ある日の比呂美4

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《あら、お夕食もいらないの?》 「あの……練習試合が近くて……ミーティングが長くなりそうなんです」 比呂美は仲上の家に、夕食を断る電話をしていた。 おばさんに教わった料理の練習もしてみたいし、などと、もっともらしい事も付け加える。 《……わかったわ。もし自分で作る時間が無かったら言いなさい。おかずだけでも持って行ってあげるから》 ちゃんと食べるのよ、と最後に釘を刺し、おばさんは電話を切った。 (…………) 自分が嘘を吐いていることに、おばさんは気がついている。……そう比呂美は思った。 今までどれ程忙しくても、眞一郎の側にいる時間を削ったことのない自分が、 急によそよそしい態度を取れば、おかしいと思わないはずがない…… それでも……おばさんは素知らぬフリをしてくれる…… その心遣いが胸に沁みた。 ………… 今、比呂美は噴水公園のベンチに一人で座っている。 午後の授業には出席したが、バスケ部の練習は誰にも連絡することなく休んだ。 ……朋与から逃げたのだ…… おばさんに言ったことは全部『嘘』。 蛍川との試合はかなり先のことで、ミーティングなどありはしないし、 仲上の味を覚える練習だって、するつもりもない。……もう必要ない…かもしれないのだから。 (…………眞一郎くんの……好きな味…………) 眉間にシワを寄せながら、携帯の画面を見つめる比呂美。指が勝手に動き、アドレスから眞一郎の番号を呼び出す。 左手に洗顔フォーム、右手に歯ブラシを握って笑う眞一郎の写真。 恥ずかしいから別のにしてくれ、と言われたのが、随分遠い日のような気がする。 身体の……いや、『湯浅比呂美』の中心が締め付けられるように痛い。 ………… 言われてみれば、朋与の言う通りだ。 『兄妹かもしれない』と思っていたあの頃に、眞一郎が誰と愛し合おうと、自分にはその事を糾弾する資格は無い。 黒部朋与や石動乃絵に愛情を傾けたとしても、それを理由に『今』の眞一郎を責める事は出来ない。 (……それなのに……私は……) つまらない嫉妬と独占欲に囚われて、眞一郎と朋与の中に燻っていた小さな種火を煽ってしまった。 朋与が必死になって押し殺してきた想いを……燃え上がらせてしまった…… だが……後悔してみても遅い。全て自業自得…… 決して消えることは無いと思っていた眞一郎との絆。それが自分自身の心の弱さが原因で崩れ去ろうとしている。 変われたと思っていたのに…… 何も変わってはいなかった…… 自分はあの頃のまま…… 何も変わらない『湯浅比呂美』のままだ…… …………     ぐぅ~ 胃袋が縮み上がって、何でもいいから食べ物を身体に入れろ、と要求してきた。 そういえば、朝も昼も食べ物を口にしていない。 (…………はぁ……) 比呂美は内心で溜息を吐き、自分の図太さに呆れかえった。 これほど……死にたい程に苦しんでいるというのに、食欲だけは消えないなんて…… ………… ……でも思い出してみれば、両親が死んだ時も食事が喉を通らない、ということはなかった。 『あの頃』の一時期、石動乃絵を避けて昼食を取らなかった時も、後でちゃっかりパンをかじったりしていた。 食欲を満たすことで、精神の安定を保つ…… 自分はそういうタイプなのかもしれない…… 考えが飛躍し過ぎな気もするが、それで少しの間でも忘れられるなら、それでもいいか、と比呂美は思った。 そういえば今日は、この地区で唯一の大型スーパー『セフレ』の特売日だ。 扇情的なものを想像させる名前が好きではなかったが、比呂美はよくそこを利用していた。 (何か買ってこなきゃ……) 最近は仲上の家で食事を採ることが多かったので、部屋には今、アイスとスナック菓子くらいしかない。 気持ちを強制的に切り替えた比呂美は、ベンチから立ち上がって、スーパーへと向かった。 ジャガイモ、人参、ブロッコリー…… 買い物カゴに次々と入れられていく野菜たち。 仲上家での『修業』の成果か、比呂美の食品を見分ける眼は確かだった。 