リリカルミッドナイト SERIES 8. 撃墜

SERIES 8. 撃墜

 

 

 いつものように横羽線を環状へ向かっていると、後ろから追い上げてくる車をなのはは見つけた。
 キセノン系の鋭いヘッドランプを持ち、車体は大きめだ。
 よく見るとそのすぐ後ろに、プロジェクターランプの車がもう一台いる。

「GT-R!」

 確か、となのはは思い返していた。時たま、クロノのスープラと一緒に走っていた双子の姉妹だ。
 R32とR33のGT-R。普通にそこらを走っているGT-Rとは動きが違う。いや、ドライバーがそのように走らせている。今どきはかなり少なくなってしまった、本物のR乗りだ。

 一般的な日本の自動車評論──もしくはチューニング雑誌などの評価では、GT-Rは大きく重い車というのが多くの認識だろう。実際、デビュー当時の他の車に比べれば重かったのは事実だ。
 しかしそれは、けして無駄に重くなったわけではない。速く走るためにボディを強化し、レースで勝つためにきっちりと車体のメカニズムをつくりこんだ結果、1500kgという重量になっただけだ。
 車体補強をされたクロノのスープラを見て、また実際にZの車体を見てみて、その理由がわかった。

 多くの日本車は、ボディが弱すぎる。

 このZにしろ、元々小さめの車体を軽量化するために肉抜きがされている。
 それはメーカーでの設計段階で、できるだけ応力のかからない部分を選んで空けられているが、もちろんボディ全体としての寿命はいくらか犠牲にされる。

 Zには、強靭なパイプフレームによるボディ補強が行われ、内部のロールケージと外側のモノコックとで、いわば二重構造のようなボディになっている。
 リヤサスペンションメンバーはサブフレームを介してロールケージに直結され、主に駆動力を受け止めるのはこの部分だ。
 リヤのボディパネルはほぼ被さっているだけの状態だ。これが通常のモノコックなら、大パワーをかければリヤハッチのあたりからボディがゆがんでしまうだろう。
 エンジンと後輪をつなぐプロペラシャフトは剛体なので、駆動力がもろに柔らかいボディを直撃してしまうのだ。

 パワーをきっちり路面に伝えるには、それを受け止められるだけの剛性のあるフレームを、ボディ底面に張り巡らせなければならない。

 アクセルを踏み込めば、張り巡らされた幾本ものパイプがしなり、突っ張りあい、車体の姿勢がかたちづくられているのが腰に感じ取れる。路面を蹴飛ばすリアタイヤに肉体が直結したように感じる。
 それゆえに、途方もないはやさで消耗していく車体の悲鳴が聞こえるようだ。

 時速300キロで走るということは、普通の車からは考えられないスピードで、命を削っていくことだ。

 命が、みるみる燃えていく。
 燃えても、燃えても、いつ終わってもおかしくないように思えても、それでも速く走り続けようとしている。
 この力はいったいどこから出てくるのだろう。
 湧き上がる炎は、今にも吹き消えてしまいそうだ。

 バックミラーに映るキセノンランプのダンスを後目に、Zは猛然と加速する。

 見ていない。見ているのはお前たちではない。
 心の中に、澄んだ水面に波紋が広がるように、闘争心が浮かび上がる。

 どんなにいい子ぶっても、湧き上がる闘争心を否定できない。
 否定することは、自分の命を絶つことだ。

 この心に、何よりも自分の心に目を背けるな。Zがそう言っているような気がする。

 

 

 リーゼ姉妹が悪魔のZを追っている頃、クロノは六本木の店で接客をしていた。

 その女は、彼女の立場からすれば考えられないほどに飾らない姿で、店内の豪華なソファに座って待っていた。
 いつもそうしているように、隣に座り、グラスを差し出す。
 女は、そんなクロノの顔を、じっと見下ろしていた。

「──なんでこんなトコに来てんだよ、母さん」

 女の身分は、アメリカ海軍第7艦隊所属、リンディ・ハラオウン大佐。
 クロノの母親で、在日米軍横須賀基地を拠点にしている巡洋艦アースラを指揮する艦長だ。

 もちろん、この店には女性軍人の客も来ないことはないが、立場のある上級士官はまず、目立つ行動は控える。

「そんな気の利かないこと言って……きちんと仕事はできてるの?」

 この場所では、母と息子ではない、客とホスト。
 たとえどんな仕事でも、仕事に対して卑屈になってはいけない。

「レティもあなたがここで働いてることちっとも言わないんだから、ロッテがわざわざ教えてくれたのよ」

「提督ならなおさら言いふらせないだろ」

 この数週間、クロノはずっと横須賀の友人たちには会っていなかった。
 横須賀に帰るのは週にいちど程度で、それも顔見世程度だった。ずっと寮に寝泊まりしていたし、首都高以外のどこに出かけるという用事もなかった。

 アレックスやランディや、エイミィの顔を、もう見なくなってどれくらいたつだろう。
 子供のころから、アメリカにいたころから彼らとは幼馴染で、大人になっても幼馴染として付き合っていくだろう、とおぼろげながらも思っていた。

 だが、今はクロノは一人だった。

 ヴェロッサなど、あたらしく知り合った仲間はいるが、かつての仲間はもう会わなくなってしまった。

「育ちのいいあなたにはツラい仕事だと思ってたけど、結構ウマくやってるみたいじゃない?」

「まあな」

「日本に赴任する時もこれでも考えたのよ、あなたを連れていくか、アメリカに置いてくるか──
でも結果として、あなたは自分の意志で日本に来ることを選んだ。そして仕事も住まいも自分で面倒を見て、自分で生活を組み立てている。それは大切なことなのよ」

