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仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘、仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣鷹司政凞の娘で仁孝女御(後、中宮)の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子ただし夙子は、明治に入って皇太后となるまでは正式な皇后ではなく「准后」(皇后に準ずる身分)であった。。
典侍
幼名は煕宮。天保11年(1840年)に立太子。弘化3年(1846年)の父・仁孝天皇の崩御を受け践祚した。父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで公家の学問所である学習院を創設した。
嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、政治への積極的な関与を強め、安政5年(1858年)7月27日には40年にわたって朝政を主導してきた前関白鷹司政通の内覧職権を停止して落飾に追い込み、更に2ヶ月後の9月4日には現関白九条尚忠の内覧職権も停止(関白職は留任、10月19日停止解除)して朝廷における自身の主導権確保を図っている。
また、幕政に発言力を持ち、大老井伊直弼が諸外国と勅許を得ずに条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下したこともあった(文久3年(1863年)3月の攘夷勅命)。これを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。孝明天皇は攘夷の意思が強く、異母妹・和宮親子内親王を第14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだ。家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸している。京都守護職であった会津藩主松平容保への信任は特に厚かったと言われる。
しかし慶応元年(1865年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出す事にした。だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった慶応元年12月17日、典薬寮高階経由・経徳らの建言による(『孝明天皇紀』巻五P706-707)。もっとも、天皇没後の戊辰戦争を受けて慶応4年3月8日に同じ高階親子の建言で撤回された(『明治天皇紀』巻一P643)。。もっとも、遺品として時計アメリカ合衆国大統領のジェームズ・ブキャナンより贈られたウォルサム社製。が残るなど、西洋文明を全く否定していた訳ではない。
幕末期において、天皇及び朝廷の政治的地位は外見上は急速に高まっていき、天皇自身も当初はこれに対応しようとしていた。ところが、実際には幕府・一会桑・薩長などの諸藩・公家・志士たちの権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇個人の権威は低下していくことになった。文久3年4月22日付の中川宮尊融(朝彦)親王宛の書簡では、4月10日の石清水八幡宮行幸について体調不良にも関わらず三条実美らに無理にでも鳳輦に載せると強迫されたと告白『孝明天皇紀』巻四P592し、同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ自分の真意とは異なる勅語(「大和行幸の勅」)が作成される現状を嘆いている『孝明天皇紀』巻四P845-846。このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出するようになる。
第2次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通は西郷隆盛に対する書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言慶応元年9月23日付書簡『大久保利通文書』巻一P311し、岩倉具視は国内諸派の対立の根幹は天皇にあると暗に示唆して、孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行うことで朝廷の求心力を回復せよと記している『岩倉具視文書』巻一P264。こうした中で慶応2年8月30日には天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣近衛忠房が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている『孝明天皇紀』巻四P893。
慶応2年(1866年)12月25日、義弟・家茂の後を追うように、在位21年にして崩御。Template:享年。死因は天然痘と診断された。
孝明天皇と漢風諡号が贈られた。諡を持つ最後の天皇(明治以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。
孝明天皇の埋葬にあたっては、文久の修陵で活躍した山陵奉行・戸田忠至(ただゆき)の建言を受け、従来の仏式葬の石塔から古式に改められ、歴代天皇墓所の泉涌寺裏山に、円墳を模した後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)が築かれた。ただし、葬儀そのものは泉涌寺において仏式で営まれた。
平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮に、昭和15年(1940年、皇紀2600年)に平安京最後の天皇として合祀された。
安政元年(1855年)に内裏が焼失した際には、翌年の再建までの間に聖護院門跡や桂宮邸を仮御所としていた時期もある。
慶應2年12月11日(1867年1月16日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌12日に発熱する。天皇の持病である痔を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記によれば、孝明天皇が発熱した12日、天皇の執匙(日常の健康管理を行い、調薬を担当する主治医格)であった高階経由が拝診して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。14日、典医筆頭のひとりで、かつて執匙も務めていた山本隨が治療に参加、15日には伊良子光順も召集され、昼夜詰めきりでの拝診が行われた。
12月16日(1月21日)、山本隨・高階経由・伊良子光順と、高階経由の息子・高階経徳の計4名で改めて拝診した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。
執匙の高階経由は痘瘡の治療経験が乏しかったため、経験豊富な西尾兼道・久野恭(いずれも小児科医)を召集して中山慶子が宮中から父の忠能に宛てた手紙にも、「御匙高階痘は餘り手かけ不申由西尾久野へも御薬なと相談にて上候由」(執匙の高階はあまり痘瘡患者を手がけた経験がないそうで、お薬の処方などは西尾や久野にも相談の上で行っているようです)と記されている。拝診に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、17日に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。
これ以後、天脈拝診(実際に天皇の体に触れて診察すること)の資格を持つ13人に、西尾兼道と久野恭の2人を加えた合計15人の典医たちにより、24時間体制での治療が始まった。
