<p> 前回 <a href="http://www39.atwiki.jp/true_tears/pages/490.html">はじめての外泊-2</a></p> <p>(誰だ、この女)<br /> 愛子には失礼な話だが、愛子が電話に出たのかと眞一郎は思った。声の明るさ、テンションが<br /> 眞一郎の記憶の中ですぐに愛子と結びついたからだ。それで、電話をかけ間違いたのだと思い込<br /> み、電話の相手を確認しようと、愛ちゃん? と声に出しかけたところで眞一郎はふと気づく。<br /> 仲上です、と名乗ったことを――それで、かけ間違いではないと。冷静になってみると、今電話<br /> の向こうにいる女性の声は、明らかに愛子よりももっと年上という感じがする。意表をつかれて<br /> 眞一郎は混乱してしまったが、やはりあの人しか考えられないという結論にたどりつく。<br /> 『――眞ちゃんなの?』<br /> それにしても、まるで恋人でも確かめるような甘い口調に眞一郎は頭を抱えたくなり、「かあ<br /> さんなのかよ……」と不満をぶちまけるみたいにぼやいた。<br /> 『――あら、一週間、顔合わせないだけで母親の声が判らなくなったの? この子はっ』<br /> 眞一郎は比呂美を見て、眩しいものを見るように目を細めて携帯電話を握りなおした。どうし<br /> たの? と比呂美は目だけで返したが、眞一郎はそれに対して何も答えず電話に集中した。<br /> 「酔ってるのかよ」――眞一郎のこの言葉が、比呂美への説明となった。理恵子が他人に酔っ払<br /> っていることを指摘されるなんて珍しいと比呂美は首を傾げたが、眞一郎がどうにもこうにも困<br /> った顔をしているので、苦笑いせずにいられなかった。<br /> 『――酔ってるわよ。さっきね、おとうさんとワイン飲んじゃったの。うふふふ……』<br /> (なにっのん気にワインなんかっ飲んでるんだよっ!)<br /> ごきげんな理恵子の声が今の眞一郎には癇に障り、眞一郎のこめかみをぴくぴくさせた。<br /> 『――ところで、比呂美は着いたかしら?』いくらかまともな口調に戻って理恵子が訊ねてきた。<br /> 「あ、うん。さっき着いたよ」<br /> 『――そ。よかった』と理恵子は大して関心なさそうに言ったが、途端に明るくなって『眞ちゃ<br /> ん、あとはよろしくぅ』とカラオケで次の人にマイクを渡すみたいにおどけた。<br /> 「はぁぁぁー?? よろしくって、どうすんだよッ?」と眞一郎は理恵子の悪ノリに対して怒鳴<br /> らずにはいられなかった。すると、理恵子のほうもすごいけんまくでやり返してきた。<br /> 『――あなた! まさか! 比呂美を追い返すつもりじゃないでしょうね? いくらなんでも、<br /> それは比呂美がかわいそうよ。眞ちゃんはそんな冷たい人間じゃないわよね? 今晩、そこに泊<br /> めてあげてちょうだい!』<br /> 「かあさん! 本気で言ってんのかよッ!」<br /> すかさず大声で眞一郎が返すと、比呂美は慌てて立ち上がり、眞一郎が携帯電話を持っている<br /> 腕のそばに座り、携帯電話に耳を近づけた。眞一郎は一瞬身を反らしたが、比呂美が理恵子の言<br /> うことを聴きたがるのも当然だろうと思い、携帯電話から漏れる音声を比呂美に聴き取りやすく<br /> するために、携帯電話を耳から少し離して頭を比呂美に寄せた。<br /> 『――当たり前じゃない。この時間に比呂美をひとり放り出せるわけないでしょう。眞ちゃんの<br /> そばにいるのが一番安全じゃない。そのほうが、かあさんも心配しなくてすむわ』<br /> 「そりや、そうだけど……」と尻すぼみ気味に眞一郎はいうと、「もうひとつ心配なことがある<br /> だろう」とごにょごにょっと呟いた。この後半のセリフが理恵子に聞こえたかどうか分からない<br /> が、そばにいる比呂美には聞こえたので、比呂美はいったん目を真ん丸くしてから、あれあれ<br /> ~? と意地悪する風に眞一郎の顔を覗き込んだ。