「こーいう仕事をしてるってことには……何も言わないのか?」

 ソファに背をもたれ、肩を近づける。
 普段目にすることのない、女としての母の姿に、クロノはかすかに息をのむ。

「その感覚があるってことは、自分が今やっていること──仕事でも趣味でも──を、認めない人間がいるということを自覚している、ということよね」

 接続詞を繰り返す表現は、日本にいると、つい使ってしまいがちになる。
 それは事実と感情を、撚糸のように連ねていく表現方法だ。

「でも、それは自分の心を曲げる理由にはならない。他人の目よりもまず自分が納得できるかよ」

「僕は、もしかしたら納得できてなかったのかもしれない。だから、その答えを探したいんだ」

「ハラオウン家の名をあなたに背負わせることが?」

 クロノの着ているスーツは、ビジネスマン向けのものではない。街の紳士服店で、セールで安売りされるものではない。いつも店の奥にさがしに行かなければ置いていないものだ。
 その身なりからしてまず、表の社会との隔絶がある。

 だが、それは自分で、自分の意志で扉を開け、一線を踏み越えた結果だ。

 後戻りもできるかもしれない、しかし、自分の意志はその選択肢を選ばない。
 後戻りすれば、戻ったなりの暮らしぶりというものはあるだろう。
 しかし、そうなればおそらく、首都高で出会った仲間たちとは、もう永遠に会えなくなってしまうだろう。

 高町なのは。フェイト・テスタロッサ。そして、ブラックバード。

 彼らはいずれも、普通に暮らしていればまず出会うことはない。

「正直に言うと、私にも不安はある。それはあなたがいなくなってしまうということ。あの人のように」

「父さんのことを──」

「でも、あなたの生き方はあなただけのもの。口に出すのは簡単だけど、今、あなたはこうして自分の居場所を自分で手に入れた。そして、その中で生き方を見つけている。あなたは未来を見つけているのよ」

「──母さん」

 膝に置いた手のひらを重ね、深く、肌を重ねて握る。
 何年も会わずにいたうちに、年取った母の手のひら。幼いころ、手を引いてくれていたと思う。
 その記憶はいつしか忘れかけていた。

「だから、約束して。私の前からいなくならないで」

 リンディの瞳は、怜悧な軍人のものから、あたたかい母親のまなざしに変わっていた。

「ああ。約束する──」

 

 

 なのはのガレージに、ヴィータはちょくちょく遊びに来るようになっていた。
 送迎にはやても一緒に来るので、なのはが学校を終わってからバイトに出かけるまでのしばらくの間、ガレージでZをイジっているのをはやてとヴィータは一緒に眺めている。

「面白いかな?ずっとそうやって見てて」

「すました顔しててもヴィータは甘えん坊なんよ」

「はっ、はやて」

 小学生のヴィータには、車の話などむずかしくてわからないだろう。
 ヴィータも、エンジンルームをのぞきこんだりとかはせず、ただなのはの姿を眺めているだけだ。

「そういえば、ヴィータちゃんのご両親は」

「うーんっと、そのへんは、いろいろむずかしいんだけど」

 頭の中で考えながらしゃべると、カタコトのようになる。
 単純な事情の家庭ではないだろう、となのはは思っていたが、聞いてみたところで、そんなに根掘り葉掘りしたいわけではない。話題としてとっつきにくいなら、無理に聞くつもりもない。

 ヴィータは、ものごころついた頃まさに、はやてたちが悪魔のZに苦しんでいたのを見ていた。
 兄を亡くし、両親から捨てられ、落ち込みきったはやてを見ていた。
 家の中が、常に心が沈んでいた。

 保育園で、外を歩くときは車に気をつけましょうと教えられるたびに、ヴィータは悲しみがわきあがってどうしようもなかった。誰かに、すがりたかった。
 シャマルとシグナムが、はやての世話をするために日本に引っ越すことを決めたとき、ヴィータは自分も連れて行ってくれと頼みこんだ。

 はやてのそばにいたかった。
 はやての気持ちを自分に重ね、もっと重なりたかった。

 そして今は、はやてが知っている相手と同じ相手を、知りたい。

 生きていた悪魔のZ。この車は、今までいったい何人の走り屋の命を喰らってきたのだろう。
 そして、今自分の目の前にいるこの少女の命をも、悪魔のZは喰らおうとしているのだろうか。

 

 

 フェイトは、番組のロケのために箱根ターンパイクを城島と共に訪れていた。
 一般車の少ない早朝の時間帯、こういった取材の車だけでなく、地元の走り屋たちも現れる。

 箱根においては、深夜帯がいわゆる峠族、そして早朝がスーパーカー乗り、というすみわけができている。

 城島もそんな時間帯を狙い、明け方にはフェラーリやベンツを走らせ、夜にはFCを走らせていた。

 フェイトのテスタは、どちらかといえば明け方を走る車だろう。
 うっすらと仄明るく、青く染まった峠道を、先行するFCを追ってテスタを走らせる。
 最高速向けにセッティングされたテスタの足回りは非常にグリップ限界が高く、峠のスピードレンジではほとんどスライドさせることができない。
 パワーオーバーに持ち込もうとすれば一瞬でスピンしてしまい、パワーでドリフトさせることは困難な車だ。必然的に、コーナリングスピードによる慣性でリアを流す走らせ方になる。