孝明天皇の公式の伝記である『孝明天皇紀』によれば、典医たちは、天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。
しかし、前述の伊良子光順の日記における12月25日の条には、天皇が痰がひどく、藤木篤平と藤木静顕が体をさすり、伊良子光順が膏薬を貼り、班に関係なく昼夜寝所に詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された、と記されている。
中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」などと壮絶な天皇の病状が記されている。それでも天皇の喪は秘され、実際には命日となった25日にも、福井登の名前で「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の報告書が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことだった。
孝明天皇は前述の通り長年のあいだ悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の中山忠能日記にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚」(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)との感想が記されている。その天皇が数えで36歳の若さにしてあえなく崩御してしまったことから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。
その後明治維新を過ぎて世の中に皇国史観が形成されると、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明天皇の暗殺説を論ずる事は長く封印された。しかし1909年(明治42年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇毒殺をあげるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。また、1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医兼医史学者・佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している京都府医師会 編『京都の医学史』(思文閣出版、1980年)1301頁。
そして、第二次世界大戦に日本が敗北し言論に対するタブーが霧散すると、俄然変死説が論壇をにぎわすようになる。まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、『孝明天皇は病死か毒殺か』『孝明天皇と中川宮』などの論文を発表したねずまさしである。ねずは、典医たちが発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も前述の佐伯と同様に、岩倉具視首謀・堀河紀子実行説を唱えた。
1975年(昭和50年)から1977年(同52年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した光孝は、断定こそ避けているものの、ねずと同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した伊良子光孝が医学史雑誌『医譚』の第47・48号(1976年)に天脈拝診日記を再発表した際に記述したところによると、拝診日記の最初の発表以降、孝明天皇毒殺の証拠を探ろうとして光孝のもとへ歴史研究者や作家の類がかなり押しかけてきたという。これに閉口したのか、光孝は天皇の死因について「真実は医師である自分にも判らない」として私見の開陳を避け、「討幕派が天皇毒殺をするなど考えられず、また考えたくもない」といった旨のことも述べている。。
これらのほかにも、学界において毒殺説を唱える研究者は少なからずおり、1980年代の半ばまでは孝明天皇の死因について、これが多数説というべき勢力を保っていた。
しかし、1989年(平成元年)から1990年(同2年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が、これを真っ向から覆す2つの論文を発表する。
『孝明天皇の死因について』『孝明天皇は暗殺されたのか』というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、
などから、典医たちの「御容態書」の、特に20日以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けたただし原口説には、天皇の痘瘡感染経路についての言及が見られないなど検証不十分な点も存在する。。
また原口は、諸史料の分析から岩倉が慶應2年12月の段階では「倒(討)幕」の意思を持っていなかったことを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。
原口説が発表された後、毒殺説を唱える歴史学者の石井孝がこれに反論を加え、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく、決着を見るには至っていない。
しかし原口説の発表以降、毒殺説から病死説に転向する研究者が相次ぎ、多数説が後者へと逆転する大きなきっかけとなった。実はかく言う原口も、かつてはねず説を支持する毒殺論者であった。ともあれ、現在のところ原口説を全面的に覆すほどの新事実は発見されておらず、大掛かりな反証もほとんど試みられていない。これにより、原口説はほぼ通説としての地位を獲得しつつある。
ただ、前述の通り毒殺説・病死説ともに「状況証拠」による推定の域を出ることはできず、物理的に証明するものが存在しないのも事実である。物理的な証明とは後月輪東山陵の発掘、すなわち土葬された孝明天皇の遺骸の法医学的な調査をもってするほかはないが、宮内庁による管理のもと、天皇陵への学術調査が事実上禁じられている現在では、このような調査が実現する可能性はきわめて低い。
毒殺以外の謀殺説では、天皇が宮中で何者かに刺殺あるいは斬殺されたとするものもみられ、「親王家の侍医が深夜呼び出されて御所に上がり、腹部を刺され血まみれになった孝明天皇と思われる貴人を手当てしたが甲斐無く絶命した」という類の話が数種流布している。しかし、原因不明の難病ならばまだしも、刺された事が明らかな状況でわざわざ典医以外の医者を呼ぶことは不自然であるなど、毒殺説に比して荒唐無稽であり、歴史研究者の間でこれを採る者は皆無に等しい。
著者名 :徳富猪一郎/著 , 平泉澄/校訂 出版者 :近世日本国民史刊行会
書名 :近世日本国民史 61 孝明天皇御宇終篇 著者名 :徳富猪一郎/著 , 平泉澄/校訂 出版者 :近世日本国民史刊行会
書名 :近世日本国民史 62 孝明天皇崩御後の形勢 著者名 :徳富猪一郎/著 , 平泉澄/校訂 出版者 :近世日本国民史刊行会
書名 : 孝明天皇 著者名 : 福地重孝著 出版社 : 東京 秋田書店 シリーズ名 : 天皇紀シリーズ 2
特に、徳富猪一郎氏は現在までも認められている近代史の偉人です。 http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/298.html 上記の国会図書館でも人物が紹介されています。
他の人物に関しても、ウィキペディアより信用できます。 http://www.ndl.go.jp/portrait/index.html