眞一郎は、んんっ、とひとつ咳払いをして電<br /> 話に集中しなおすと、『――いまさら何言ってんだか……』とぼそっと吐き捨てるような声が耳<br /> に入ってきた。<br /> 理恵子が発したこの言葉の本当の意味を、眞一郎が理解できるわけなかった。比呂美が理恵子<br /> に眞一郎とのエッチのことを白状したことをまだ知らないのだから。理恵子としては、当然、眞<br /> 一郎がこの言葉の意味を分かるわけないとふんで、個人的にスリリングを楽しむために、『比呂<br /> 美の処女を奪っておいて何言ってんだか』という意味であえて言ったのだが、眞一郎としては、<br /> 『比呂美とは一年以上も同じ屋根の下で暮らしておいて……』という意味で捉えてしまう。ただ、<br /> この言葉が比呂美に聞こえてたらどうなっていたか、というところまで理恵子の考えは及ばず、<br /> 幸いにもといったらいいのか、比呂美の耳にはこの言葉は入らなかった。<br /> 「と、とうさんは、何か言ってた?」とおそるおそる切り出した眞一郎に、ほらきた、と理恵子<br /> は思う。<br /> 『――あら、気になる? 知りたい?』<br /> 「そりゃ……、そうだろう。……あんなこと、あったんだし……」<br /> 『――そうね……』<br /> 眞一郎が途端に真剣な表情になったので、比呂美はさらに携帯電話に顔を近づけ、横目で眞一<br /> 郎の表情の変化に注意を払う。比呂美の視線を感じながら眞一郎は理恵子の言葉を待つ。<br /> 『――比呂美を泣かしたら、ぶっとばすって言ってたわよ。おとうさんと電話、替わる?』<br /> 理恵子の最後の言葉に、眞一郎と比呂美はごくりと生唾を飲み込んだ。ほぼ同時に。ふたりに<br /> とって、眞一郎の父・ヒロシは『威厳』のそのもの。実の息子の眞一郎はそれを意識的に感じて<br /> しかるべきなのだが、比呂美も同じように感じているのは、比呂美が小さいころからヒロシに対<br /> する眞一郎の態度を見てきたせいがあるのかもしれない。それに、比呂美にとっては今は経済的<br /> な柱なのだ――だから、この人の言うことはちゃんと聞かなければいけないと誓っている――比<br /> 呂美の両親の名誉のためにも。ただ、ヒロシは見かけの雰囲気とは違ってそれほど厳しい父親で<br /> はない。どちらかといえば、優しい親・甘い親の部類に入るだろう。そんなヒロシが、一度だけ<br /> 眞一郎を半ば感情的になって殴りつけたことがあった。理恵子と比呂美の目の前で――。そのこ<br /> とがずっと、眞一郎と比呂美の頭の中に残り続けている。<br /> そのときのことを思い出した眞一郎は、携帯電話を持ったまま固まってしまった。その硬直の<br /> 様子が、どうやら理恵子にまで届いたらしく、容赦なしに大笑いした。<br /> 『――あははははっ、バカね~。冗談よ』<br /> 「へっ?」と眞一郎は素っ頓狂な声を上げ、比呂美も理恵子の冗談にずっこけて眞一郎にどんと<br /> 頭をぶつけてしまった。それで眞一郎は携帯電話を落としてしまい、比呂美と同時に慌てて拾う。<br /> 『おとうさんは特に何も言ってないわよ。安心しなさい』<br /> 眞一郎の動揺ぶりに少しかわいそうに思った理恵子は、同情交じりに優しくそう伝えた。<br /> 「そ、そうなんだ……」と大きく胸を撫で下ろす眞一郎。その横で比呂美は、砂浜に打ち上げら<br /> れたクラゲみたいにちゃぶ台に突っ伏している。<br /> 『――でもね、眞ちゃん』<br /> 眞一郎を甘やかすばかりではいけない。理恵子の声が、水晶のように冷ややかで透きとおった<br /> 声に変わる。電話越しでもそういう印象がほとんど劣化なしに伝わってきたので、眞一郎は心の<br /> 中で静かに固唾をのんだ。<br /> 『――おとうさんが、あのとき、なぜ殴ったのか……。その意味を考えなきゃダメよ』<br /> (殴った、意味……)<br /> 『自分なりに答えを見つけなきゃダメよ』<br /> (自分なりに……)<br /> 眞一郎は、理恵子の言葉を頭の中で反復した。