七夕の物語
1
この話をする時が来ることを、私は恐れていた。
娘の誕生日が来る度に、街は笹と願い事に溢れる。
外食に出た帰り道、それらは賑やかしく目に映る。
もう4歳になったこの子がそれに興味を抱かないわけもなく、
私は躊躇いながらも話し出す。
「お空には、織姫と彦星が……」
街灯にまみれ、天の川などは見えないのと同じように、
それはまさしく寓話なのだろう。
◇ ◇
私と妻は大恋愛の果てに結ばれたわけではない。
周りの反対を強硬に押し切ったとか、そういうドラマチックな展開もない。
むしろ誰からも認められるように、そうあることが自然であるように、
いつも二人でいられるだけの努力をしてきたと思う。
職場で精力的に事務をこなす彼女と、どちらかというと怠惰な自分。
彼女は私に苛立ちを覚え、女性になじられることに反発する私。
そりが合わないようで、次第に惹かれあう。
どこにでもあるような馴れ初めだったと思う。
付き合い始めた頃から、彼女は「結婚しても仕事は辞めない」
と宣言していた。自分の甲斐性を疑われているようで少し不快だったが、
彼女はそういう人ではない。
きっと二人の関係は、何かを投げ出すことでよくなったりはしない。
二人の生活を豊かにするために、彼女は私にも目標を持って勤めることを望んだ。
私は、そんな彼女の前向きさに触発されて、少しはまじめに働くようになったと思う。
2
結婚前から財政をすべて掌握されたのは、結果的には正しかった。
誰からも祝福された結婚式、新居、それらは私たちが勝ち得たものだった。
そして突然、仕事を辞めると言い出した彼女。
『まぁ、あなたも一応は頼っても良くなってきたし……』
『それになんだか疲れたってのもあるし』
『親もうるさいし……孫がどうとか……』
一番言いたい事を、まわりりくどく後に持ってくる癖に、私は笑った。
背を向けてゴニョゴニョ言う彼女が、私の笑いで怒って振り向くと同時に。
私は強く、妻を抱きしめた。
◇ ◇
「二人はあまりにも仲良くしすぎて、しなきゃいけないお仕事をやらなくなっちゃったんだ。
だから神様は怒って、二人を遠い遠い星の間に別れさせてしまった……」
私は、この話がとても嫌いだ。
娘にしなければならないとするなら、もっと嫌だ。
この子が、自分の出生を呪わないように。
皆が夜空を見上げるこの日に、うつむくことがないように。
3
七月七日、産気づいた妻は容態を悪化させる。妊娠中毒症のひどいもの、という
医者の台詞だけが妙に記憶に残っている。
狼狽する私にかけられる、妻からの叱咤の声。
苦しげな声と、子供だけはという願い。
私も願いをかけた。
どうか二人とも。
◇ ◇
「そして神様は悲しむ二人に、ちゃんと働くなら、一年に一度逢わせてあげようと」
この子だっていつか知るときがくる。
誕生日が、世間にとっての
出会いの日が、自分にとっては別れの日なのだと。
私たちは何か悪いことをしたのだろうか?
真逆だ、私たちは織姫や彦星のように何かを怠ったりはしなかった。
常に二人で努力してきたのに、なぜ永久に別れなければならなかったのか。
だから、この話は反吐が出るほど嫌いなんだ。
話しながら歩いているうちに、河川敷に出ていた。
光量が減るといっても、やはり夜空にはまばらにしか星が見えない。
天の川がどこかなんてことも教えたりはできない。
話が佳境に入るにつれ、手を強く握っていたようだ。
むずがって握られた手を振る娘に
「ごめんな」
と謝り、しゃがんで頭をなでる。
静まり返る夜道で、私は不意に背後に気配を感じた。
4
「お、おまえ……?」
私の横には、忘れえぬ妻の姿があった。
私と、そして娘を順に見て、穏やかに微笑を浮かべている。
娘もその姿が見えるようで、キョトンとしている。
なぜだか世界から急にはぐれたような感覚。
周りの景色が薄ぼんやりと膜がかかっているようで、
ああ、これは夢かと思えた。
不意に彼女は表情を厳しくして私を睨むと、口を開く。
その声は滑らかに私の意識のほうに聞こえてくる。
それは、小言だ。
未練たらしいたらありゃしないと、暗いのは娘に悪影響だと、自分の娘がそんなに弱いと思うのかと、
外食ばかりを食べさせるな、会社をサボるな、蓄えを浪費するな、近所づきあいをきちんとしろ、
そしてそんなに悲しまないでほしい、と。
そして娘に向き直ると、こういった。
『お父さんがあんまりさびしがるから、神様が7月の7日だけは3人一緒に
会えるようにしてくれたの。ほんのちょっとの時間だけどね。お盆の前倒しかな。
お父さんはさびしがりやだし、ほうっておくとどんどん駄目になるから、あなたも
ちゃんと見張ってなきゃ駄目よ?私の娘なんだから』
娘は神妙そうに、不思議そうにうなづいている。
私は、その二人が一緒にいる光景をどれだけ見たかったのだろうか。
これが幻だとしても、忘れることはないだろうと、そう感じていた。
5
本当に少しの時間なんだ。
妻はふっと立ち上がると、私たちをもう一度見て、空を見て、消えた。
世界は元の蒸し暑い感覚を取り戻し、私も意識がはっきりする。
ぼんやりとしていた私を怪訝そうに見つめる娘。
ああ、やっぱり幻なんだと、そう思った。
「帰ろう?」
私は立ち上がり、娘の手を引いた。
なぜか穏やかな気分だった。
娘も機嫌よさそうに跳ねながら、七夕の話の続きをせがむ。
「……そして織姫と彦星は、今日だけは逢えるようになったんだ。おしまい。」
娘は何か考えるようなそぶりをした後、こう言った。
「パパは、そのひこぼしって人みたいに、ほうっておくと駄目になるの?」
了
お前にも見えていたのか。
家に帰った私たちは、ソファに座って話していた。
うん、とうなづいてジュースを飲む娘。
私はこれまで怖くて聞けなかったことを聞いた。
「なあ、お前はお母さんがいないのを不思議に思わなかったのか?
幼稚園の運動会とかでも、周りの子みたいに二人じゃなく、
いつもお父さん一人だったろう?さびしくなかったのか?」
娘は、また不思議そうな顔をして、答える
「だって、ママはいつもパパのそばにいるよ」
「逢えるのが七夕だけなんてウソ。ママはいつだってパパと私の傍にいるもん。
多分、さびしがりやはママのほうだと思う、だってずっとパパに引っ付いてるし」
私は、ふと背後でカサリと音がしたような気がして、振り向く。
そこには棚に飾ってあった小さな笹の葉が揺れていた。
まるで誰かがそれをかすって奥の間に走っていったように。
その葉には、娘の拙い字で願い事がひとつだけ。
最終更新:2011年03月02日 22:30