「FC3S型は、確か1985年発売でしたっけ」

「当時はポルシェのライバルってマツダは言い切ってたのよ、実際それくらい速かったんだゼ」

「Zも……」

 ポルシェといえば、あのブラックバードが乗る964型ポルシェターボを一番に思い浮かべる。
 現代でも、最新型の996カレラが、Z34型フェアレディZ(アメリカ名370Z)と比較されるなど、ポルシェとZはスポーツカーとして長年のライバルだ。
 そして、RX-7もまた、日本のツーリングカーレースではZとライバルであり、そしてポルシェターボともライバルだった。

 確かに、今FCの中古車はそれこそものによっては30万円程度の車両もある。
 だがだからといって、RX-7がポルシェやZよりも格下かといえばそうではない。
 中古価格も新車価格も違うかもしれないが、チューニングしてストリートを走る以上、そんな生まれは関係なくすべて平等だ。

 無差別級の公道の走りで、FCも、964も、S30もずっと走り続けてきた。

 そして、これからも走り続けていくだろう。

 少なくともフェイトは、このときはそう信じて疑わなかった。

 

 

 はやてとヴィータがなのはのガレージに出かけているので、シグナムはひとりで八神家の留守番をしていた。
 シャマルもまだ学校に残って仕事をしている。
 掃除をしていると、ちょうど隣のはやての部屋で何かが落ちる音がした。

 部屋の中を見てみると、古ぼけた本が、本棚から落ちて開いていた。

「……?これは……」

 本を手にとり、開けてみる。
 くり抜かれたページの中から、鍵が飛び出していた。

 もともと本を縛っていたであろうはずの鎖が、鉄が錆びたのだろうか、ちぎれてほどけてしまっていた。

 鍵に刻まれた文字を見て、シグナムはかすかに眉をひそめる。

「“NISSAN FAIRLADY Z”…………悪魔のZが……魔力を蒐集しようとしている……?」

 S30Zのスペアキー。
 マスターキーは車体に付属されて一緒に移動するが、スペアキーはいくらでも作ることができる。

 この鍵は、はやての兄が死んだ後Zをいったん廃車にしたとき、一緒に処分したはずだった。
 しかし、まだ幼かったはやては形見と思ったのだろう、一本だけ持っていた。

 だが、たとえひとかけらでも残っていれば、あの悪魔の魔力は生き続ける。
 事実、廃車にされたはずの悪魔のZは解体所から引き揚げられ、めぐりめぐってなのはのもとにやってきた。

 闇の中から、何度でもよみがえる。

 悪魔は、死んでいない。

 

 

 夜の風が、もうすっかり冷たくなっている。
 寮に帰ってきたクロノは、軽く休憩を入れてからスープラのエンジンに火を入れた。

 湾岸を走り、そのままちょっと足をのばせば横須賀まで帰れる。
 横須賀に行けば、仲間たちがいる。
 でも、会いには行かなかった。向こうも、六本木に来たりはしなかった。
 距離や時間の問題ではない。
 会いに行こうとする意志がなければ、たとえ同じ町に住んでいたってすぐに離れ離れになってしまう。

 これから自分が行こうとしている場所には、いろいろなところからやってくる人間がいる。

 彼らは、普通に暮らしていればめぐり合うことはまずない。

 首都高を走る、ただそれだけのつながりがある。

 だからこそ、人によりかからず、独りをおそれず、生きていける。
 父が走りを愛していた理由は、きっとそういうものなのだろう。

「今日は隣はナシだぞ」

 姉妹でも、妹の方は色々と行動的だ。
 スープラの隣で地面に座り込んで待っていたロッテは、猫のようにクロノに上目づかいをくれる。

「わかってる。でも、私の気持ちもわかってるよね」

 空き地の隅に遠慮がちに停められた33Rはエンジンを切られ、車体が冷えている。
 もう今夜は走りに出ないつもりで、エンジンを休ませている。
 つまり、クロノが帰ってくるまでここで待つということだ。同乗もしないし、追走もしない。
 今夜、走りに出るのはクロノだけだ。

「クライドさんが生きてた頃は、お父様のとこに家族で遊びに来たりしてさ。その頃はクロノもまだちっちゃくて、かわいかったよ」

「3歳とかそれくらいの頃だろ、よく覚えてるな」

「エイミィちゃんもランディも、クロノのこと、覚えてないっていうより、無意識に忘れたかったんだと思う」

「確かにな──オレでさえほとんど覚えてなかったんだ、でも、走ってると思いだせる気がする」

 立ち上がり、スープラのドアに手をついてコクピットをのぞきこむ。
 窓を下ろしているので、顔は近い。でも、近づけない。

 クロノの青い目。ロッテの目は、小さいころは同じ青だったが、大人になるにつれて薄金色になっていった。

 その移り変わりを、覚えているだろうか。

「オモテの通りに24時間営業のカフェがある、そこで待ってろよ。いくらお前でも夜中に外に一人は危ないだろ」

「──うん」

 部屋で待ってろ、と、言ってくれることを、期待していなかったとはいえ、自分からは言葉に出せない。

 走り出していくスープラを、ロッテは普段からは随分しおらしい顔で見送った。

 

 