眞一郎だって、比呂美と付き合うと打ち明けた<br /> あとに父・ヒロシから殴られたことをずっと考えてきた。ヒロシの行動を比呂美との交際を認め<br /> ないという意思表示だと当然理解したが、それ以降、ヒロシがそのことについて一言も触れない<br /> のと、眞一郎と比呂美がお互いに真剣な気持ちで付き合うと確認し合っていることで、なんとな<br /> く今までずるずると『父の拳』の意味を深く考えずにきてしまった。もちろん、比呂美との交際<br /> をつづけたまま。<br /> 眞一郎は、ちゃぶ台に突っ伏したまま顔を横に向けて自分を見ている比呂美を見た。比呂美は、<br /> 眞一郎が理恵子に何か言われたんだと感じ、少し目を細めた。<br /> 『――かあさんは、もちろんその意味が分かってるし、たぶん、比呂美も分かってると思うわ』<br /> 「比呂美も?」と比呂美を見たまま眞一郎は訊き返した。自分の名前を聞いて比呂美は体を起こ<br /> し、また眞一郎の腕のそばまで近寄った。<br /> 少し間があって、理恵子は眞一郎の問いに対して、比呂美も分かっているはずだと自分自身で<br /> も確かめるように『そう……』と答えた。そして、いくらか明るい口調に戻ってつづけた。<br /> 『――女はそういうことに、ピンとくるものなのよ』<br /> 「お、女の勘ってやつ?」<br /> なんか自分だけ仲間外れになった気分の眞一郎は苦し紛れにそう返したが、理恵子に『あはは<br /> は、違うわよ』とあっさり否定されて少しむっとした。理恵子の笑い声は、携帯電話に耳を近づ<br /> けずにいた比呂美にも聞こえた。比呂美は、眞一郎の受け答えの様子をただじっと見ていた。眞<br /> 一郎が理恵子の言葉に対して真っ直ぐに集中しているのがひしひしと伝わってきたからだ。その<br /> 姿を見て、いきなり訪問せずに昨日のうちに連絡を入れておくべきだったと比呂美は少し悔やん<br /> だ。そうしていれば、今ごろ『行為』に突入していたかもしれない……。<br /> 『――女はね、愛されることで幸せを感じるということよ』と、笑いが治まってから理恵子は言<br /> ったが、眞一郎にはピンとこなくて、『ま、眞一郎にはこういう話、まだ早いわね』と理恵子に<br /> 付け加えられてしまう。比呂美が見ている手前、「なんだよっ」と眞一郎は強がって見せること<br /> しかできない。<br /> 『――とにかくね、眞ちゃん。おとうさんが比呂美の外泊を許したのは、おとうさんなりに意味<br /> があると思うのよ。おとうさんは、はっきりと口には出さないけど、かあさんはそう思うのよ。<br /> だから……』ここでいったん、何かに思いあたったように理恵子は言葉を止めた。<br /> 「だから、なに?」<br /> 肝心なところでなんだよ、と眞一郎はせっかちに言葉の続き求めたが、理恵子は、『比呂美の<br /> こと……』と呟いただけで、眞一郎に続きを言うべきか迷った。はっきりとセックスについて言<br /> うべきかどうかということを。そして……。<br /> 『――この先は、言わなくても分かるわよね?』<br /> 理恵子は、言いかけた言葉を言わないことを選択した。もちろん、ふたりのために……。正確<br /> には比呂美のためにといったほうがいいかもしれない。<br /> 「ま、まぁ~。なんとなく……」<br /> 頼りにしてますよ、という感じに理恵子に言われたので、信一郎は、母・理恵子が何を言おう<br /> としたのか分からないまま分かった風に答える。そんな自信の無さは理恵子にはお見通しで、お<br /> 叱りを受けることになる。<br /> 『――もう。しゃんとしなさい! 比呂美がそばにいるんでしょ!』<br /> 「う、うん……」と、眞一郎は人差し指でぽりぽりと頬を掻く。<br /> 細やかに眞一郎と比呂美の仲に気を配っているというのに、眞一郎が曖昧な返事をするもんだ<br /> から、理恵子は声を荒げずにはいられなかった。