルシェがいた。
964ターボ3.6。エアロをカレラRS用のレーシングタイプに変え、空力特性と冷却能力を上げている。
リインは以前の930ターボを下取りに出すにあたって、組み込んでいたパーツはすべて取り外してノーマルに戻した。
とはいえ、それはパーツを流用するためではない。事実、同じ911型でも930と964には互換性はほとんどない。
次に乗ることになるオーナーのことを考えて──だ。
もし次にあの930ターボを購入した何も知らない人間が、あの車のこわさを気づかずにアクシデントを起こしてしまったら──
リインにとっては、避けられるなら避けたい事態ではあった。
「(やはり964といえどもノーマルでは厳しい──250km/hを超えるともう足が対応しきれない)」
もともとホイールベースが短く、さらにRRレイアウトを採用するポルシェは、
どちらかというと一発のトップスピードを出すよりも同じペースで走り続ける耐久向きの性格をしている。
ショートホイールベースによる回頭性の高さは、超高速域での直進安定性を犠牲にする。
「(パワーも足りない……もともと空力的には不利なボディ形状だが──)」
湾岸線をベイブリッジまで走ってきたとき、見覚えのある赤いR32GT-Rをリインは見つけた。
以前、Zと走っていた時に遭遇した車だ。
「あの時乗っていたのとは違う──!?あれは……あの男は」
GT-Rのドライバーもそれに気づいた。ちらりと横目にポルシェを見やり、先導するように前に出る。
リインもはっきりとその男の顔を思い出していた。
ジェイル・スカリエッティ。
悪魔のZをつくった男。そして、かつて悪魔のZのルーツを探していた自分を追い返した男。
GT-Rは金港ジャンクションから三ツ沢線へ入っていった。リインもポルシェをその後に続ける。
常盤台から降りてしばらく走り、GT-Rは郊外の貸し倉庫の前に止まった。
ガレージの前では、赤みのかった茶髪の女が待っていた。
以前にスカリエッティを同乗させてこのRをドライブしていた女だ。
「おっそいオッサン、どこまで行ってたんだよ」
「なに、ちょっと湾岸をね」
「あーもうわかってますって、どうせアタシのRは遅いですよ」
「まあいいんじゃないのかね。君はあくまでもあのお嬢さんのお目付け役なんだろう?召使が主人より強くては絵にならんがね」
「いってろー!」
アルフとスカリエッティのやりとりを、リインはしばらく後ろから見ていた。
ポルシェのアイドリング音は、貸し倉庫の薄いトタンぶきの屋根にさわがしく反響する。
「250km/hオーバーで足が全然ついてこないんです……あとパワーもたりなくて……
お願いできませんか。964の3.6リッターです。一応ひととおりのセットアップはされていますが……」
スカリエッティはポルシェを一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした。
「いいだろう。中へ車を入れたまえ」
ガレージのシャッターを上げる。
中には、乱雑に散らばったパーツのほかに、シートをかぶせられたもう一台の車がいた。
「君としてはテスタがこのまま直らないほうがいいんじゃないのかね?」
「え!?アタシ?」
アルフは一瞬たじろいだ。たしかに、もうフェイトをあんな危険な目にあわせたくない。
280km/hでのクラッシュは、普通なら死んでいてもおかしくない。生きていたのは本当に奇跡だ。
だが、走りをやめさせられたら、フェイトは生きる希望を失くしてしまうのではないかという不安もある。
「──それ、あのテスタですか」
スカリエッティはかぶせていたシートをどけた。
テスタの車体は文字通りぼこぼこで、クラッシュの衝撃でルーフやピラーも変形し窓ガラスは粉々になっている。
ひしゃげた足回りとホイールが、その衝撃のすさまじさを物語っている。
「見た目はその通りなのだがね。フレームは全く歪んでいないのだよ。さすがの私も見直したね、フェラーリというものを」
フレームは無傷。すなわち、ボディを張り替えて足回りを直せば、また走ることができるということだ。
「エンジンは?」
スカリエッティは笑いをこらえきれないように、スパナでツールボックスをたたいた。
「まだやりかけだったからね。最終的にはIMSAレース用ハイリフトカムをぶち込む。もう注文済みで発送待ちだよ。
インジェクションはメカニカル制御にする。吹け上がりのレスポンスはどんなエンジンよりも鋭くなる。
バルブ径はあえて大きくせずに最大回転を上げたいね。メタルとクランクシャフトが耐えるなら、間違いなく1万回転オーバーで回せるよ。アクセルひと踏みで失神するほど気持ちいいぞ」
最後には声を上げて大笑いするスカリエッティに、アルフはさすがに目をひそめている。
「変わっていませんね、あなたは」
「君はだいぶ変わったようだね。あの頃のフザけた駄々っ子の顔はもうない」
やはり覚えていた。この男に認められるかどうか、それが走り屋としての心構えの違いだ。
過去の湾岸──まだリインが仲間たちと共に走っていた頃。
まだ日本車の性能が低く、ポルシェ911ターボが最強のスポーツカーだった頃だ。
「あれかね?やはり医者というのはもうかるのかね。あの頃の君の齢でもう911を乗れたとは」
「医者……?」
アルフがいぶかしげにリインを見る。
「君のところ(海鳴大学病院)に入院しているんだろう、どうだねドクターの意見で、あのお嬢さんは?」
「んなっ、知ってんのかいアンタ」
「さあ……。ただギプスは今日取ったみたいですよ、私は直接の担当ではないので」
フェイトの怪我は奇跡的に打撲と腕のヒビだけで済んだ。衣装で傷を隠して激しい動きを避ければ、
なんとか仕事は可能だ。今まで通りステージに立つこともできる。
今回、患者の職業が職業なので、見た目の傷跡を可能な限り消したいと、外科部長からリインに応援の依頼が来ていたのだ。
