SERIES 9. Z will be back.②
土曜日の早朝、いつものように峠から戻ってきたスバルは、自宅の裏手にある工場に見慣れない車が入庫しているのを見つけた。
事故車だろうか、ボディはキャビンまでもひどく潰れ、一見してもう修復不能で解体待ちのようにも見える。
あるいはここから無事なパーツを取り外し、ばら売りするのだろうか。
白いボディの車だ。
現代の新しい乗用車ではありえないほどのロングノーズが目を引く。ドアヒンジからフロントタイヤまでの長さが、現代の車を見慣れた目には異様なほど長く映る。
その長いホイールベースのフロントフェンダーに、エンブレムが貼り付けられている。
流麗な筆記体で、“Fairlady Z”と書かれている。
ようやくスバルはこの車種を理解した。
型式名S30。世界中で最も売れたスポーツカーとして知られる、初代フェアレディZだ。
あらためて車体全体をみなおすと、これが単なる古い車ではないとわかってくる。
室内には太い鋼管によるロールケージが張り巡らされ、履いているタイヤは幅広のスポーツラジアルだ。
WRCカーでもここまでやるかと思うほどのボディ強化は、インプレッサという生粋のラリーベースを乗っているスバルでさえも思わず息をのんでしまうほどだった。
これだけの補強をしたボディでこれだけの損傷を負うクラッシュということは、いったい時速何キロで走っていたのだろう。
そして、それだけのスピードを出すのは、このS30のノーマルエンジンでは不可能だ。
いったいこの車のエンジンはどれだけのチューニングをされていたのだろうか。
しばらくスバルはS30の前に立ち尽くしていたが、やがて朝食ができたと呼ぶクイントの声ではっとわれに返り、何度か振り返りつつ家の中に入っていった。
東京外環自動車道を走る、一台の黒いポルシェがいた。
964型3.6ターボ、左右のリヤフェンダーに穿たれたインテークから、独立バンクのツインターボにチューンされているとわかる。
一般車の流れに乗り、静かに巡航している。
「それで、高町くんの具合はどんな感じなのかね」
サイドシートに座る男はぶっきらぼうに問いかけた。
夕方、ふらりと海鳴総合病院を訪れ、作業着の上に羽織ったよれよれの白衣といういつもの出で立ちのまま受付でリインを呼び出した。
受付のナースたちが、ある種おびえたように、何事かとリインを見送っていた。
「おとなしくリハビリをやっていますよ」
「お嬢さんと違って聞き分けがいいのかね」
「さあ、そこまでは」
あれからもう2ヶ月が経ち、東京はわずかな雪の季節を終えて寒さもやわらぎはじめている。
湾岸線での、大型トラックと衝突した大クラッシュでなのはは左脚と肋骨の複雑骨折という重傷を負い、海鳴総合病院に入院していた。
とりあえず骨はなんとか繋がりつつあるがまだ自力では歩けず、車椅子を使っている。この車椅子ははやてが小学生の頃に使っていたものを貸してくれていた。
なのはは未成年だったため、病院から実家と学校に連絡が伝わった。
両親と兄姉が来て見舞いをしていった。別の日に、学校の担任も来た。担任は、リインにとっては身内にあたるシャマルである。
リインがなのはと一緒に走っていたと聞き、シャマルはぐっと激情を堪えているようだった。
ヴィータがそばにいて、なのはにずっと付き添っていたからなんとか思いとどまれた。
それに対して、リインは何も言い訳できなかった。
自分だけならともかく、他人を車で死なせる、怪我させるなど絶対あってはならないことだ。
しばらくたって、所轄署の警察官が病院に来てなのはに話を聞いていた。
今回の事故ではなのはたちが暴走行為をしていたのはもちろんだが、トラック運転手の側も、車線をはみ出して他車の走行妨害をするという過失があったと判定された。
それとは別になのはは先日、はやてに付き添ってもらって事故を起こした相手の運送会社の事務所にも出向いていた。
トラックを運転していたドライバーはさすがに恐縮していた様子で、こっちこそ済まなかったとなのはに頭を下げていた。
他の同僚ドライバーたちが、まあ確かに最近ヤスさんの運転は目に余ってたよ、と雑談しているのが聞こえてきた。