その余韻は『――まったく』と吐き捨てさせた。<br /> 比呂美くらいにしっかりしてほしいものだというセリフが喉まで出かかったが、理恵子はそれ<br /> を言うのを止めた。実は、比呂美に負けないくらい眞一郎も芯がしっかりしていると思っていた<br /> からだ。実の子供であるとか、両親を亡くした比呂美にはまだまだ情緒不安定なところがあると<br /> かということを差し引いても理恵子はそう思っていた。眞一郎が金沢に滞在中、理恵子たちに内<br /> 緒で比呂美をここに呼び寄せようと思えばいくらでもできたはず。急行電車に乗れば片道一時間<br /> とかからないのだから。バレずに一晩を過ごすことなど簡単なことだ。この年頃は、目の前に<br /> 『甘い状況』があれば気持ちを抑えられずにすぐそれに飛びついてしまう。現に、比呂美のアパ<br /> ートで眞一郎と比呂美は体を重ねている。一度そうなると、高校生の男女というものはそういう<br /> ことに加速して止まらなくなってしまう。でも、眞一郎は流されずに、意識的にそうしているか<br /> どうかは分からないが、性欲をコントロールしている。比呂美のほうが痺れを切らせて金沢へ飛<br /> び出してしまうという始末だ。案外このふたりは『名コンビ』なのかもしれないと理恵子はふっ<br /> と思った。<br /> 『――ところで。あした、帰ってくるんでしょ?』<br /> 「うん」<br /> 『――ちゃんと、比呂美に楽しい思い出を作ってあげるのよ。これは、おとうさんとおかあさん<br /> からのお願い。比呂美にはお店のこと手伝わせてばかりだったから……』<br /> 「…………わかってるよ……」と噛み締めるように眞一郎は頷いた。<br /> 『――それじゃ、おやすみ。比呂美にも、おやすみって伝えてね』<br /> 「うん……。おやすみ」<br /> 理恵子との電話はここで終わった――。携帯電話を静かにちゃぶ台の上に置いてから、眞一郎<br /> は、ふーっと息を吐いた。比呂美は、三つ編みの毛先をいじるのを止め、眞一郎に訊ねた。<br /> 「おばさん……何て?」<br /> どのことから言おうかと眞一郎は迷う。いや、それ以前に、母・理恵子にすべて見透かされて<br /> いると今の電話から感じたことに頭がいっぱいだった。比呂美のアパートでの『素肌の語らい』<br /> について見透かされていると――。でも、そのくらい理恵子が察知していて不思議はないと眞一<br /> 郎は思うのだが、それを知っていて、理恵子たちが、なぜ比呂美の外泊を許すのだと訳が分から<br /> なくなる。眞一郎は俯いたまま比呂美に顔を向けずに、とりあえずこの場のふたりにとって最重<br /> 要事項をしゃべった。<br /> 「……比呂美を、泊めてあげなさいって……」<br /> かすれてしまって、やっと押し出されたように出てきた言葉――。あまりにも力を失くした感<br /> じだったので、眞一郎の男としてのプライドを深く傷つけてしまったのではないかと比呂美は思<br /> った。眞一郎は、セックスのことを遊び半分で考えたことなど一度もないのだ。比呂美にそんな<br /> 素振りを見せたことなど一度もないのだ。なのに、夜を共にするためにいきなり訪問してくるな<br /> んて、眞一郎の理性が許すわけがない。眞一郎とはそういう男の子だったではないか。比呂美の<br /> 胸はちくちくと痛んだ。<br /> 「……あ……あの…………怒った?」と、比呂美はおそるおそる眞一郎に声をかけた。<br /> 「初めから……その……泊まるつもりで来たのか?」<br /> まだ俯いたまま眞一郎は比呂美に訊ねる。真剣に考えた末にそうしたのだという意味をしっか<br /> り込めて「うん」と比呂美は返事した。比呂美のその気持ちが伝わったのか、眞一郎は顔を上げ、<br /> 語気を強めて「おまえ……いいのかよ……」と比呂美に念を押した。「うん。いいよ」と比呂美<br /> は迷いなく返した。眞一郎は、ぷいっと横を向き「どうなっても、知らないぞ」と吐き捨てた。