『全部ちゃんとできていない』
全部と自分で言っておきながら、何かはわかっていない。
俺の台詞に比呂美は何も返さなかった。
それからあまり語る事無く、俺は自転車で比呂美のアパートをめざした。
到着してからは荷物を運ぶのを手伝ったり、ダンボールを開封したりした。
俺が触れると困るものがあったようで、軽く睨まれていた。
ダンボールの重さで、何となく想像できた。
比呂美は停学が開けて学校に来られるようになった。
クラスの女子が比呂美を囲んで、明るく迎え入れていた。
男子は何もせずに遠くから眺めているだけだ。
俺もそのひとり。
もともと比呂美が他の男子と親しく話している姿を見たことがない。
比呂美のために喧嘩したために、俺はますます学校でも話せなくなった。
ただ授業中に視線を向けるだけ。
比呂美は女子バスケでも復帰して、蛍川との交流試合でも活躍していた。
俺は三代吉と一緒に見ていた。
シュートをしようとした比呂美が、蛍川の選手と衝突した。
素人目でも比呂美だけを標的にしているようだった。
あいつと比呂美が付き合っているのが原因だろう。
あいつがうちのクラスの女子に人気があるなら、蛍川の女子バスケでも同様だ。
それからの比呂美は怪我をした様子はないのだが、精彩を欠いているようだ。
どうも仲間とのパスがうまくいっていなかった。
試合後には比呂美のそばで、黒部さんが気を荒げていた。
その理由を俺は翌日に知った。
比呂美が黒縁のメガネを掛けて登校してきた。
視力が悪いのを俺は把握していない。
俺はただ比呂美をあまり見ようとしなかった。
何か見てはいけないような気分だったから。
ますます比呂美を意識するようになった。
『比呂美の涙を拭おうと心の中で誓ったのに』
俺は比呂美のための絵本の制作に取り組んではいたが、少し煮詰まっている。
雷轟丸の絵本、踊りの練習、乃絵……。
他にも何かありそうだが、少しずつ達成してゆこう。
ようやくあの竹林に到着した。
幼い
夏祭りに比呂美と歩いた場所だ。
竹林の中は一本道ではなくて、いくつか交差している。
俺はその中の一本の道を歩いている。
粉雪が舞っていて、とてもあの夜の夏とは異なる雰囲気だ。
目の前に他の道が現れた。
その道に出て左を見ると人影がある。
比呂美だ。
そういえばこの道は比呂美のアパートへと通じる道だ。
俺は声を掛けようとする。
だがうまい具合に言葉が出なかった。
遠ざかって行く比呂美を早歩きで追う。
比呂美の足取りはすばやくて、すぐにはたどり着けそうにもない。
まわりが竹林であるためか、人通りがなく不安なのだろうか?
あのときのように塞ぎ込みたくないからだろうか?
俺は疑問を繰り返していた。
ようやく竹林を抜ける。
先には立ち止まっている比呂美がいる。
俺はただ近づくだけだ。
比呂美が振り返ってメガネを取る。
「やっと見つけてくれたね」
安らかで穏やかな嬉しさを湛えた顔だ。
比呂美の部屋で打ち明けてくれた仲上家に来た理由に重ねてくれてはいる。
比呂美が望んでいるものすべてではないのだろう。
まだ何もしてやれていないから。
今は深く考えないようにする。
「よくわかったな、俺だと」
雪を踏む足音だけでは区別が付かないだろう。
「バスケをしていると、気配が読めるようになるの。
それに一年以上も同じ屋根の下にいたから」
あたかも当然のごとく口にした。
「そうだな」
「そうだよ」
短い返答の後に、俺は比呂美の右手にあるメガネに注目する。
「さっきどうして取ったんだ?」
率直な感想に比呂美は右手にかすかに力を込める。
「恥ずかしいから……」
上目遣いで訴えてきた。
「学校では堂々としていたよな」
俺の推察に、比呂美は上唇を噛む。
「今は違うし、メガネがなくてもいられるから」
「何でメガネを掛けるようになった?」
漠然とした解答はあるのだが、外したくないので訊いてみた。
「試合中にコンタクトが破れたから。
替えのものが今はないし……」
やはりあの蛍川の選手との接触が原因だった。
俺は詳しく訊かない。
予想どおりだったから。
「できればメガネを掛けてくれ」
俺はまだ比呂美のメガネ姿を真正面から見ていなかった。
理由がわかれば今の比呂美を受け入れてあげたい。
学校では横顔が限度だし、仲上家では比呂美と会えなくなった。
「何でそういうことを言うのかな?