運送会社としてもスピードリミッター付きでは顧客の要求する荷受け量をさばききれず、ドライバーの判断でリミッターを解除し無理な勤務時間での運転を黙認していた面もあり、警察から別に注意を受けていた。
運送会社のマネージャーも、お互い行政処分は受けるだろうし、うちのことは気にしないでくれ、と帰り際になのはに声を掛けてくれた。
ポルシェターボは湾岸での過激な走りが嘘の様に、流れに溶け込み、淡々と走っている。
「結構よく行くのかね、高速を遠出するのは」
「そうですね、時々ふらりと行きますヨ。夜勤明けで翌日が休みのときとか──東名や東北から、しばらく走って折り返したり、常磐からぐるりとつないで周ったりですね。
都内と違っていろんな車が走ってます、そういう車の流れの中に自分を置くのがいいんです」
「闇の書は散歩好きというわけだ」
「…………」
東北道との分岐点である川口ジャンクションを越え、高架は左へ大きく山なりにカーブしている。
「ところで、いきなり今夜呼び出されて走っていますが──ドコまでいきますか?このまま進むと関越道に乗りますが」
「ああ、関越に入ってそのまま群馬まで行ってくれ。ちと、高崎のある工場に用がある。君もきっと気になっていることだ」
高速に乗る前、リインとスカリエッティは八神家に寄り、はやてが持っていたZのスペアキーを借り出していた。
クラッシュの直後、Zから脱出したときなのははエンジンを切り、キーを抜いて持っていたのだ。
それはあたかもZは自分のものだと言っているようだった。
火事を消しとめ、なのはが病院に搬送され、車をどかそうとしたところで初めてキーが抜かれていることに道路公団の職員が気がついた。
車両撤去にはレッカーを使うのでとりあえずそのままにしていたが、病院で手術室に入ったとき、リインはなのはがずっと左手を握り締めていたのに気がついた。
手術用の麻酔をかけられても、左手はけしてはなさなかった。
ずっとZのキーを持っていたのだ。
スカリエッティはZの車両を群馬県高崎市のナカジマ鉄工所に持ち込んでいたが、キーがささっていないとゲンヤからの連絡を受けて再び赴くことにしたのだ。
なのはがこのマスターキーは絶対に肌身離さないと言い張ったので、仕方なくはやてが持っていたスペアキーを借りることにした。
なのはの事故って入院したという知らせを聞き、はやてとアリサ、ユーノは今度という今度こそは絶対になのはをZから降ろすと息巻いて海鳴総合病院に向かった。
まだ18歳、高校生である。こんな若さで、車で命を落とすなんてあんまりだ。
もうこんな危険な遊びはやめてくれ。
そう訴えようとしていたアリサたちだったが、病室でなのはと対面して、その瞳に気圧されてしまった。
なのはは、なおZを信じ続けていた。
目つきが変わって、人格までが変わってしまったようにはやては感じていた。
担当の医師と看護師たちに従って車椅子に乗り、少しずつ身体を動かす練習をしていて、ずっとおとなしくしているように見えた。
しかし、その表情はどこか、全てを悟りきったように底の見えない深みを持っていた。
Zを降りることは絶対にない、となのははユーノに言った。ユーノは何も言い返せなかった。
アリサが食って掛かったが、なのはは応じて感情を高ぶらせることなく、冷静に、あれは私の車だから、とだけ答えた。
「頑固な奴だね高町くんも。まあ、私としてはあのZを乗り続ける意志があるのは大いに結構だ」
「──修復、しているんですね」
リインはかすかにステアリングを握る力を強める。
「君はどうだ?」
「なにがです」
「高町くんはおそらくまたZに乗るだろう。だが私がZを直すのはあくまでも私の意志だ。あれは私の分身のようなものだ」
「──きっと、彼女も同じように思っているでしょうね」
「どうだかね。そんな心構えでは今回生き延びてもいずれそう遠くないうちに死ぬだろう」
車を作る人間と、車を乗る人間。
同じ走り屋であっても、その立ち位置、車に対する感情は微妙にベクトルが違ってくる。
スカリエッティにしてみれば、高町なのはも、Zに命を喰われていった多くの走り屋たちと所詮は変わらなかったのか、それともあのZに本当に向き合える乗り手だったのか、というのは興味を持つことだ。
ああ、自分も見透かされている──と、リインは気づいていた。
今回、高崎まで行くのにわざわざスカリエッティが自分を呼んだ理由。
