SERIES 9. Z will be back.①
落ち葉が、夜風に吹かれて乾いた音を立てながら路面をすべる。
谷を静かに吹き抜ける風が、木々をざわめかせ、町の騒音をおおいかくしている。
夜の峠。
群馬県、赤城山。
平日であり、雪がちらつき始めた季節、夜に騒ぐ走り屋たちは鳴りを潜めている。
そんな中、一台の車が、赤城道路を上っていた。
野太い、大気を殴りつけるような重低音。
スポーツカーに興味を持つ者なら、この音を聞けばいやおうもなく車種を思い浮かべるだろう。
4輪駆動独特の短く鋭いスキール音を鳴らし、その車はブラインドコーナーを立ち上がってくる。
スバル・インプレッサ。
夜の闇に溶け込む紫のボディカラーは、質量を持つ旋風のように、車体を路面に張り付かせるように安定した動きでコーナーを駆け抜けていく。
多くのFR車乗りが楽しむような、テールを大きく滑らせるドリフト走行とは一線を画す、無駄のないタイトな走り。
タイヤをスライドさせるのは少しでもはやくコーナー出口に向かうため、タイヤのグリップをフルに引き出すため。
けして駆動力を無駄に空回りさせてタイヤをすり減らすためではない。
風を切るように、走り抜けた後の草木が揺れる。
紫のインプレッサが頂上の折り返し地点となる観光案内所の駐車場に入ってくると、もう一台の車がすでに先に来て待っていた。同じインプレッサだが、ひとつ新しい型の、青色のボディの車両だ。
ドライバーの少女はフェンダーに腰掛けて待っていた。
「やっぱ来ると思ってたよ、ギン姉」
ショートヘアの少女が、紫のインプレッサのドライバーに呼びかける。
紫のインプレッサは、青のインプレッサの斜め向かいに停め、ターボタイマーをセットしてエンジンを切った。
「久しぶりに一緒に走らない?もうさあ、このインプ買ってから誰もつるんでくれなくて。
あんまり速すぎてついてこれないのかなあ?」
ケラケラと笑う少女に、ギン姉と呼ばれた女は苦笑する。
少女の呼びかけからすると、彼女の姉だろうか。
二人はおそろいのドライビンググローブをはめ、同じ車種を乗っている。
ギンガの車は、GDB型インプレッサの中期モデル。いわゆる涙目インプと呼ばれる車種だ。
インプレッサとしては全体で二代目にあたり、現行のインプレッサは三代目となる。
ギンガの妹は、彼女たちが乗る車のメーカーと同じ名前の、スバルという少女だ。
スバルが乗るのは、同じGDB型インプレッサだが後期モデル。つり目インプだ。
SUBARUは伝統的に、モデルチェンジのサイクルは長いが、同じモデルであっても間断なくマイナーアップを繰り返して性能の向上と完成度の熟成をはかっており、スポーツカー愛好者からの評価は高い。
また、WRCをはじめとしたラリーなどのレース活動にも積極的に参加し、モータースポーツに力を入れている。
なにより、自動車メーカーとしてのSUBARUは彼女たちの地元、群馬県に主要な工場を構え、群馬県民にとっては地元を代表する大企業なのだ。
思い入れはある。
「スバル、あなたも走り回るのはいいけどちゃんと考えて走ってる?言ったわよね、お姉ちゃんの真似をしたくなるのもわかるけどやるならきちんと、って」
「大丈夫だよ!わたしとこのインプはもう敵なしだって!」
ギンガにとっては、スバルはまだまだわんぱくな子供だ。
東京などの都会ならともかく、田舎では日常の移動手段として車が半ば必須なので、ほとんどの者は高校在学中、18歳の誕生日を迎えると同時に普通免許をとり、車を買う。
スバルが免許を取って走り出してから、彼女には類まれなドライビングセンスがあるということは、姉であるギンガがいちばんよくわかっていた。
だが、公道はあくまでも一般車が生活のために走る場所であり、レースのための場所ではない。
公道での走りには、言葉にはあらわしきれない暗黙のルールがある。
そうでなければ、命がいくらあっても足りない。
ギンガは、姉としてせめて、この公道の掟だけを、スバルに教えたいと願っていた。
スバルが先行し、ギンガが後追いで、2台のインプレッサは赤城下りを走り出した。
細かい違いはあるが、2リッターターボの水平対向4気筒エンジンを縦置きしたFRベースの4WDというパッケージングは共通である。
縦置きならではの重量バランスのよさを生かし、インプレッサは身軽で安定性の高い走りを見せる。
赤城道路は、そのコース全長のほとんどが中速コーナーが左右に連続するレイアウトであり、長い直線もほとんどない。
もちろんFR車でドリフト走行を楽しむのにも適しているが、インプレッサのようなトルクフルな4WDマシンにとっても戦闘力を発揮するにはうってつけのステージである。
