SERIES 4. 幻の最高速ランナー
クライド・ハラオウンがジャパニーズ・スポーツカーに出会ったのは、1970年代のカリフォルニアだった。
当時、日産(ダットサン)が発売した初代フェアレディZ、アメリカ名「240Z」が、爆発的なヒットを飛ばし、世界中の車が集まる米国市場で急速にその地位を拡大してきていた。
すでに高性能スポーツカーとしてレースシーンを席巻していたポルシェ911ターボに迫る性能を持ち、さらに価格はその半分。
現代にいたるまでの、「安価かつ高性能」という、日本製工業製品のアイデンティティを決定づけた車だった。
その当時から、日米問わず、走り屋たちにとってのZはポルシェのライバル、ポルシェターボ撃墜を最終目標とされたマシンだった。
フェアレディZは、製造コストを引き下げるため、エンジンや足回りなどの主要コンポーネントを他の車種から流用した。
搭載されるL型エンジンは、もともとは高級セダン用のもので、パワー志向の性格ではなかった。
だが、高級車ゆえの静粛性重視の設計のため、エンジンブロックは相当分厚くつくられていた。
部品としてのエンジンブロックは鉄の塊であるため、厚みを増すことは重量増に直結し、運動性能を重視するスポーツカーではマイナス要因になりうる。
だが、重量が大きいということはそれだけエンジンブロックが頑丈ということだ。
つまり、チューニングによってパワーを上げても、エンジンが出力に耐えるということである。
エンジンパワーは、「出せる」ものではない。
出したパワーにエンジン自身が「耐えられる」ことが肝要なのだ。
エンジンが壊れるというのは、エンジンが自らの発揮するパワーに耐えられなかったことを意味する。
その点で、日産L型エンジンは比類なきパワーを秘めていた。
それは、時代が下り、Zがモデルチェンジし、エンジンがVG型に切り替わっていっても、なお不変の魂だった。
クライドが当時暮らしていた、アメリカ合衆国はユタ州、ソルトレイクシティ。
初代S30Zのデビューから数えること22年、S30型から3代数えたZ32型フェアレディZが、世界中のスポーツカーの頂点に立つことをめざし、アメリカに乗り込んできた。
戦う舞台は、ユタ州グレートソルト湖・ボンネビルスピードウェイ。
塩湖が干上がった広大な平原に設置された最高速ステージに、その日本製スポーツカーは現れた。
JUNオートメカニックの手によってチューンされたZ32フェアレディZは、エンジン出力1000馬力オーバー、速度にして実に424.74km/hという前人未到の記録を打ち立てた。
若き日のクライドに、その印象は強く焼き付いたものだった。
チューンドカーの世界。
単にストック状態でスピードを出すだけならば、アメリカのシェルビー・SSC、ドイツのブガッティ・ヴェイロン、イギリスのマクラーレン・F1などがある。
だが、これらの超高価格車たちをもってしても、Zの記録を打ち破ることはできなかった。
伝説の最高速マシン。
そんな、街場の走り屋たちの心をとらえたのがZ、そして日本製チューンドだった。
クライドもまた、そのひとりだった。
ハラオウン家は優秀な軍人を多数輩出しているアメリカ海軍の名門である。
横須賀基地に駐留する第7艦隊所属として日本への赴任が決まった時、クライドは内心小躍りしたものだった。
現代でこそ、アメリカでもスポコンブームをはじめとした日本製チューンドカーが広まっているが、クライドが現役の頃はまだまだ少数派だった。
カミナリなどのアメリカ独自ブランドもあるにはあったが、車両はディーラーで購入できても日本の最新チューニングパーツを入手するには煩雑な輸入手続きもあり、なかなかおいそれと手の出せるものではなかった。
本場のチューニングカーに触れたい。
その思いを胸に秘め、クライドは日本に、そして首都高にやってきた。
速ければ、それが日本人だろうとアメリカ人だろうと受け入れる下地はあった。
多忙を極める軍務の合間を縫って、走りに出たりショップを訪ねたり、クライドはすぐに首都高の走り屋たちに馴染んだ。
そして、クライドと同じように日本での走りを嗜んでいたもう一人の軍人に、出会うのはある意味必然ともいえた。
「提督も走りをされてらしたんですか……?」
クロノは恐る恐る尋ねた。
グレアムほどの人間ともなれば、立場上、危ういことが表に出るのは絶対に避けなければならない。
それでも、とりつかれてしまう魅力がある。
スピードの魔力とはそれほど強いものなのだ、と、グレアムは静かに語る。
グレアムもクライドも、軍務という仕事の性質上走る日自体がそれほど多くないため、湾岸でも見かける者はまれだった。
2台でつるんで走る、おそろいの銀色に全塗装されたダブルエックス2.8とコルベットZR-1は、当時の最高速ランナーたちにとってはひとつの伝説だった。
幻の最高速ランナー。
そうあだ名されたクライドは、80年代末の時点でも既に旧型モデルとなっていたダブルエックスを、当時最新の1JZ-GTEエンジンに載せ換えて500馬力以上にチューンし、大台(300km/h)を出す走り屋として知られていた。
彼ならば、あの悪魔のZやブラックバードにも勝てるだろう。
そういわれていた。
だが、その勝負はついに実現することはなかった。
