はじめての外泊-1

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はじめての外泊-1 - (2008/10/04 (土) 02:11:48) のソース

トゥルー・ティアーズ サプリメント・ストーリー

 『 は じ め て の 外 泊 』

 ―― all night long ――



《 一 きちゃった……》

「じゃ~留守番、お願い。すぐ戻るから」
 比呂美は靴を履きながらそういうと、少し急いだ様子でドアを開けて出て行った。明らかに小
走りになった比呂美の足音がすぐ小さくなって消えた。ひとときの別れ――。とても『別れ』と
は言えないほどのちっぽけな『別れ』でも、比呂美の部屋にひとりで取り残されると寂しさが襲
ってくる。比呂美のいない比呂美の部屋――。比呂美は、この部屋で毎朝ひとりで起き、毎晩ひ
とりで眠る。その寂しさに比べれば、こんな『別れ』なんか『別れ』のうちに入らないというの
に。眞一郎は自嘲気味に顔をゆがめると、ドアの鍵をかけ、リビングに戻っていった。
 眞一郎は後悔していた。
「シチューが食べたい」と思わず口に出してしまったせいで、比呂美がひとりで買い物をする羽
目になったからだ。冷蔵庫を開けて食材が足りないことに困っている比呂美に、「一緒に買い物
にいこう」と眞一郎はフォローしたが、比呂美はその提案をかたくなに拒んだ。
 なぜ? と眞一郎が尋ねると、「セフレで一緒にいるところ、見られたくないし……」と比呂
美は答えた。その一言で眞一郎は妙に納得させられた。もし、『セフレ』という名のスーパーに
一緒にいるところを目撃され、その噂が妙な方向に膨れ上がった場合、『セフレ(エッチ友達)
がセフレ(というお店で)でお買い物』というレッテルを貼られかねない。それは、ラブホテル
からふたり一緒に出てきたところを目撃される恥ずかしさに匹敵するだろう。そして、この手の
噂は当の本人たちにはどうすることもできないというのが、人の世の法則だった。つまり、一度
しくじれば万事休すなのだ。
 そうなると、思春期の女の子にとっては耐え難い日々が続く。ボーイ・フレンドとの仲がいい
ことを冷かされるならまだしも、『ふしだらな娘』、『もう処女じゃない』と言われ続けるのだ。
男には想像つかない精神的苦痛である。おまけに比呂美は一度、石動純との逃避行でさんざんな
目に遭っている。比呂美がそういうことに人一倍気にするのも無理からぬ話。
 しかし、出かける準備をしている比呂美は、なぜだかウキウキしているようだった。人目があ
って眞一郎と一緒に出かけられないことを残念に思っているはずなのに、これから恋人との約束
の場所に向かうような感じだった。さきほど、シチューを作る材料が足りないことを確認した比
呂美の顔は一瞬くもったが、すぐに一転して、これはチャンス! と言わんばかりに明るさを取
り戻した。比呂美にしてみれば、こういうシチュエーションを楽しみたかったのかもしれない。
恋人を自分の部屋に残して自分だけ買い物に出かけ、戻ってくれば恋人が自分の部屋の中から迎
えてくれる。そういうひとときを味わいたかったのかもしれない。
 比呂美と付き合いだしておよそ半年――。眞一郎も比呂美のそういう女心にほんのちょっと、
思いを巡らすようになっていた。
 相変わらず、比呂美の部屋は白とピンクの世界だった。眞一郎は腰を下ろさず比呂美の部屋を
眺めた。ピンクのカーテン。白い整理ダンス。階上のベッドの手すりにかけられた制服のブルー
がやけに目立った。ティッシュペーパーの箱も白かピンクしか見たことがない。おそらく比呂美
の母親の趣味が少なからず影響しているのだろうと思っていたので、眞一郎は色の趣味について
特に触れないでいた。
 眞一郎は腰を下ろし、テーブル上のテレビのリモコンに手を伸ばしかけて、あるものが目に留