 まる一日かけたロケを終え、箱根から東京に戻ってきたフェイトと城島は、東名高速を降りたところで別れ、それぞれの自宅へ向かった。

「お疲れ様でした」

「おつかれ、また来週もね」

「はい」

 遠見市へ、下道を走る。
 静かな郊外のバイパス道路は、ヒートアップした心をも静めてくれる。

 静かな道路を走る車は、とても美しく、そして楽しい。

 息を止めてコーナーを攻めなくても、ゆったりドライブをするのもまた楽しい。
 城島が言ってくれた通り、フェイトは、車にかかわるすべてが好きだ。
 車を、単なるスピードを出す道具としては見ていない。
 機能美を備えた、生きている機械として見ている。

 速く走る車というのは、命をはずませているということだ。

 マンションに着くと、エントランスの前にアルフが32Rを停めて待っていた。

「あれ、アルフは今日はもう終わり?」

 テスタを停め、アルフのもとへ駆け寄る。

「今日ははやめに切り上げてきたよ、そんでさ……フェイトは、今夜はこの後時間あるかい?」

「うん、大丈夫だよ」

 フェイトとアルフはいつもの公園へ向かった。
 いつも、この公園で時間をつぶしていた。
 駆け出しの頃、スタジオをあまり借りられなかった頃はこの公園で振り付けの練習をしたりもした。

 マンションの部屋を別々にしたのは、プライベートではそれぞれの生活を優先しようという意味と、四六時中いっしょにいることで互いに依存しすぎないようにしようという二つの意味があった。

 GT-Rは、太いアイドリング音を低く響かせている。

「もしかしてアルフ、Rのマフラーかえた?」

 アルフの32Rにもともと付いていたのはHKSの公認マフラーで、これは静音重視のものだった。
 けしてパワーが出なくなるというわけではないが、普段のアシにも使っているので、やたらと排気音を響かせるのはよくないという配慮からこのマフラーをチョイスしていた。

「ああ、まあまだ中身はそのままだけど、少しはよく回るようになってはいると思う。
なんつーか、ちょっとここらでアタシも気合入れなおさないとって思ってね」

「意外な風の吹き回しだね」

「いや、正直最近焦ってたんだよ。フェイトがいつの間にか遠くへ行っちゃうんじゃないかって」

「私は大丈夫だよ」

「──アタシは、フェイトみたいにすべてを車につぎ込むなんてできないよ。仕事上の付き合いもあるし、接待とか、思ったより自分の自由にできるものってないんだ、時間もお金もね。
それこそ、こんなスポーツカーより、ひろびろとしたワゴンとかミニバンの方が、ヒトをのせてどっかに出かけるには楽だしね」

 別にスポーツ系車種が嫌いというわけではない、ただ、それをすべてにすることに躊躇いがあった。

「大丈夫だよ、テスタはもうひととおり完成したから、あとは、まあまたムリしてどっか壊したりしない限りそんなに大きな出費はないよ、もしなんだったら普段用にセカンドカーを用意してもいいし」

 生きていくうえでのものごとの重さというのは、もちろん個人によって感じ方は異なる。
 ある者にとっては楽しいことでも、他の者にとってはつらいことかもしれない。

 その違いを生むのはたとえば経済力であったり、立場であったり、そして、最終的には本人の意志だ。

 アルフはマネージャーとして、本来ならばフェイトを諌めなければならない立場だ。
 だが、自分でフェイトと一緒についていきたいとも思っている。

 それが、板挟みだった。
 フェイトとしては、仕事をきちんとできていて、そのうえでの空き時間にやるのだったら何も問題がない、と考えていた。
 しかし、アルフはそれでも、この空き時間が終わって仕事に戻ったらどうなるのか、また無事に仕事に戻れるのか、ということを考えていた。

 それは直接的にはスピードの恐怖である。
 スピードを出して走れば、事故時の生命の危険というのは二次曲線的に増加していく。

 自分がそんなことでいいのか。

 もし何かあったら、上司や、契約先や、彼らに何と言い訳すればいいのだろう。

 そんな不安が、アルフの心を締め付けていた。

 いや、そんなことはフェイトだって同じはずだ。
 それともやはり、一定以上のアイドルとなるとお姫様のようにもてはやされ、少々のやんちゃは温かい目で見られるようになるのだろうか。
 アルフは、自分で思案するのが限界に突き当たっていると感じていた。

「──ねえ、よかったらちょっとドライブに行かない?攻めるんじゃなくて、普通に流すの」

 フェイトは、優しい顔でアルフを見てくれる。
 自分の方がずっと年上なのに、この少女に、今はすがりたい。

「……ああ。行こう」

 自分で口には出したが、これから自分がどこへ行こうとしているのか、アルフは迷っていた。
 行く、とは、自発的な要素を含む言葉だ。自分の意志で移動するという意味だ。
 しかし、今これから自分は、自分の意志で動こうとしているのだろうか。

 誰かについていき、目的地を任せるのは、自分の意志ではないのだろうか。

 それでも、フェイトと一緒に走ることで何かを見つけたい。
 それがせめてもの意志だと、思いたい。

 

 

