私と眞一郎くんは手を繋いで玄関まで行けた。
居間までは並んで歩くだけだった。
自分たちの席に正座をしたまま、無言でおばさんが来るのを待っている。
「やけに遅くないか?」
眞一郎くんは痺れを切らしたようだ。
「お茶の用意だけなら遅いかもしれない。おばさんは用事があるからとおっしゃっていたし」
わざわざ用事と伝えているのが不可解であり、家事なら何をするのか教えてくれそうだ。
「結局は待つしかないんだよな。
でも比呂美がいて良かったよ。この緊張感のせいでうちにいるように思えなくて」
眞一郎くんは居間を見渡していると、私も釣られてしまう。
「何だか広く感じるね。特にこの机が」
昨晩は私の部屋の狭い机を挟んで雑談をしていた。
さっきまで結ばれていた左手から温もりが消えている。
恋人結びという指を絡めていてもだ。
「眞一郎くんと一緒にいられて嬉しい。
おばさんと台所にいると何かを訊かれそうで。
訊かれないと何か余計なことをしてしまったと思ってしまう」
今までのおばさんなら不愉快であると、私を軽蔑したり罵ったりした。
感情的だからこそおばさんを理解しやすくもあったのだ。
でもさっきのは笑顔だったので、本心からなのか装っているのかがわからない。
おばさんに慣れていないから、優しくされると構えてしまう。
お母さんの体調が良好な時期には、つねに親しく接してもらえていたのにだ。
たまにはもっと髪型をいじってみたらと、頭を撫でられていた。
「俺もふたりに昨日のことを訊かれていないな。
今朝は早起きをするぐらいだから、うまくいっていると理解されているのだろう。
わざわざ言葉にしなくても」
眞一郎くんの表情も読みやすくて良いのだが、相互理解を得られていると思い込みやすい。
わかっていても言葉にしてくれたほうが安心できるのにだ。
今日、私が下校を誘わなければ、ふたりに報告をせずに済ましていたかもしれない。
「眞一郎くんのペースでおばさんと話してね。私は補佐するから」
「男のほうからがいい。あまりお袋とも向き合っていなかったので」
背筋を伸ばして控えている姿は、麦端踊りを達成した精悍さを醸し出している。
眞一郎くんは自覚していないかもしれないが、一回り大きくなった。
台所からお盆に湯飲みを三つ乗せて、おばさんが運んで来る。
即時に緊迫感がまわりを満たしてゆく。
おばさんは眞一郎くん、私、自分にと湯飲みを置いてゆく。
頭を垂れてから私は湯飲みに口を付ける。
三人とも一息を入れてから落ち着く。
「比呂美と結婚を前提に付き合う。籍を入れるのはいつになるかわからないが」
眞一郎くんは力強い声調でありながら、深く浸透させるようとした。
言い切った後でもおばさんのほうを向いたままで返答を求めている。
「比呂美も同じ想いなの?」
おばさんは無表情で訊いてきた。
「はい。私たちが交際しているのを友人たちに明かしました。
能登さんに冷やかされたときに、眞一郎くんが付き合っているのを伝えてくれました。
下校中はずっと手を繋いでいましたし、買い物にも行きたいです」
ゆっくりと噛み締めるように語った。
もう後戻りはできない状況になっていて、世間体を考慮して封じさせないためだ。
たとえ反対されようとも、今の私たちなら阻止できなくなっている。
おばさんは湯飲みを口に運んで間を置く。
「結婚まで考えているとはね。
結納とか婚約とかどうするの? 眞一郎は比呂美を許婚にするの?」
瞼を閉じてから緩やかに問うて、私たちの扱いを仲上家として明確にさせようとした。
「今はそういうのをしたいと思っていない。俺はまだ結婚をできないから。
許婚というのは親同士が決めたような印象があるから避けたい」
海岸での会話の流れで決断したのではなく、以前から決めていたようだ。
ただそれがわかっただけで私の心が熱くなってくる。
「市役所に婚姻届を提出する以外は、今でもできると思うけど。
もっと他の言い方にして欲しいわね」
起伏のない口調で一点を突き刺した。
「今の俺には比呂美と家族を築いて、経済的に支えてあげられない。
絵本作家になれるかもわからないけど、デザイン関係で仕事ができてからがいい」
重苦しく現実を認識していて将来を見据えてくれている。
まだ編集者に見てもらえる程度だから、前途多難だ。
