空に知られぬ雪 弐

俺は納得いかないまま風防を閉めた。何時も通り無愛想に答えた茜の顔は何時もより青ざめていたし、
何よりもあれだけ銃弾を喰らってまともに飛べる訳が無い。
でも、茜の九九式艦爆は何事も無かったように真っ直ぐ飛んでいて、少しムカついた。
俺以上に無表情で何事にも無頓着な奴が何でこんな時に限って頑張ってるんだろうと思った。
一人考えていると、機体が揺れた。
バンバンバンと対空砲の爆音が鼓膜を揺らし、翼を奪おうと襲い掛かってくる。
それでも佐崎は異常なほど冷めていた。
俺はこの対空砲火の中、敵艦に突っ込むか、海面に叩きつけられて死ぬんだ。
そう考えてもちっとも怖くなかった。夜の基地の中を便所まで歩いた事の方が怖かった。
だから操縦桿を引いて高度を上げる。速度をつけて当たれば威力が上がると思ったからだ。
少し間を置いて急降下、敵空母の真上にドンピシャ。
対空砲火は気にする必要は無い。スロットルを壊れるまで倒す。
エンジンが悲鳴を上げ、機体が雲を引く。
空母の甲板が視界一杯に広がる。仰天している米兵や逃げ回ってる奴の顔まで見えた。
グシャリ、と俺の体が潰される。首だけが風防を突き破って宙を舞い、遅れて200kg爆弾が全てを吹き飛ばした。
最期の一瞬、雲の切れ間から見えた空は馬鹿馬鹿しい戦争何か頭から消え去るくらい綺麗だった。
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佐崎の九九式艦爆が空母に突っ込んだ瞬間、急に怖くなった。
空を飛ぶ事が、死ぬ事が、人を殺すことが、怖くなった。
味方機はどんどん敵艦に突っ込んでいく、無感情で見ていられた光景に目が向けられなくなる。
操縦桿を持つ腕が震えだし、足も、体全体が震えていた。止めようと思っても止まらない。
バコンと機体が揺れる。風防越しに見えたのは右翼が対空砲火で吹き飛んだ瞬間だった。
浮力が失われ、駒のようにクルクルと回りながら落下する。
ただひたすらに怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
海面が迫ってくる。震える身体を動かして風防を開け、ベルトを外し、空に飛び出した。
一瞬の浮遊感の後、僕は海面に叩きつけられた。
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目を覚ますと、基地のベットに僕は横になっていた。体中が痛くて動けない。
辺りを見回しても誰もいなかった。十個並んでいるベットには僕一人しかいなかった。
ガラス窓の向こうはあの雑草だらけの滑走路が見えた。
ガラガラと木製の扉をスライドする音が右側からした。
入ってきたのは基地指令だった。

「お前だけが、生き残るとはな……正直、意外だ」

一歩一歩確かめるように、指令は歩いてくる。
僕はただベットの上でそれを見るしかなかった。
目が赤く腫れている指令の顔は酷くやつれて見えた。

「それでも……私は本当に…心から嬉しい」

涙声になりながら指令は言う。口を真一文字に結んで必死に泣かないようにとしているが目にはもう涙が浮かんでいた。
それを僕はただ見ていた。そうする事以外、何も出来ないからだ。

「皆……立派に散って逝ったか?」
「はい」

淡々と僕は答える。感情など全く無い声で。

「皆……桜になったのか?」
「はい」

淡々と僕は答える。抑揚の無い声で。

「そうか………怖くは…無かったか?」
「……いいえ」

少し間を置いて、僕は暗い声で言った。
指令は窓の前に歩いて行き、外を眺めていた。

「急に怖くなって……逃げ出したくなって……皆死んで」

胸が締め付けられているように呼吸が苦しくなる。
目から涙が出てきて、また怖くなった。
殺風景な天井が霞んで見えた。
指令は相変わらず無表情のまま外を見ている。
さっきまでの泣き顔は何処に消えたのだろうか?

「僕だけ生き残って………」
「傷が治ったら基地には二度と帰ってくるな」

僕の言葉を遮るように沈黙していた指令が力強く言った。
何時も弱気で泣き虫の指令にしては芯がハッキリしていた。
泣いていた僕にはよく判らなかったが、指令はまた泣いていたようだった。
部屋の中には泣き虫が二人。僕と指令の二人だけだった。

「もうお前に任せられる機体は残っていない」

それだけ言うと指令は部屋を去っていった。
部屋には泣き虫が一人残された。僕だけが残された。
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1945年8月15日、馬鹿馬鹿しい戦争が終った。
始まりは盛大に、終わりは静かに迎えた。
幾つもの命と引き換えに寄越されたものは何一つ無く、今までの戦いに意味があったのかも解らなくなった。
傷が癒えた僕はそれから随分と流された。
風船のように、ただプカプカと。
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20××年4月19日の朝早く、僕は海岸に花束を片手に立っていた。
何十年前と同じ時間に、海に花束を流した。波にさらわれていった花束は沖に流れていった。
何十年前に血と油の流れた沖に流れていった。
あれ以来、僕は空を飛べない。
飛ぼうとすると体が震えて、力が入らなくなる。
誰かが近くにいるとそれは収まるが、一人でいると駄目だった。
結局、僕は泣き虫で弱くて、卑怯者で臆病者だった。
道行く人の顔は変わっていき、見たような顔が他人になっている。
あの日、空に散った者達の事は今となっては僕しか知らない。
だから忘れないで覚えておく。
空しい空にみせられた僕を。
綺麗な空に散った友達を。
空に知られぬ雪となった戦友を。
今の僕にはそれくらいしか出来ないから。


エルス

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最終更新:2008年09月17日 19:27
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