値段と鮮度を天秤に掛け、一番良い物を的確に選び取っていく。 (何でもいい。他の事を考えていよう…… でなければ……) 自分はきっとおかしくなってしまう…… 恐ろしい事を考えてしまう…… それが……怖い。 内側から滲んでくる闇に呑まれるイメージが頭の中に広がる…… 気持ちの裏に潜んでいる闇に…… ………… 「湯浅さん」 後ろから突然声を掛けられて、比呂美はハッと我に返った。 振り返ると、買い物カゴを下げた野伏三代吉が目の前に立っている。 「野伏君……あの……こんばんわ」 自分と同じく、食料品の買出しに来たようだ。手には山盛りの特売品が詰まったカゴを下げている。 「眞一郎は?」 一緒にいる、と思ったのだろう。キョロキョロと視線を巡らし、近くにいるはずの親友の姿を捜す三代吉。 「あの……今日は家で用があるって……」 比呂美は咄嗟に嘘を吐いた。 彼は眞一郎の親友ではあるが、自分とはそれほど親しい訳でもない。……適当にやり過ごそう…… そう思ったのだ。 「一人なの? ……だってさ……その山盛りの材料、どう見ても二人分だろ?」 三代吉に指摘され、比呂美は初めて気がついた。自分が無意識に眞一郎の夕食を用意しようとしていた事に。 新鮮な野菜と豚の角切り肉…… それに眞一郎の好きなメーカーのシチュールー…… (……私……何してるの……) 眞一郎の大好きなシチュー…… そんな物を作っても……無駄なのに……意味は無いのに…… …………馬鹿みたい………… ………… 「! ちょ…… ど、どうしたんだよ」 カゴを肘にかけたまま、俯いて大粒の涙を零しはじめた比呂美の様子に、三代吉は慌てた。 周りにいる買い物客たちが、チラチラと二人に視線を向けて、小声で「なにかしら」と話し出す。 「違います、違いますから」と通り過ぎる人たちに弁解しながら、三代吉はポケットからハンカチを取り出した。 そして、黙ってそれを比呂美に差し出す。 『親友の彼女』にしてやれる事はこのくらい、ということなのだろう。 ハンカチはちゃんと持っていたが、比呂美はそれを……三代吉の優しさを借りることにした。 「ご、ごめんなさい。眼にゴミが入っちゃった」 いぶかしむ三代吉に、量が多いのは一週間分買い溜めしているからだ、とまた嘘を言って誤魔化す。 すぐに泣き止んだ比呂美は、そのまま二人分のシチューの材料を買ってスーパーを出た。 三代吉も「もう暗いから途中まで送る」と言って、その後に続く。 比呂美はその申し出を丁寧に断ったのだが、三代吉は聞き入れなかった。 「何かあったら俺、眞一郎に殺されちまうよ」 そう言って、三代吉は比呂美の持つレジ袋をサッと奪い、一歩先を歩き始めた。 「…………」 そんな事ないわ、と内心で呟きつつ、比呂美もその斜め後ろについて歩き出す。 ………… ………… 三代吉は何も訊いてこなかった。 ただ黙って比呂美の前を、眞一郎の代わりに盾となって歩いている。 ゴミが眼に入った、なんて見え透いた嘘を信じたとは思えない。 眞一郎との間に『何か』があったことは察しているはずなのに…… (…………野伏君に……話してみようかな……) 誰かに話せば……楽になれるかも…… ふと、比呂美はそう思った。 この問題には直接関係が無く、それでいて眞一郎の心に近い野伏三代吉なら……丁度良いかもしれない。 ………… 「……あの……」 「ん? なんだ?」 訳の分からない事を言おうとしている。その自覚はあった。……それでも、話してしまいたい…… 一人で抱え込むのは……もう限界だった。 「…………『友達』の彼氏がね……」 何の脈絡も無く始まる比呂美の話…… 声に反応した三代吉が肩越しに振り向くのを見て、比呂美はあさっての方向へ視線を逸らした。 「……元カノと……寄りを戻しそうなんだって…………」 「…………ふ~ん……」 三代吉が脚を止める。比呂美も立ち止まり、眼を合わせないまま話を続ける。 『友達』の事と偽って語られる、比呂美と眞一郎、そして朋与の今…… それを黙って聞く三代吉の瞳は、とても透明で穏やかだった。 