もともと日本で絵本作家として専業で生活できている者は、ほとんどいないだろう。
「そういうことでもないわ。
眞一郎が十八歳になったら学生結婚はできるし、経済的な支援はするわよ。
何もかも放り出して結婚するなら、反対。
やはりふたりは夫婦になるような関係に見えない。
さっきだって結婚の承諾を得に来ているのに、手を繋いでいるのはありえない」
眞一郎くんと私を交互に視線を送りながら戒めていた。
部分的に否定していて、おばさんが求めている回答を眞一郎くんがしていないのだろう。
「ごっこのように思われても、仕方がないです。
今はそうであっても、少しずつ積み重ねていきたい。
家事やお手伝いを将来のためにしたり、進路を決めたりする参考になります」
眞一郎くんと手を繋いでいたのを反省したくないし、ふたりで決めたことだ。
それに正式な結婚の承諾の申し込みは、後日にするだろう。
制服姿ではなく眞一郎くんはスーツで、私は清潔感のある服装で薄く化粧をしてだ。
手土産を用意して、育ての両親であっても粗相のないようにする。
「ごっこという遊びのようには思っていないわ。
比呂美は仲上家にお世話になっているし、両親がいない。
だから付き合うとしたら、結婚まで考えてしまうのは理解している。
それに比呂美が仲上家に来るときに、まわりから許婚にしているように思われていたわ。
出来が良い子だから、娘にするよりも嫁のほうが良いって。
私のときと比べても、比呂美のほうが料理や家事はできているし」
優しく語ってくれるおばさんは、私が仲上家に来たときに去った人とは別なようだ。
実際に私にも冷やかしがあったけれど、ただ黙るだけで何の反応もしなかった。
眞一郎くんは口を半開きにして頭を右手で掻いていたのにだ。
「おばさんがおじさんと付き合い始めてから、料理を静流さんに教わっていたようですね。
お母さんの形見としてもらった日記に書かれていました。
毎日、お弁当の交換で味見してもらっていたって」
私の告白におばさんは眉根を寄せて震わせていた。
「そんな話は千草から聞いていない。
お母さまには手取り足取りに、仲上で必要なことを教えていただいたわ。
いつもメモ帳を携帯していたのを千草に話したことがあった。
だから千草は比呂美にノートを書こうと思っていて、アイデアを求められた。
でも日記まで渡していたとわね」
声を荒げてから、尊敬している静流さんの話題になると目を細めている。
静流さんはおじさんのお母さんで別の場所で暮している。
私もたまに仲上家にいらしたときに挨拶をしている。
誰もが緊張しつつも穏やかな時間を過ごしているのだ。
私の処遇にも気に掛けてくれていて、おばさんとの関係が悪いときに仲裁してくれていた。
でもおばさんのときもお手伝いをしていたと言われると、状況はあまり変わらなかった。
もともと世話になっているので、やらねばならないと思っている。
むしろお母さんのことをけなすのをやめて欲しかったのだ。
「おばさんたちのことはお母さんの日記である程度は把握できています。
日記はお父さんにも見せていませんでした。
仲上家に来ると決まったときに、お父さんからも聞かされています」
先に私が情報を保持しているのを明かしておいた。
これでおばさんは嘘をつけば私には見抜けるかもしれない。
お母さんは日記にありのままに書くことで精神を安定させていたのだろう。
特にお父さんへの想いを長年も募らせていたのだ。
「ふたりから私たちのことを教えられているとは思っていたけど、そこまでとはね。
あのふたりのことだから、ありえなくはない。
あなたたちはあのふたりのようになって欲しいわ。
お互いをわかり合えていて誰も邪魔ができそうにない関係。
付き合い始めて数時間で結婚してもおかしくない雰囲気だった」
微妙な表情を浮かべていて私には解読ができそうになかった。
おばさんはふたりのことを認めていても、全面的ではなさそうだ。
それでもめざすように言うのならば、かなり高く評価しているのだろう。
「あのときのお母さんはお父さんにどういう顔で接しているのか、わからなかったようです。
すごく戸惑っていても嬉しくても素直に喜べずにいました」
おばさんがお母さんを誤解しているのならばなくしておきたい。
お母さんはいつもまわりに気を遣っていたし、おばさんたちがうまくいくのを願っていた。