クロノは黙ってグレアムの話に聞き入っていた。
二人のティーカップはいつしかすっかりぬるくなっていた。
確かに、つまらないこだわり、思い出に浸っているだけ、そう思われても致し方のないことかもしれない。
だが、グレアムはクロノが日本に来ると知った時、どうしても放っておけないと思った。
クロノが本当はどちらへ進もうとしているのか。
ただ単に過去を振り返り、父の面影だけを探そうとしているのか、それとも、父の想いの真実を知り、その上で自分を前に進めようとしているのか。
車は楽しいだけのものではない。
それを実現するための生活基盤を含めて、人生の過ごし方の大きなウェイトを占めるものだ。
給料のいい仕事をして、その稼ぎを全部つぎ込むのもいいだろう。だが本当にそれでいいのか。
仕事をしている時間は、ただ金を稼ぐためだけに、無為に費やされる時間なのか。
クロノは思い切って口に出した。
「提督、実は僕、一度ブラックバードに会っているんです」
グレアムはかすかに目を上げた。
老巧な表情の陰に見え隠れする闘志はまだ衰えていないのだ。
「ロッテと一緒に乗っていた時です。あの911ターボは本当に速い車でした──まだまだ、速くなっていく気がします」
「ブラックバード、という二つ名は、実は私とクライドが言い始めたものなのだよ」
「そうなんですか?」
「SR-71という超音速偵察機は知っているだろう。我が空軍が開発した、世界最速のジェット戦闘機──
──その愛称になぞらえて、あの黒いポルシェターボを“ブラックバード”と呼んだのだ。
ドイツ本国でのRUFイエローバード(ポルシェをベースにしたチューンドカー)にもちなんでいる。
この愛称は向こうも気に入ったようでね、それ以降、自分でもブラックバードと名乗るようになったのだ」
ブラックバード。それはグレアムにとっても、またクライドにとっても、日本で走り始めてからの永遠のライバルのような存在だった。
日本のストリートレースにおいてどこか敬遠されがちな欧州車を乗りながら、有無を言わさぬ速さを備えた実力派の走り屋。
金持ちのお嬢だの、所詮車がいいだけだの、陰口は少なくなかったが、その速さは誰もが認めていた。
1989年、R32型GT-Rのデビューを皮切りに、日本の自動車メーカーは続々とハイパフォーマンス志向の車種を投入していった。R32GT-Rの登場によって、ようやく日本車はポルシェと対等に戦えるようになったのだ。
堰を切ったようにチューニングもエスカレートしていく中で、安かろう悪かろうと言われた時代の日本車を300km/hオーバーの速度域へもってゆくクライドの走りは、ある意味皮肉なものでもあった。
「GT-Rより前の車は古い……父さんの乗っていた車もそうなんですか?」
「うむ。スープラでいえばA70系以前か。クライドのスープラはA60系だ。これらの世代の車たちは、一般向けの大衆グレードがあってその上にスポーツグレードが置かれる……
つまり、もともとただの乗用車だったものをチューンして上位車種のように仕立てていたんだ」
「つまり基本設計として古い──と」
「GT-Rが日本のツーリングカーレースを軒並み制覇したのは知っているだろう。
レーシングカー、たとえばラリー車などでもそうなのだが、まずレースに参戦するための車があり、そしてそれは市販車両をベースにしているというレギュレーションがあるために、外観や構造を似せた車を作って市販する──
そういう作り方を、その頃まで日本のメーカーはやったことがなかったんだ。レースに出るにも、市販車両をチューンしたものを使っていた」
「われわれアメリカやヨーロッパの車は違うんですか」
「少なくともモータースポーツというジャンルとしては日本より古くからあったわけだからね──
たとえば、バックヤードビルダーという業種がきちんと成り立っているということもある。
市販のスポーツ系車種を、きちんとレーシングカーに仕立て上げる、それがビジネスとして成り立っている。
またそういうコトが社会的にも認められている。日本のカスタムカー事情はこれとは全く環境が違う──」
だが、それゆえにクライドも引き込まれた部分があった。アメリカは広大な大地を自分一人だけで、自分の車で移動する必要があるという背景から、オーナーが自身の車を自ら整備するという習慣が強い。
日本のチューニング業界──違法改造車、などという呼ばれ方をされていた頃から、性格としてはそういったアメリカン車に近いものがあった。誰にも頼めないから、自分で技術を身につけるしかない。
そうやって自分で車を整備する技術を身につけた者が、金をもらってほかの車の改造を代行する。
そんな個人ガレージから大きなショップになった例が日本にもいくつもあった。
もっとも、日本の自動車メーカーたちが目指していたのはあくまでもヨーロッパ的な、“礼儀のいい”ものだった。
だからこそ、それに反発したチューニング業界はアンダーグラウンドに潜っていったのかもしれない。
丸裸にされたパイプフレームシャーシに、巨大な水平対向12気筒エンジンが鎮座している。
左右の各バンクにそれぞれ独立したインジェクションシステムを取り付け、構造としては
2.7リッターの直列6気筒エンジンを2基積んでいるような構造に近い。