軽快な運動性と、路面をしっかりつかむトラクションを併せ持つインプレッサは、このような峠のワインディングでは圧倒的な速さを発揮できる。
「おっ……っとと、いきなりここでくるのギン姉」
S字コーナーで早くもギンガはカウンターアタックをかける。
右コーナーへアウトから進入し、イン側についているスバルとアウト側のガードレールとの間にノーズをねじ込んでくる。
だが、ここで抜くつもりではないことを、スバルは車体の動きから読み取っていた。
切り返しの左で、ギンガのインプレッサはすっとノーズを下げる。
さらにテールをなめるようにポジションを変え、ヘッドライトの光を当ててプレッシャーをかける。
「(スバル、あなたはまだ経験が足りない──)」
「つうっ、この曲がれ……!」
フロントタイヤが鈍いスキール音を上げ、ラインがふくらむ。
アクセルとブレーキを小刻みに踏みかえ、スバルはグリップを取り戻そうとする。ノーズがイン側に向き切ったら、プッシュアンダーを出さないように慎重にアクセルを踏み込んでいく。
「(ほらもうそこから踏めないでしょ、じっと息を止めてグリップが回復するのを待つしかない──)」
ゆるやかに下りながらの右コーナーで、スバルがアンダーを出したのを見逃さず、ギンガはイン側へ切り込む。
このコーナーは視界が開けていて、対向車が来ていないことをコーナーに入る前から確認できる。
対向車線を使ってオーバーテイクが可能な区間だ。
コーナー前半で旋回を終え、ギンガのインプレッサはイン側をまっすぐカットしてスバルの前に出た。
スバルはこれに対してラインを変えることができず、アウト側から動けない。
「あーっ、やられたー!」
「(車はセッティングだけじゃ曲がらない、ましてや腕だけでもね……スバル、あなたはまだまだ覚えていかなきゃならないことがたくさんある──」
前に出たギンガは、さらにペースを上げて駆け下っていく。
抜かれたショックから立ち直り切らないスバルを、いっきに引き離しにかかる。
「(ただやみくもに飛ばすだけじゃあ公道は走れない──それは誰に教わるでもない、自分の身に染みて覚えなきゃいけないことなのよ──)」
最後のヘアピンに向かうストレートにスバルが入った時、ゆるやかに左へそれるカーブのブラインドから、対向してくるヘッドライトが見えた。
ヘアピンに入る手前ですれ違う。スバルは車を左車線へ、イン側の護岸につける。
「えっ、うそっ!?もう折り返してきたの!?」
ギンガのインプレッサが、まったくぶれることのないラインですれ違っていく。
オーバーテイクしたコーナーから折り返し地点まで、いったいどれくらいのペースで走っていったのだろうか。
タイムアタックをすれば、いったい何秒の差が出るのだろうか。
このヘアピンから折り返し地点まで、10秒あるかどうか。そこからターンしてさらにあのストレートまで走ってくるには、それこそいったい何秒のリードを広げなければならないだろうか。
スバルはペースを落とし、ふもとへ向けてインプレッサを走らせていった。
ギンガが再び頂上へ着いた頃、ドアのホルダーにかけておいた携帯電話が鳴った。
駐車場に車を止めてから電話に出る。
『あれ、スバル来てないの?走りに出たから一緒だと思ってたんだけど』
「さっきまで一緒だったんだけっどね、もう降りてったんじゃないかしら。そっちはチンクと一緒?」
『うんまあ、じゃゲンヤさんには伝えとくよ、ごめんね運転中だった?』
「大丈夫よ。それじゃ、後でねセイン」
電話を切り、ギンガは赤城山の黒い影を見上げながら、自分たち姉妹と、父ゲンヤのことを思い浮かべる。
父は地元ではそれなりの名士であり、また地元企業SUBARUとも仕事の付き合いがあり、その点は自分たちが走りをするにあたっては好都合なことではあった。
しかし、父は、娘たちがこのような危険な遊びをすることを、少なくとも安心してはいられないだろう。
スバルはいずれ、実家を出て上京するつもりでいる。高校の進路相談でもそのように言ったと聞いていた。
気の早いことで、首都高へも何度か下見に行ってきているらしい。
自分は、どうだろうか。このまま地元で、父の仕事を継いで、一家を受け継いで暮らしていくのだろうか。
地元であるここ赤城山では、“赤城最速のナカジマ姉妹”などと通り名がついたりはしているが、自分とて、いつまでも峠で遊んでなどいられないだろう。いつかは引退しなければならない。
スバルはまだ、この世界に入ってきたばかりで、何もかもが新鮮な輝きに満ちて見えるだろう。