今までメガネを掛けようか、さんざん悩んでいたのに。
仲上家でもコンタクトを付けるのには時間がかかるから、
いつも自室で付けたり洗ったりしていたんだよ」
俺の知らない比呂美がいた。
比呂美が俺の部屋に来てから、絵本の原稿を見たときと立場が逆転している。
「洗面所を占領したくなかったんだな。
気を遣わせて悪い」
仲上家で小さくなっていた比呂美に詫びた。
「違うの。眞一郎くんに見られたくなったの。
コンタクトを付けるときって、鏡に近づいて大きく見開かないといけないわ。
左手の人差し指にコンタクトを乗せて、右手で右目を上に開いてから近づけるの。
眞一郎くんがそばにいると、うまくできそうにないから」
実演をしながら説明してくれた。
左手の動きが震えていて、コンタクトをしていない俺でも成功しないのがわかる。
さすがにメガネを握る右手はそのままだった。
「いつから、コンタクトをしていたんだ?
もしかして仲上家のお手伝いでパソコンを使うようになってからか?」
俺は比呂美の視力が悪いのが、最近であって欲しかった。
そうであるなら見抜けなかった俺の判断の甘さが緩和されるからだ。
「仲上家に来る以前からよ。
それにコンタクトは付けているのを打ち明けない限りわからないわ」
「今はメガネを掛けていなくても、俺がわかるんだ」
俺は比呂美の瞳を覗こうとすると、顔を逸らされる。
「もう……、メガネを掛けてあげるわ。あまり見ないでね」
比呂美は少し俯いてから、顔を上げる。
「……」
俺は言葉を失った。
一つの道具に過ぎないメガネで、比呂美の印象が激変した。
大学生として通じるような大人びていて知性が感じられる。
もともと成績優秀であるから拍車を駆けているのだ。
「何か言ってよ……」
メガネ越しでも比呂美の威圧感は損なわれない。
さらに増加したようにも思える。
俺はその表情さえも眺めていられる余裕があった。
仲上家にいた比呂美には避けられていたようで、会話は数回もすれば途切れてしまっていた。
ただ挨拶をするだけの関係だった。
今は竹林の出入り口であり、人目にならないのが幸いだ。
「似合ってる。今度は外してくれ」
さらに要求した。また違った比呂美を見られるなら、怒られるのは本望だ。
「私は着せ替え人形じゃないのに……。
いつ眞一郎くんの前にメガネを掛けた姿を見せようか本気で考えていたのよ。
実家にいるときの休日はメガネだったし、たまにメガネのまま買い物にも行っていたの」
比呂美の告白に俺は過去を呪った。
何で比呂美と出くわす機会を与えてくれなかったんだ!
右手を額に当てて空を見上げる。
この小さな町でメガネの比呂美と遭遇させてくれなかったから。
「何か変よ、さっきから」
比呂美は吹き出してくれている。
メガネがあっても目が細くなるのもよくわかる。
父さんが俺を褒めてくれるときと同じだ。
「いいな、メガネ。ないのも、いいし」
俺は照れる事無くまじまじと覗き込んでいる。
比呂美は顔を逸らしたり上げたりしてかわそうとする。
そうすればさまざまな角度で見られるのに気づいていないようだ。
「どっちか選んでよ。コンタクトを買うか迷っているから」
まじめな眼差しなので俺は真剣に考える。
清楚でありながら凛とした大人びたメガネの比呂美。
年相応でありながら、どこか年上のようなコンタクトの比呂美。
最近は笑顔が増えつつあるから表情が豊かになっている。
考えるまでもない、答えは決まっている。
「コンタクトを買えばいいよ。月曜日はメガネで、火曜日はコンタクトとか」
俺の提案に比呂美は声を荒げる。
「ゴミの日みたいに言わないで」
「ちょっと待て。ゴミなんて言ってない」
俺の反論に比呂美は俯いてしまう。
生活臭が漂い始めている。
一人暮らしをするからではなくて、仲上家にいるときから家事をしていたから、
染み付いているのだろう。
「今日は遅いから、明日にコンタクトを買いに行く。
だから明後日はどうしたらいい?」
「今日と明日はメガネだから、明後日はコンタクト」
俺は頭の中のスケジュールにメモをする。
「覚えておくね。それとコンタクトの資料をもらって来ているの。
どれがいいか、相談に乗ってくれないかな?」
メガネ越しであっても瞳は潤んでいる。
俺がコンタクトに詳しくないのを比呂美はわかっているはずだ。
「時間がかかりそうだ」
「いろいろあるのよ。種類や値段や装着期間とか。
選ぶだけでも疲れるわ」
俺たちは比呂美のアパートに向かって並んで歩く。