「千草に落ち度はなかったわ。
比呂美にもひどく当たっていたけど。
でもあなたたちが私のようにならないようにして欲しい。
交際や結婚という結果だけを求めて、傷口が開いたままだと後で痛くなるわよ」
翳りを帯びていても、私たちの成功を祈ってくれている。
今のところおばさんがお母さんを、なぜ恨んでいるのかが明確にわからない。
お母さんの日記は亡くなるときに途切れてしまっているからだ。
でもお母さんはおばさんの急な違和感を察知していたし、幼心の私も感づいていた。
「比呂美は千草さんになれても、俺は貫太郎さんになれそうにない。
話がうまくて他人のことをよくわかるようには」
眞一郎くんはお父さんと親しくしていたのは知っている。
何度も一緒にお見舞いに行くときもあったし、ふたりきりにしてあげるときもあった。
「不器用な人を選んだふたりを目の前にしてよく言えるわね。
不器用だからできないのは気づいてあげられるし。
私は貫太郎が苦手だったわ。
たまに理解を超えることをされるから安心できないのよね。
相性が少しだけ悪かったわ」
眞一郎くんを睨みつけてから上のほうを見ていた。
お父さんはおばさんを利用していたと後ろめたく思っていた。
おばさんは意に介していなくて、相性が悪いと言っておきながら嫌っていなさそうだ。
「お父さんはお母さんと私を中心に考えてくれるから、大丈夫でした。
変なことは許容範囲内でしたし、私たちを傷つけることはしていません」
お父さんはお母さんにぞっこんだった。
交際する以前は想いをできるだけ隠そうとしていたようだ。
「バスケをしていたのは、千草に良いところを示すためだった。
男子バスケの顧問をしているのも、女子高生と接する機会を少なくするためだったわね。
貫太郎は異性にもてるから、変な噂が流れないように配慮していた。
本人は男のほうが鍛えるときに、融通が利くからと言っていたわね」
おばさんは直接に聞いたようで懐かしげに語っていた。
お父さんが浮気をしそうには思えないし、再婚すらもしようとしなかった。
私がお母さんに似た姿をしているので、後妻と折り合いが付かないと判断していただろう。
お母さんの代わりになる女性を探そうともしていなさそうだった。
「そこまで考えていたとは知らなかった。
千草さんが心配しないようにしていたのだろうな」
眞一郎くんは羨望の眼差しをしていた。
生徒に手を出す教師なんてめったにいないのだが、お父さんは小さな疑惑の根すらなくす。
何かをするときには徹底的に速攻でする一面があった。
味方ならば頼り甲斐があるが、敵ならば憎らしい。
「眞一郎はかなり貫太郎を見習ったほうがいいわね。
比呂美は貫太郎と七年もふたりだけで生活していたから、比べられるわよ」
おばさんは薄く笑っていて、眞一郎くんはかすかに震えた。
「男の人はお父さんと重なるときはあります。
でも人それぞれだと思いますが」
眞一郎くんの背中や手のひらは、私と違ってお父さんのように感じさせる。
もう高校生なのにお父さんがいなくなったのが、未だにこたえているのだろう。
「比呂美が眞一郎を見るときの目は千草とそっくりよ。
でも眞一郎にうまく伝わっていなくて、泣きそうな目をしているときがあるわね。
貫太郎ならそんなことはなかったのに」
眞一郎くんに石動さんと友達になりたかった真意を理解されていなかった。
本当は眞一郎くんと親しくなるための口実だったのだ。
そのときの遣り取りをおばさんに見られてしまい、お母さんのようにふしだらと軽蔑された。
「今は言うようにしています」
兄妹疑惑があって想いを伝えられなくなったときから、状況が変わっている。
眞一郎くんとも気軽に雑談できるし、軽口をたたけるようになってきた。
「どうして私が鰤大根を比呂美にあげたと思っているの?」
おばさんは憐れむように訊いてきた。
急に出て来た単語に私は思考が停止してしまい、再起動するのに時間がかかる。
「富山の風習にあやかって嫁入り先に贈られた。
待つのに体力がいるから応援していただいたと」
目を合わせて感謝を示した。
あのとき、おばさんは背を向けていたので、今は見えるように頭を下げた。
おばさんはもう冷めてしまったお茶を飲む。
「普通はそう考えるよね。
