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昨晩は雨も風もうるさいほどだったが、今朝は快晴のようだ。
カーテン越しに降り注ぐ日差しは暑いくらいで、良い一日を予感させる。
しかし通風のため窓を開けたところで、妙な物に気が付いた。
濡れたシーツのような布切れが、ベランダの手摺りに引っ掛かっている。

昨夜の風で飛ばされてきたのだろうか。処分に困りそうな大きさである。

……見なかったことにしよう。
顔も知らぬ一階の住人に、ごめんなさいと謝りつつ、それを下に落とす。

──── べしゃ、

そんな濡れ雑巾のような音がした。
行く末を見届けることもなく台所に向かう。
人間切り替えが大切だ。朝食を取って、出掛けるとしよう。


朝の予感は正しかったらしく、とても良い一日だった。
やることなすこと全て良い方に転び、久々に気分の良い帰路となった。

どこまでも飛んで行けそうな青い空。
その日差しからユカイな何かが降り注いだりでもしたのだろうか。
ツイてるなんてものじゃない。不可能なんてないという程だった。
笑いながらハミングを口ずさみつつ、部屋のドアを開ける。
何せ絶好調の一日。大抵のことなら笑って受け止められる心境だった。

…………、
……さて、大抵、とはどの程度までを指すのだろう。

例えば、帰宅したら部屋の床がびしょ濡れだったことは許容範囲だろうか?
見知らぬ女性が、怨み晴らさでおくべきか、という形相で居座っているのは?
おーけい、落ち着け俺。ビークールだ。まずは状況整理。
カンタンだろ、こんなこと。

しかし思考はワープでループ。時間の果てまで飛んでいく。ぶーん。
改めて窓際に座る、見知らぬ女性に視線を戻す。

──女は、濡れていた

残念ながら、性的な意味では無い。
びっしょり、というほどではないが、じっとり、と湿っている。
取り込み損ねて雨に降られた洗濯物のような有様だ。生乾きである。
生乾きの洗濯物って、放っておくと臭いが大変なことになるんだよな……
そんな益体のないことを思いつつ、思考放棄を試みたり。
しかし、それを許してくれる女性ではなかった。

「あなた、今朝はよくもやってくれたわね!」
そう言って女は、透ける指先を俺に突き付けた…………透ける?


──自称 “浮遊霊”
それが彼女のプロフィールである。
ちなみに今朝のベランダの濡れ雑巾が彼女だったらしい。

「自称じゃないっ! モノホンの浮遊霊よ!」
怒鳴る彼女……いや、霊ってところは認めるけどさ。
彼女の向こうに窓硝子が透けて見える。
半透明人間でないとするならば、霊と考えるのが無難だろう。
──しかし、

「浮遊霊って、浮いてるから浮遊霊って呼ぶんじゃないのか?」
ぺたん、と床に座り込む霊を、浮遊霊とは言わないと思う。

「仕方ないでしょう、濡れてるんだから!」
濡れて重くなっているから浮かない──そういう理屈らしい。
……どういう理屈だ。羽虫かお前は。
ていうか、霊って濡れたりするものなのか?
……濡れるんだろうな。目の前に実例がいるんだから。

「お前って、雨の日はいつもそうなのか?」
「まさか。いつもはちゃんと雨宿りをしてるわよ!」
……本当にこいつは霊なのだろうか?
どこかの実験室から抜け出した半透明人間なのではないだろうか。

何でも付近の霊的磁場とやらに引き寄せられて、抜け出せないらしい。
霊的電場や霊的重力、はたまた霊的弱い力、強い力も存在するのだろうか。
とにかくそういう理由で、昨夜はベランダで雨晒しになっていた。
で、今朝、俺に落とされ、復讐のために雨樋を伝って登ってきたとのこと。

……言うな。俺だってこんな与太話を信じたくない。
などと、誰にともなく弁解したくなる。


「あー、ヘリウム吸ったら浮くんじゃないか?」
確かクリスマスに使った変声用ヘリウムガスが、どこかにあったはずだ。
「バカ言わないでよ。霊がそんなもので浮くはず無いでしょ!」
いや、断言しても良い。お前だったら絶対に浮く。

「気ままな根無し草が信条だったのに、何だってこんな所で……へっくし!」
「…………」
もはや呆れて言葉もない。
くしゃみは有害な物を体外に排出する防衛機構のはず。
霊もウイルスや杉花粉に負けるのか?
ならば霊能力者など不要。殺虫剤ならぬ殺霊剤を開発すれば良い。

そんな益体無いことを考えつつ、タンスに向かう。
中からバスタオルと適当なシャツ、ズボンを見繕い、放り投げる。
「……何よこれは?」
「タオルと着替え。いつまでもそのままってわけにはいかないだろう」