<br /> 「うん」――どうなってもいいよ、あなたとなら。比呂美の気持ちは揺らがない。<br /> 比呂美のその返事を聞いて、しようがないやつ、と眞一郎は口元を緩め、体にまとわりついて<br /> いた緊張感を流れ落とすように大きく鼻から息を吐いた。比呂美もそれを見て少し安心したが、<br /> ただ、眞一郎がセックスのことについて、どうなっても知らないぞ、などと無責任なことを言う<br /> なんて珍しいなと思っていた。珍しいなんてものじゃない。眞一郎はそんなこと一度も言ったこ<br /> とがないのだ。母・理恵子にからかわれ、比呂美には『ふたりきりの夜』を予告なしにセッティ<br /> ングされてしまう。そのことで眞一郎が強がって出てきた言葉なのだと比呂美はそう納得してい<br /> たが、眞一郎はその言葉を文字通りの意味で発していたのだ。ほんとうに、どうなっても、知ら<br /> ないぞ、という意味で――。ほんとうに、そうだったのか、と比呂美が気づくのはもう少しあと<br /> になってからだった。<br /> 「それにしても、おふくろ……。その……おれたちのこと応援しすぎというか、なんていうか…<br /> …ふつう、許したり……」<br /> 「あの、そのことなんだけど……」と、比呂美は眞一郎が話している途中で割り込んだ。昨日、<br /> 仲上家であったこと。理恵子と話したこと。そして、ずっと理恵子に対して感じてきたことを眞<br /> 一郎に早く伝えたかったからだ。<br /> 「なに?」まだ何かあるのかよ、と眞一郎は顔をしかめて比呂美の言葉を待った。<br /> 眞一郎がまた深刻そうな顔をしたので、そんなに難しい顔しないでという意味を込めて、比呂<br /> 美は「うんとね……」と朋与のバカ話でもするみたいに話を切りだそうとした。そのとき、眞一<br /> 郎の注意が急に別のことへ移る。眞一郎は、左右を向いたり、天上を見たりして鼻をくんくんさ<br /> せた。「あれ? なんか……いい匂いしないか?」と言いながら匂いの正体が何か考える。香ば<br /> しくて、バーベキューを思い起こさせる匂い……。すぐに「これって、ニンニク?」という結論<br /> にたどり着く。<br /> 「あっ、そうだ。忘れてた」<br /> 比呂美は飛び上がり、和室からバスケット持ってきてちゃぶ台の脇に置き、そのふたを開けた。<br /> ニンニクの匂いがさらに強まったが、バスケットの中身がビニール袋に包まれていたので一気に<br /> 広がるという感じではなかった。比呂美は、ビニール袋の縛った口を解いて、その中身を眞一郎<br /> に見せた。<br /> 「サンドイッチ、作ってきたの」<br /> 「ふ~ん」といいながら眞一郎はバスケットの中を覗き込んだが、ニンニクの匂いがダイレクト<br /> に伝わってきてのですぐにのけぞり、嬉しいやら悩ましいやら「うわはっ」と奇声を上げた。そ<br /> して、またバスケットに顔を近づけ、こんどは匂いを楽しんだ。<br /> 「ん~いいにおい。でも、すんごぉい(すごい)におい」と、眞一郎は鼻をつまむ。<br /> 「ニンニク風味カツサンド、ひろみスペシャル2008秋バーション。夏バテ気味のあなたっ、<br /> おひとつどうぞっ」<br /> 比呂美が店頭販売の売り子みたいにおかしなことを言うもんだから、眞一郎は「な~んだよ、<br /> それッ」といって、ふきだした。やっと笑ってくれた、と比呂美は内心ほっとし、ここでいった<br /> ん眞一郎の気持ちを和らげてから昨日のことを話したほうがいいかな、と思う。<br /> 「たべてみる?」<br /> 「うん。たべるたべる」と、眞一郎は犬のように首を縦に振る。その仕草にくすっと笑いながら、<br /> 比呂美はバスケットから取り出した紙製のお皿をちゃぶ台に置き、そのうえにスペシャル・カツ<br /> サンドをひとつのせた。それから、また立ち上がり、和室に置いてあるスポーツバッグの中をあ<br /> さった。銀色の円筒形の水筒を取り出す。