でも仲上家を出て生活費はお世話になっていても、湯浅比呂美になったわ。
祭りまで十日もあったのに眞一郎と良い思い出を作れなかったわね」
引越しは自立のためと説明はしていたが、眞一郎くんとの仲を深めるためと解釈されていた。
その前に石動さんを眞一郎くんが選んだと思ったからこそ出て行こうとしたのだ。
「反省をさせようとなさったのですか?」
太股の上に置いている両手でスカートを掴む。
「親が娘の恋愛に行動するなんてしないほうがいいとも思っていたわ。
でも比呂美がかなり不利だと思っていたから、いたたまれなくなって。
それでも私たちのときのようになれるかもとは考えていたわ。
もちろんふたりが別々の相手と結ばれても構わないけど」
おばさんは会話を切ってから、私と眞一郎くんの様子を窺う。
私にはおばさんの意図がわからずに上唇を噛み締める。
眞一郎くんと対等になるために自立しておきながら、ふがいない結果になったのは事実だ。
たとえ今は付き合っていても、祭りのときに味わった傷は癒えていない。
「比呂美ばかりを責めないでくれ。
引越しのときにちゃんとするからと、俺のほうから比呂美に待っていてもらったんだ」
眞一郎くんが私を庇ってくれていたが、おばさんはまったく動じていない。
「比呂美は踊り場に行かなかったの?
千草の日記を読んでいれば、興味があると思うけど」
無表情で眞一郎くんを無視して訊いてきた。
「行きたいとは思っていましたが、眞一郎くんに誘われるまで待っていました」
そっと眞一郎くんに視線を送ると、口元を歪めていた。
「眞一郎があまり踊り場のことを話せないなら、私が教えておけば良かった。
でも私が話すと比呂美は無理にでも行こうとするでしょうね」
「お手伝いなら行くと思います」
おばさんの問い掛けに即答した。
「お袋はどこまで知っているんだ?」
眞一郎くんは切迫した声で訊いた。
「眞一郎が花形ならば仲上家として差し入れなければならないからね。
あなたがいないときに踊り場に行っていたわよ。
子どもとは出会わないよう配慮するのが、親としての義務だから。
踊りは本番だけを見るようにする。
でも比呂美なら応援として行けるわ。
千草と私がしていたようにね。
比呂美は料理ができるから差し入れを作れたのに」
おばさんはそのときを想定してくれたように優しげだった。
おじさんのときにおばさんはまだ料理をあまりできなかった。
ようやく静流さんに教えてもらえる段階だった。
「来ていたとは知らなかったな。
菓子折りなら、いろいろと置いてあった」
「誰が差し入れたかはわからないでしょうね。
愛ちゃんみたいに給仕もできたわよ。祭りのときみたいに。
踊りだって上手になってゆくのを見られたのにね」
お母さんの日記にもおじさんの踊りが日ごとに変わってゆく様子が描かれていた。
踊り場の雰囲気もなごやかで、お母さんは歓迎されていたらしい。
でもだんだん読むのがつらくなっていった。
「踊り場に比呂美がいて欲しいと思っていた。
でも乃絵を連れて行ったので、比呂美を誘えなくなった。
二股を掛けているようなものになってしまうから。
能登さんはお袋がかなり驚いていたとおっしゃっていた」
眞一郎くんは声を搾り出して訴えた。
私は俯きそうであっても予想をしていた。
愛ちゃんが石動さんと会っているならば、踊り場だからだ。
「一度目は石動さんが踊り場に勝手に来たこと。
眞一郎が意外と女の子にもてると思わなかったから。
でも二度目は開いた口が塞がらなかったわ。
眞一郎は石動さんと一緒に踊り場に行ったようね。
眞一郎の考えがわからなくなった」
おばさんの双眸には怒りが宿っている。
「眞一郎くんは石動さんと付き合っていたのだから、当然だと思いますが」
私は懐が広いのを装おうと笑顔にしようとした。
『こうやってゆったりと過ごせるときが、以前からあったら良かったのにな。
比呂美を踊り場に連れて行けたかもしれない』
眞一郎くんが私の部屋に初めて来てくれたときに言ってくれた。
この出来事があるだけでも私には救いがある。
石動さんよりも私を選んでくれていたのだから。
「今の比呂美の顔を鏡で見せてあげたいわ。まったく当然だと思っていないくせに」
おばさんの睨みはさらにきつくなっていて、私はとうとう頭を下げてしまった。