そんな話には興味がない、といった風でも、聞かされても迷惑だ、という感じでもない。 比呂美が全てを語り終えるまで、三代吉は一言も発せず、真剣に耳を傾けていた。 ………… 「話してしまえば楽になる」というのは本当なのだな、と比呂美は思った。 あくまで他人事を装ってはいたが、閉じ込めた秘密を解放することで、僅かながら心が軽くなった気がする。 (……でも……その後は……) 重たい荷物を少し下ろす代わりに、強烈な自己嫌悪がすぐに襲い掛かってくる。 ……眞一郎に『あの秘密』を告げた時もそうだった…… (……もう止めよう……口にするべきじゃなかった……) 比呂美は話を切り上げるために、答えようが無い事を承知で、三代吉に訊いてみた。 「相談…されちゃった。…………野伏君なら……なんて答える?」 さぁな、とでも言って突き放してくれればいい。この話題は……もうお終いだ。 だが、比呂美の予想を越えて、三代吉の口からサラリと明快な回答が飛び出す。 「待つしかねぇな」 ……比呂美は呆気に取られてしまった。あまりに単純で消極的に思える、その答えに。 「だってさ、その娘が今、出来ることって……それくらいだろ」 彼氏と元カノがどうなるか、どうするか。それは二人の心の問題だから、『友達』が口を出してはいけない。 たとえ好きな相手でも、親友でも、二人の想いは二人のモノだから。 なら、今は自分自身が出来ることを考えればいい。 (…………) そんな答え、納得できない…… だってそれじゃ…… 不満そうな比呂美の顔を見て、三代吉は話の切り口を変えてきた。 「バスケってさぁ、敵が自分より強い奴だったら、試合止めちゃってもいいの?」 「……え……」 即座に返せない比呂美。三代吉は構わずに続ける。 1on1の勝負……敵は凄い奴だ。そいつはバスケを始めたのは遅いのに、今では自分より上手い。 ……勝てない…… 間違いなく抜かれる!! そんな時、どうする? 「…………自分の力を信じて……自分なりのプレーを全力で……する」 比呂美の答えは、三代吉を満足させるモノだったらしい。三日月の様に細められた眼が「そうだ」と言っている。 「元カノはさ……その『友達』を抜き去って、今、シュート体勢に入ってる」 それを後ろから突き飛ばしたり、脚を引っ掛けたりするのって反則じゃね?と三代吉は言った。 シュートが決まるか、ボールがリングから零れるか…… ちゃんと見届ける。 「リバウンド、狙うのはそれからっしょ」 「…………」 比呂美の心の隙間に、三代吉が投げ込んだ答えがストンと嵌まり込んだ。 バラバラに断線していた思考が繋がり、想いが修復されて『あの頃』に戻っていく。 ………… 比呂美は、眞一郎がなぜ、野伏三代吉を『親友』と呼ぶのか分かった。 ……この少年は凄い…… 眞一郎が信頼を、愛子が愛情を寄せる理由が……今なら理解できる。 本当は分かっているのに……分からないフリをして…… それでいて、ちゃんと行く方向を教えてくれる。 ………… 「凄いね、野伏君…… 話してみて良かった」 「惚れるなよ。俺、愛子一筋だかんな」 と、おどけて見せる三代吉。 「私だって……眞一郎くん一筋……だよ」 恥ずかし気も無く切り返す比呂美の表情は、スーパーにいた時とは別人の様だった。 比呂美は三代吉と途中で別れ、また誰もいない噴水公園に戻ってきた。 ベンチにレジ袋を置き、街灯を見上げる。 (……とりあえず、ここでいい) 大好きなあの漫画のように公園にゴールがあるといいのだが、贅沢はいえない。 暗闇をほのかに照らす明かりを背にし、何も無い空間に視線を向ける。 ………… ……そこに浮かび上がる幻…… 『黒部朋与の幻影』が、ドリブルをしながらゆっくり近づいてきた。 比呂美の眼が鋭く輝く。 だがそれは、昼間のような憎悪に曇ったものではなかった。 『朋与』が体勢を低く構え、左右に動きながら接近する。 比呂美もそれに応じ、ディフェンスの構えを取った。 ……抜かれる…… それは分かっている…… でも、勝負はそのあと!! ダムッダムッというドリブル音が激しく脳内に響くと、『朋与』の体が比呂美を惑わすように揺れる。 (…………来いっ!!!) 比呂美が一段、腰を落とし込んだ瞬間、『朋与』が仕掛けた! 見事なフェイントで、比呂美の読みを裏切って、反対のコースを抜き去る! (!!) 振り向いた時には、『朋与』は光の中心に向かってシュートを放とうとしていた。     ヒュッ 両手首のスナップに押し出され、『朋与』から離れていくボール。 それは美しい放物線を描き、光のゴールに吸い込まれていく……かに見えた。 (まだっ!) リングに弾かれるボール。比呂美と『朋与』は同時に飛び上がり、それに向かって手を伸ばした。 邪魔はしない。でも遠慮もしない。自分もあのボールが……眞一郎が欲しいから。 朋与に勝っているとは思わない。でも、負けているとも思わない。 …………だから勝負する……全力で……真正面から!!………… …………絶対に……諦めたくないから………… ………… 着地した時、そこはもう公園に戻っていた。『朋与』の姿も消えている。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」 呼吸が激しく乱れるほどの緊張。イメージの中の朋与との闘いは、比呂美を疲労させた。 しかし、答えを見つけたその顔は、どこか晴れ晴れとしている。 (……そうだ……私が揺らぐ理由は……何も無いんだ……) 眞一郎が好き…… 『湯浅比呂美』は『仲上眞一郎』が好き…… 眞一郎が何をしていたとしても、これから何をしても、『想い』は変わらない。 自分の真ん中にある、この『想い』……それを糧にすればいい。 …………そして今は待つ………… 朋与が眞一郎と向き合うというのなら、眞一郎はそれに答えるだろう。 真剣に朋与に向き合うだろう…… その答えを……自分も待つ…… 今はただ……待つだけ…… ………… ………… 重たいレジ袋に手を伸ばし、アパートへと比呂美は歩き出す。 その瞳には、取り戻した想いに裏打ちされた光が宿り、怯えと妬みは完全に消え去っていた。 つづく
《あら、お夕食もいらないの?》 「あの……練習試合が近くて……ミーティングが長くなりそうなんです」 比呂美は仲上の家に、夕食を断る電話をしていた。 おばさんに教わった料理の練習もしてみたいし、などと、もっともらしい事も付け加える。 《……わかったわ。もし自分で作る時間が無かったら言いなさい。おかずだけでも持って行ってあげるから》 ちゃんと食べるのよ、と最後に釘を刺し、おばさんは電話を切った。 (…………) 自分が嘘を吐いていることに、おばさんは気がついている。……そう比呂美は思った。 今までどれ程忙しくても、眞一郎の側にいる時間を削ったことのない自分が、 急によそよそしい態度を取れば、おかしいと思わないはずがない…… それでも……おばさんは素知らぬフリをしてくれる…… その心遣いが胸に沁みた。 ………… 今、比呂美は噴水公園のベンチに一人で座っている。 午後の授業には出席したが、バスケ部の練習は誰にも連絡することなく休んだ。 ……朋与から逃げたのだ…… おばさんに言ったことは全部『嘘』。 蛍川との試合はかなり先のことで、ミーティングなどありはしないし、 仲上の味を覚える練習だって、するつもりもない。……もう必要ない…かもしれないのだから。 (…………眞一郎くんの……好きな味…………) 眉間にシワを寄せながら、携帯の画面を見つめる比呂美。指が勝手に動き、アドレスから眞一郎の番号を呼び出す。 左手に洗顔フォーム、右手に歯ブラシを握って笑う眞一郎の写真。 恥ずかしいから別のにしてくれ、と言われたのが、随分遠い日のような気がする。 身体の……いや、『湯浅比呂美』の中心が締め付けられるように痛い。 ………… 言われてみれば、朋与の言う通りだ。 『兄妹かもしれない』と思っていたあの頃に、眞一郎が誰と愛し合おうと、自分にはその事を糾弾する資格は無い。 黒部朋与や石動乃絵に愛情を傾けたとしても、それを理由に『今』の眞一郎を責める事は出来ない。 (……それなのに……私は……) つまらない嫉妬と独占欲に囚われて、眞一郎と朋与の中に燻っていた小さな種火を煽ってしまった。 朋与が必死になって押し殺してきた想いを……燃え上がらせてしまった…… だが……後悔してみても遅い。全て自業自得…… 決して消えることは無いと思っていた眞一郎との絆。それが自分自身の心の弱さが原因で崩れ去ろうとしている。 変われたと思っていたのに…… 何も変わってはいなかった…… 自分はあの頃のまま…… 何も変わらない『湯浅比呂美』のままだ…… …………     ぐぅ~ 胃袋が縮み上がって、何でもいいから食べ物を身体に入れろ、と要求してきた。 そういえば、朝も昼も食べ物を口にしていない。 (…………はぁ……) 比呂美は内心で溜息を吐き、自分の図太さに呆れかえった。 これほど……死にたい程に苦しんでいるというのに、食欲だけは消えないなんて…… ………… ……でも思い出してみれば、両親が死んだ時も食事が喉を通らない、ということはなかった。 『あの頃』の一時期、石動乃絵を避けて昼食を取らなかった時も、後でちゃっかりパンをかじったりしていた。 食欲を満たすことで、精神の安定を保つ…… 自分はそういうタイプなのかもしれない…… 考えが飛躍し過ぎな気もするが、それで少しの間でも忘れられるなら、それでもいいか、と比呂美は思った。 そういえば今日は、この地区で唯一の大型スーパー『セフレ』の特売日だ。 扇情的なものを想像させる名前が好きではなかったが、比呂美はよくそこを利用していた。 (何か買ってこなきゃ……) 最近は仲上の家で食事を採ることが多かったので、部屋には今、アイスとスナック菓子くらいしかない。 気持ちを強制的に切り替えた比呂美は、ベンチから立ち上がって、スーパーへと向かった。 ジャガイモ、人参、ブロッコリー…… 買い物カゴに次々と入れられていく野菜たち。 仲上家での『修業』の成果か、比呂美の食品を見分ける眼は確かだった。 値段と鮮度を天秤に掛け、一番良い物を的確に選び取っていく。 (何でもいい。他の事を考えていよう…… でなければ……) 自分はきっとおかしくなってしまう…… 恐ろしい事を考えてしまう…… それが……怖い。 内側から滲んでくる闇に呑まれるイメージが頭の中に広がる…… 気持ちの裏に潜んでいる闇に…… ………… 「湯浅さん」 後ろから突然声を掛けられて、比呂美はハッと我に返った。 振り返ると、買い物カゴを下げた野伏三代吉が目の前に立っている。 「野伏君……あの……こんばんわ」 自分と同じく、食料品の買出しに来たようだ。手には山盛りの特売品が詰まったカゴを下げている。 「眞一郎は?」 一緒にいる、と思ったのだろう。キョロキョロと視線を巡らし、近くにいるはずの親友の姿を捜す三代吉。 「あの……今日は家で用があるって……」 比呂美は咄嗟に嘘を吐いた。 彼は眞一郎の親友ではあるが、自分とはそれほど親しい訳でもない。……適当にやり過ごそう…… そう思ったのだ。 「一人なの? ……だってさ……その山盛りの材料、どう見ても二人分だろ?」 三代吉に指摘され、比呂美は初めて気がついた。自分が無意識に眞一郎の夕食を用意しようとしていた事に。 新鮮な野菜と豚の角切り肉…… それに眞一郎の好きなメーカーのシチュールー…… (……私……何してるの……) 眞一郎の大好きなシチュー…… そんな物を作っても……無駄なのに……意味は無いのに…… …………馬鹿みたい………… ………… 「! ちょ…… ど、どうしたんだよ」 カゴを肘にかけたまま、俯いて大粒の涙を零しはじめた比呂美の様子に、三代吉は慌てた。 周りにいる買い物客たちが、チラチラと二人に視線を向けて、小声で「なにかしら」と話し出す。 「違います、違いますから」と通り過ぎる人たちに弁解しながら、三代吉はポケットからハンカチを取り出した。 そして、黙ってそれを比呂美に差し出す。 『親友の彼女』にしてやれる事はこのくらい、ということなのだろう。 ハンカチはちゃんと持っていたが、比呂美はそれを……三代吉の優しさを借りることにした。 「ご、ごめんなさい。