眞一郎は、カツサンドにかぶりつこうとしたが、比呂<br /> 美が戻ってくるのを待った。<br /> 「コーヒー。いれてきたの」比呂美は、紙コップもバスケットから取り出し、それにコーヒーを<br /> 注いだ。<br /> 「いつもの香りだ……」<br /> 比呂美の部屋でしか味わえないこの味、この香りが、いま目の前に広がって、感無量という感<br /> じに眞一郎は目を閉じ、それらすべてを独り占めにするかのように大きく息を吸った。いま眞一<br /> 郎のまぶたの裏には、白とピンクに彩られた比呂美の部屋が映し出されている。瞳を開けば、比<br /> 呂美もいる。目を開けようか、まだ閉じたままでいようか少し悩んでしまう。でも、やはり、目<br /> を開けよう。比呂美を見ていたい――。そう思って眞一郎が目を開けると、思いがけない『感<br /> 触』が待っていた。目を開けたとき、比呂美の顔がすぐ目の前にあって、比呂美の目はすでに閉<br /> じられていた。そう、目を閉じていても眞一郎の唇を捕らえることができるという距離に比呂美<br /> はいたのだ。刹那を経ずして、眞一郎は柔らかな感触と鼻孔から漏れる息遣いを知る。<br /> うまくできた。とびっきり優しくキスできた――という達成感を比呂美はようやく味わえた。<br /> こんな触れ合うだけのキスでも、こんなにも胸が熱くなる。ずっとこのまま触れ合ったままでい<br /> たいけれど、長くこのままでいると逆に苦しくなってトキメキがマイナスに転じてしまう。引き<br /> 際を見極めるのもキスでは肝心なこと。眞一郎と比呂美のキスは、ほんの5秒くらいだった。さ<br /> て、このキスが感動的なものだったかどうかは、お互いの顔が離れたあとの眞一郎の表情を見れ<br /> ば分かる。視線をすぐに逸らし比呂美をまともに見ることができない眞一郎は、少しすねたよう<br /> な顔をした。当然、顔を赤らめながら。「おまえ……」ととがめるように言いながらも、その次<br /> の言葉が紡ぎだせないでいる。眞一郎もたまらなく胸が苦しくなっている証拠だ――たったキス<br /> ひとつで。<br /> そんな眞一郎の様子に、比呂美は眞一郎の胸に飛び込みたくなる衝動に駆られた。しかし……。<br /> しかし今は、それを必死に堪えた。今、眞一郎に飛びつけば、眞一郎は反発してしまう。そんな<br /> 気がする。<br /> (あせってはダメ。とびっきりの『夜』にするんだから)<br /> 比呂美は胸の内でそう繰返しながら、「さ、サンドイッチ、たべてみて」と明るく促した。<br /><br /> キスの不意打ちをくらった直後なので、紙皿の上のサンドイッチに伸びる眞一郎の手は、何か<br /> に怯えるみたいにおぼつかない。何か罠が仕掛けられていそうな気がするのだ。サンドイッチを<br /> つかむ直前、最終確認とばかりに眞一郎はいったん比呂美に目をやる。比呂美はわざと、なにか<br /> あるぞ、といわんばかりに無言で笑っている。逆にそれが眞一郎を安心させた。比呂美がほんと<br /> うに悪戯するときは、その気配を微塵も感じさせないからだ。眞一郎は小学生のころからそのこ<br /> とをよ~く知っている。だから、このサンドイッチには何も仕掛けがないのだ。断言できる。<br /> それにしても、この『ニンニク風味カツサンド・ひろみスペシャル(以下略)』は、見るかに<br /> おいしそうだ。匂いもさることながら、見てるだけで食べた気分になってしまうほどの製作者の<br /> こだわりと熱き魂を感じさせてくれる。比呂美が眞一郎にとって『特別な存在』だということを<br /> 差し引いたとしてもだ。――まず、カツなどの具材をはさんだパン。ほぼ正方形の食パンを三分<br /> の一切り落として長方形にし、表面をキツネ色に焼いている。この焼き加減は、表面はサクサク<br /> で、裏側はフワフワといったところだろう。その食パンを二枚重ねて、その間に具材をはさんで<br /> いる。そして、具材――。みずみずしいレタスとをカツが食パンの端からはみ出している。