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そのアパートは、家族で住むには窮屈なところだったし、学生が借りるには
少々、家賃が高すぎた。
必然、独身の社会人ばかりが入居することになる。
平日の午前9時ごろにはすべての住人が働きに出る。
だから、前の駐車場には一台の車もなく、閑散としていた。

そこに、スーツの男が訪ねてきた。呼鈴を鳴らし、次いで、素早くポケットから
ピッキング道具を取り出した。ノブに手をかけると、想定していた抵抗が
なかった。手間が省けたとばかり、道具をしまう。
彼はそこに人がいないことを知っていた。事前に目星を付けていた場所と
時間であり、安全に盗みが行えることを確信していた。
左右に目を走らせ、人通りがないことを一応確かめる。そして、するりと
ドアの隙間に体を滑り込ませた。

そして――驚愕に目を見開き、たたらを踏んで逃げ出した。




最近、元気がないとか、疲れてない?とか、ちゃんと寝てるのかとか、ゴハン
食ってるのかとか医者行けとかクスリやめろとか量さえ間違えなければOK
だよとか死ぬなら他人に迷惑かけんなよとか、色々と素敵アドバイスを
いただいている。

おはよう俺。そしておはよう科学では説明できない神秘の存在。
今朝も彼女は枕元に立っていた。前髪の隙間から覗く眼球がいつもどおり
血走っていて、いつもどおり俺のむきだしの心臓をわしづかみする。
ああ、俺のココロはもうおまえのものさ。朝昼晩、何をしててもおまえのことが
頭から離れなくて死んじゃいそう。

彼女はいつも、なにをするでもなく、ただ部屋のどこかに突っ立っている。
昨日は冷蔵庫のまえに一日中いたので、飯は外で済ますことになった。
そろそろ腐りそうな食材がたまってたから、まとめて炒めて食うつもりだった
のにとちょっとご立腹。見えるだけで彼女に実体はないから、冷蔵庫を開け
ようと思えば開けられたんだけど。
だいたいは朝起きると俺の頭をまたぐように立って俺の顔を見下ろしている。
水場は苦手なのか、風呂やトイレにいたことはない。それは俺的にすごく
助かってる。さすがに毎日のことなので朝一のアレにはちょっと慣れたけど、
ドア開けた瞬間にあの陰気な顔と鉢合わせしたら発狂しちゃうから。

そんなわけで俺は悩んでいるのだ。でもだれにも相談できないでいるのだ。
だってだな、同棲してる女を紹介するよって人呼んだら、そいつはきょろ
きょろ部屋ん中見渡すわけだ。俺は一所懸命説明するわけだ。そして
三十路の息子の部屋の押入れから空気嫁を見つけた親父のような哀れん
だ目で優しく肩をたたかれるわけだ。
そんな可能性に満ちた未来が俺には見える。

だからひとりで死にそうなほど悩んでいる。引越しも考えた。だけどここは、
この部屋だけは家賃が格安になっている。そのおかげでズボラな俺でも
貯金ができ始めているほど、その恩恵は絶大だ。
くそったれ不動産屋め!いったん甘い汁を吸った俺がもとの生活に戻れる
と思うなよ!? あの給料日まえの空腹を思い出せ!水しか飲まずにいると
唾液が苦く感じる不思議現象を!自らの意思に反して手がぷるぷる蠕動
する謎の症状を!
あのころにはもう戻れない戻りたくない!だから俺負けない!
………………お仕事いくか。

安らかな眠りから覚めたとき、厳しい現実に相対するため覚悟をしておく。
ここ最近身につけた習慣だ。そろそろと、ゆっくりと、目を開く……
あれ?今日の立ち位置は枕元じゃないのか。見渡すと、玄関のドアのまえ
に彼女はいた。
ちょっとめずらしいな、とか思いながら洗面や着替えを終え、出勤準備完了。
そして彼女の立っている場所がいささかマズイことに気づいた。
そこ通んなきゃ会社いけないだろ?なあ、わかってくれよ。なんだって?
おまえと仕事のどっちが大事かって?バカだなあ、じゃあおまえは空気と水
どっちが大事なんだ?どっちもなかったら生きていけないだろ?俺にとって
おまえはそういう存在さ。はっはっは。もう一度なんて言えないよハニー。
十年後にまた言ってやるからさ……