チューニングプランを簡単に打ち合わせ、リインはそのまま帰路につこうとした。
「ちょい待ちな、どうせついでだし送ってってやるよ。フェイトが世話になったみたいだし──」
アルフはGT-Rのルーフに肘をついてリインを呼び止めた。
スカリエッティは相変わらずにやにやと笑い続けている。
「スカリエッティさん──見たんですよね?あのZの走りを、テスタのナビシートで──」
「ああ……」
「もしZの彼女があなたのことを見つけてやってきたら──どうしますか?」
「さて、どうだろうね」
Zのエンジンがさすがに疲れてきているのはリインも気づいていた。
だが、あの化け物のようなL28改ツインターボは、なのはやユーノの技術レベルではとても整備できないだろう。
もし、このままZが息絶えてしまうのなら……
考えようと思っても、リインはその未来を思い描けなかった。
それはなのはも、そしておそらくはフェイトも、同じだろう。
スクライア商会のガレージで、なのはとユーノ、それからコウちゃんの3人は、
エンジンフードをあけたZの前で作業の準備を整えていた。
なのはもユーノのおさがりのつなぎを貸してもらい、汚れてもいいように髪もまとめてあげている。
「L28は基本的には難しいところはない。これだけのハイチューンエンジンだと正直自信はないが、オレも手伝ってやる。
ガスケット、パッキン、Oリング、もろもろ必要なパーツの調達は任せてくれ」
「はい」
「それじゃ、はじめようか」
エンジンクレーンを用意し、順番にチェーンをかけ、マウントのねじ止めを外していく。
補機類をひとつずつ慎重に取り外し、そして最後に、クレーンを使ってエンジンを車体から持ち上げる。
姿を現したZの心臓──L28改ツインターボエンジンのシルエットに、なのはは息をのんだ。
直列6気筒、排気量3.1リッター。最大許容回転数1万回転。
腕を掲げているユーノが小さく見えてしまうほどの巨大なエンジンだ。
それを、当時としてもコンパクトだったS30の車体に押し込んでいる。
悪魔のような車だ。
なのはは改めてそう思うと同時に、このZを、せめて自分だけは信じていたいという思いを新たにしていた。
首都高11号羽田線、芝浦パーキングの一角に車を止め、携帯電話で話している若い男がいた。
傍らに停められている車は、銀色の80スープラ。
エアロこそノーマルのままだが、排気によって振動する太いマフラーは、この車がチューンドカーであることを示している。
「──ああ、今夜は会えそうにない。やっぱり噂は本当だったらしいな」
『悪魔のZもブラックバードも、ここ数週間出てきてない。
例のテスタも、悪魔のZと走ってハデに事故ったって聞くし、こりゃマジで今の湾岸に連中に勝てるヤツはいないぜ』
「いや、一人だけいるだろ」
『……マジでやる気か、クロノ?』
「もちろんさ──そうでなけりゃ、わざわざ母さんに頼み込んで日本に来たかいがないってもんだぜ」
男の名はクロノ・ハラオウン。横須賀在日アメリカ海軍の巡洋艦艦長、リンディ・ハラオウン提督の一人息子だ。
アメリカの実家でも、ハイスクールの仲間たちと車で遊びまわっていたクロノは、素行不良が過ぎるととうとう実家から追い出されることになってしまった。
そこで、海軍で日本に赴任している母のつてを頼って来日し、今や世界中のスポーツカー愛好者のあこがれの的となっている日本で走るためにやってきた。
一応は留学生という身分で、都内の大学に通っているが、夜、そして週末は毎晩のように横須賀から首都高へ走りに出かけている。
そして、耳にしたのはもはや伝説の走り屋となっているブラックバード、そして悪魔のZの噂だった。
クロノが電話していた相手は、名をアレックスといい、彼はもともと高校卒業後に海軍に志願して、現在はクロノの母リンディが指揮する打撃巡洋艦アースラに勤務している。連れのランディも同じく。
非番の日に彼らがたむろしているのは、横須賀に点在する外国人向けのレストラン、グリル・アースラだ。
ここを切り盛りしているエイミィはクロノたちとは学生時代からの連れで、クロノが日本行きを決めたのも、彼らがいる街なら、誰も知り合いのいない街にひとりで行くよりは気が楽だろうと考えたからだった。
「ねえ、今の電話クロノ?」
奥の厨房からエイミィがピザトーストを運んでくる。
「ああ、今から帰るとこだってさ。しかしあいつ今回はマジだぜ、確か先週六本木に面接に行ったんだろ」
「似合わねーよな、昔からああなんだよ、根が真面目なくせして人の話きかねーんだよな」
あまり人間関係が器用ではないクロノが、客商売ができるのか──というのは、友人たちにとっては心配の種だった。
「クロノ、確かスープラだったよね新しく買ったの。どうしてGT-Rにしなかったのかな」
エイミィが質問する。クロノたちの車談義をそばで聞いているうち、車種名くらいは覚えてきていた。
「こだわりだろー、確かアイツのおやじもスープラに乗ってたんだぜ、もちろん先代、いや2代前か、トヨタがアメリカに輸出してたんだ」
エイミィとクロノは幼馴染だった。その頃から、クロノの父、クライド・ハラオウンが乗っていた銀色のスープラ──
──日本名“ダブルエックス2.8”は、二人の思い出の中に残っていた。
芝浦から出たらいったん環状内回りを一周し、浜崎橋を右へ折れて横羽線に乗る。
クロノはいつも横須賀へ帰るときはこちらのルートを使っていた。
湾岸に比べて道幅が狭く、コーナーも多い横羽線は高速テクニカルコースのレイアウトをしている。
現在の日本のチューンドカーのレベルでは、スープラで湾岸ならば400km/h台に手が届く。
もっとも、そこまで行くにはそれこそ金を湯水のように注ぎ込んだ車でなければ不可能だ。
スープラは中古車で100万程度からある。ベース車の価格よりも、それにどれだけつぎ込むことが可能かということだ。