怖かったのではなく見透かされてしまって恥ずかしい。
「マフラーのときに比呂美を誘おうとしていた。
でも断られるかもと伝えられなかった」
眞一郎くんは私に詫びてくれた。
「あのときは眞一郎くんが花形と私から話したわ。
でも眞一郎くんが言いかけたときに石動さんの名前を出してまで遮った」
雑談すらできなくて一緒にいても寂しかった。
ふたりの関係は近くもあり遠くもあるような不安定な距離ではあった。
「マフラーということは少し前よね。
私がふたりのことを認めてあげてれば良かったのよね」
おばさんは目を伏してふたりを見ていて気を落としていた。
「あの頃は私自身の考えがまとまっていなかったので、断っていたと思います。
眞一郎くんと私とは踊り場に女の子が行くという意味に、かなり差がありそうです」
おばさんを労わりつつも、実際は受け入れていたかもしれない。
眞一郎くんは踊りに対して悩んでいたようなので、相談には乗ってあげたい。
昨日の竹林のように否定をしておけば、さらに眞一郎くんが言ってくれるかもしれない。
おばさんとの関係の修復に協力してもらえれば、好転できただろう。
「確かにね。花形をめぐって女同士が水面下で争っているなんて知らないでしょうし。
貫太郎は想定していたのに、父子ともにあまり意識をしていなさそう。
それがどんだけ罪なのかも感じていないようだわ」
おばさんは目尻を下げて笑っていても、じとりと眞一郎くんを見つめる。
いつも憮然としていて怯えさせられていたのに、表情が豊かになってくれて理解しやすい。
同意できる部分が増えているようで、とてもありがたい。
私はお母さんの苦悩をわかっているからこそ、踊り場には堂々と通いたい。
以前は最終手段のように既成事実をつくってでも、おばさんに対抗しようと考えたのにだ。
もしそうしていたならば、こうやってお茶を飲んではいられなかったかもしれない。
おばさんとの関係を配慮せずに、眞一郎くんとの仲を深めるわけにはいかなかった。
過去を振り返られる余裕ができ始めていて、自分の日記を読み返している。
「俺が知らない内に罪を重ねているならば教えて欲しい」
眞一郎くんはおばさんと私を重苦しく見比べているので、私はおばさんに促す。
「私が驚いたのは石動さんを踊り場に連れて来た日付よ。
比呂美が家出した二日後とはどういうことなの?
眞一郎は比呂美を連れ戻してくれた。
帰宅後に比呂美の部屋まで来て、私に何か言おうとしていたのでしょ。
そこまでするのは比呂美を大切にしていると思っていたわ。
どうして石動さんと仲良く踊り場に行くの?」
おばさんは呆れ返ってから溜め息をついて終えた。
私はその姿を眺めていると逆に冷静になってゆく。
そうでなければ愛ちゃんがわざわざ伝えようとはしないからだ。
愛ちゃんも好意がありそうな気がしていたし、敗者同士として慰め合おうとした。
寂しげな言い方が感傷に浸っていたからだ。
私はまだそうなりたくなかったから、恋人宣言をした。
もう嫉妬するのを通り過ぎていて、意地が私を駆り立てていたのだ。
「比呂美の悪口を言う奴と喧嘩しているときに、乃絵が仲裁してくれた。
落ち込んでいる乃絵を元気づけてあげたくて踊り場に連れて行った。
乃絵は俺の踊りを褒めてくれていたし楽しみにしていた。
絵本だって乃絵がいたからこそ描けるようになった」
声を荒げつつもすべてを明かそうとはしてくれていた。
私はそっとおばさんを見ると、目を閉じてから小さく息を洩らした。
「その子のほうが眞一郎には良いかもね」
おばさんは淡々と口にした。
「比呂美のことは幼い頃から変わっていないが、踊りと絵本は別だ。
それらを終えてから比呂美と向き合おうと考えていた」
眞一郎くんはおばさんに対して力強く言ってはくれていた。
「比呂美はそのことを知っていたの?」
おばさんの憮然とした問い掛けに、私はしばらく間を置く。
「奉納踊りのときに石動さんが来てから、眞一郎くんの踊りが良くなりました。
絵本は石動さんよりも私のほうが未完成であっても、先に描いてくれていましたから」
冷静に処理をできているのを示そうとした。
「それなりにわかっているようね。
でも比呂美はこれから仲上家で娘か嫁かどちらであっても、祭りに関わってゆくわ。
それなのにあんな思い出のままでいいの?