それによって駆動されるリヤ2輪はさらにインチアップし、タイヤサイズは実に335幅の18インチとなる。
「ECU(エンジン制御コンピュータ)のプログラムも自分で書くんですね」
背後からかけられた声に振り向かず、スカリエッティは笑いながら答えた。
「まあー、このマレリは本国でさんざんイジったからね。それであれかね、君が最初に持ち込んできたNOSはそのまま付けるとゆうことでいいのかね」
「お願いします」
「くくく、ドライブシャフトがちぎれ飛んでも知らないぞ。この排気量にNOSを打ち込む──
NOSにより増量される酸素量は約50パーセント増し、単純計算でも8リッター級のエンジンになる。
2輪駆動のMRレイアウトで制御できる自信は正直ないよ」
「制御します、私が」
「いーねぇ、やはり私の車を乗る人間はそれくらいの意気込みでなければ」
テスタの隣に置かれている黒いポルシェターボを、フェイトはちらりと横目に見た。
知識としてならともかく、ポルシェ自体にはさほど興味をひかれなかったが、それでも、現代となってはもはや型遅れである2輪駆動の964を、桁外れのスピードで走らせていたあのドライバーには、意識を向けざるを得なかった。
悪魔のZに挑むということは、そのとき必ず、近くにこのブラックバードもいる。
穢れを知らないような純白を纏ったZとは対照的に、すべてを飲み込んでいくような闇の色をしたポルシェ。
この車にもまた、魔力がある。
エンジンクレーンのチェーン音がガレージに響く。
L28改ツインターボエンジンは、1か月以上かけてようやく、Zのボディに再び収められた。
すべての補機類を新たに接続し直し、燃料、冷却水、オイル、電力などがすべて問題なく供給されていることを確認したうえで、はじめてエンジンをかける。バッテリーも設置位置を変更して軽量タイプに交換した。
メーターパネルには新たに電圧計と電流計を取り付け、エンジンの点火状態を監視できるようにしている。
L28のような古いキャブレター式エンジンでは、点火制御の正確さもより要求される。
とにかく強い火花を飛ばせなければ話にならない。アナログな機械制御であっても、拾えるデータはすべて拾いたい。
それはなのはとユーノの考えでもあった。
通常、エンジンキーのポジションはOFF-ACC-ON-STARTの4つがある。
OFFは完全に動力が切られている。ACCはアクセサリーの略、室内灯やオーディオなどに電力が供給される。
ONは通常走行の状態、すべての機器が作動する。STARTではそれに加えてセルモーターが回る。
ゆっくりとキーを差し込み、いつもそうしていたようにONのポジションで数秒間待つ。
燃料ポンプが作動してからキャブレターにガソリンが溜められるまで、高度な電子制御がある現代の普通乗用車ならまったく必要のない操作だ。
だけど、それはひとつひとつ、この車と向き合う儀式をこなしていくようなものだ。
「風は空に、星は天に、輝く光はこの腕に──不屈の心はこの胸に!」
キーを始動位置へ回す。全電力が一気にエンジンに流れ込み、セルモーターが回り、燃料が噴射され始める。
風──、空気の流れがターボチャージャーを経てインマニからエンジンへ導かれる。
星──、6個のシリンダーに埋め込まれた12個の点火プラグがきらめく星のような火花を散らす。
光──、メーターパネルに闇夜に浮かぶ光が灯る。
絶対に挫けることのない、この鼓動。L28改、ツインターボ。
「レイジングハート、セットアップ。アイドル、油圧、油温、水温、OK──OK、Z!」
Zのコクピットで叫びながら、なのはは再び、この車が自分の手足のようになじんでいくのを感じ取っていた。
長かった。元に戻るまでの1か月、本当に長かった。
けしてあきらめることなく、前を目指し続けた。そして、Zはそれにこたえてくれた。
機械は嘘をつかない。機械に見放されるのは、いつだってそれを操作する人間──乗り手の問題だ。
再び、このZで走り出す。なのはは走り出す。純粋な白の魔力を纏って、悪魔のZが再び走り出す。
夜遅く、トイレに起きたヴィータは、はやての部屋に明かりがともっているのを洗面所の窓から見つけた。
こんな遅くに何をやっているのだろう、そう思ったヴィータはそっとベランダに出て、隣に見えるはやての部屋をのぞきこんだ。
本を開いている。
革製のアンティークデザインの本の形をした、キーケースだ。
中のページ部分がくりぬかれ、小物を収められるようになっている。
古い鍵の、キーホルダーに刻まれた、“NISSAN FAIRLADY Z”のエンブレム。
はやてにとって唯一残された遺品は、かつてあの悪魔のZに使われたスペアキーだった。
はやては本を閉じ、備え付けの鎖をかけて、厳重に封印する。
もう、この封印は二度と解かれることはない。
悪魔のZの魔力は、この本に封じ込める。そして、自分が墓場まで持っていく。
自分にできることはそれくらいだ──
「な、リイン──私はいつまでも過去を見てたらやっていけんよな──」
本を、棚に戻す。
参考書や学習事典に挟まれて、魔力を封じ込めた闇の書は、ひっそりと眠りにつく。
ベッドに戻るはやてを、ヴィータは何もできずにじっと見つめていた。
数日後の海鳴大学病院。
その日の終業時間が近づき、当直当番への引き継ぎをしていたリインに、病院の館内放送で呼び出しがかかった。