車体を丸裸にしてボディを補強しなおし、エンジンブロックから何からすべてを強化してビッグタービンを組み込む。
そうすれば、スープラの2JZエンジンならば1000馬力オーバーが可能だ。
しかし、今のクロノのように個人レベルのでのチューニングとなるとどうしても限界がある。
エンジンの強化をするには加工屋に依頼しなければならないし、強化バルブやタービンキットを組むにしても、素人の作業では組み付けや仕上げの精度など、どうしてもプロの仕事にはかなわない部分がある。
それでも、このスープラはT78タービンを組み込み、市販のGセンサー付きデジタルメーターによる簡易計測では、約700馬力を発揮していることが分かっている。
冷却が追い付かず1分も全開にしていればタレてくる700馬力ではあるが、実際に300km/hを出すことが可能な車だ。
「2台くる──速いな」
きらめく星のような小さな点光源。
バブル景気はなやかなりし1980年代末、日本車で流行したプロジェクターヘッドランプだ。
球形レンズを使うことでライトユニットを小型化し、エクステリアデザインの自由度を上げた形だ。
現代の2000年代では、鋭角的な大型ランプユニットを採用する車が流行だが、当時の日本製スペシャリティカーたちは発売から10年以上経ってもなお色あせない魅力を持っている。
アメリカでも、チューンドカーブームの中心にいるのはそれら80~90年代の車だ。
「R32GT-R!」
白いGT-R。それにもう一台、同色の33Rが続く。
2台はまるでアサシンのようなすばやいフットワークで隊列走行を見せ、あっという間にクロノのスープラに追い付いてきた。
33Rがスープラをパスして前に出る。追い越しざま、ドライバーの姿が見える。
「リーゼ姉妹の個人レッスンというわけか……やっぱり何もかもお見通しか」
2台のGT-Rはそれぞれスープラの前後につき、引っ張るような形での走りに入っていく。
道を教えるように、それぞれの場所での走り方を教えるように。
それもあくまでも追い込むのではなく、ありのままを見せるように。
自分の意志でそのラインをトレースしようとしなければ、動きがかみ合わないまま違和感だけが残る。
違和感のない走りができていたら、次はその理由を考えていく。
事前に打ち合わせをしたわけでも、携帯電話などで会話をしているわけでもない。
それでも、こうしてつるんで走ることで通じ合うものがある。
クロノが首都高を走り始めてから、特にそれを知人に触れ回ったわけでもないのに、この2台のGT-Rはクロノのそばに現れた。
それは同じにおいを持つ者たちが自然と集まるように、獣が自分の縄張りに入ってきた者を確かめようとするように。
神奈川エリアに入ると、次第に直線が長く速度が乗るようになる。
GT-Rとスープラの最大の違いは駆動システムだ。エンジンは、極論を言えば出力の大小の違いしかない。
FRのスープラに対し、GT-Rは可変4WDシステムを持つ。
後輪のスリップを感知して前輪を駆動させ、軽快な運動性と安定性を両立させる、アテーサE-TSシステムだ。
同じ速度でコーナーに飛び込んでも、立ち上がりの脱出速度はGT-Rが圧倒的に速い。
路面に張り付くように。アクセルペダルを踏む足の動きと、後輪に荷重をかけて加速するスープラの姿勢をリンクさせる。
ハイパワーFRを速く走らせるには、荷重移動を極めることがポイントだ。
前輪が操舵を、後輪が駆動を、それぞれ分担しているFRレイアウトは、特に荷重移動による操縦性の変化が極端に出る。
前荷重をかけずに曲がろうとすればまるきり曲がらないし、後荷重をかけずに加速しようとすればたちまちスピンする。
リーゼ姉妹にとっても、こうして出会うたびにクロノが上達していくのは目を見張ることだった。
2台のGT-Rは金港ジャンクションでスープラと別れ、第3京浜へ向かった。
彼女たち、リーゼ姉妹の根城は東京は福生市に居を置く米軍横田基地だ。
いったん第3京浜経由で環状まで戻り、そこから中央高速へ乗って八王子まで行く。
途中休憩のため、2台は第3京浜都筑パーキングへ滑り込んだ。
「アリア、ミルクティーでいい?」
元気のいいロッテが自販機へ走る。
彼女たちは実は軍属ではないのだが、横田基地に勤務しているギル・グレアム提督の姪ということもあって基地内の家族住宅に住んでいる。
「知ってるアリア、クロスケのヤツ、六本木の外人パブでバイトすんだってさ、ブラックバードと悪魔のZ、例の2台が引っ込んでる間に金貯めて、本気であのスープラやり直すつもりらしいよ」
「ああいうのはディスコっていうんじゃないの?よく知らないけど」
「あたしだってよくわかんないけど、そーゆう需要があるんでしょ、そーゆうお店があるってことは」
かなりグレーではあるが、それだけに給料はいい。育ち自体はいいので、クロノなら面接も難なくパスするだろうとは予想していた。
しかし、本気で働きだすとはさすがのロッテも意外だったらしい。
「真面目クンは反動ではっちゃけちゃうのかな?」
「真面目だからこそ、じゃないの?やる時はとことん、でもやめる時はスパッと、って。
見たとこ、仕事は仕事として割り切ってる感じよ」
「うーんアリアはそう見るかあ」
並んだ2台のGT-Rは、R32とR33の違いはあれど、基本的には似た仕様となっている。R33がロッテ、R32がアリアだ。
似た仕様の2台だが、走りの性格はずいぶん違う。
ロッテはアグレッシブに攻めるタイプ、アリアは無駄なくタイトにまとめるタイプ。
それでも、実際のところ突き詰めていくと速さは同じくらいになっていく。
知り合いの米兵たちからも、双子姉妹ならではのコンビネーションと評されていた。
リインはスカリエッティをナビシートに乗せ、湾岸で911を走らせていた。
140km/hでのクルーズから、3速全開の加速でいっきに踏み込んでいく。