まった。眞一郎が座っている場所から右斜め方向の壁際に置かれた白い整理ダンスの引き出しの
ひとつが、わずかながら浮いていたのだ。1センチあるかないかだけ引き出しが飛び出している。
眞一郎は、その引き出しを奥まできっちり入れてあげようと思って、そのタンスのそばまで行き
かけて、重大なことを思い出した。眞一郎と比呂美の仲を揺るがしそうなくらい大事なことを。
 その白い整理ダンスの引き出しのどれかに比呂美の下着が収まっていることを眞一郎は知って
いた。下着が収まっている状態を直接見たわけではなかったが、比呂美の部屋での挙動を総合的
に判断して導き出された結論だった。五段ある引き出しの上から四番目は、ブラジャーとショー
ツが収まっている。間違いなかった。その引き出しが、今ちょっとだけはみ出していたのだ。
(罠か? 比呂美のいたずらかもしれない……)
 眞一郎は、整理ダンスに伸ばしかけた手を引っ込めた。
 今さらながら、比呂美の下着に特別な興味はなかった。この部屋で比呂美を愛撫しつづけてい
るうちに、比呂美の下着を十種類くらい知ることになった。まだ見たことのない下着はあるだろ
うが、いずれお目にかかれるだろう。わざわざ信頼を裏切ってまで未だ見ぬ下着を見ようとは思
わなかったが、ただ、ひとつだけ気になることはあった。
 それは、この引き出しにはコンドームが隠されているということだった。過去一回だけ、『行
為』の最中に眞一郎をベッドに寝かせたまま比呂美がフロアに下りたことがあった。引き出しを
開閉する短い音がしたあとすぐに比呂美はベッドに戻ってきたが、今思えば、あのとき、枕元に
準備しそこねたコンドームを比呂美は取りにいったらしかった。比呂美はそのことに一言も触れ
なかったので、眞一郎も何だったか訊かないのがエチケットだろうと思って黙っていた。
 ただ、やはりこのことは男として確認しておいたほうがいいだろうと眞一郎は思った。コンド
ームを『どこにしまっているのか』ということを。比呂美にコンドームを取りに行かせるような
ことは二度とさせてはいけないだろう。眞一郎の男としての責任感が、一度引っ込めた手を再び
引き出しへ向かわせた。
(下着を物色するわけではないんだ。比呂美に恥ずかしい思いをさせないための下調べなんだ)
 とにかく頭の中で何でもいいから理屈を繰り返して理性を押さえつけ、眞一郎は四番目の引き
出しを開けた。
 うわっと漂ってきた甘い香りに、眞一郎は魂が抜けてしまうような感覚に見舞われた。心と体
が離れていくような感覚……。やばい、と思い、まだ神経がつながっていた両腕で整理ダンスを
力強く突いて、開け放たれた引き出しの中に視線を落とした。幸いにも、眞一郎を現実に引き戻
すモノがすぐに目に留まった。眞一郎は、それを見てほっとした。下着をかき回さずに済むと思
った。引き出しの一番手前の内壁に、掌の半分くらいの大きさのコンドームの箱が二つ、下着と
内壁との隙間に滑り込まされていた。ひとつは、黒と金のデザインの箱。もうひとつは、赤と銀
のデザインの箱で、これは眞一郎が調達して比呂美に渡したものだった。
 それにしても、あの香りは何だったんだろうか。たしか、比呂美の体を抱きしめるときにほの
かに匂う香りだった。こういう拘りは、男には到底理解できない『女の嗜み』なのだろうと眞一
郎は思った。三代吉も同じようなことを言ってた気がする。愛子を抱きしめるといい匂いがする
んだ~って。
 拘りといえば、女性にとって下着のデザインも、妥協の許せぬものだろう。眞一郎は、いけな
いと思いつつも、引き出しの中に詰められた比呂美の下着を改めて観察した。ほとんどが白とピ
ンクのものばかりで、紺色や例の縞模様のものが数種類あるだけ。全体的な印象としては、いた
ってシンプルだった。おそらく、この年頃の女の子にしてみれば下着の枚数は少ないだろう。欲