『形成の八神先生──外線2番にお願いします──』
事務室へ向かい、電話に出たリインの耳に、狂気を隠せない男の声が届いた。
「仕上がったんですね。それにしてもずいぶん早かったですね」
『あのお嬢さんがどうしてもきかなくてね、折角だから君も呼ぼうと思ってね』
「この間病院を抜け出してあなたのところに行っていたそうですね」
『ああ、早く直せとさんざん急かされたよ。とりあえずテスタもポルシェもひととおりキマった。
それでどうだね、お嬢さんの方は9時には来るそうだが』
「ええ、私もあと少しで今日は終わりです。その時間でいいです」
『待っているよ、ブラックバード──』
ガレージを出たテスタと911が、それぞれのアイドリング音を静かに響かせる。
お互いに、それぞれの車に乗るのは久しぶりだ。
リインはフェイトの方を見やり、鋭い視線を送った。
「フェイト・テスタロッサさん……でしたよね。なぜ精密検査の結果を聞きに来ないんです」
フェイトは一瞬息をのむが、すぐに平静を装う。
「──医者は、あんまり好きじゃないの」
「おいおい、いきなりここでおっぱじめないでくれよ」
茶化すように後ろからスカリエッティが言う。
フェイトには、思い出したくない過去の光景があった。
膝をついてくずおれた母の背中。駆け寄るリニスの狼狽えた表情。絨毯に散った鮮血。
幼い日の、拭いがたい負の記憶──
「それよりも、さっそく慣らしに行かない?お互い、錆落としが必要なのは同じなんだし──」
「…………」
フェイトはテスタのコクピットに座り、アクセルをあおる。
リインはその様子をしばらく見つめ、そして背を向け、911に乗り込んだ。
スカリエッティは911のナビシートに座る。
「ベース車両としてのポテンシャルはどちらが高いんですか」
唐突な質問に、スカリエッティは歯を見せて笑った。
「そりゃあ、こっち(911)に決まっているがね。テスタは所詮ロードカーゆえの妥協が数多くある。
キャビン拡大のためのエンジン搭載位置の高さ、それによる重量バランスの悪化、排気量だけはデカくても高回転で回らない重ったるいエンジン……がそんなコトよりも、彼女自身が望んでいるのだよ。
ギリギリの領域に自分を置き、その時間と空間に生きていることで、自分の命を確かめたいんだ。
それが彼女なりの克服の仕方──何を克服するのかは知らんがね」
先に出たテスタを追い、911を発進させる。下道では、無駄にトバさず法定速度で走る。
ピークパワー重視のチューニングエンジンの場合、このような低回転域ではまともにトルクが出なかったりするものだが、このテスタと911はどちらも、まるでノーマルエンジンであるかのようにスムーズに走る。
見てくれがどうあっても、チューナーとしてのスカリエッティの腕は確かだ。
「似ていると思わないかね?──ブラックバード、君の走りに」
リインの脳裏にちらついたのは、幼いころの、無垢なはやての笑顔だった。
彼女が、憂いを含んだ表情しか見せなくなったのは、いつのころからだっただろうか。
湾岸線を、銀のスープラが走っていた。
だが今夜ステアリングを握っているのはクロノではなく、マリーだった。
とりあえず現時点でのボディとエンジンの様子を見るということで、グレアムを横に乗せて首都高を周回していた。
「似ていましたか?彼は──」
マリーの質問に、グレアムは遠くを見るような目をした。
「ああ……。本当に、アイツと一緒にいるような錯覚をしたよ」
クロノの真っ直ぐさ。
いつでも、目指すべき先を見据えて、絶対に見失わない。
かなうなら、自分が導いてやりたい。
そして、連れて行ってほしい。
クライドが夢見ていた、湾岸最高速、ブラックバード、悪魔のZとの走りへ。
「700馬力くらいかね?」
「ええ。──ただ、かなりロスしてますね。2JでT78ならもっとトルクは出るはずです。
エンジン内部もかなり消耗しているでしょう……
確かに300km/h出るというのは嘘ではないでしょうが、バトルとなれば話は別ですね」
1車線ずつレーンチェンジする。自分でステアリングを握らなくても、このスープラが非常に硬く締め上げた足になっているのはグレアムも分かった。
ツルシの車高調ダンパーに、バネだけをレートの高いものに変える。
素人のセッティングでビッグパワーを押さえつけるにはそうするしかない。
つばさ橋を越え、大黒ジャンクションから横浜ベイブリッジへ向かう。
「あの向こうに横須賀基地がある──リンディもそこにいる」
「わが軍のレーダーでも首都高エリアはサーチできませんね」
マリーはいたずらっぽく言ったが、沈黙するグレアムを見てしばし、慮る。
「──夫だけではなく、息子までも逝かせてしまうことだけは絶対に止めたい」
「彼に降りさせるのですか?」
グレアムは答えず、沈黙する。言葉を探している。
探している答えは、そう簡単に見つかるものではない。
横浜環状線を経由して横羽線に入った時、先行して走る2台の車をマリーとグレアムは見つけた。
一瞬で車内に緊張が満ちる。
前を走っているのは、アサルトライフルのような金属的なガングレーメタリックの塗色を纏ったフェラーリ・テスタロッサ。
その後ろに、すべてを飲み込む闇のような黒色のポルシェ911ターボが続く。