これから心の底から笑顔で祭りの話ができるのかしら。
特に自分たちの子どもへは伝えてゆく務めがあるのよ」
おばさんは哀れんでいて目を伏せないように耐えている。
振袖を着ていておばさんに指示されて、花形姿の眞一郎くんを迎えに行った。
公民館で給仕をしているとき、石動さんに眞一郎くんをそっとしてと泣いてしまった。
奉納踊りを眺めていると、石動さんに気づいてしまい踊りをほとんど見られなかった。
眞一郎くんに石動さんとのことを明かした。
打ち上げがあると嘘をつかれて石動さんに会いに行かれた。
私はその場に置いてかれたままになった。
奉納踊りの後にふたりだけで過ごせるように、おばさんたちが配慮してくれていたのにだ。
仲上家の娘として振袖で給仕できたくらいにしか良い思い出がない。
私は顔を上げられずに唇を小刻みに震わせてしまう。
祭りの晩に涙を流していたためか、今はない。
「眞一郎は比呂美がどういう想いで、祭りを過ごそうとしていたのかわかっているの?」
おばさんはつねに疑問を投げ掛けていた。
先ほどから眉が下がったままでも、声質は穏やかになりつつある。
「俺が花形なら比呂美は振袖で過ごそうとした。
仲上家の娘という役目で人々に給仕をしていた。
でも俺は自分のことが精一杯で、比呂美のことを考えていなかった。
当日まで踊りに対して迷っていたし、絵本を徹夜で完成させた」
石動さんが家出をしたのを捜索してから絵本を仕上げたのだろう。
そこまで急いでいる状況が私にはわからない。
内容が踊りに関係あることなのかもしれないので、疎外感がある。
逆に考えればすべてを祭りで終わらせようとしていたのかもしれない。
翌日、部屋に私が誘わなくても眞一郎くんのペースでちゃんとしてくれたとも思える。
「比呂美のことで反省をしているようね。
でも祭りに対する認識は不足していそう。
踊りと絵本が石動さんのためであっても、比呂美に一言はあるべきよ。
あんなことをしておいて、数日後に結婚の承諾を得に来るとはね。
私が腹を痛めた子でなければ、出直して欲しいほどよ」
安らかに微笑んでおきながら、眞一郎くんに五寸釘を突き刺した。
急に話題を変えられる手腕に感心してしまう。
「奉納踊りの後に私が石動さんの名前を出してしまったから、話しづらかった。
踊りは眞一郎くんが悩んでいるのを気づいてあげられなかった。
絵本はおばさんが朝食のときに出版社の封筒を開けてしまった。
興味があったのに眞一郎くんに訊けなかった」
石動さんが介入してくる以前に、私がなすべきことはあったのだ。
できる状況ではなかったと言い訳をしない。
「眞一郎を庇いたくなる気持ちはわかるけど、いいの?