フルスケールメーターの針は狂おしいほどに上昇し、数十秒ほどで300の目盛りを指す。
大気の壁と重力で押さえつけられる車体は、路面のわずかな凹凸さえも数千倍に増幅して揺さぶってくる。
それでも、911は路面をつかんで離さず、驚異的な安定性をもって疾走する。
「いいですね、今までと違いリヤがワンテンポ遅れません」
走りながらの会話は、走行音がすさまじく、叫ぶようにしなければ声が聞こえない。
「足はOKかね。パワーはどうだね」
「文句ありません」
つばさ橋を高架の向こうに望み、アクセルを戻す。
狂気の重力から解放され、911はゆっくりと速度を落としていく。
「とりあえず300km/h出せるようにはなったね。だがもちろんこれで終わりではないよ。
今のは単にブーストを上げて足のセッティングを合わせただけだ。やるからにはタービンもサスも換えて、エンジンをすべて組み直したうえできっちりセッティングを出す」
「ただ300出すだけではなくいかに早く300までもっていくか、ですね」
「今の湾岸のレベルはさらに上をいっているのだろう?」
リインはハンドルに指先を滑らせる。
この男、表情こそ変わらないもののまるで獲物を前にした猫のようにうずいている。
「時速200マイル、320km/h……今の湾岸なら360は出せなければ話になりませんね」
実際はバトルとなればもっと低い(それでも驚異的な速度だが)スピードレンジで行われるが、単独で最高速アタックをするならばもうスペック上でなら400km/hを超える車もいる。
そういう記録狙いの車は、開通してまだ新しくよりスピードの乗りやすい伊勢湾岸へ遠征に行ったりするらしいが、それでも、首都高、それも湾岸での走りが原点でありそして最終目標である。
少なくともリインはそう考えている。
しばらく黙っていたスカリエッティは、三ツ沢線に入ったあたりでやおら口を開いた。
「君が狙っている車は────あのスープラ、だろう」
リインは横目にスカリエッティを見た。
相変わらず不敵に笑っていて、腹の内を見せようとしない。
それはあくまでも楽しんでいるように。
本当は心の中では楽しくはないのかもしれない、あるいは自分のやっていることが馬鹿馬鹿しく思えるかもしれない、それでもなお、スピードにのめりこむことをやめることができない。
この男と同じ目をした人間を、リインはもうひとり見たことがあった。
「今はまだ……。ですが、いずれ上がってきます。いずれ私の前に立ちふさがろうとするのなら、その時は──
──その時は、証明してやります。湾岸の黒い怪鳥、ブラックバードこそが首都高の帝王だと」
くくく、とスカリエッティは再び笑った。
知らない人間からすればとんだ大見得だろうが、それでもそれなりのプライドは持っている。
二つ名を付けられるというのは、それなりの人間でなければ受けられないリスペクトなのだ。
そう、リスペクト──
多くの者たちの、憧憬と、畏怖。
それを一身に集めるというのは、ある種の人間たちにとっては究極の欲望である。
認められたい。誰もが羨む人間になりたい。
それは一般的には、アイドル、すなわち芸能界で成功することなのかもしれない。
しかし、最近湾岸で見たあの少女は、少し違う気がした。
もちろん歌は好きなのだろう。同僚の医師や、看護婦たちがたまに話題にあげているのを聞くとそんな気はする。
だがそれと同じくらい、いやそれ以上に、走ることも好きなのだ。
そこには、もはや単なる欲求を超えた何かがある。リインもまた、走りに向かう自分の気持ちを、欲望の表れとは思えずにいた。
いつしかそれが当たり前のようになっていた。
言葉にするなら、それがいちばん直観的だった。もはやそれは自分の生活の一部だった。
仕事をして収入を得るのは何のためなのか。収入の多寡が人間の価値なのか。
違う。収入は単に生活の手段に過ぎない。そしてその生活とは、すなわち収入を何に使うかというのは、自分の場合で言えば走りだ。
彼女もそうなのだろう。オリコンで何位になった、声優として初の云々、そんなのは単なる通過点でしかない。
そうやって得た手段の先に、湾岸での走りがある。
それが彼女と自分との、アイドルと医師という全く別の世界に生きるはずの人間を、引き合わせた交差点なのだろう。
日差しが頬に当たり、肌が暖かくなっていくのが感じ取れる。
太陽の光のあたたかさ。
いつ眠っていつ起きて、自分が生きている時間を忘れそうになる。
「ん……朝なの、ユーノ君?」
目を開けると、ユーノが呆れ顔で見下ろしていた。
「なのは、いくらなんでもガレージの床にじか寝はどうかと思うよ」
「いいじゃない、どうせ部屋もここも同じようなもんだし」
「まあね……」
ときどき、なのはは部屋に戻らずガレージで寝てしまうことがある。
距離的にも数十メートルで、わざわざ2軒分の家賃を払うよりは、ちゃんと車庫の付いた部屋に引っ越した方がいいとアリサに言われたこともあったが、なのはは今の部屋が気に入っているからといつも答えていた。
もともとの部屋は士郎に家賃を出してもらっていて、ガレージの方は自分のバイト代から払っている。
そのうち、両方自分で払うようにしたいとは考えていた。
その時、自分の中で何かが変わる。なにげない手続きの変更であっても、それがきっかけ、それが決定的な違いとなり、自分と実家の縁が切れるかもしれない──
いつかそんな時が来る、とは、全く考えていなかったわけではない。
ただ、どこかで自分の生き方を決める時期が来るとは思っていた。
アリサもすずかも、聖祥というエリート学校の生徒として小学生のころからきちんと進路を考えていた。
自分も、二人より遅くなるとしてもいずれ自分なりの生き方を決める時期が来る。
その時というのは、それはこのZに出会ったときになるのだろう。
「さ、ユーノ君、朝ご飯食べてきたら始めよう。今日中に洗浄終わらして組み始めようね」