何も知らない者が見れば、外車オーナーがつるんでツーリングをしているように見えるかもしれない。
だが、二人にはわかった。
この2台は本物の戦闘マシンだ。地上の戦闘機。制空エリアは首都高。
そして、黒いポルシェターボの姿は、グレアムにとって忘れたくても忘れられない、永遠のシルエットだった。
よみがえる、過去の光景。
同じように日本に住んで走っていた仲間たちと、パーキングエリアでたわいもないおしゃべりをする。
軍人であることは名乗らなかったし、自分たちも、彼らのフルネームも知らなかった。
皆が興味があるのは、誰がいちばん速いのか、それだけだった。
そのころから、おそろしく速いポルシェターボがいると噂になっていた。
──オレなんか先週250km/hでバンパープッシュよ、もォくやしくて──
──ハタチ前の医大生だって?フザけた駄々っ子だぜ──
──車がいいから踏んでいけるんだよナ、あの小娘は──
──続くかよ、どうせすぐ降りるサ──
違っていた。降りたのは自分たちだった。走り続けられなかったのは自分たちだった。
仕事上の立場が、とか、もうそんなことをやっていられるほどバカじゃない、とか、言い訳はいくらでもできた。
だが、そうじゃない。
本当は怖かった。親友の死に、向き合うことができなかった。目をそらし、背を向けてしまった。
今、もう一度──過去に向き合わなくてはいけない。
昼間クロノに言ったように、自分自身にとっても。
ポルシェのコクピットで、リインは隣に座るスカリエッティに話しかけた。
「今のスープラ──知り合いですか?」
「──運転してた女の方は知らないが、ヨコに乗ってたオヤジは知ってるよ、ようくナ」
テスタとのペースを合わせながら、一般車の流れる速度よりも少しだけ速いペースで走る。
ゆっくりとレーンチェンジして追い越しを繰り返すと、ボディと足回りが煮詰められていてエンジンパワーをきちんと路面に伝えられていることがわかる。なめらかな操作フィールだ。
「あのスープラは最近出てきたんです。若い男の子がオーナーのようですね」
「──気づいていたか、やはり」
「今はまだだが、いずれ上がってくる──以前そう言いましたよね。彼は上がってきます、間違いなく。
あの仲間たちが彼に最高のマシンを与えるでしょう」
横田基地の顧問官提督、ギル・グレアム。
そして、その親友だったクライド・ハラオウン。
リインにとっても、彼らは昔からの縁だった。
「息子さんがいました──彼には。確か、あのころはまだ3つか4つ──
あれからもう20年近くがたちました。あの男の子はもうあのスープラに乗っていてもおかしくない歳なんです」
スカリエッティは神妙にしている。
在日米軍は自分の古巣でもあるし、グレアム、そしてハラオウンの名は聞いたことがあった。
そして、軍での付き合い以上に、走りでのつながりの方が大きかった。
軍という組織の中では所詮一介の軍医でしかなかったが、首都高に出れば、地獄のチューナー、無限の欲望として畏れられていた。
「(おだてられていい気になっていたよ、あの頃の私は──)」
米軍つながりの伝手で、スカリエッティにチューニングを依頼してくる者も多くいた。クライドもその一人だった。
「(私はあんたとの約束を果たさなくてはならないね──あんたの息子が、走り出したというのなら)」
その日、なのはがバイトしているメイドバーに、意外な客がやってきた。
普段はおろしている金髪をツインテールにあげて、大きな黒いリボンをつけている。
この店のカラーを意識したのか、少々ぎこちないしぐさでフェイトはカウンター席に座った。
「(あ、あれ、あのコ、もしかしてフェイトちゃんじゃね!?)」
「(ばっかあのフェイトさんがこんなトコに来るワケねーべ、コスプレに決まってんだろ)」
奥のテーブル席に座っていたオタっぽいグループがちらちらと見ている。
もっともフェイトはそういうのはすっかり慣れていた。
どうせ街に出ても、自分だと気付いてくれる人は、意外と少ない。よく似た別人、と思われるばかりだ。
「おかえりなさいませお嬢様」
とりあえず形式通りの来店応対をし、なのははフェイトにグラスを差し出した。
「よくわかりましたね、ここが」
「あの、ポルシェの人──ブラックバードに聞いたんです。あなたがここで働いてるって」
「ああ──それじゃシャマル先生が話したんだ」
「それで、あの──私たちの車、とりあえず仕上がったから──」
「偶然ですね、こっちもちょうどエンジンのオーバーホールが終わったとこなんですよ」
「オーバーホールを?」
「ここしばらく調子崩してたんで。以前、あなたと走った時も本当は全然エンジンだめで、
いつブローするかヒヤヒヤしながら踏んでました」
フェイトは思わず言葉を失ってしまった。そんな状態で、あれだけ走らせていたのか。
調子を崩したエンジンで、あれだけのスピードで走らせられるのか。
「やっぱり悪いところがあったらちゃんと直さないといけないですよね、ましてや機械ですから、悪いところが自然に治るわけはないんですからね──」
機械に治癒能力はなく、人間にはある。だが、人間もまた、悪いところが見つかって、それを治す方法があるのなら、早く治した方がいいに決まってる。
ほかの客に給仕するためいったん奥に引っ込んだなのはの姿を目で追いながら、フェイトはグラスに口をつけた。