ボリ<br /> ュームたっぷりな具材が、二枚の食パンの距離を見事に押し広げ、このサンドイッチは、サンド<br /> イッチというよりも、欧米人が食べるハンバーカーを思い起こさせる。中身はどんなになってい<br /> るんだろう? と単純に興味をもった眞一郎は、上側の食パンをぺらっとめくってみる。途端に<br /> ニンニクの香ばしさと、ソースの甘酸っぱさと、カツの肉汁が散弾銃のように眞一郎の全身を襲<br /> ってきた。眞一郎は一気に恍惚に捕らわれた。<br /> 眞一郎がこの『ニンニク風味カツサンド・ひろみスペシャル』の迫力に圧倒され、なかなか口<br /> に運ぼうとしないので、「ね~。はやくたべてよ」と比呂美は内心嬉しさを感じつつもすねてみ<br /> せた。その一言で、眞一郎は現実に着地させられ、「あ、うん」と曖昧に返事をしながら、カツ<br /> サンドにかぶりついた。いきなり、三種類の食感に眞一郎は感動した。パンの表面のカリカリ、<br /> カツのころものサクサク、そしてレタスのシャキシャキ。それらを口の中でもぐもぐしていると、<br /> 次第にカツの肉汁とマヨネーズと特性ソースの味が口の中いっぱいに広がっていく。それから、<br /> ブラック・ペッパの辛味。それらが渾然一体っとなって、脳天を突き抜けていくような感覚を覚<br /> えた。グルメを題材にしたアニメーションで、試食後のど派手な演出がお約束のようにあるが、<br /> あれはあながち度過ぎた誇張ではないなと、脳みその冷静な部分で眞一郎は思った。ほんとうに、<br /> おいしかった、比呂美のこの、え~と、『ニンニク風味カツサンド・ひろみスペシャル(以下<br /> 略)』が……。ベテラン主婦(といってもまだまだ現役と言い張る)・理恵子でも、眞一郎にこ<br /> れほどのものを食べさせたことがなかった。<br /> 最初にかぶりついた一口を完全に飲みこんだあと眞一郎は、感激を言葉に乗せて力強く「うま<br /> い」と比呂美にいった。<br /> 「涙が出るほどおいしかった?」と比呂美は笑い返した。<br /> 「え?」<br /> 涙が出るほどって……、比呂美は何を言ってるんだろう、と眞一郎は思ったが、自分の目を意<br /> 識的にまばたきすると、知らぬ間に目じりに涙が溜まっていて両目がすこしヒリヒリした。慌て<br /> て涙をぬぐって、眞一郎は照れ隠しに豪快にカツサンドにかぶりついた。「ニンニク、きかせす<br /> ぎなんだよっ」と捨てぜりふを吐いて。<br /> 「だって、眞一郎くん。電話でさ、なんか、だいぶ疲れてるかんじだったんだもん。せ……」<br /> 精力つけなきゃ、と言おうとして比呂美は慌てて口をつぐんだ。これって、まるで……。この<br /> カツサンドが、『夜における相互理解(つまりセックス)』のために妻が夫に精力材を与えてい<br /> るみたいではないかと思ったからだ。なんか言わなきゃ、と比呂美は目を泳がせたけれども、そ<br /> んなことを気にも留めずに眞一郎はカツサンドに夢中。ほっとするやら、気づいてほしいやら、<br /> 比呂美は複雑な気持ちになる。<br /> それにしても、眞一郎があまりにもおいしそうに食べるもんだから、比呂美もなんだか食べず<br /> にはいられなくなって、カツサンドをバスケットから取り出した。そして、「わたしもだべよっ<br /> と」といってかぶりついた。<br /> 自分で作ったものとはいえ、眞一郎が涙をちょちょぎらすのも無理ないなとカツサンドの出来<br /> 栄えに自惚れながらも比呂美は、自分が相当に空腹だったことにようやくはっきりと自覚した。<br /> 昨日から、いや、もっと前から比呂美はずっと緊張状態にあった――空腹を忘れるほどの。眞一<br /> 郎に会いに行くことを許してもらえるだろうか。許してもらうためには、どう話を切り出せばい<br /> いだろうか。そのことばかり考えていたのだ。そして昨日、いよいよ理恵子と対峙したときに緊<br /> 張状態はピークを迎えたが、その修羅場を乗り切っても比呂美の緊張状態は半分くらい残したま<br /> まずるずると続いた。