その輝きが絶望の闇に落ちないうちに、生きていく力を、この世界で生きていく力を身につけてほしい。
「こんばんわー」
「おっスバルー、こっちこっちー」
スバルはいつも行きつけのファミレスに入り、呼びかけてきた少女と同じテーブルについた。
呼びかけてきた少女は髪を赤く染め、いかにも跳ねっかえりといった元気さを見せている。
「ずいぶん早かったじゃん、一往復くらい?あたしたちまだ一皿しかあけてないよ」
「いやー、ギン姉と一緒に走ろうと思ってたんだけど、これがアッサリちぎられちゃってね」
「えースバル、あのインプでも勝てないの?」
「もうホント、ギン姉はバケモンだよ。基本的に足ちょっと固めただけでエンジンもボディもノーマルなのに、赤城でいちばん速いんだもんね。ランエボもGT-Rもセブンもギン姉にはかなわないんだから」
「すっげーなあ、さすが赤城の青い流星(シューティングスター)っていわれるだけはある」
「ノーヴェ、そのあだ名はなんか恥ずかしいな」
スバルは照れ笑いを見せた。スバルは小さいころからずっとギンガを慕い、仲のいい姉妹だった。
スバルにとっては、姉ギンガはなにもかもが優れた、人間の見本のような人物に見えていた。
「アイナさーん、パスタ大盛りお願いしまーす!──ところでさノーヴェ、あんた自分の車のサイズ知ってる?」
「ほえ?」
「たて(全高)・よこ(全幅)・ながさ(全長)、トレッドにホイールベース。前にギン姉に言われたのよ、必ずこの数値を頭に入れて走らせろってね。
峠ってのはただでさえ狭い道だから、センチメートル単位で車体を制御できなきゃならないって、そのためには自分の車の大きさを、車体感覚だけじゃなく正確な数値で覚えろって」
スバルはポケットからメモ用紙を取り出して見せた。
そこにはインプレッサの車体数値がギンガの字で書かれている。
「実際に数値にしてみるとわかるんだけど、インプってのは基本的に小さい車なのよ。
3ナンバーになったのは太いタイヤを履くためにフェンダーを広げたからで、ホイールベースや全長はふつーの5ナンバー乗用車よりむしろ短いくらいなのよ」
「へえー……ってことはあれ、あたしのS15より?あれって14からサイズダウンしたはずなんだよね」
「小さいね。特に全長はS15のほうがほんの少し長いよ。確かに意識して走ってるとわかる、車の動きがつかみやすいって。
でもそれでも、あの赤城コースでもてあましちゃう。ギン姉と同じラインを後ろからついていこうとしても、わたしはまだこのインプの大きさを手の内につかみ切れていないってわかるんだ──」
同じころ、スバルたちの父、ゲンヤが経営する工場に、一台のレッカー車が乗りつけていた。
すでに夜は更け、普通ならば陸送の業者も来ない時間帯だ。
ゲンヤはレッカーに積まれたその車のシルエットに、引きつり笑いが浮かぶのを感じていた。
中が見えないようにブルーシートを被せられ、固定のためにロープが巻かれているが、“それ”は今にもその拘束を振りほどこうとしているように見える。
「やあ、ひさしぶりですねスカリエッティさん。突然仕事を頼みたいなんていうから何事かと思えば」
「ああ──どうしてもあんたでなきゃダメなんでね。コイツをもう一度頼むヨ」
スカリエッティはそう言い、レッカーの荷台にかぶせていたシートをどけた。
姿を現したその車、S30フェアレディZの純白のボディが、闇夜に不気味な光を放つ。
神奈川県、川崎市。そのチューニングショップは、今もっとも勢いのあるショップとして知られていた。
あまり派手な宣伝は打たないが、社長をも務める若いメカニックの腕は確かだと、その筋の人間たちには有名であった。
現在、首都高エリアに出撃するスカイラインGT-Rはその多くが、このショップによるチューンを受けていた。
工場には今日も、何台ものGT-Rが入庫し、従業員たちが作業を行っている。
その様子を事務所兼倉庫の2階の窓から見下ろしながら、その女は丸眼鏡をきらめかせた。
「相変わらずにぎやかねえ、儲かって仕方ないでしょ」
その口調は意地の悪さが含まれながらも、どこか憎めない陽気さを持っている。
「いやもう、毎日毎日馬車馬状態だぜ。それか車輪まわすハムスターとかか」
「ふふっ、まあがんばりなさいな若社長クン。ところでコレかしら、前に言ってた“R殺し”って──」
そう言って女は、コートの内ポケットから一枚の写真を取り出した。
写っている車は、ダークレッドのDC2型インテグラ。その中でも特に、スパルタンなセッティングを施された特別モデルであることをあらわす“TYPE-R”のエンブレムが、夜の首都高の照明を浴びてぎらついている。