ソーダを加えられたカクテルの、アルコールと果実の酸味がのどに染み渡る。
かすかな違和感を覚え、軽く咳き込む。
店内の薄暗い照明の下で、口元をぬぐった手の甲に黒いぬめりが見えた。
フェイトはなのはのシフトが終わるまで待っていた。
待っていたというよりは、帰るタイミングをつかめずにいた。
もっと話していたいのに、話題が思いつかない。
「えっと、私は次のバイトに行くんですけど」
店の前で立ち尽くしているフェイトになのはがおずおずと話しかける。
フェイトははっと我に返ったように顔を上げた。
「あ、う、うん、いってらっしゃい」
自分がここまで不器用だとは思わなかった。器用な方ではないと自覚はしていたが、これほどとは思わなかった。あの少女を前に何もできなかった。
フェイトは強い後悔の念を覚えていた。
姉なら──と、思い浮かべる。姉なら、もっとうまく会話ができて、すぐになじめていただろう。
──家のことは私にまかせて、フェイトは好きなことをしておいで。母さんの面倒も私が見るから──
アリシアの言葉が、今更のようにフェイトの胸に重しをのせていた。
スカリエッティのガレージに戻ってきた911は再度、足回りの微調整を行っていた。
300km/hオーバーの速度域では、サスペンションにかかる負荷も相当大きい。
しっかりと足のセッティングが出ていなければ、パワーだけあってもとても踏めない。
ピロボール式の車高調をあえて使わず、ゴムと硬質ウレタンのブッシュを用いて限界域での粘りを出すセッティングになっている。
「ところで、お嬢さんの具合は実際どんなものかね。やはりすごく悪いのかね?」
「二度と歌えなくなるかもしれませんね、このままでは」
「ふーん……じゃあなんでもっと強引に病院に入れないんだね?事務所の許可も出ているんだろう」
「あなたならわかるんじゃないんですか?あれだけの事故を起こした車を……さらにパワーを上げてしまうあなたなら」
リインの言葉に、スカリエッティはトルクレンチをいったん作業台に置いて、笑みを顔に張り付けながらゆらりと振り向いた。幽鬼のように、金の瞳がリインを見据える。
「──結局後戻りはできないというわけだね。あのZに魅せられた者は──」
翌日、ラジオ番組の収録を済ませたフェイトは遠見市のマンションにすぐ戻り、近所の貸しスタジオに向かっていた。
駆け出しの頃はよく使わせてもらった。夜はバイトをして生活費を稼ぎ、昼間、すいている時間に借りて歌の練習をする。
今でこそ成功して売れっ子になり、少なくとも金回りに不自由はしなくなったが、フェイトにもそんな下積みの時期はあった。
「ひさしぶりフェイトちゃん、もうすっかりプロの顔になったね、CDとかすごい数売れてるみたいじゃん」
軽く会釈をして個室に入る。
子供のころは、それこそ一日じゅう歌っていても疲れなかった。
イタリアにいたころ、近所の日本人街に一軒だけあった、小さなカラオケ屋にフェイトはよく通っていた。
そこで料金の安い平日日中を選び、一日ぶっ続けで歌っていた。
今は、とてもではないがそこまでできない。
もうこれ以上無理はできない。
海鳴大学病院でみてもらった限りでは、今の段階ならまだ小さな肉芽腫瘍なのですぐに手術すれば治る、とのことだった。
喉の使い過ぎが原因か──いずれにしろ、ただのポリープと違って放置していて自然に治るというものでもない。
手術後、声帯が完全に回復して歌唱に耐えるようになるまで、少なくとも1か月は見なければならない。
その間、何をして過ごせばいいのだろう。
声を出せないので、もちろん仕事は休まなければならない。体力を使い、喉に負担をかけるのも禁止だ。
普通、声帯の手術を受ける場合は、そのために入院する。
無理に日常生活に戻ろうとしてへまをするよりは、きっちり生活リズムを整え、体調を管理してもらった方が楽だ。
1か月以上、自分が湾岸から離れることができるのだろうか。
1か月以上、あの少女に会わずに過ごすことができるのだろうか。
自分は魅せられてしまった。悪魔のZだけではなく、それを操るあの少女にも。
横田基地家族住宅の片隅に据えられた仮設ガレージで、スープラはエンジンを降ろされ、ボディとエンジンそれぞれでの強化作業に入っていた。
ボディは内装やコーティングをいったんすべてはがし、鉄の下地をむき出しにした状態で溶接個所を増やし、補強板を当てて構造強度を上げていく。
エンジンはシリンダー内スロットに強化素材を打ち込み、鍛造ピストンに交換し、各シャフトはタフトライド処理をほどこして強度を上げる。
時たま、非番の兵士が作業の様子をのぞきにきたりもした。
クロノは店にシフトの変更を申し出て、さらに集中的に稼ぐスタイルにかえた。
今までは走り込みのために休日をとったりしていたが、これからスープラが完成するまでは、毎日フル出勤になる。
「若いうちは無茶をしてみるのもいい経験だよ」
「無茶はするが無理ではないだろ、こうみえても体力には自信があるんだ」
「ははは、さすがハラオウン君」
ヴェロッサもそう言って茶化したりしてみた。
寮ではほとんど寝て休息をとるだけ、夕方の開店から明け方の閉店まで、ずっと、騒がしいフロアで女たちの相手をし、酒を飲み、踊り、トークを続ける。
確かに体力も精神力もすり減らす仕事だ。