Zがクラッシュし、悪魔のZが首都高から姿を消して以降、ブラックバードの走りにどこか翳りが見える。
そんな街の走り屋たちのうわさをどこからか聞きつけた。
自分が本当に望んでいるのは、あのZを葬り去ることではない──
その気持ちに、今さらながらに気づかされたと、リインは思っていた。
夜が更け、ポルシェターボがナカジマ鉄工所の敷地に乗り入れてきたとき、道路端に青いインプレッサと数台のスポーツカーが止まっているのが見えた。
ゲンヤは玄関先に出てきて待っており、スカリエッティを作業場に案内した。
インプレッサを中心にした数台のドライバーは若い少女たちで、ポルシェから降りてくるスカリエッティたちを遠巻きに眺めている。
「ほう、もうパネルを張り終えたのかね。さすがに仕事が早いね」
タイヤとエンジンを外し、ウマに載せられたZはフレーム修正機で各部の寸法を出しなおし、ダメージを受けたサブフレームを繋ぎ換え、新たに作り直した外装パネルを架装してボディを完成させていた。
あとはサスペンションメンバーを取り付け、エンジンを載せれば走り出せる状態である。
ゲンヤはちらりと外のインプレッサを見やって、それからリインとスカリエッティを順番に、やや憔悴したように目線を上げた。
「ま……仕事が終わって飯の後、ヒマを見つけてコツコツやった程度です」
「いやいや、いい仕事だよ。新車以上の仕上がりだ」
「スカさん、今回の件、カネは取ってるんですか?私に払った工賃も全部スカさんの持ち出しじゃないですか」
スカリエッティはリインから見えない角度で、にやりと唇の端を吊り上げた。
「これは私の、いわば自己満足だからね。幸いにして、それに付き合ってくれる人間がいる、それだけだ。
私はキチンと仕事としてアンタにボディ修復を依頼した、それだけさ」
「私はかまいませんが、スカさんはいいんですか。今日もあんたが来るって言うんで、なんとか言いくるめてチンクたちを出かけさせたんですよ」
「後悔はしていない。少なくとも今はね」
「今は──このZに乗ってる人間は、そこまであんたを」
「ま、私も昔とは違う。私なりに考えてはいるよ、食っていくための仕事と自分の趣味はしっかり区別しているさ」
「惜しいと思ってるんですよ、あんたほどの職人が、こうやって燻っているのは」
群馬と東京という離れた土地ながら、ゲンヤとスカリエッティは奇妙な因縁のあるチューナー同士だった。
片や峠のワインディング、片や高速道路のキャノンボール。一見走る人間も被らないように思えたが、たとえば各地のディーラーを転勤していくベテラン整備工などから、人づてにスカリエッティのうわさは群馬にも聞こえていた。
確かにスカリエッティの身の振りは人間としてとてもではないがほめられたものではない。
車にのめりこみ、チューナーとして暴走族たちの車をつくり、その結果として大勢の人間を死なせた。店を持ったこともあったが成功せず、借金ばかりがかさみ、家族にも逃げられた。
それでも、その技術だけは確かだった。
それだけで求められる人間がいる、それだけで求めるに値すると考える人間がいる。
ブラックバード、そして悪魔のZ。
そんな人間たちがいる限り、彼ら、首都高の悪魔たちは永遠に死なない。
リインはじっと、Zの姿を見つめている。
あの夜、もう助からないと思った。はやての前から自分が消えてしまうことを覚悟した。
しかし、Zは自分を救ってくれた。トラックを避けられない進路にいたポルシェターボを、テスタやスープラをかばうように先頭から左へノーズをねじ込み、自らを犠牲にしてリインたちを救った。
Zは、自分の身代わりに死んでしまうのだと思った。炎上するZは、もはや火を消し止めても修理など出来ないだろうと思った。高速道路で、時速200キロ以上での事故を起こせば、車両は警察が差し押さえる。そして処分されてしまうだろう。
それでも、どういうルートでか、スカリエッティはこの悪魔のZを地獄の淵から引き上げてきた。
もう、終わりにしよう──そんな感傷を許さないように、白い悪魔はリインをにらみつけている。
こいつが生きている限り、自分はまだ、走り続けることが出来る。
走る。Zが生きている限り、ブラックバードも生き続ける。萎えかけていた心が、燃え上がりつつある。