寝ても覚めても考えるのは車のことばかり──今のこれがそういう状態なんだな、とユーノは思っていた。
「ああ。準備して待ってるよ」
シリンダーヘッドとエンジンブロック、クランクケースまで分解されたL28の部品が、作業台の上に載せられ、再び組み上げられる時を待っている。
当たり前のオーバーホールの作業メニューでも、それを初めてイチからやる──ユーノにももちろんその時はあったが、今、なのはは初めてその経験をしている。その初経験を、このL28改ツインターボエンジンで迎える──
ユーノは走りに向いた人間ではないと自分では思っているが、メカニックとして素直に羨ましい──となのはを思っていた。
休み時間、教室の机でなのはがいつものように昼寝をしていると、いきなり、アリサがなのはの手をとってにおいをかぎ始めた。
あわてて飛び起き、もう片方の手で口元のよだれをぬぐう。
「あ、アリサちゃんなにしてるの!?」
「いやー、あのZのエンジンバラしてるなんていうから、オイルくさくなってんじゃないかと思って」
「大丈夫だよ、ちゃんと手は洗ってるって」
なのはの肩にぽんと手を置き、アリサは落ち着いた笑顔を見せた。
小さいころはとにかくはしゃいで、やんちゃでおてんばを絵に描いたようなアリサだったが、こんな顔もできるようになったんだと、なのはは今更ながらに思い返していた。
「あんた、あたしたちくらいしか友達いないもんね!大丈夫だって、たまに差し入れ持ってってあげるし、ひとりで根詰めてばっかじゃもたないでしょ、気晴らしにも付き合ってあげてもいいしね」
「──うん。ありがとう、アリサちゃん」
帰り道、いつものスクールバス。
お気に入りの最後尾の席に急ぐなのはたちに、見知った少女の姿が見えた。
「あれ、はやて!?」
「おひさし……」
やわらかい表情ではやてはなのはたちを迎えた。
「珍しいじゃんはやてがひとりでバス乗ってるなんて、どうそっちのガッコは」
久しぶりの旧友との再会にアリサはすっかりテンションが上がっている。
「ええとこだよ、結構な進学校やから授業はキビしいけど」
「はやてならヨユーでしょー」
「みんな変わりないみたいやね」
窓側の席で頬杖をついていたなのはに、アリサが肘を入れた。
「何ぼけっとしちゃって、疲れてる?」
間抜けな声を漏らして振り向いたなのはに、はやてもやや表情を緩める。
「考えてたんだ、進路のこと」
「は──!?」
アリサの大声がバスの車内に響く。
「あんたがそんなマジメなこと言うなんて、こりゃ明日は雪かしらね」
「ふふふっ、今は夏やでアリサちゃん」
「いちおー進路相談では進学っつってたでしょ?聖祥大の」
「まーね、でもさそれって言っちゃえば決断の先送りでしょ。アリサちゃんやすずかちゃんは、ずっと前からちゃんと目標があったわけだしさ。経済学と、機械工学って」
「んー、まあ家業があるわけだしさ、それ継ぐのに足しになればなってくらいだけどね」
「私はさ……その話したの、たしか小学校の2年か3年のころだったよね、そのころ将来のことなんて何も考えてなかったし、せいぜいが、翠屋でケーキつくったりウエイトレスやったりするのをなんとなくイメージしてただけだし」
普段は気にしていなかったが、車体最後部に大型ディーゼルエンジンを搭載するバスの振動が、なのはには心地よく感じられていた。
「実際にこうして、Zっていう、生活の中心になるものかな、そういうの抱えてみると、今の生活、こーゆうのも悪くないかななんて思っちゃったり」
「そこでそうなるワケ──っ!?」
アリサの強烈なツッコミがなのはの頭に直撃する。
「なんだかんだ言ってそれただのフリーターでしょうがっ!ったく昔からバカだとは思ってたけどここまでとは」
「そんなミもふたもない」
シートに座り直し、こほん、と咳払いをしてアリサは改めた。
「でもま、軸を持つのは悪いことじゃないわよ。けして無目的に生きてるわけじゃないんだしね。
その日暮らしのプーちゃんと違って、今のあんたはきっちり目的を持って、バイトでも何でもしてるワケじゃん?
その目的がいいことか悪いことかは別としてサ」
「……うん」
背もたれに大きく伸びをして、アリサは天を仰ぐようにする。
「しっかし、八神先生もフェイトちゃんも、世間からすりゃ羨ましすぎるほどの仕事をしてるのに、何でだろね」
なのはの方に向き直り、つん、と指でおでこをつく。
「あんたはともかく、さ。片や超人気声優、片や不良女子高生、ほんとなら何も接点なんてなかったはずなのにねー」
「ふふ、そうだね」
接点。それは、あの夜あの時間に、湾岸を走っていたということ。ただそれだけだ。
深夜の海鳴大学病院。
仮眠室を出たリインは、帰る前にふと思い立ち、病棟の廊下をひとまわりしていた。
普段の勤務では当直明けでもそのまま帰るリインだが、走りに行く時だけは仮眠室を使っていた。
今は、ポルシェを預けているので本来なら用は無いはずだが、なんとなしに病院に残っていた。
スポーツ走行というのは非常な体力を使う。プロのレーシングドライバーは、1レースをこなすと体重が数kgも落ちるといわれている。それはもちろんストリートの走りであっても、ドライバーの肉体にかかる負荷は当然同じだ。
フェイトが入院している病室の前まで来たが、中はのぞかず、通り過ぎる。
あの少女は見かけよりもずっとスピードに取りつかれている。
一日でも、車から離れていたくない。見て見ぬふりをするのは医師としての職業倫理にもとるのかもしれないが、同じスピードに魅せられた者として、リインもまたフェイトの気持ちは痛いほどに理解できた。
たとえドクターストップをかけたとしても、彼女はまた走り出してしまうだろう。
つらいことは、経験しなければ理解できない。
そして、本人に理解しようとする意志があるのならば、それは必ず乗り越えられる。