 エンジンの調整を終え、Zのボンネットを閉めたなのはは、工具を片付けながらはやての方を見た。

「えっと、今日ははやてちゃんたちはどうするの?」

「大丈夫やよ、こっからうちまでやったら歩いても帰れるし」

「今夜も乗せてくれよ」

 ヴィータはなのはを見上げて言った。
 いつも大事そうにしている、うさぎのぬいぐるみを抱えている。

「うん、わかった、送ってくね」

「っ、そう、じゃなくって……高町、また首都高に一緒に行きたいんだ」

 はやてが視線をヴィータに下ろす。
 このZを嫌っていたはずのヴィータが、なのはと一緒に乗ろうと言っている。

「おまえもリインも、あたしがなんか言うくらいじゃ絶対にやめてくれないと思う、でも、だからって、あたしはおまえのことを知らんぷりなんてできないよ」

「ヴィータちゃん」

「だからっ、その」

「──わかった。乗って。そして見てね、このZを」

 なのははZのエンジンをかけ、いつも着ているジャケットの内ポケットから、キーチェーンを使ってサイフにつないでいた鍵を外してはやてに渡した。

「これ、部屋の鍵だから、はやてちゃんは部屋で待っててよ。大丈夫、学校にはちゃんと送っていくから」

「うん……わかった。帰ってくるときは電話してや、シグナムにはわたしからゆっとくよ」

「ああ……」

 ヴィータも4点式シートベルトの締め方を覚えたようで、自分でベルトをバックルにつないでいる。

「なのはちゃん、気を付けてな」

「うん」

 3.1リッターツインターボエンジンの太い排気音をあげながら、Zが発進していく。

 Zが出ていったあとのガレージは、孤独感を覚えるほどに静かだった。
 この海鳴にこういった閑静な住宅街があったというのもはやてにとっては意外だった。
 同じ町に暮らし、同じ学校に通っていた時期もある。それなのに、この場所を知らなかった。
 なのはがこの場所で暮らしていることを知らなかった。

 人間の出会いというのはとてもはかない。
 濃いガソリンの匂いは、どこか懐かしさを感じさせた。

 

 

 クロノが寝泊まりしている寮の裏手空き地に、白いR32GT-Rがやってきた。
 カフェに行こうかどうか思案していたロッテは、すぐにそれがアリアの車だとわかる。

 R32はハザードを点けて路肩に止まり、駆け寄ってくるロッテに助手席側の窓を開けた。

「なにやってるのよロッテ、こんなところで」

「いやその、まあちょっとぶらぶらと」

「こんなところをブラブラしてる方こそ何をやってるのでしょ、クロノは?今日はもう出かけたのかしら」

「みたいだね、たぶん、車もないし」

「っていうより、あなたが来てから出かけたんでしょ?」

 ロッテはばつの悪そうな顔をして頭をかいた。

「ばれてたかあ」

「しょうがないコね、あなたも」

 32Rのドアを開け、アリアの横に座る。
 33Rに比べて32Rは車体が小さめなので、室内はやや狭く感じる。運転席に座った時の車体感覚も、こちらのほうが実際の寸法以上に小さく感じる。

「追いかけて上(高速道路)にあがらないの?」

「や……なんていうかそういうのじゃないんだ」

「昔からよね、あなたは」

 元気はいいけど、特定の相手に対してだけはものすごく奥手になる。
 小さいころは無邪気に元気に遊んでいて、成長するにつれて、ふと、異性を意識してしまう瞬間がある。しばらく会っていなかった子に、久しぶりに会った時、その成長に惹かれてしまう。

 クロノは、アメリカでのジュニアハイスクールの頃までは他の同年代の子供に比べて背も小さくて、ロッテたちにとっては可愛い弟のような感覚だった。

 だが、今のクロノはもう立派な大人だ。
 そして同じように、ロッテも大人になって、それぞれ、自分の意志での付き合いができる年齢だ。

 どこで、道を違えたのだろうか。

 同じ場所にいて、同じものをを見ていても、同じ道の上にいる感覚をつかめない。

 それが、切ないほどにもどかしい。

「言葉に出すのがこわいよ」

 アリアは黙って、32Rのフロントウインドウ越しに道行く車を眺めている。
 エンジンを切ると、外の道路のざわめきが、流れてくる。

 ハザードランプを点滅させる、規則的なクリック音だけが二人を包んでいる。

 

 

 横羽線を上り、浜崎橋ジャンクションを直進して環状内回りへ入る。
 東京銀座エリアのビルの間を、縫うようにして走る環状線は、地形やほかの建造物による制限があり、高速道路としては非常に複雑なコースレイアウトをしている。
 普通に走るのですら神経を使う、荒れた道だ。

 走り抜ける数分の間が、とても息苦しい。

 横羽から環状を経由し、最短距離で湾岸へ向かう。
 江戸橋ジャンクションから9号深川線へ入り、箱崎から福住・木場方面へ曲がれば、辰巳から湾岸に乗れる。
 堀切まで回って葛西から湾岸へ入るルートもあるが、若干遠回りになる。

 新木場のコーナーへ切り込み、強い横Gに耐えながら踏み込む。
 S30は、ノーマルではただのストラット式で、いかにも古めかしい足回りだ。
 スカリエッティはこのS30をつくるにあたり、サスペンションメンバーをほとんどイチから設計しなおすように足回りを組んだ。
 リアのストラットタワーまでロールケージを延長し、リアタワーバーで左右輪をつなぎ、左右のタイヤが確実に連動するように補強を入れた。
 S30のノーマルモノコックの強度では、高い荷重をかけて走ると、いってみれば左右のタイヤがばらばらに動くようになって、車体が安定しない。
 いくらLSDをいれても車高調をイジっても、それらのパーツを支えるボディがゆがんでいては速く走れない。

 Zを、もっと知りたい。
 もっと速く走りたい。もてる力を、最後の一滴まで絞り出したい。
 最後まで、限界までパワーとスピードを出してみなければ気が済まない。
 そして最後の一滴まで出してもそこで終わりではない。もっと、もっと出せるはず、もっと速く走れるようにしたい。
 そのために、エンジンも足回りもボディも、もっと強化していきたい。