眼にゴミが入っちゃった」 いぶかしむ三代吉に、量が多いのは一週間分買い溜めしているからだ、とまた嘘を言って誤魔化す。 すぐに泣き止んだ比呂美は、そのまま二人分のシチューの材料を買ってスーパーを出た。 三代吉も「もう暗いから途中まで送る」と言って、その後に続く。 比呂美はその申し出を丁寧に断ったのだが、三代吉は聞き入れなかった。 「何かあったら俺、眞一郎に殺されちまうよ」 そう言って、三代吉は比呂美の持つレジ袋をサッと奪い、一歩先を歩き始めた。 「…………」 そんな事ないわ、と内心で呟きつつ、比呂美もその斜め後ろについて歩き出す。 ………… ………… 三代吉は何も訊いてこなかった。 ただ黙って比呂美の前を、眞一郎の代わりに盾となって歩いている。 ゴミが眼に入った、なんて見え透いた嘘を信じたとは思えない。 眞一郎との間に『何か』があったことは察しているはずなのに…… (…………野伏君に……話してみようかな……) 誰かに話せば……楽になれるかも…… ふと、比呂美はそう思った。 この問題には直接関係が無く、それでいて眞一郎の心に近い野伏三代吉なら……丁度良いかもしれない。 ………… 「……あの……」 「ん? なんだ?」 訳の分からない事を言おうとしている。その自覚はあった。……それでも、話してしまいたい…… 一人で抱え込むのは……もう限界だった。 「…………『友達』の彼氏がね……」 何の脈絡も無く始まる比呂美の話…… 声に反応した三代吉が肩越しに振り向くのを見て、比呂美はあさっての方向へ視線を逸らした。 「……元カノと……寄りを戻しそうなんだって…………」 「…………ふ~ん……」 三代吉が脚を止める。比呂美も立ち止まり、眼を合わせないまま話を続ける。 『友達』の事と偽って語られる、比呂美と眞一郎、そして朋与の今…… それを黙って聞く三代吉の瞳は、とても透明で穏やかだった。 そんな話には興味がない、といった風でも、聞かされても迷惑だ、という感じでもない。 比呂美が全てを語り終えるまで、三代吉は一言も発せず、真剣に耳を傾けていた。 ………… 「話してしまえば楽になる」というのは本当なのだな、と比呂美は思った。 あくまで他人事を装ってはいたが、閉じ込めた秘密を解放することで、僅かながら心が軽くなった気がする。 (……でも……その後は……) 重たい荷物を少し下ろす代わりに、強烈な自己嫌悪がすぐに襲い掛かってくる。 ……眞一郎に『あの秘密』を告げた時もそうだった…… (……もう止めよう……口にするべきじゃなかった……) 比呂美は話を切り上げるために、答えようが無い事を承知で、三代吉に訊いてみた。 「相談…されちゃった。…………野伏君なら……なんて答える?」 さぁな、とでも言って突き放してくれればいい。この話題は……もうお終いだ。 だが、比呂美の予想を越えて、三代吉の口からサラリと明快な回答が飛び出す。 「待つしかねぇな」 ……比呂美は呆気に取られてしまった。あまりに単純で消極的に思える、その答えに。 「だってさ、その娘が今、出来ることって……それくらいだろ」 彼氏と元カノがどうなるか、どうするか。それは二人の心の問題だから、『友達』が口を出してはいけない。 たとえ好きな相手でも、親友でも、二人の想いは二人のモノだから。 なら、今は自分自身が出来ることを考えればいい。 (…………) そんな答え、納得できない…… だってそれじゃ…… 不満そうな比呂美の顔を見て、三代吉は話の切り口を変えてきた。 「バスケってさぁ、敵が自分より強い奴だったら、試合止めちゃってもいいの?」 「……え……」 即座に返せない比呂美。三代吉は構わずに続ける。 1on1の勝負……敵は凄い奴だ。そいつはバスケを始めたのは遅いのに、今では自分より上手い。 ……勝てない…… 間違いなく抜かれる!! そんな時、どうする? 「…………自分の力を信じて……自分なりのプレーを全力で……する」 比呂美の答えは、三代吉を満足させるモノだったらしい。三日月の様に細められた眼が「そうだ」と言っている。 