いつものノイズが、またやって来る。
廊下のむこうから肩をいからせて眦を吊り上げて。
赤い唇から紡がれるのが意味を成している言葉なら、まだ俺も気が休まるのだろうが……。

…は………で……… ……よ…   っ ………

それはまるで受信状況の悪いラジオみたいだ。
まったくもって、単なるノイズでしかない。
懸命に何かを訴えているのは分かるが、それだけのこと。
聞き取れないし意味が分からない。故にノイズだ。

…………ぃ…わ………  ……つ………し……

呆れかえったような表情で溜息をつく姿だけは克明に見えるのが逆に癇に障る。
長い髪をかき上げながら何やらぐちぐちと呟いているようだが、愚痴りたいのはこっちだ。
ある日突然自分の部屋に幽霊が出現した方の身にもなって欲しい。
イライラしながら足早に女の横を通り抜け、最奥の寝室に向かう。
このところ仕事が忙しい所為で、深夜に帰宅してはただ眠るだけの生活が続いている。
これ以上益体も無い面倒を抱えるのは真っ平ゴメンだ。
明かりも点けずにベッドに潜りこむと、急速な眠気に襲われる。
……心を亡くすと書いて「忙しい」とはよく言ったものだと思う。
際限の無い激務に追われると、その日にあったことを思い出すことすら難しくなる。
急速に襲い来る睡魔に身体を明け渡しながら、「辛いなあ……」と一言だけ呟いてみた。

意識が途切れる間際に脳裏をよぎったのは、何故かあの女の顔だった。

今日も今日とて深夜の帰宅。いつものノイズがお出迎え。
いい加減相手をするのも億劫なのだが、なんせ触れることも出来ないので
強制退去させられないのがどうにも歯痒い。
初めてこの女を目撃したのは……えーと……まあ、とにかくちょっと前のことだ。
とある深夜、俺がマンションの部屋に帰るとこの女が廊下に突っ立っていたのだ。
泥棒にしては堂々としているし、身なりも容姿もそう悪くない。
ではこの女はなんなんだろう? 

「あんた誰。ここで何してんの?」

………よっ! ………れ……が…………  に……のっ……

「いや、何言ってるか全然わかんね。それ何? 新手の腹話術?」

あ… っ…! ………は……て……  でっ!……

とにかく、怪しげな女が部屋にいることは間違いないのでつまみ出そうと試みて――

「…あれっ?」

その手は空しく宙を掻いた。
確かに俺は二の腕を掴もうとしたはずだが……。疲れで目測誤ったか?
んじゃ、リトライ。

「…………なんで?」

やはり俺の手は女の身体をすり抜ける。その時点でなんとなく嫌な予感はした。

身体を庇うように後ずさる女に問いかけてみた。あんたは幽霊ですか? と。

………っ………  よ!  

さすが幽霊。この世界の言語は通用しないらしい。
こちらが恐怖を感じるような見てくれや態度でないのが幸いだ。

「まあ……触れられないなら害も無いか……そんなことより俺疲れてるんだよ」

一晩眠ればこの女もどこかに消えるかもしれない。
胡乱な頭でそんなことを考えながら、寝室へ向かった。
それが少し前の出来事。

――以来、毎日のようにディスコミュニケーションが繰り返されているというわけだ。

変化が訪れたのは数日の後だった。
玄関をくぐった俺をねめつける強い視線は、腕組みした女から発せられるものだ。
そこまでは良かった。いつものとおりだ。

「……私の声、聞こえる?」

俺は多分、呆然としていたに違いない。
今までこの女の口から意味のある言語が放たれたことは一度だって無かったからだ。
女の言葉はさらに続く。

「今度は聞こえてるわよね? 苦労したわよ……ツテを頼ってあんたに
 “チャンネル”合わせてあげたんだから。感謝しなさいよ?」
「チャンネルって……そんなの簡単に合わせられるもんなのか?」
「あんまりやりたくは無いのよ。“向こう”に“引っ張られる”のは嫌だから」
「………?」

言葉は聞こえるようになったのに、今度は意味が良く分からない。この女は何を言ってるんだろう。

「ねえ、もう分かってるんでしょ? 本当のこと」
「……何、言って……」
「分かりたくないだけなんでしょ?」

何が分かってるって? 俺は何も分からない。分からないから問いかける。

「なんだよ。一体何が言いたいんだ? ここは俺の部屋で――」
「今は私の部屋なのよ……幽霊さん」



   ヘンなこと、いうなよ



「……毎晩遅くまでお仕事ご苦労さま。でも、あんた今日の仕事思い出せる?」



  仕事    おれ、は、会社で  えーと会社で なんだっけ  何の仕事したっけ



「この部屋が自分の部屋に見える? 全部私の趣味で固めてあるのに」



     俺の部屋   ?  こんな、女っぽい部屋  
 違うな あれっ   俺のギターも 無い  学生の頃バイトしてかった 



「見ようとしなかっただけ。聞こうとしなかっただけ。あんたはもう――」

ああ     そっか 俺……


「死んだのか」

言葉に出すと、その事実はストンと胸に収まった。

「そう、もう半年も前にね」
「……なんで死んだんだろう」
「居眠り運転。夜遅くにこの近くで信号柱に突っ込んだんだって」
「詳しいね。俺も忘れてるようなことを」
「ここを管理してるのは伯父の会社なの。あなたが出るから住人が居つかない、って泣きつかれてね……」

苦笑まじりに言う女の顔を眺める。
綺麗な女だな、と今頃になって気付くのだから俺は本当に何も見えていなかったんだろう。

「迷惑、かけたな」
「どういたしまして」

穏やかな顔で笑う女の目には、いくばくかの憐憫が垣間見えた。
自身を理解した今ならあっさり消えられそうな気がしていたのに、少しだけ心が弱くなる。
俺は僅かに逡巡してから口を開く。

「……泣き言、言っていいかな」
「どうぞ。聞くだけしかできないけど」
「もう少し……生きてたかったなあ」
「うん」
「仕事だって結構がんばったんだぜ? 一流大卒の奴らに負けてたまるか、って」
「うん、わかるよ」
「毎日クタクタになるまで残業して……それで……」
「うん。私は毎晩あなたを見てたから、知ってる」

優しい声がかけられる。眦が熱くなる。

「あなたのお仕事は知らないけれど、あなたが頑張ってたのは知ってる」

暗い部屋に一人で帰っていた頃には、こんなことはなかった

「何も心配いらないから、もう休んでいいのよ?」

ありがとう。……じゃあ、少し休むとしようか……

「さよなら、幽霊さん―――」



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「助かったよ……これで安心して物件を薦められる」
「伯父さん。私は拝み屋さんじゃないんだからね、こういうのはこれっきりにしてよ?」
「しかし、美紗はあの幽霊をどうやって祓ったんだ? 参考までに是非……」
「……別に悪い霊じゃなかったから、祓うなんて言い方はよしてよ」
「あ、ああ……で、どうやって……」
「何も変わったことなんかしてないわよ? 
 頑張ってる人にはね、こう言ってあげるの。――お疲れ様、って」
最終更新:2008年04月07日 03:53