常盤台郊外の貸し倉庫に、空冷エンジンのプロペラ音が響く。
ロードテストから戻ってきたスカリエッティはガレージの中に911を入れ、リヤのエンジンハッチを開けた。
ポルシェ911ターボのRRレイアウトは、後車軸のさらに後ろに、車体からぶら下がるようにしてエンジンが取り付けられている。
純正のターボでは、車体を真後ろから見て左側後部にターボチャージャーが位置する。
そこから真上にパイピングが伸び、エンジンの上、リヤハッチの下にインタークーラーが配置されている。
インタークーラーはIHI製で、フィンピッチは荒めで走行風の抜けを重視している。
「なるほどね……ポルシェをよく知っている人間が手を入れている。
ノーマルのよさを生かしてきっちり基礎は作りこんである……だがまあ、確かにこれだけでは湾岸はツラいね。
タービンはツイン、左右振り分けでいくか。リヤハッチにエアスクープをつけてインタークーラーも
大きくする……ブーストはやはり1.2にオトして、圧縮比の低下も抑えないとね」
つぶやきながらチューニングプランを練っていると、後ろで足音がした。
「そんなのほっといてくださいよ」
スカリエッティが振り向くと、そこにはスウェット姿のフェイトがいた。
寝起きで寝間着のまま出てきたといったような、汗でくたびれた姿で、目にも憔悴と狂気の色が強く出ていて、これがあの有名なフェイト・テスタロッサだといわれても一般のアニメファンには信じられないだろう。
「私のが先でしょう、全然直ってないじゃないですか」
「おいおい、大丈夫かね。まだ退院したという話は聞いていないが」
腕と頭には包帯を巻いているが、これは傷跡の処置の途中だ。処置が終わればきれいな肌が戻る。
だが、それでもフェイトは予感していた。今きっちりやっておかないと、かならず後でしっぺ返しが来る。
もし本当に、あのZと走り続けたいのなら、少し、ほんの少し、我慢しなければいけない。
そうしなければ、二度と取り返しのつかないことになる。
芸能人のマネージャーというのは実に多忙な仕事だ。おおぜいのスタッフたちとの折衝、スケジュール管理など。
東京都内某所、Kレコードのオフィスで、アルフは打ち合わせに出ていた。
その中で、今後のフェイトの出演作品のスケジュールが議題に上がった。
プロデューサーは、3か月ほど空けることができる、と言った。
その間にきちんと完調にもっていってくれ、と。
普通の声優なら、こんなにスケジュールに無理を聞いてもらえない。
それだけでも、フェイトがどれだけ信頼されているかがわかる──が。
「フェイトちゃんは本当にノビるよ、僕もティンときたからね」
妙な口癖だが、彼の選別眼は確かだ。それゆえに、フェイトには選りすぐりのスタッフが配属され、
ステージパフォーマンスやコンサート、ライブにもリソースが惜しみなく投入されている。
「あー、高木サンも以前はご自身でプロダクションやってたんでしたっけ」
「これからはね、単なるタイアップじゃなくて、アニメと楽曲と、総合的に売り出していくことが大事だよね。
だから単に声だけやってればいいってものでもないんだよ、キャラってのは絵と声と背景が組み合わさって初めて成り立つんだから、専門ってのは言い換えればソレしかできないってことだからね」
「ですね」
たしかにフェイトには才能がある。それを伸ばすための努力もしてきた。
だが、周囲の人間が思うほど、器用ではない。
アルフにはわかっていた。そしてそれは、従者として先輩であるリニス、彼女が仕えていたプレシア──
イタリアの故郷にいる彼女らと、同じ姿が重なっていた。
打ち合わせが終わった後、アルフがオフィスを出ると、フェイトはビルのエントランスで、ちょうど真正面に見える首都高5号池袋線の高架を見上げていた。もちろん昼間は多くの車たちがゆったりと流れ、とても攻められるような道ではない。
夜のひと時だけ、首都高は別の顔を見せる。
「ほんとに好きだねフェイトも」
「去年だっけ?池袋線でタンクローリーの横転事故があったの──火災のせいで高架の強度がオチたとか」
「考えてたのはそんなことじゃないだろ。──テスタが直ったらまた走るのかい?」
フェイトは少し逡巡したが、やがて、小さく、もちろん、と答えた。
「無理はするなよ、本当に。高木サンも心配してくれてたから──」
「──わかってる」
走りに限らず、歌でも、うまい人間は不調を隠すことができる。だが、見るものが見ればそれは分かってしまう。
いくら腹から声を出し、喉に負担をかけない歌い方をしても、それは実際に出力される音として何も見分けがつかなくても、本人が無理をしているのは分かってしまう。
「あの海鳴大学病院の先生──ブラックバードだって、フェイトのこと気づいてるよ。
本人がいくらいいコト言っても、医者の目はごまかせないって」
治療をするなら、その間走りは休止しなければならない。
それがゆえに、フェイトは決断できずにいた。ほんのわずかな時間でも、車から離れなければならないことに強い不安と焦燥感を抱いていた。それはもう、病みつきと表現されてもおかしくないのかもしれない。
どこかで自分は違うと思っていた──
だが、それは、否定したところで意味はない。自分がそういう人間なんだと認めるしかない。
華やかなイメージのあるオフィス街からそう遠くない場所に、すぐそばに隠れるようにして繁華街の雑踏、そして陰気な裏通りがある。
日本ならでは、いや、東京ならではの光景だと、クロノは思っていた。
たしかにアメリカにもスラム街はあるが、どこかからりとしている。
自分が生きていくべき場所──生きていたい場所。
それは、まだ探している途中だ。
「どうだいクロノ、もう一週間だけど、慣れたかい?」
「……まあな」
「そんな辛気臭くなるなよ、まだまだこれからだよ」
そう笑った男の名はヴェロッサ。六本木の片隅で暗躍する外人風俗界で、今一番の人気ホストと目される男だ。