「…………」
どこか憮然とした表情でこちらを睨み付けてくる霊。
「いったい、何が目的よ」
「目的って……別に下心はないが」
「まさか! 人を二階から突き落とすような極悪人のくせに!」
「人って……お前、霊じゃん」
そう言えば二階から落ちてもかすり傷一つ無いとは、やはり霊のようだ。
俺が落としたのだから、触ることは出来るようだが。
……うーむ、物理法則の適用範囲の線引きが難しい。

「分かった! わたしの着替えをじっくりと視姦するつもりね!」
何故か勝ち誇ったように断言する霊。正直疲れる。


「別にお前の貧相な身体を見て、どうこうしたいとは思わないよ」
「~~~~っっ! ひ、貧相って、そういうことは見てから判断しなさいよ!」
見てからって、見るなって言ったばかりじゃないのか?

それに断言できる。
彼女はよく言えばスレンダー。悪く言えば貧乳だ。
……まあ癪なことに、決して魅力が無いというわけではないのだが。
もちろん、そんなことを口に出しては言わない。

「いや、貧相だろ」
「何よ、まるで実際に見たかのように!」
いや……見たも何も……

「──だって、透けてるし」

「?? …………、──っっ!?」
自分の身体を見下ろし、真っ赤になって腕で身体を隠す。
しかし無駄な努力。
腕も透けているので、うっすらとだが大事なところも見えたままだ。

白い服は濡れると透ける。
これは男性なら押さえておくべき必須事項だ。
最近は濡れても透けない白水着などもあり、嘆かわしいことこの上ないが。

「何したり顔で語ってるのよ!」
ばふん、と投げつけられたズボンが顔にぶつかる。
視界が戻ると、霊はバスタオルで前を覆っていた。残念……って何がだ。


さて、目の前に座るのは身体を拭き、着替えも終わった彼女。
ちなみにその間、俺は廊下で待たされた。俺が家主なのに。
もういいよ、と言われ中にはいると、呑気にテレビなど見ていた。おい。

「で、これからどうするんだ?」
「どうするって、する事無いから寝るつもりだけど……まさかあなた──!」
「幸い俺はホモ・サピエンス以外に欲情しない」
馬鹿なことを言う前に、機先を制しておく。

「そうじゃなくて、俺が言いたいのは、いつまでここにいるつもりだ?」
「いつまでって……そんなことは風に聞いてよ」
風にって、頭が一年中ぽかぽか陽気の妖精さんかお前は?

「とにかく、ここの霊的磁場を上回る風が吹かなきゃ、どうしようもないのよ」
具体的にどの程度か訊くと、台風でもそうそう起きない無い数値を提示した。

「っておい! それまでうちに居座るつもりか?」
「それ以外にどうしろって言うのよ?」
「いや、それはマズイ! 何がマズイって、おまえ──!」
慌てて霊に詰め寄り、肩を掴む。
「きゃ! ちょっと、何とち狂ってるのよ!!」
「馬鹿野郎っ、そうじゃなくて──、」
ちょうどその時、

「やっほー♪ ご飯作りに来てあげたよー……って……あれ?」

買い物袋を片手に部屋の扉を開ける女性。
ちょうど良いというか、壮絶に最悪のタイミングでお隣のお姉さんの登場。
何を隠そう、俺が密かに憬れを抱いている女性だ。

そして現在の主観的状況、厄介な霊に詰め寄っている俺。
そして現在の客観的状況、女性を押し倒している俺。


「……ご、ごめんね。年頃の男の子だもんね。そういうこともあるよね……」
乾いた笑顔のまま、扉を閉めようとするお姉さん。

「──ま、待ってください! 誤解です!!」
「今までお邪魔しちゃってゴメンね。明日からは可愛い彼女に作ってもらって」

ぱたん、と無慈悲な音を立てる扉。
ドア越しに、びえーん、と子供のような泣き声が聞こえる気がする。
もちろん、がっくりと項垂れる俺に、それに気を回す余裕など無いのだが。

「……えーっと、よく分かんないけど、元気だしなよ」
「……誰のせいだと」
ぼそり、と我ながら恨めしい声が出る。

テレビは天気予報に変わり、この地方の梅雨明けの宣言を伝えている。

『今年は台風の発生も少なそう。水不足が心配です』
キャスターが呑気な声で、俺にとって絶望的なことを伝えてくる。

『この夏は晴れ晴れで、子供達にとってユカイな夏になりそうですね♪』

ああ、晴れたらどれだけユカイだろうよ。
──ちくしょう、この怨み晴らさでおくべきか。
最終更新:2011年03月02日 22:51