七夕の物語



この話をする時が来ることを、私は恐れていた。
娘の誕生日が来る度に、街は笹と願い事に溢れる。
外食に出た帰り道、それらは賑やかしく目に映る。

もう4歳になったこの子がそれに興味を抱かないわけもなく、
私は躊躇いながらも話し出す。

「お空には、織姫と彦星が……」

街灯にまみれ、天の川などは見えないのと同じように、
それはまさしく寓話なのだろう。

   ◇      ◇

私と妻は大恋愛の果てに結ばれたわけではない。
周りの反対を強硬に押し切ったとか、そういうドラマチックな展開もない。
むしろ誰からも認められるように、そうあることが自然であるように、
いつも二人でいられるだけの努力をしてきたと思う。

職場で精力的に事務をこなす彼女と、どちらかというと怠惰な自分。
彼女は私に苛立ちを覚え、女性になじられることに反発する私。
そりが合わないようで、次第に惹かれあう。
どこにでもあるような馴れ初めだったと思う。

付き合い始めた頃から、彼女は「結婚しても仕事は辞めない」
と宣言していた。自分の甲斐性を疑われているようで少し不快だったが、
彼女はそういう人ではない。

きっと二人の関係は、何かを投げ出すことでよくなったりはしない。
二人の生活を豊かにするために、彼女は私にも目標を持って勤めることを望んだ。
私は、そんな彼女の前向きさに触発されて、少しはまじめに働くようになったと思う。




結婚前から財政をすべて掌握されたのは、結果的には正しかった。
誰からも祝福された結婚式、新居、それらは私たちが勝ち得たものだった。

そして突然、仕事を辞めると言い出した彼女。

『まぁ、あなたも一応は頼っても良くなってきたし……』
『それになんだか疲れたってのもあるし』
『親もうるさいし……孫がどうとか……』

一番言いたい事を、まわりりくどく後に持ってくる癖に、私は笑った。
背を向けてゴニョゴニョ言う彼女が、私の笑いで怒って振り向くと同時に。
私は強く、妻を抱きしめた。

   ◇        ◇

「二人はあまりにも仲良くしすぎて、しなきゃいけないお仕事をやらなくなっちゃったんだ。
 だから神様は怒って、二人を遠い遠い星の間に別れさせてしまった……」

私は、この話がとても嫌いだ。
娘にしなければならないとするなら、もっと嫌だ。

この子が、自分の出生を呪わないように。
皆が夜空を見上げるこの日に、うつむくことがないように。



七月七日、産気づいた妻は容態を悪化させる。妊娠中毒症のひどいもの、という
医者の台詞だけが妙に記憶に残っている。

狼狽する私にかけられる、妻からの叱咤の声。
苦しげな声と、子供だけはという願い。
私も願いをかけた。
どうか二人とも。

       ◇        ◇

「そして神様は悲しむ二人に、ちゃんと働くなら、一年に一度逢わせてあげようと」

この子だっていつか知るときがくる。
誕生日が、世間にとっての出会いの日が、自分にとっては別れの日なのだと。

私たちは何か悪いことをしたのだろうか?
真逆だ、私たちは織姫や彦星のように何かを怠ったりはしなかった。
常に二人で努力してきたのに、なぜ永久に別れなければならなかったのか。
だから、この話は反吐が出るほど嫌いなんだ。

話しながら歩いているうちに、河川敷に出ていた。
光量が減るといっても、やはり夜空にはまばらにしか星が見えない。
天の川がどこかなんてことも教えたりはできない。

話が佳境に入るにつれ、手を強く握っていたようだ。
むずがって握られた手を振る娘に

「ごめんな」
と謝り、しゃがんで頭をなでる。
静まり返る夜道で、私は不意に背後に気配を感じた。




「お、おまえ……?」

私の横には、忘れえぬ妻の姿があった。
私と、そして娘を順に見て、穏やかに微笑を浮かべている。
娘もその姿が見えるようで、キョトンとしている。

なぜだか世界から急にはぐれたような感覚。
周りの景色が薄ぼんやりと膜がかかっているようで、
ああ、これは夢かと思えた。

不意に彼女は表情を厳しくして私を睨むと、口を開く。
その声は滑らかに私の意識のほうに聞こえてくる。

それは、小言だ。
未練たらしいたらありゃしないと、暗いのは娘に悪影響だと、自分の娘がそんなに弱いと思うのかと、
外食ばかりを食べさせるな、会社をサボるな、蓄えを浪費するな、近所づきあいをきちんとしろ、
そしてそんなに悲しまないでほしい、と。

そして娘に向き直ると、こういった。

『お父さんがあんまりさびしがるから、神様が7月の7日だけは3人一緒に
 会えるようにしてくれたの。ほんのちょっとの時間だけどね。お盆の前倒しかな。
 お父さんはさびしがりやだし、ほうっておくとどんどん駄目になるから、あなたも
 ちゃんと見張ってなきゃ駄目よ?私の娘なんだから』

娘は神妙そうに、不思議そうにうなづいている。
私は、その二人が一緒にいる光景をどれだけ見たかったのだろうか。
これが幻だとしても、忘れることはないだろうと、そう感じていた。




本当に少しの時間なんだ。
妻はふっと立ち上がると、私たちをもう一度見て、空を見て、消えた。

世界は元の蒸し暑い感覚を取り戻し、私も意識がはっきりする。
ぼんやりとしていた私を怪訝そうに見つめる娘。
ああ、やっぱり幻なんだと、そう思った。

「帰ろう?」

私は立ち上がり、娘の手を引いた。
なぜか穏やかな気分だった。
娘も機嫌よさそうに跳ねながら、七夕の話の続きをせがむ。

「……そして織姫と彦星は、今日だけは逢えるようになったんだ。おしまい。」

娘は何か考えるようなそぶりをした後、こう言った。

「パパは、そのひこぼしって人みたいに、ほうっておくと駄目になるの?」




お前にも見えていたのか。
家に帰った私たちは、ソファに座って話していた。

うん、とうなづいてジュースを飲む娘。
私はこれまで怖くて聞けなかったことを聞いた。

「なあ、お前はお母さんがいないのを不思議に思わなかったのか?
 幼稚園の運動会とかでも、周りの子みたいに二人じゃなく、
 いつもお父さん一人だったろう?さびしくなかったのか?」

娘は、また不思議そうな顔をして、答える

「だって、ママはいつもパパのそばにいるよ」

「逢えるのが七夕だけなんてウソ。ママはいつだってパパと私の傍にいるもん。
 多分、さびしがりやはママのほうだと思う、だってずっとパパに引っ付いてるし」

私は、ふと背後でカサリと音がしたような気がして、振り向く。

そこには棚に飾ってあった小さな笹の葉が揺れていた。
まるで誰かがそれをかすって奥の間に走っていったように。

その葉には、娘の拙い字で願い事がひとつだけ。
最終更新:2011年03月02日 22:30