しくても買えないという現実が、この引き出しの中に映し出されているようで、眞一郎は少し切
なくなった。比呂美だって表に見えないところのおしゃれもしたいはず。それなのに、なんだ、
この部屋は。ぬいぐるみひとつ置いていない。かわいい小物がひとつくらいあったっていいじゃ
ないか。前々から比呂美のそういうところが気になっていた。
 眞一郎は、もやもやとした思いを振り切るように引き出しをきっちり閉めた。下着を覗いたと
比呂美に疑われてもいいと思った。正直にコンドームの場所を確認したと言おうと思った。そし
て、ちゃんと謝ろう。
 いろんな葛藤があったせいで喉がカラカラだった。眞一郎は、コーヒーの入った自分用のマグ
カップに手を伸ばした。そのときだった。来訪を知らせるチャイムが鳴った。
 あまりにも予期せぬことに、眞一郎の鼓動は息苦しくなるほど急に乱れた。
 比呂美がこの部屋を出てから15分くらいしか経っていない。『セフレ』までは少なくとも片
道20分はかかる。途中で引き返してきたのだろうか。
 眞一郎は、気を落ち着かせながら、音を立てずにそろりと玄関のドアへ歩み寄った。靴脱ぎ場
の手前まで来たところで、もう一回チャイムが鳴った。そのことで、眞一郎は一気に警戒心を強
めた。
(比呂美じゃない。比呂美なら、ドアをノックするはず)
 ドアを開けるわけにはいかなかった。もし、比呂美の友達だったら、とんでもない騒ぎになる
だろう。とにかく誰だか確認しよう。眞一郎は、ドアの中央にある防犯窓に物音を立てないよう
に慎重に近づき、そっと覗いた。体の右側が少し見えた。スカートらしきものを穿いている。た
ぶん、女性だろう。誰だか分からないが、仕方がない。居留守を決め込むしかなかった。だが、
眞一郎がリビングへ戻ろうと体重を移動しかけたとき、訪問者がドア越しに声をかけてきた。
「眞ちゃん。居るのはわかってるのよ。開けなさい」
 母・理恵子だった。
(比呂美とばったり会ったのだろうか……)
 もしそうなれば、比呂美はおそらく眞一郎が部屋にいることを隠すだろうが、理恵子に簡単に
見破られて白状させられるだろう。人付き合いが豊富な理恵子を騙すなど容易なことではないの
だ。それにしても、比呂美がいないと分かっているのに、なぜ理恵子はアパートに来たのだろう
か?
 眞一郎は観念して、ドアのロックに手を伸ばしかけたが、はっと気づいて再び息をころした。
(母さんのことだ。カマかけてるのかもしれない)
――――――――――――――――――――――――――
 チャイムを鳴らしても比呂美がすぐに出てこない
    ↓
 何かやましいことがある
    ↓
 眞一郎が部屋にいる
――――――――――――――――――――――――――
……という論理なのだろう。簡単だ。
 理恵子の罠を見破った気になった眞一郎は、ほっとため息をついたが、『ウラを取る』ことが
物事をうまく運ばせるためのコツだ、ということに眞一郎が気づくのにはもう少し時間を要した。
 ドアの向こうの理恵子は、沈黙を保っていた。二度目のチャイムが鳴ってから3分は過ぎた。
それでも理恵子は一向に帰る気配を見せない。
 確たる証拠を握っているのだろうか。眞一郎が今この部屋の中にいると――。これだけ部屋の
中から反応がなければ諦めてよさそうなものだが。もし、理恵子が比呂美と近くで出くわしてい
れば、そのことを話してくるだろう。でも理恵子はまだ一言しか言っていない。やはりおかしい。
理恵子の作戦だ。眞一郎がそんなことを考えていたときだった。
 ピルルルルルル――
 眞一郎のズボンのポケットの中にあった携帯電話が鳴ったのだった。
 眞一郎は、「わっ!」と思わず声を上げて飛び上がり、着地のときに床をドスンと言わせてし
まった。間違いなくドアの外まで伝わっただろう。
 ドンドン
 間髪入れずに理恵子がドアを取立屋みたいにノックしてきた。
「眞一郎ッ! 早く開けなさい。お父さんに言いつけるわよ」