デジタルカメラのセンサーに、強い残像を残すように“R”の赤い文字がきらめく。
「シルバーカーテンでひたすら処理して、やっとここまで鮮明にしたのよ。これで間違いないわよね、こいつが今環状で噂になってる、“R殺しのインテR”──って」
写真を受け取った男は、名をヴァイス・グランセニックという。
このチューニングショップ『ACE』の代表を務める若きチューナーだ。
「たぶんな。ウチのお客もずいぶんカモられたって言ってる──」
首都高環状線は、一般的な高速道路の印象からすれば明らかに狭すぎる道である。
車線こそ幅はあるが、とにかくカーブが多く、また曲率もきつい。
ビルの谷間をすり抜けるため、地方の山の中を走る幹線道路のように、ゆるやかに曲げるわけにはいかないのだ。
また設計も古く、路面も傷んでいるため、大パワーの車はその速さを持て余し気味になる。
そのような、どちらかといえば有利なコースであるという条件があるとはいえ、そのインテRは、格上であるGT-Rを手玉に取るような、尋常でない速さで環状を走り抜けるといわれていた。
「で、やっぱり行くの?このオレみずからオトシマエをつけてやる、って?いいトシなんだからそろそろ落ち着いたら?」
茶化すように言う女に対し、ヴァイスは苦笑しつつ、目元を鋭くする。
「いやあ、いいトシだからこそだぜ?この商売はナメられたらやってけないからな。オレのつくる車に挑戦するってことは、オレ自身に挑戦することと同じさ。
オレだってものづくり人のはしくれだからな、つくるものの出来で勝負するんだよ」
「まあせいぜい。あ、それともうひとつ、例のS30Zだけどさ──ちょっと知り合い筋で小耳にはさんでね。知りたい?」
「なんだよ?」
「どうも、こないだの湾岸線の事故はあのZが絡んでいたらしいの。空港が一時閉鎖されかけたほどの大事故で、トラックがふっとばされて──
──でそのZだけど、なんと廃車されずに修復されてるっていうのよ」
「ほう……それはオーナーの意志なのかな」
「そこまでは。でも、いずれ復活してくることは間違いないわ。これまでも、そうだったしね──」
「──相変わらず、意地が悪いなクアットロは──」
言いながら、ヴァイスはゆっくりと視線を作業場の方へ移した。
ヴァイスは、GT-Rこそが最強のチューンドだと思っている。GT-Rにほれ込んだ男だ。
悪魔のZ、うわさは聞いたことがある。そして今、R殺しも現れた。
上等だ、両方まとめて受けて立とう──そう、ヴァイスは決意していた。
東京都内、銀座の歓楽街に、その車は停まっていた。
エンジンは切られているが、人を待っているのだろうか、ハザードランプが点滅している。
道を歩く人々は、それぞれの店へ飲みに行くグループ、宴が終わって帰る途中のグループ、それぞれで、道路を走る車や停まっている車に気を留めたりはしない。
路駐をしていたインテRのドライバーは、助手席の座面に放り出していた携帯電話が鳴ったのを聞いて、読んでいた雑誌を閉じ、電話をとった。
室内灯がつけられた車内に、短めのツインテールヘアのシルエットが揺れる。
「もしもし?飲み会終わったの?」
『ああ、あと艦長たちはもう一軒回るって言ってる。僕はとりあえず抜けてきたよ』
「付き合わなくていいの?コネも大事でしょ」
『今日は提督もいっしょだったんだよ。あの人が来るとみんなつられちまうからな』
「自分の母親じゃないの。わかった、それじゃあ新橋駅の北口のあたりで待ってるから」
ツインテールの少女は通話を終え、携帯電話をしまうと、室内灯を消して車のエンジンをかけた。
点灯するヘッドライトに、ダークレッドのボディが浮かび上がる。
サイドスカートには、“TYPE-R”の赤いエンブレム。
リヤエンドに輝く大径マフラーは排気によって小刻みに揺れている。
鋭く発進していく車体の敏捷な動きは、この車がハイレベルなチューニングカーであることを主張していた。
少女の名はティアナ・ランスター。彼女は日本の大学へ通いながら、電子機器の専門技術を学んで幹部候補として軍人になる道を志していた。
先ほど電話をしていた男の名はグリフィス・ロウラン、ティアナに日本留学を勧めたいわば先輩士官で、在日米軍横須賀基地を取り仕切るレティ・ロウラン提督の長男である。
縁故などを頼るつもりはもとよりなかったが、それでも交際を持っていたほうが後々有利だろうという判断で、ティアナとグリフィスは奇妙な付き合いをしていた。
都会の雑踏を、インテRは流れるように走り抜けていく。