そんなに簡単に許してあげる必要はないのよ。
眞一郎にとって大切な踊りと絵本を、他の子にしていたのに」
おばさんは自分の考えを含めているようで、なかなか眞一郎くんを許そうとしない。
眞一郎くんはすべてを受け入れるかのごとく反論せずに成り行きに任せている。
「白い結婚です。
恋愛ではない結ばれ方をした夫婦のようにです。
眞一郎くんにとって踊りと絵本をさらに高めるために、石動さんは必要だったのです。
選手と監督が手を取り合って優勝という目標をめざすように」
昨日に眞一郎くんを待っている間に思いついた。
以前にどこかで聞いたことのある単語だ。
記憶を掘り起こしていると思い掛けないものを発見してしまう。
「白い結婚という言葉は知らないわ。
恋愛ではないということは、恋愛がなくても良いということよね。
政略結婚や親同士が決めた許婚になってしまう」
おばさんには否定的に解釈されてしまった。
実際に男女間の恋愛以外の結婚をすべてを白い結婚として思われている。
うまくかわせると判断していたのに、
恋愛がすべてではない白い結婚の一部として理解して欲しかった。
眞一郎くんと石動さんとの間には、強固な信頼や和やかな雰囲気があったのは事実だから。
それらが私との間ではまだ不充分であるのを自認している。
「眞一郎くんが私を選んでくれたら、すべてを許し合えればいいと決めたんです。
バイクの人のことで眞一郎くんを困らせていたから。
過去は変えられないので、どうしようもありません」
私自身の発言を身体に刻み込もうとする。
すべてが複雑に絡み合ってしまった毛玉のようになってしまった。
もう解くことができないならば、すべてを受け入れるしかない。
まだあまり口にしていないけれど、おばさんとの関係も仲上家に来る以前からもつれていた。
「すべてなんて考えないで、譲れない部分はあるはずでしょ。
また白い結婚として言い訳をするつもり?」
おばさんはかすかに頬を朱に染めていた。
いちいち訊かれるので表情をゆったりと見られるようになってきた。
「踊りたくないのなら、代わりに踊ってあげたかったです。
私はああいうのが好きだから、何も迷わずにいられるでしょう。
絵本は私が絵を描くわけにはいかないけど、文章や台詞ならできるかもしれません。
発想の手助けをしたり資料集めをしたりできると思います」
昨晩から何かともったいぶったことを言っていた。
眞一郎くんに案を求められるようになれている。
たまにはきついことを言って編集者に会う前に耐えられるようにしてあげたい。
良質の読者であり最初に眞一郎くんの絵本を手にしたい。
まだ原案の段階で内容を知れるのは役得だ。
石動さんとどういう付き合い方をしていたかは不明であっても、私なりのやり方でする。
「比呂美とは絵本を共同制作でしている。
アイデアをいつでも出し合えるくらいに雑談を楽しんでいる。
踊りは来年も花形にしてもらえるかを、能登さんに訊いてみる。
花形が無理ならば端のほうでもいいから、比呂美のために踊る」
居間に来てからもっとも勇敢な眼差しをしてくれている。
祭り前に言って欲しかったと訴えてみたいが、さすがにできない。
お父さんがお母さんに告白した台詞と似ている。
そのときのお母さんように私は返す。
「眞一郎くんは自分のために踊って欲しいな。
踊り場にも通って、私が支えたいの」
双眸を眞一郎くんに見据えて語った。
今まで何度も反芻していた台詞だったので、身体全体が上気してくる。
じっと眺められている視線を感じてしまって、源を探るとおばさんだった。
「ふたりがそうやって信じ合っているのがわかればいいのよ。
気持ちはわかるけど、いきなり結婚まで考えなくてもね」
おばさんはやんわりと指摘してからお茶を飲む。
私もようやく二口目を湯飲みに付ける。
すっかり水になってしまったお茶が心地良い。
さっきまでの熱と緊張を平常に戻してくれそうだ。
「前提であっても、結婚まで考えているのは覚えていて欲しい」
眞一郎くんは頑なにこだわってくれている。
「眞一郎くんと家族になりたいです」
合いの手を入れてあげた。
「結婚を意識するならばきれいな身体でいないとね。
もう邪魔されたくないから、強く繋ごうとしている。
比呂美の傷を癒してあげないといけないわ。
私も比呂美に訊けなかったことがあるし。
仲上家に来る前の話は、まだあまりしていないよね」
おばさんは温かな声で撫でてくれるようだ。
おばさんも仲上家に来る以前から、私のことを気にしていたのだろう。
相性が悪いような出来事は幼い
夏祭りのときからあった。
伝えたいことがあっても、うまくできずに後悔をしてきたのだ。
「私もおばさんに言えなかったこともありますし、お母さんも同様です。
私に日記を託したのも、お母さんにはできなかったことがあるからです」
あの日記にはお母さんの日常を綴っただけではない。
病室から出られないし、お母さんは訊けなかった。
お母さんがそうしてしまうと、さらに状況が悪化してしまうのがわかっていたからだ。
私が仲上家に来た理由は眞一郎くんのそばにいたいだけではなかった。
最終的におばさんと湯浅家にある確執をなくすことだ。
おじさんも加わると、どうなるかわからない。
お父さんとお母さんもおじさんの本心を放置したままにしたからだ。
その判断を責めることが、私にはできない。
「長々と待たせてしまいましたね、あなた」
おばさんは少し大きく声を掛けた。
廊下側の引き戸が開かれて、湯飲みを左手に持ったおじさんがいる。
「話はすべて聞かせてもらった」