『犬のてのひら』(1)

 放課後の学校、俺は屋上に来ていた。

 本当ならさっさと部室に行きたいところなんだが、先輩として可愛い後輩の相談くらいには乗ってやらないとな。

 ちなみに俺はホームメイキング部という部活に入ってる。(似合う似会わないはこの際言及しないでおこう)

 耳慣れない言葉かもしれないが、まあ料理部と手芸部が合体したようなものだと思ってくれれば支障はないはずだ。

 俺の手芸の腕はけっこうなもんだと自分では思ってる。料理の方は……ま、それなりだけど、舌は確かだ。俺以上の味見役はいない。

 それはともかく、いまだ姿を現さないその後輩も同じ部活な訳だ。

 俺は二年でそいつは一年。

 あいつが入部した当初から俺はたまに相談に乗っていた。

 ――うちの部の女子は慣れるまでは怖いからな~。

 思わず苦笑いが浮かんできてしまう。

 もちろん部員の大半は女子であるが、その女子ときたら全員が全員人見知りするタイプで最初のころ新一年生にそっけなく接していたんだ。

 それを、自分たちは嫌われてるんじゃ…と誤解した(俺も去年したけどさ)一年生との間に俺が入ってたりもしてた。

 でも二ヶ月もしたらすっかり仲良くなってるから女って不思議なもんだ。

 ともかく、その時の名残りって言ったら変だけど、惰性って感じで俺の相談教室はずっと続いている。

 今、その教室を利用するのは一人だけだけどな。

「ごめんなさい、遅くなりました!」

 屋上からグラウンドの野球部を見下ろして、なんで運動部ってあんな無駄に大声出すんだろうと思った矢先、それ以上の大声が後ろの方から飛んできた。

 振り返って確認するまでも無い。この声はホームメイキング部の後輩のもの。

 後輩の浅見が、屋上の出入り口で肩で息をしていた。

「そんなに焦って来なくてもいいだろ?」

「でもこんな暑い所に先輩を待たせてしまって…」

 まあ、たしかに暑いけどさ。

 もうすぐ夏なんだから当たり前だろう。…ああ、だから野球部に熱が入ってるのか。

「ここ、風があるから全然平気だって」

 そう言っても浅見は申し訳なさそうな顔をしていて、それに微笑ましく思いながら俺は浅見を横の方に呼び寄せた。

 ――やっぱ、こいつのイメージって犬っぽいよな~。

「…それで、今日はまた何があったんだ?」

 俺が勝手にそんなイメージを抱いてることなんか知らないだろう浅見にいつものように問いかける。

 詳しく言うと何か浅見に悪いから省くけど、こいつの悩みというのは大体話せば気が軽くなる程度のものばかりだ。料理の失敗の原因がどうしてもわからないせいで悩んでた時なんか、こっちが逆に眩暈がしたくらいだったが…。