 ここにいるという証拠を眞一郎は自ら提供してしまった。理恵子にウラを取られたのだ。携帯
電話の電源をまっ先に切ることを思いつかなかった歯痒さが込み上げてくる。眞一郎は、少し投
げやりな気持ちになってドアのロックに手を伸ばした。
 そのときだった。眞一郎の背後から――リビングの奥から「いやっ!」という悲痛な叫びが弾
丸のように飛んできた。眞一郎の全身はそれに激しく揺さぶられた。その音の弾丸が眞一郎の心
臓に命中したのではないかと思うくらいに。だが眞一郎は、どうにか振り向いてその叫びの主を
確認できた。
 栗毛色の、腰まで伸びた長い髪――。比呂美だった。
 比呂美が顔を伏せて床にうずくまっていた。
 なぜ、比呂美がここにいる? 眞一郎は当然のことながら混乱した。今から20分くらい前に
買い物に出かけたではないか。少し冷静さを取り戻しかけた眞一郎は、この状況について考え出
したが、すぐに心臓が破裂しそうな衝撃を覚えた。その原因は比呂美の格好だった。比呂美は、
上半身裸だった。正確にはブラジャーを着けていたが、肩ひもは完全に垂れ下がり、両腕には赤
いみみず腫れがいくつもあった。下の方は、スカートがびりびりに破かれていて、膝頭を擦り剥
いていた。まさに乱暴されたあとの格好だった。
(どうしてこんな……)
 眞一郎は、ドアの外にいる理恵子のことなんかきれいに忘れてしまい、怒りを増幅させながら
比呂美の方へ足を運ばせた。自然と大またで歩き、握りこぶしにさらに力がこもって振るえた。
(だれが、こんなことをっ!)
 すでに怒りが頂点に達した眞一郎は、床をどすんどすんと言わせた。眞一郎の目には比呂美し
か映っていない。だが、リビングに入りかけたところで、眞一郎は自分の右手に違和感を覚えた。
怒りに硬直している体とは対照的に、柔らかい感触。それがなんであるかは今はどうでもいいこ
とだったが、眞一郎はちらっとそれに目をやった。眞一郎の右手の握りこぶしから白いものがは
み出している。あまりにもまぶしい白さだったので、眞一郎は少しそれに興味がいった。立ち止
まり、右手をゆっくり開いた。
 白いもの。白い布切れ。小さな花の刺繍が施されている。ショーツだ。比呂美のショーツだ。
(まさかっ!)
 眞一郎は、慌ててもう一度比呂美を見た。比呂美は顔を伏せて泣いている。肩を怯えたように
震わせ、鼻水をすすり上げて泣いている。
(おれが、はぎ取ったというのか?)
 そんなはずはない。そんなことをするわけがない。眞一郎は必死に自分にそう言い聞かせた。
だが、それを裏付ける確たる証拠は眞一郎には何もなかった。逆に、眞一郎が犯人だと疑う証拠
は眞一郎自身が握り締めていた。こういうとき、『比呂美を愛している』という強い想いは、眞
一郎を勇気づけてはくれない。そっぽを向いたままで事態を変えてくれない。どう行動してきた
か、どう行動するのかが今の眞一郎を救うのだ。比呂美に事の真相を訊くしかない。それはとて
も辛いことだと分かっていても、そうしなければ、ぼろぼろな姿の比呂美を目の前にして眞一郎
は気が変になりそうだった。
「比呂美……」
 眞一郎が重い口を開くと、比呂美は意外にあっさりと顔を上げた。だが比呂美の視線は、眞一
郎を突き抜けていって、眞一郎の背後にいる人物に定まっていた。
「……ヒロシくん……」と、かすれた声で比呂美が何かを求めるように囁いたあと、部屋全体を
響かせるほどの低い声が眞一郎の背中に襲いかかってきた。
「涼子を泣かしやがって」
 眞一郎は、後ろの人物が誰だか考えるよりも先に、反射的に振り向いた。だが、眞一郎が半分
ほど振り向いてようやくその人物が視界の端に見えてきたところで、左顎に強い衝撃を受け、気
がつけば部屋の天井を見せられていた。
ツールボックス

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