それは、ヒロシと理恵子に眞一郎との外泊を許してもらって興奮していた<br /> のも当然あったが、今日の日を眞一郎との『特別な日』にしなければいけないという、気負いと<br /> いうか、プレッシャーというか、そういうものが比呂美を知らず知らずに追い込んでいた。必ず、<br /> 絶対に、何が何でも、この日を、この夜を、いい思い出にしなければならないという……。でも、<br /> そんな比呂美の気持ちなど露知らず、のん気にカツサンドをぱくつく眞一郎に比呂美は拍子抜け<br /> してしまった。この鈍感! と肘鉄を食らわしたくなる感情を一気に通り越してしまうほどだっ<br /> たが、このあと比呂美は、眞一郎のことを甘くみていたなと反省させられる。<br /> ひとつ目のカツサンドを食べ終えてコーヒーを一口すすったあと、眞一郎はバスケットの中を<br /> 覗き込んでカツサンドの数を数えた。残り8個ある。<br /> 「これ、いっぱいあるから、あしたの朝食にしよう」<br /> 「ん」と、比呂美は口をもごもごさせながら頷いた。<br /> 「それでっと……」といいながら比呂美の様子を見た眞一郎は、もう一度コーヒーをすすってか<br /> ら、「おまえ、さっき何かいいかけたよな」とつづけた。<br /> (えっ!)<br /> 思いがけないことを聞かされたときのように比呂美は反射的に顔を眞一郎に向け、口を動かす<br /> のを止めた。自然と目がまん丸になって驚いた顔になってしまった。あとになって思えばそれほ<br /> ど驚くことではないのだが、眞一郎がずっと話を切り出すタイミングを計っていたことが意外だ<br /> った。カツサンドをあんなに感激して食べていたから、比呂美が何か言いたそうにしていたこと<br /> を忘れていても不思議はない。また自分から話を切りださないといけないかな、と比呂美は思っ<br /> ていたが、眞一郎から切りだしてくれたことにすこし胸が熱くなった。でも、比呂美が口の中の<br /> ものを急いで飲みこんで「あのね」と喋りだそうとした途端、眞一郎に笑われてしまった。<br /> 「比呂美、ここ」と言って、眞一郎は自分の口の端を指差して、何か口のまわりについているこ<br /> とを比呂美に教えた。眞一郎が指示した口の右端を舌を出してぺろっとなめてみると、特製そー<br /> すだった。こんな肝心なときに、ヘマするなんてっ。比呂美は慌ててちゃぶ台の上のティッシュ<br /> ペーパーを一枚引き抜いて口元をぬぐい、眞一郎のコーヒーを一口飲んだ。眞一郎は特に動じず<br /> 微笑んでいる。なに緊張しているんだろう、と比呂美は自分のことが可笑しくなる。ふと、液晶<br /> テレビに目をやると、トレーニング・ウェアを身にまとった主人公が両手を天に突き上げ、雄叫<br /> びをあげているようだった。そうだ、主人公がボクシングの試合をする直前のシーンだ。その映<br /> 像を見ていると、だんだんに緊張がほぐれていき、闘志が湧いてきそうだった。比呂美は、ひと<br /> つ、ゆっくりと、深呼吸をしてから話しはじめた。ちょっと遠回りしたけれど、今、自分が抱え<br /> ている気持ちを伝えるべき時だと信じるように、眞一郎との関係がもっと深まることを信じるよ<br /> うに……。<br /> 「何から話せばいいのかな……」と不安げに比呂美は切りだしてみた。<br /> 「おれ、ちゃんと、聞くから。安心しろ」<br /> 「……うん」(いつからそんなに男らしくなったのよ)<br /> 比呂美はあまり顔に出さずに苦笑いしてつづけた。<br /> 「えっとね、とりあえず、順番に話すね」<br /> 「うん」と頷くと同時に眞一郎は、さっき比呂美が口をつけたコーヒーを静かにすすった。<br /><br /> つづく<br /><br /> ※まだまだアクセス規制中。うっ、きぃぃぃー</p>
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