だが、それはけして無駄にすり減っていくわけではない。
しごかれ、削られた気持ちの、芯が見えてくる。そんな気がしていた。
自分を追い込んで行って、その時、素直な気持ちが見えてくる。
そんな気がしていた。
疲れて眠りに落ちた時、夢を見ることはない。
今は、過去の思い出に浸るときではない──
グレアムは、チューニングの手配はするが、その話に乗るかどうかはあくまでもクロノの意志だと言った。
仲の良い人間なら、好意からタダで手伝ってやったりなどあるが、その対象が車ともなれば、それだけでは済まない責任が発生する。事故った時のリスクなどだ。
改造によって危険になった車を渡し、そのせいで死んだなどとあってはそれは運転者の責任だけでは済まされない。
金は払ってもらう、その代わりに責任もすべて持つ──だから、安心して走っていい。
チューナーに金を払うとはそういうことだ。チューニングにかかる金というのは単にパワーを出すためだけではなく、そのパワーを確実に操れるようにするための費用でもある。客に万全な状態の車を渡すことがチューナーの責任だ。
だから、もうクロノを監視したり、外野から口を出すことはしない、思い切り、気の済むまで走ってくれ。
クロノはその話を受け、そしてグレアムは、クロノがそれで満足し、走りから次第に離れていってくれればいい、と、心のどこかで願っていた。
大音量のダンスミュージックが流れるフロアに、やや気まずそうにして入ってくる少女がいた。
彼女を連れてきたのは、どこかおっとりとした、一見どこぞのお嬢様のような、アメリカ人なら誰もが憧れるような妙齢の日本美女だった。
促され、本革のソファに腰を下ろす。日本人のほうはよく通っている太客でもあるので、ヴェロッサが応対する。
「ひさしぶり、アコースくん。今日は私の後輩をつれてきたんですよ、ほらフェイトちゃん、ごあいさつ」
「こ、こんばんわ……」
雰囲気におされたように、フェイトは縮こまっている。ヴェロッサはフェイトを目上にするように、隣で肩を寄せて笑顔で語りかけた。
「ははは、そんなに緊張しないで、こういうお店は初めてかい?」
「ねーフェイトちゃん、あなたに足りないのは色気だと思うんですよ、こういうとこはいい勉強になりますよ」
「や、でもいきなりこんな──それにこういうとこ、ミウラさんのイメージじゃ」
「あらぁ、今は演歌も海外で人気なんですよ」
彼女は声優界でもフェイトの先輩としてよく指導していた。その中で、さらに歌手志望であったというつながりもあった。
ヴェロッサはクロノをフェイトとミウラの前に連れてきて、うちの店のホープ、と紹介した。
通じ合うのは、外国人同士、というだけではない。
「す、すいませんミウラさん……折角連れてきてもらって申し訳ないんですが、今夜はちょっと……」
「あら、それは残念ねぇ、でもまた今度ね」
「はは……ハイ」
ソファから多少ふらつきながら立ち上がったフェイトに、クロノが声をかける。
「帰るならオモテまで送りますよ、フェイトさん。この時間はなかなかタクシーつかまらないですから」
「あっ、大丈夫です、私自分の車ですから」
「六本木は混みますからね。強化クラッチ組んだテスタじゃあツラいんじゃないですか?」
「!」
フェイトは息をのみ、そしてクロノと視線が合う。
出会うのは、運命だった。──そんな、気がした。
「おかしいな……テスタに乗ってるコト、どんな雑誌にも出してないはずなのに」
クロノはクールに微笑む。
「有名ですヨ、特に首都高走ってる人間には」
「なるほど……じゃあ、あなたも首都高を走ってるの?」
「ええ。車は80スープラ、色は銀です」
「あの時の──」
ブラックバードと二人で慣らしに行ったときに遭遇した車だった。あの時、ステアリングを握っていたのは米軍基地の整備士だった。そして、横に乗っていたのは──
「見たコトあります──。母さんが、NATOのプロジェクトの顧問をしてた時に」
「つながりはあるんですね」
クロノはポーカーフェイスを崩さない。
それは単に今の身分がホストだから、ではなく、会うべきときに会うべき場所で会いたい、そんな気持ちの表れだ。
クロノはそういう男だ。
「近いうちにまた首都高で会いましょう。今、僕の車は工場に入っています。あなたのテスタと、ブラックバード、そして悪魔のZ──僕はあなたたちと走りたい」
「──私も、です。私も、あの悪魔のZにとりつかれ、追っているんです」
クロノ・ハラオウン。フェイト・テスタロッサ。
同じ目的を持つ少年と少女は、同志でもあり、そしてまたライバルでもある。
フェイトの仕事場であるアニメのアフレコ現場に、今日はリインも来ていた。
ガラス越しのスタジオを見ながら、マネージャーであるアルフと一緒に並んで壁に背をもたれ、待っている。
今日の収録も滞りなく終わりそうだ。
「ここ最近よくカオ出してるじゃないか?やっぱり医者としてかい?それともプライベートで?」
アルフが渋そうに声をかける。
リインは黙って、フェイトの演技を見ている。
いつもの産業道路でセッティング出しをしていたなのはは、海鳴臨海公園に見知った二人が来ているのを見つけた。
Zを一般道へつながる道端へ停め、公園に向かう。
はやてと、ヴィータの二人が待っていた。