――……ってことがあって欠勤しました。なんて言い訳通用しねーんだよ
甘ちゃん野郎が!!俺のB系上司ナメんじゃねえ!!
……よしヤル気出た。やってやるよ、ただ立体映像すり抜けるだけのこと。
カンタンさ俺はヤればデキる子だから。

恐る恐る、でも平然を装って、彼女へと近づく。こっちを見ていられたら
勇気が萎みそうなので目は合わせられない。
重なったその瞬間、温度の低下を感じた気がして総毛立った。
はやく。クツを履くため床に視線を落としていてわからないが、体のどこかは
彼女に触れているはず。腰のあたりにあるはずのない違和感があって、
パニックになりそうなのを必死で抑えた。
こいつに実害はないんだ。ないから超安心!俺落ちついてるから!
よし、いいいってきますっ!

「  い     く      な  」

「!? ぃいやぁあ――――――――――っ?!」
地獄の底から現世に漏れ出てきたようなデスボイスの制止命令に、俺は
叫ばずにいられなかった。
彼女がしゃべるのは初めてのことだった。なにこの新要素?ただの置き物
だと思いこもうと努力してたのに!
つーかさっきの虚しい妄想が現実になりそうだよ腐れチンピラ上司さま!
そんなのはイヤ。こんな恒温動物か変温動物かあまつさえ有機物か無機物
かもわからないシロモノとラブラブになれるわけないよ!愛してないって最近
言わなくなったのはほんとうにあなたを愛してないから!
彼女の目は怒りに真っ赤に染まり、オレサマ オマエ マルカジリと主張して
おり、交渉はうまくいきそうになかった。

「  こ    こ    に    い    ろ  」

「いや―――!? はなして――――――っ!!」
あろうことか腕をつかまれ再び絶叫。なにこの新アビリティ?理不尽すぎる!
ここに?いられるわけないじゃん!なにするつもりかしらないけど、あんたと
お話続けられる自信ないから!俺がなによりも苦手なのは気まずい空気
だから!
全身全霊、己の魂をこめてイヤイヤと首をふる。もう半泣き。
なんかの都市伝説で、その場所に呪縛された人が解放されるにはだれかを
身代わりにしなければならない、なんてのがあったっけ。なぜいまそんなこと
を思い出してるんだろうね俺の脳は?
そして考えられる最悪の事態を一瞬で十通りもシミュレートした。

「  そ    う    か  」

意外なことに彼女はあっさりと解放した。俺のすさまじい演算(妄想)能力は
ムダになったが、そんなことはどうでもいい。逃げていいんだ!逃げていい
んだ!逃げていいんだよ……ね? と、意志確認。
彼女は禍々しい負のオーラを凝縮したような表情で、小さく頷いた。

「  ち   ゅ   う   こ   く   は   し   た   ぞ   」

怒ってる!怒ってるよ!デスボイスの重低音が鬱屈と憤怒を伴って臓腑に
響く!最後に「チッ」って舌打ちしたし!