 それはまさに終わりのない、どこまでも果てのない、無限の欲望だ。

 速いスピードでのコーナリングで、Zの車内には、ドアなどのパッキン部分のゴムがこすれる軋み音が聞こえてくる。

「高町……どうしたんだよ?なにか焦ってないか……?」

 ドアの取っ手につかまりながら、ヴィータはステアリングを握るなのはを見た。

 Zのトランスミッションは今の新しい車に比べてレバーのストロークが長く、ギアの入りも渋いためかなり力を入れてレバーを動かさないといけない。力を入れて叩き込むようにシフトレバーを握る。
 3速と4速を主に使い、混んだ9号を走り抜けていく。

「このZを信じてるんじゃなかったのか……?おまえの車なんだぞ、これは」

 辰巳ジャンクションから湾岸へ合流。ギアを5速に入れ、アクセルペダルを床まで踏み切る。
 もはやエンジン音よりも風切り音のほうが激しく、耳をつんざくように聞こえる。

「たしかに焦ってるかもしれないよ、私──
こんなに速く走ろうとしているのに、Zは、いつ、いきなりでも自分から命を絶とうとしているような動きを見せるんだ──
エンジンはどこまでもまわり続けて、そして壊れてもさえ回り続けていこうとしているようで、まるで自分のパワーが自らを食い破ってしまうように──」

 サイドシートからなのはの顔を見ると、窓の向こうに見える夜のビルの景色が、光の残像を引いてとほうもない速さで流れていく。

「胸が張り裂けそうだよ。力を出したくても出せない、ううん、こんなに強い力を出してるはずなのに、これじゃあ足りない、まだまだ足りない、力を出したりないって感じちゃうんだ。
それで、もっともっといけるはずって思って、どこまでも走ろうとして、そして限界を超えたいと思う──」

 限界を超えてしまえば、そこに待っている結果は一つしかない。
 ヴィータは息をのむ。

「でもそれがこのZにとっての生き方なのかもしれない、命なのかもしれない。
だから私はこいつをずっと走らせていきたいんだよ」

「走らずにはいられないのか」

「わかってるはずなんだよ──」

 東海ジャンクションから連絡路を渡り、昭和島から横羽線下りへ合流する。
 目の前に、黒いポルシェターボの姿が現れた。

 ブラックバード。

「あたしもはやても、気づいてたはずなんだよ。気持ちは分かっても、それを言葉にできないんだ」

「彼女も同じなんだ──」

「言葉にできないつらさってのはすごくあるんだ。はやてとリインはそれをいちばんわかってるはずなんだ──」

 横羽下り。そういえば、このルートで一緒に走ったことはまだない。

「だからリインは、あたしたちの誰にも近づこうとしないんだ、ずっとひとりぼっちだったんだよ──」

 生麦ジャンクションを直進し、横浜環状をぐるりと回って再び横羽上りへ乗る。
 ブラックバードは、誰かを探しているように、ゆったりと巡航している。
 待っている。そして、予感している。

 今夜がきっとその時になる。

「(この911を仕上げてくれたスカリエッティさん──この車が、きっと自分の最後の仕事になるだろうとあなたは言った──)」

 911のステアリングを握りながら、リインはあの男の表情を思い浮かべる。

「(走る意味を知ってほしい、それがクライドの遺志だった──私はそれを、彼に伝えたい──)」

 スカリエッティは、今夜出発する前、クライドとのことをリインに語った。
 あの当時、クライドは自分のダブルエックス2.8に搭載するエンジンのチューンをスカリエッティに依頼した。
 ベースは当時最新の70型スープラに搭載されていた、1JZ-GTE型ユニット。
 ダブルエックス2.8のもともとのエンジンは、その車名の由来にもなった2.8リッターの排気量を持つ5M-GEU型だが、1JZはやや少ない2.5リッターの排気量を持つ。
 それでいて軽量なセラミックツインターボを装備することで280馬力を発生、非常にレスポンスに優れるターボエンジンだった。

 あの頃、自分たちのつくる車はエスカレートしすぎていた、とスカリエッティは言った。
 高品質なエンジンパーツも出回り、入手しやすくなり、その気になればどこまでもパワーを追うことができた。
 旧型である日産L型、トヨタM型なども、蓄積されたノウハウにより非常なパワーを発揮できた。

 どこまでも、追い求める。どこまでいっても終わりというものがない。
 ここまでにしておこう、ここまででじゅうぶん、そういった線を引くことができない、どこまでも追い求めてしまう。

 このラインをクリアしていればいいという妥協点を置けないから、どこまでも追い込んでしまう。
 結果として、できあがる車は恐ろしく力を持ち、そして手におえないものになる。
 仕事としても、受け取れる工賃その他の報酬の割に合わないものになる。
 仕事として、そんな車を依頼してくれる人間などほとんどいない。
 そしてそんな人間が、恐ろしい車を乗って生きていられる確率などさらに低い。

 何人もの走り屋が死んでいく。

 クライドは、走りでは死ななかった。なんでもない一般道での不運な事故で死んだ。

 もしクライドが生きていれば、自分の車を最後まで乗りこなせていたかもしれない。
 そんなかなわない夢と、そして、クライドが一度だけスカリエッティに漏らしていた、自分の息子のこと。
 小さいころから、親の言うことをよく聞く、おとなしい子供だった。
 そんな聞き分けのいい子供を、いつまでも我慢できないだろう。
 大人になって免許をとれる年齢になれば、もしかしたら、自分と同じように走りの世界にやってくるかもしれない。