クロノはそんなヴェロッサに、よく目をかけられてつるんでいる。
リーゼ姉妹が評する通り、もともとクロノは厳格な軍人家庭の生まれで生真面目な性格を持ち、小学校からずっとエリートコースを進むための教育を受けてきた。
幼いころはまだ何も疑問を持たずにやってきたが、父クライドが身を置いていた走りの世界を知り、父がなぜその世界を選んだのか知りたくなっていった。
家庭でも、そんな父の早逝を気にするそぶりを全く見せなかった母リンディへの反発もあった。
父さんは、どうして、どういう気持ちで生きていたんだ。それをクロノは知りたかった。
年相応の背伸び、格好つけ。もちろんそれだけでこの世界に飛び込んできたような人間もいる。
痛い目を見て逃げ帰ったり、そのまま堕ちてしまったり。
だがヴェロッサは、クロノには何か一本通った芯のような強さがあると感じていた。
「朝まで客と飲んで終わってからモーニング食べて、でダラダラ寝てまた夕方から出勤か……感覚狂うよな」
「サウナに行くかい?頭がすっきりするよ」
「いや、やめとく──お前目が危ないぞ」
そういえば、とヴェロッサが視線を走らせた。
「君の車はどこにとめてるんだい?すごく速いって話じゃないか」
「ああ、いちおー寮の裏を貸してもらったよ。あそこは近所のコたちも集まってるんだな」
「まあ暴走族のたまり場みたいなもんだけどね。そーか、社長が許可してくれたか」
「いい人だな」
「いい人だよー」
今まで、だましだまし走らせてきたがもうあのスープラも限界だろう。車体全体をやり直さなければもうもたない。
だが、それでも走り続けていなければ、心がさび付いてしまう。
外人パブに集まるのは、何も舶来好きの日本ギャルだけではない。
日本に住んでいる外国人も、なじみのある人種を求めてやってくる。
「あれ?」
カウンターの向こうで手を振っている見知った顔を見つけ、クロノはスーツの襟を直しながら歩み寄った。
「よーおクロスケ、ホスト姿キマってるねおにーさん」
「酔ってるのかロッテ……今日は何で来たんだ?」
「んーアリアに送ってもらった!大丈夫だって、帰りはタクシーよぶから」
普段から調子のいいロッテは酒が入るとさらに活発になる。クロノに抱き着きながら、さらに片手でグラスをあおる。
「仕方ないな、絶対僕をアシにする気だっただろ」
「わかってますこと」
ロッテを連れて、クロノは少し早い夜の六本木に出た。
店を出ると、ちょうど首都高環状線の高架がビルの谷間から見える。
表の六本木通りの真上を、霞が関から谷町まで、赤坂ストレートが通っている。
スープラは環状線に上がり、すぐに浜崎橋から台場線へ向かった。
ナビシートにはロッテが座っている。
「いやーアフターにも付き合ってくれて、いいなーチップはずんじゃうぞー」
レインボーブリッジの上をゆったりと流れている一般車は、まだ少し多い。
この時間、湾岸をおりていく車はところどころにかたまりをつくる。
「少しまずい流れだな……」
「おっ、あんたもそういうのわかるようになってきた?」
酔っていても、走りとなればロッテの目は鋭くなる。
有明ジャンクションを右へ曲がり、湾岸神奈川へ向かう。
リインはひととおり仕上がった911の感触を確かめるため、湾岸を往復していた。
本牧から上がって東行きを千葉まで走り切り、いったん降りて西行きに乗りなおす。
首都高を走る者たちは普通はできるだけ少ない料金で周回しようとするため料金所やインターチェンジでの乗り換えを避けるが、リインは迷いなくこの最高速コースを選んでいた。
有明ジャンクションを通過してしばらく過ぎたとき、台場線からの合流車に速い車が数台いるのが見えた。
「(攻めているか────!)」
前方は軽いクリア状態だ。リインは4速のまま、アクセルを踏み込んでいく。
ハーフスロットルからの踏み足しでもしっかりエンジンがついてくるようになった。
「スープラに32R……あのスープラは例の?」
見たところ、スープラがRに絡まれている感じだ。だが、おそらくRのドライバーは気づいていない。
流れる一般車に混じって、自分を狙っているアクシデントがあることを。
たしかに、R32に始まる第2世代GT-Rは、当時の車を圧倒する高性能を持ち、レースで無敵の速さを誇ったのも事実だ。
だが、それはあくまでも当時の話だ。どんな車であっても時の流れには勝てない。
R32型のデビューは1989年、もうデビューから20年がたつ。時を経ればボディもエンジンもくたびれて性能は落ち、中古車の価格は落ち、そして入手もしやすくなる。
だがそれは、GT-Rの価値がわからない、本当に乗りこなせないような人間にも、容易に手に入れられてしまうことを意味する。
「くるのか、R──たしかに乗りやすくて速くていい車だ──だが、きちんと自分のものにできているか!」
リインの911を見つけ、獲物が増えたと思ったのだろう、Rはさらに加速してきた。
大井の直線で、いっきに左から抜きにかかる。
「(速すぎる!流れに乗れていない──車の速さに乗せられているだけだ────!!)」
ポルシェを抜き去っていくRの後姿を見て、リインは表情を険しくした。
直後、前方の走行車線にいたトラックが、不意に追い越し車線に移ってきた。
スピードが乗りすぎていたRはそれをよけきれず、急ブレーキで大きく姿勢を崩した。
中央分離帯にノーズをぶち当てたRはコマのようにスピンし、反対側の側壁に当たって火花を散らしながら滑る。
リインは911のステアリングに素早いひと振りをくれ、RR独特の重いテールスライドを繰り出してRの残骸を回避する。
スープラもその後ろを追ってくる。バックミラーの中で、ボディから外れて転がったRのエンジンをトラックが蹴散らす。
「(すぐに検問が始まる──このまま浮島料金所は通過できない、東海から横羽へ昭和島合流だ)」