俺はお許しをいただいたので外の世界に飛び出した。
しばらく走り続け、他の人間が何の悩みもなさそうな顔で歩いているのを
見たとたん、脚から力が抜けてしまった。ずるずると壁に背を預けながら
へたりこんだ。
どうしよう?あれはただの立体映像じゃなかった。俺に危害を加えることも
可能だ。それも、だれにも知られることなく。

いままで無事だったほうが不思議だ。
いままで無事だったほうが。

「……忠告って、なんだろ……?」
ふらふらと立ち上がり、そのことばかり考えながら、脱力した体を引きずる
ようにして、俺は会社へと向かった。

その日は仕事が手につかなかった。
『男性の持続時間の不確定さに対する女性の無理解について』という議題
に、俺はなんら意義のある意見を出すことができなかった。くやしいが経験
がないのを理由に、職務怠慢の謗りからは免れた。その一方で、俺のトシ
にしては不名誉なあだ名を付けられてしまった。

「今日はさらに元気ないわね童貞」
帰り際、同僚の女性に声をかけられた。半笑いで。
「はぁ……あの、ウチに怖いのがいて帰れないんで、今晩泊めてください」
「……いくらなんでも焦りすぎでしょ童貞。だから童貞なんでしょ童貞?」
それは新しい接尾語だろうか。少なくとも俺は知らない。日本語の変化は
ほんとうに早いものだなと戸惑いとともに微笑ましく思う。

ちょっと死にたくなった。


これが鬱というものか。
すべてがもうどうでもいい。会社にも家にも安住の地はなく、俺の頭の中で
暮らす隣のおねえさんも、今日は励ましにきてはくれなかった。

アパートのまえに立ち止まる。
玄関にぼうっと立っているだろうその姿を想像する。
今朝の、背筋の凍るような声と、つかまれた腕の感触を思い出す。
あのとき、彼女の言うことを聞いていれば、今日おかしな呼び名をつけられる
ことはなかったと思う。取り憑かれて死んでたかもしれないけど、そのほうが
よかったかもしれない。
なんか鬱には怖いものはないのだなと、ぼんやりと考える。どうでもいいけど。

カギをドアノブに差し込んでから、いつもの方向に回せないことに気づく。
朝のアレで戸締り確認なんかできなかったっけ。
「ただいま」
目の前に彼女はおらず、いつものところに移動していた。一日のうちで場所
が変わるのを見るのは初めてだった。
首が動き、こちらをうかがっているのがわかる。
しばらくして。

「 ・  ・  よ   く   も   ど   っ   た   な  」

周囲の空気を瘴気に変えながら、鼓膜はおろか脳漿までもを震わす声。
「あんたの言うとおり、行かなきゃよかったよ」
またしばらくして、なんのことだ、という反応があった。目のまえにいるのに
通信速度がやたらと遅い。
俺が会社であったことを話すと、嘲笑のような響きが伝わってきた。
「忠告って、そのことだろ?」

「  そ   れ   は   も   う   す   ん   だ  」  

――ばかめ、と付け足される。
なにがもう済んだのかわからないので反論のしようがない。
そのことを訊いても、それこそ置き物のように答えてはくれなかった。

質問を変えてみる。意思の疎通ができるのなら、訊きたいことは山ほどある。
なぜここにいるのか。
なにをするつもりなのか。
話したくないことは返事もせず、黙殺することがわかったが、有益な、俺を
安堵させるような情報はほとんど得られなかった。
なぜいつも黙って立っていたのか。
俺に声を聞く霊能力がないからかも、と思ったときもあった。いまとなっては
それは間違いだとわかっている。
間があり、つぎの質問にいこうとしたとき。

「  み   ん   な   に   げ   た  」

そして沈黙。
意味が消化できず、俺は考えこんだ。

「 ・  ・  ・  だ   か   ら  」

それ以上、いくら待っても続きはなかった。
というより、部屋の隅に移動して壁に向かい合うという、わかりやすい会話の
拒絶をされたので、その件に関して問い質すことはできなかった。

それから彼女はその姿勢を保ち続けた。
なんで? と訊いても、うなるような重低音が響くばかりで意味不明。
動いたりしゃべったりすると電池が切れるためだと三日後に結論を出した
とき、久々のデスボイスが響いた。しかも(彼女にしては)超反応で。

「  ま    ぬ    け   !  」
最終更新:2011年03月04日 20:34