 その時、きちんと教えてほしい。

 自分はけして、無謀な走りをすすめたいわけではないんだということ。
 引き返せば安全な生活はある、それでも自分の意志で踏み込もうとするなら、絶対に迷わないでくれ、と。

「(そうだ──私は彼とともに走り、戦う──勝負する。その中で彼が何を見つけるかだ──)」

 横羽から、再び環状へ。今度は外回りだ。
 東京タワーのイルミネーションがきらめく中を、Zと911が走り抜ける。

 霞が関トンネルを抜け、北の丸を駆け上がっていったとき、一ツ橋ジャンクションから合流してくる車が見えた。

「フェイトちゃん──!」

 ガンメタのテスタ。5.4リッターの12気筒エンジン、さらにNOSをも搭載する。
 ひたすらに最高速度を追い求めた、電撃のような速さだ。

 テスタの後には赤い32Rも続く。アルフの車だ。
 パワー的にはやや物足りなさを感じさせるが、運動性の良さでカバーする。

 さらに江戸橋ジャンクション、内回りからスープラが現れた。

「クロノ君──なのはも、ブラックバードも──!役者はそろったね──!」

 NOSのバルブを開き、ナイトロスタンバイスイッチをソニックモードに切り替える。
 シフトアップ、ダウン、パーシャル域での過渡特性を改善し、どの速度域からでも瞬時に加速できるようにNOS噴射を行うモードだ。この制御なら、どんな車よりも加速力は高い。

「夢みたいだよ、ヴィータちゃん──こうやって走っている、みんなが、それぞれの力を出し切っている──」

 なのはの表情は、恍惚とも、戦慄とも取れる、危うい目をしている。
 瞳の芯が、必死で意識を保とうとしている。

「私は、このZを信じていたい、信じている──だから、このZを絶対に死なせない」

 箱崎を直進。堀切ジャンクションから中央環状線を経由し、葛西ジャンクションから湾岸へ乗る。

「(エキゾーストの音色が違う──高町が自分でセッティングしたのか──)」

 先行するZのテールを見つめながら、リインはかすかな羨ましさと、危うさを感じ取っていた。
 Zに、近づき、Zをもっと知ろうと深みへ入り、そうして、知らず知らずのうちにのみこまれていく。
 Zの魔力に、自分が呑み込まれていく。

「見ているかい、父さん──あの2台は今でも走っているんだ、ブラックバード、悪魔のZ──」

 4台とも、速さは全く互角だ。
 先頭がZ、その後に911、テスタ、スープラと続き、アルフの32Rが最後尾で追う。

「僕は父さんの気持ちと──母さんがなぜ僕に、父さんのことを話さなかったのか、今の僕自身がきっとその答えだ──」

 テスタをパスして911に迫る。
 湾岸の長い長い直線、群れるトラックや一般車をかわしながら、走る道すじが限りなく重なっていく。
 先頭をゆくZが、道を切り拓いていくように感じていた。

 

 

 猛スピードで横を突き抜けていった車に、風圧で車体が揺さぶられる。
 思わずハンドルを握りしめ、車体の安定を保つように集中する。

「わああ!すっごいのが今走ってった!」

 追いかけようかとも思ったが、はるか前方に小さく見えるテールランプを見て、これはかなわない、と瞬時に理解した。あの連中はまさに化け物だ。

 今日はとりあえず道を覚えに来ただけだし、無理して攻めることもない、そう思い直して、一般車の流れに乗った巡航を続ける。
 それでも、深夜の湾岸線は一般車でも140km/h以上のスピードで速く流れる。
 トラックだけは90km/hで作動するスピードリミッターがあるので、攻めて走る場合、この一般車とトラックの速度差を考慮しなくてはいけない。
 どの車線を選び、どのラインをとればうまくスピードをのせていけるか。

 青いインプレッサは、その象徴ともいえる水平対向エンジン独特のボクサーサウンドを奏でながら走る。

 ドライバーは、幼さをたっぷりと残した、端整な顔立ちの少女だ。
 ストレートのやわらかいショートヘアはボーイッシュさを感じさせる。

 インプレッサはGDB型の後期モデル、2006年式だ。
 リアトランクにそびえ立つ大型のリアスポイラーと、ブリスターフェンダーに収められた大径ホイールは4輪駆動システムと組み合わさって路面をしっかりつかむ足になっている。

「まずファイナルは換えないとなぁ、そんでもちろんエンジンも、やっぱり北米仕様のEJ25に載せ換えるのが手っ取り早いかな」

 新しいステージを目の前に、少女は自分の愛車をチューンしていくプランを目を輝かせて考えている。

「あれ?渋滞かな」

 前方に、車の列が連なっているのが見えてきた。先行する車両が順次ブレーキランプを点灯させて減速していく。先の方にいるトラックが、ハザードランプをつけて後方の車両に停止していることを知らせる。

「あっちゃー、こんなとこで渋滞にはまっちゃうなんて、ついてないなー」

 流れはすっかり止まってしまった。高速道路といえども状況によってはこのように速度が止まってしまう、東京の首都高ならではの道路状況だ。

 インプレッサはいちばん左側の走行車線で、ちょうど東海ジャンクションの手前のあたりにいる。
 左へ緩やかにカーブしていく道路は、羽田空港の手前で海底トンネルに潜る。
 その海の向こうに、赤く染まった空が見えた。