「はやてちゃん!っと、それと、ヴィータちゃん、だっけ」
ヴィータはやや気まずそうに、なのはを見上げている。
「リインから聞いてきたんだ、おまえがいつもここでせってぃんぐだし?してるって」
小学生のヴィータは専門用語がわからず、妙なアクセントになっている。
「Z、すっかり調子戻ったみたいやん」
「わかる?はやてちゃんも」
「兄ちゃんが乗ってたころはもっと速かったで」
ほんの一瞬の間がある。沈黙。
はやてとなのはの、感情の駆け引き。
「ヴィータがな、どうしてもなのはちゃんと一回話したいて」
「えっ、えっと」
はやてに促され、ヴィータはおずおずとなのはの前に出てきた。Zのエンジン音が三人を包んでいる。
「こないだはその……悪かった。やっぱ、あたしも、どっかでふりきれてなかったとこがあったんだ……
はやてがもういいって、もう大丈夫だっていうんなら、あたしも文句はねえ。
このZは、高町……おまえの車だよ」
「──はやてちゃん?」
「大丈夫やよ、わたしは」
心の底では、もしかしたら未練や負い目は、わずかに残っているのかもしれない。
それでも、こうやって言葉を口に出すということは、自分の心をそちらへ進めてゆこうという意志の表れた。
アニメの音声収録というのは通常、動画制作と並行して行われる。
声をあてる声優が目にするのは、線画とセリフのおおまかなタイミングを書き込んだ仮の映像だ。
フェイトも、日本でかなり名が売れてきていて、固定ファンも付き始めている。
エンドクレジットに“声の出演 Fate
Testarossa”と名前が載ると、それだけで視聴率がいくらか上がり、DVDや関連グッズの売り上げが変わるといわれるほどだ。
そんな中で1か月とはいえ休業するのは、正直なところ経営層からすれば惜しいことだ。
しかし、そこで無理をさせては元も子もない、というのは、現場の人間ならだれもがわかることだ。
リインは今日も、フェイトの仕事を見に来ていた。
今出演しているアニメの収録は今週で終わる。入院と手術はその後ということになるが、まだ本人の了承が取れていなかった。
Zのほうもエンジンのオーバーホールを終わらせたと聞く。
この状況で、素直にフェイトが入院してくれるか──
「おつかれーフェイトちゃん!」
同僚の声優たちが帰っていく。
フェイトは一人残り、スタジオのロビーで待っていたアルフとリインのもとへ向かう。
「お疲れ、フェイト」
アルフが缶コーヒーを渡す。
リインはしばらくフェイトを見据え、そしてゆっくりと口を開いた。
「テスタロッサさん……退院したら、またあのZを追うつもりですか?」
アルフが表情を曇らせる。フェイトがつらい目をみるのは、アルフもまたつらい。
「うん。もう、あのZとあのコを追うのが私の生きがいといっても過言じゃない──」
「乗り手である彼女もまたあなたの心をとらえた、と」
「……ええ」
「──フェイト」
外の駐車場には、テスタを持ってきている。
エンジン出力はもはやロードカーとしては常軌を逸した1180馬力に達し、ギア比設定からの計算上では、最高速度はじつに370km/h以上となる。
エクステリアがそれほど大きく変わっていないゆえに、外見からは判別しにくい、闇に潜んだ怪物になった。
「次の水曜の収録でいちおうラストなんですよね。そのあたりにしますか?走る(ヤる)のは……」
フェイトはコールドの缶コーヒーを握りしめながら、リインを見つめる。
「まちがいなく彼女も出てきますヨ」
「──はい。それでいいです」
スープラはモノコック側の補強が終わり、サブフレームと一体化したロールケージを組み込む作業に入っていた。
マリーが久々に車をつくるというので、横田基地の整備士仲間たちも応援に来てくれていた。
ガレージに、溶接機の閃光がバチバチと飛んでいる。
「先輩、今回のスープラってかなりガッチリ補強組んでますよね、どれくらいのエンジン載せるんですか?」
興味津々に聞いてくるのは、横田基地でマリーの後輩にあたるシャリオ・フィニーノだ。愛称はシャーリー。
「900馬力ってとこね。これでもタービンはツインでレスポンス重視よ」
「すっごいですねぇー。でもなんか、それだけじゃない気がするんですよね」
シャーリーはスープラのモノコックを眺めながら言う。
「固めきってないっていうか、なんか、頑丈なはずなのにどっかヤワく感じるような」
「スルドイわね。でも、それだけじゃあ正解とはいえないわ。なぜこーゆう構造のボディなのか──
ヤワく感じる、それは間違いではない。でも見方を変えれば、それはそれだけ力を受け止められるということよ」
「ボディ剛性を担当してるのは今回ほとんどサブフレーム側ですよね。
モノコックにかかる応力は最低限減らしてる」
「乗員にかかる負荷もあるしね」
マリーは、グレアムの意図に気づいていた。
この車に実際に乗ればそれは誰でもはっきりわかるだろう。
危ういパワーに、踏み切れなくなる。踏み切ることができた人間だけがその先を見られる。
クライドが命を落としたのは、危険な車に乗っていたからでも、ましてや無謀な運転のせいでもない──それを確かめたかった。
このスープラを操って、湾岸最高速ステージを走る。
そして、クライドの目指したものが幻ではなかったのだと確かめたい。
その先には、悪魔のZ、そしてブラックバードがいる。