横羽線経由で東名高速への進路をとる911を、スープラも追走する。
「ロッテ、あのポルシェはいったい……」
「今の事故で湾岸はしばらく走れない。一瞬で状況を先読みして総合的に判断できる──
並の走り屋じゃないよ。公道を長年走って身についた経験だ。さすが、湾岸の黒い怪鳥といわれるだけはある」
「僕たちもついていくしかないな。ヘタに別ルートにそれて検問に引っかかったらおしまいだからな……」
「東名に抜けて──どこまで行く?」
「──どこまでも」
もうすっかりアルコールが抜けたのか、落ち着いた低いトーンの声でロッテがつぶやいた。
「いいよ。ついていく」
ビルの谷間をカーブしながら走り抜ける高速道路を、ポルシェとスープラはつかず離れずの距離で駆け抜けていく。
彼らが目指す先には、闇しかない。
東名高速を神奈川県の端まで走って、スープラは箱根スカイラインにたどり着いていた。
峠道の非常帯に車を止め、外に出て一息つく。
「星がたくさん見えるねー。都内とはえらい違いだ」
クロノはスープラのボンネットを見つめ、黙っている。
「どーしたクロスケ?」
「──考えてたんだ」
「あててみせよーか?コイツを速くする方法だろ」
当てるまでもないだろう、とクロノは苦笑してため息をついた。
あのポルシェについていけなかった。環状から3号渋谷線に入ってすぐのあたりで振り切られてしまった。
パワーが違うのか、ウデが違うのか──
自分一人でやれることには限界がある、キチンとしたチューナーに依頼して車をつくってもらわなければならない。
かといって、今のクロノにそんなあてがあるわけでもない。
「今日はあの緑に聞きに来たんだよ、あんた結構無理してないかって気になってネ」
「ヴェロッサだ。名前くらい憶えてやれよ」
「まーま。でも、クロスケ、意外と楽しそうじゃん?水があってるのかな」
ロッテはちょこんとスープラのフロントフェンダーに腰掛ける。
ひとたび自分の33Rに乗れば、可愛い顔に似合わないアグレッシブな走りを見せるが、今のロッテはまるで子猫のようだ、とクロノは思っていた。
「浮気してっとエイミィちゃんにしばかれるゾ」
「わーってら……」
それはともかく、とロッテは咳ばらいをした。
普段は茶化していても、走りへの情熱は本物だ。
「ほんとはね。お父様に、クロノを頼む、って言われたんだ」
お父様。リーゼ姉妹がその呼び名を使うとき、その相手とは、在日米軍横田基地の重鎮、ギル・グレアム提督だ。
クロノはロッテの案内で、横田基地内の家族住宅の一角にスープラを持ち込んでいた。
輸送用のコンテナを改造したガレージがあり、そこが臨時のファクトリーとなっている。
グレアムがクロノのために用意したという、スープラのチューニングパーツがすでに届けられていた。
「こんなに大量の……パーツだけでも2万ドルは下らないだろ」
倉庫の床に積み上げられた、HKSやトラスト、アペックスなど、日本の有名チューニングメーカーの
ロゴが入った段ボール箱を見渡してクロノは唸った。
新品のタービンキット2基、エンジン内部の強化パーツ、足回り。
これらをすべて組み込めば、今まで使っていた中古パーツとは比べ物にならないパワーを出せるだろう。
「君にそれだけの投資をするということだよ」
「!」
貫録を感じさせる老紳士の声にクロノはとっさに振り向いた。
そこにいたのは、まぎれもなく、あのギル・グレアムだった。在日米軍の長老格として、プレスの前にも出ることがある。
クロノの母リンディが所属する横須賀基地でも、一目置かれる名提督だ。
「クライドは私の部下であると同時にかけがえのない友人だった」
「……父さんを、知っているんですね。僕も、知ってます。
小さかったから、覚えてないと思ってたかもしれませんが……」
「君は確か3つか4つのころだった……まだ小さかったから、悲しみもそんなに深くは残っていないと思っていた」
確かに、そうだった。クロノも、物心ついてからクライドが既に亡くなっていることを知った時、どこか実感ができなかった。
自分にとって、父は最初からいなかった。かすかに覚えているような気もするが、それでも、クロノにとって家族とはリンディだけだった。それから、アースラのクルーたち。
「スープラのチューンはわたしも手伝います」
「彼女はマリエル・アテンザ軍曹だ。普段は戦闘機の整備をしているが、車ももちろん扱える」
そう言ってグレアムは眼鏡の若い女整備士を紹介した。
マリーはタブレットPCを開き、バイナルグラフィックをまとったスープラの完成予想図を見せる。
タービンはギャレット・エアリサーチ社製GT3037をツインで搭載する。
これにより出力は常用900馬力となる。
「提督……僕に、投資をする、と言いましたが」
「──夢を見させてほしいんだ。クライドの果たせなかった夢を」
「父さんの……?」
公道最速。その称号は、たしかに日の当たる世界では通用しないのかもしれない。
そんなものを目指したところで誰も褒めてくれないのかもしれない。
それでも、ある種の人間たちを強く惹きつけるのは事実だ。
「クライドの見ていた夢は、彼の命を代償にした。投資をすると表現したが、君が本当に支払うべき対価は金ではなく命なんだ。
リンディから君が日本に来ると聞いたとき、私はアリアたちに君のことをみてほしいと頼んだ」
「ええ──聞きました。提督は、僕が無茶をしないよう、彼女たちに見張らせたんですよね」
「場所を変えよう。少し、昔話をしよう。アリア、ロッテ、君たちもきたまえ」
「はい」
クロノたちはグレアムに従い、横田基地のコモンホールへ向かった。
思えば、横須賀でも母の職場にはあまり行かないようにしていた。
家族とはいえ身分は民間人だし、それに、将来軍に入隊する気もなかった。
だが、今はそれとは別の理由で、この世界に入ってきた。
この世界を知る。父のいた世界を知る。それが、クロノの願いだった。