「元カノはさ……その『友達』を抜き去って、今、シュート体勢に入ってる」 それを後ろから突き飛ばしたり、脚を引っ掛けたりするのって反則じゃね?と三代吉は言った。 シュートが決まるか、ボールがリングから零れるか…… ちゃんと見届ける。 「リバウンド、狙うのはそれからっしょ」 「…………」 比呂美の心の隙間に、三代吉が投げ込んだ答えがストンと嵌まり込んだ。 バラバラに断線していた思考が繋がり、想いが修復されて『あの頃』に戻っていく。 ………… 比呂美は、眞一郎がなぜ、野伏三代吉を『親友』と呼ぶのか分かった。 ……この少年は凄い…… 眞一郎が信頼を、愛子が愛情を寄せる理由が……今なら理解できる。 本当は分かっているのに……分からないフリをして…… それでいて、ちゃんと行く方向を教えてくれる。 ………… 「凄いね、野伏君…… 話してみて良かった」 「惚れるなよ。俺、愛子一筋だかんな」 と、おどけて見せる三代吉。 「私だって……眞一郎くん一筋……だよ」 恥ずかし気も無く切り返す比呂美の表情は、スーパーにいた時とは別人の様だった。 比呂美は三代吉と途中で別れ、また誰もいない噴水公園に戻ってきた。 ベンチにレジ袋を置き、街灯を見上げる。 (……とりあえず、ここでいい) 大好きなあの漫画のように公園にゴールがあるといいのだが、贅沢はいえない。 暗闇をほのかに照らす明かりを背にし、何も無い空間に視線を向ける。 ………… ……そこに浮かび上がる幻…… 『黒部朋与の幻影』が、ドリブルをしながらゆっくり近づいてきた。 比呂美の眼が鋭く輝く。 だがそれは、昼間のような憎悪に曇ったものではなかった。 『朋与』が体勢を低く構え、左右に動きながら接近する。 比呂美もそれに応じ、ディフェンスの構えを取った。 ……抜かれる…… それは分かっている…… でも、勝負はそのあと!! ダムッダムッというドリブル音が激しく脳内に響くと、『朋与』の体が比呂美を惑わすように揺れる。 (…………来いっ!!!) 比呂美が一段、腰を落とし込んだ瞬間、『朋与』が仕掛けた! 見事なフェイントで、比呂美の読みを裏切って、反対のコースを抜き去る! (!!) 振り向いた時には、『朋与』は光の中心に向かってシュートを放とうとしていた。     ヒュッ 両手首のスナップに押し出され、『朋与』から離れていくボール。 それは美しい放物線を描き、光のゴールに吸い込まれていく……かに見えた。 (まだっ!) リングに弾かれるボール。比呂美と『朋与』は同時に飛び上がり、それに向かって手を伸ばした。 邪魔はしない。でも遠慮もしない。自分もあのボールが……眞一郎が欲しいから。 朋与に勝っているとは思わない。でも、負けているとも思わない。 …………だから勝負する……全力で……真正面から!!………… …………絶対に……諦めたくないから………… ………… 着地した時、そこはもう公園に戻っていた。『朋与』の姿も消えている。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」 呼吸が激しく乱れるほどの緊張。イメージの中の朋与との闘いは、比呂美を疲労させた。 しかし、答えを見つけたその顔は、どこか晴れ晴れとしている。 (……そうだ……私が揺らぐ理由は……何も無いんだ……) 眞一郎が好き…… 『湯浅比呂美』は『仲上眞一郎』が好き…… 眞一郎が何をしていたとしても、これから何をしても、『想い』は変わらない。 自分の真ん中にある、この『想い』……それを糧にすればいい。 …………そして今は待つ………… 朋与が眞一郎と向き合うというのなら、眞一郎はそれに答えるだろう。 真剣に朋与に向き合うだろう…… その答えを……自分も待つ…… 今はただ……待つだけ…… ………… ………… 重たいレジ袋に手を伸ばし、アパートへと比呂美は歩き出す。 その瞳には、取り戻した想いに裏打ちされた光が宿り、怯えと妬みは完全に消え去っていた。 つづく [[ある日の比呂美5]]

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