 街の明かりではない。街灯やサーチライトではない。赤い光が、煙に反射して黒く光っている。

「え…………火事?……まさかっ、羽田で空港火災……!?」

 よく見ると、火の手は空港ではなく、その中を通り抜ける道から上がっている。
 湾岸線は海底トンネルを抜けると、羽田空港の2つのターミナルビルの間を走り抜ける。
 そのあたりから火の手が、空高く上がっている。揺らめく大気の中を、航法灯をつけた旅客機が着陸していくのが見える。

 予感の的中を示すように、道路に設置された電光掲示板に、『2キロ先 車両火災』の文字が点灯した。

 

 

 3車線の道路が、火の海に包まれていた。

 路肩に停まった911とテスタから、リインとフェイトが降りて炎の先を見つめている。
 これでは生身で手は出せない。消防車の到着を待つしかない。

 クロノも、険しい表情でZを見つめている。

 屋根がつぶれて、バーストしたリアタイヤで車体を傾げさせたZは、車体後部の燃料タンクからもうもうと炎を上げている。クラッシュの衝撃でタンクが破損し、ガソリンに引火した。
 Zのさらに向こうで、道路を斜めにふさぐようにして止まったトラックがいる。
 向こうの運転手も、炎上する車を前にどうすることもできない。

「外科部長ですか、八神です。緊急オペの手配をお願いします、ええ、はい──クランケは18歳女性、自動車事故で、外傷は左足脛部骨折、内臓破裂の可能性が──、血液型は──ヴィータ、高町は何型だ!?」

「えっ、えっと、そ、そう、Oだ、O型だよ」

「わかった。──すみません、外科部長、O型の輸血準備を。ええ──わかりました。救急隊には私から説明します。
第2手術室ですね、わかりました。よろしくお願いします──」

 病院との連絡電話を終え、リインはヴィータのもとに駆け寄った。

 ヴィータはぐったりとして動かなくなっているなのはを抱きかかえ、必死に呼びかけている。
 300km/hでトラックに激突したZは、激しくスピンしながらガードレールにぶつかり、車体を横転させながらもかろうじて道路の中にとどまっていた。
 窓ガラスはすべて砕け散り、右リアタイヤはサスペンションが根元から曲がっている。

 車体がゆがんでドアが開かなくなったので、割れた窓から身体を引きずり出した。
 その直後にZは爆炎を噴いて燃え上がった。

「高町!しっかりしろ、高町!っちっくしょう!なんでだよ……なんでなんだようっ!」

 ヴィータは涙を流し、髪を振り乱して叫んでいる。
 なのはは最後までZをコントロールしようとし続け、助手席側のダメージを抑えた。
 ひきかえに、コクピット側をガードレールに直撃させてしまった。

「悪魔でもいいって……たとえ悪魔でもこの車がいいって、言ったんじゃなかったのかよ!
おまえが悪魔なら、なんであたしたちを助けてくれるんだよ!
死ぬなっ、高町!おまえが死んだらはやてはどうすりゃいいんだよ!高町ーーーっ!!」

「ヴィータ、落ち着け!わめいてもなんにもならん、救急車にお前も乗れ!お前も派手にコロがったんだ、
首をやっているぞ!高町のことは私に任せろ」

 リインはヴィータを引きはがし、抱きしめるようにして宥める。

 消防車と救急車がやってきて、事故処理を始めている様子を、クロノとフェイトとアルフはやや離れたところから、神妙に見守っていた。
 この場では、自分たちにできることは何もない。ただ邪魔をせず見ているしかない。

「──Zは──なのはは、先頭を走っていたからトラックをかわせたはずなのに──」

 つぶやくように、フェイトが言葉を絞り出す。

 羽田南トンネルでの減速にかかる直前、空港中央ランプを通過した直後、ふいにトラックがなのはたちの進路をふさぐように車線変更してきた。湾岸には時折、こうやって走り屋の走行を邪魔するトラックがいる。

 だが、このときのトラックは切り込みすぎていた。

 白線を巨大なタイヤがまたぎ、なのはは明らかにすり抜けられるスペースを奪われたことを直感した。
 このままいけばトラックのタイヤに激突し、右へハンドルを切ってかわそうにも壁がある。
 まっすぐ突っ切ればかわせるが、後続の4台はかわせない。トラックと中央分離帯に挟まれてしまう。

 Zはトラックを押しのけるように衝突し、結果、テスタ、911、スープラ、32Rはクラッシュを回避して停車できた。

「──突っ込んでしまったんだ──僕たちのために」

「なのは──」

「────信じるよ」

 クロノの言葉に、フェイトは驚きに打たれて顔を上げた。
 日本語ではなく、母国語である英語で、アイ トラスト ハーと言った。
 フェイトも英語での思考に切り替え、クロノの気持ちに同調する。

「彼女なら必ず立ち上がれる。彼女は、絶対に挫けない心を持ってるんだ。
心さえ挫けなければ、身体は必ず治る。身体が治って、心が挫けていなければまた走り出せる。それを信じよう」

「うん──このままじゃ終われない────優しいんだよね、悪魔ってのも──」

 消防隊からの放水を浴びるZは、真っ白な車体を煤で黒く染めている。
 それは自ら破滅を願うかのように、その身を震わせていた。

 

 

 

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2012年12月19日 12:22