 だから今回もそんなことだと思っての軽い感じの俺の質問は、浅見の重苦しい沈黙によって弾き返された。

 じっと俺を見たかと思うと、すぐに目を逸らして、そして何かを言いたげ口をパクパク動かす。

 こいつの場合、こういう時は何かを言うまで待ったほうがいいっていうのはわかってたから、俺はぼんやりしながらそれを待っていた。

 ふと目をグラウンドの方にやって…。

 ――あ、ショート、エラーした。

「…片岡先輩っ!」

「んぁ!? あ、ああ、なに…?」

 ようやく何か言う決心がついたらしい浅見に視線を戻すと、浅見はこの三ヶ月で一番強い視線を俺に向けていた。

 その目の意味がよく分からずに、浅見の続く言葉を待っていた俺はとんでもない衝撃を味わうこととなった。


「片岡先輩、俺と付き合ってください」


 ……たった今、俺は告白をされたわけだ。

 放課後。高校の屋上。青い空。爽やかな風。絶好のシチュエーションだな。

 さて聡明な諸君なら気づいただろう。ここにいる二人の一人称は両方とも『俺』だということに。

 …ああ、紹介が遅れたな……。

 俺の名前は片岡志緒。

 そして目の前にいる後輩の名前は浅見トウイチ(漢字忘れた)。

 つまり、何が言いたいかというと……俺たちの性別は両方♂だってことだ。



「…………………………………」

 人間、感情のメーターが振り切れると無表情になるっていうのは本当らしい。今の俺のことだ。

 突然これまでにないくらいの大混乱に落とされて、俺はただただ目の前にいるガタイの良い後輩を眺めていた。

 えっと、男のこいつが、男の俺に告白するってことは…?

 ある二文字が頭に浮かぶ。現実に存在するなんて思ってなかったけど、今目の前にいるこいつがそうなわけで…。

『ここにホモがいるぞーーー!!!』

 屋上から思いっきりそう叫んで……いや待て落ち着け自分っ。

 ようやく冷静さが戻ってきて、自分の危険な行動はなんとか止めることができた。

 ――そうだ、たしか素数を数えると落ち着くって誰かが……よし。

 最初は、1……。違う、1は素数じゃないっ!

「…片岡先輩?」

「うぁっ!?」

 声をかけられて、意識が現実に引き戻された。そうだ、まだこいつがいたんだった。

「あ~………」

 だれか、教えてくれ。こういう時なんて言ったらいいんだ?

 はっきり言って…いや、はっきり言わなくても拒否の言葉しか出てこないわけだが、言葉に詰まってしまう。

 浅見は俺よりもずっと体格がいい。

 考えたくも無いが、下手なことを言ってこいつがブチ切れたりしたら、マジで俺の貞操の危機だ。

「………やっぱり、だめ…ですよね…」

 俺がどうソフトに断ろうかと思案していると、やたらでかい体を小さくさせた浅見が、うつむき加減にこれまた小さい声で呟いた。

「浅……」

「すいませんでした! 忘れて下さい!」

 グラウンドまで届くんじゃないかと思うほどの声でそう言い残して、浅見は屋上からまた走り去っていった。

 それに呆気に取られて、俺はしばらく屋上でボーっとしていた。

 ――まさか……、こんなことになるなんてな~…。

 ぼんやりと思う。

 部活内で俺以外の唯一の男子。そのせいで俺とばかり話すんだと思っていた。

 もちろん女子とも多少は話すけど、まるで運動部のような体格の浅見に、女子の方が近寄りがたく感じるらしくて結局俺にばかり話しかけていたんだ。

 それは大型犬に懐かれてる感じで悪い気はしてなかったが、あいつからしたらただ先輩を慕ってるってわけじゃなかったんだな…。

 ……なんだか裏切られたような気持ちになってきた。

 そのまま屋上でしばらく時間を費やして、ムカムカしたまま家庭科室へ向かう。

「ういーす」

 入りながら何気なく中を見回すと、案の定、そこにいたのは女子の部員たちだけだった。

「あ、片岡くん、やっと来た」

「ここのデザインってどうやるんだっけ?」

 今俺たちがやっているのは刺し子だ。

 横着しないでアイロンかけてからやったらどうかと、簡単なアドバイスをして俺も自分の作りかけを取り出す。

 浅見の奴はやっぱりサボりやがった。

 来られても対応に困るから別にいいんだけど、こう……あからさま過ぎる態度にまた腹が立ってくる。

 そんなやさぐれた気持ちでいたせいだろう、俺が今縫った箇所はものすごく曲がりくねってしまっていて。

 俺は虚しい気持ちで糸をほどくことになった。



『男から告白される』

 そんなこと以上に驚愕させられることがあるだろうか?

 …………あった。

 そうだった、なんでこんな重大なこと忘れていられたのか、自分で自分が不思議でしょうがない。

 その『現象』は浅見が部室に来なくなってから二日後、なんの前触れもなく俺に襲い掛かってきたのである。



 朝起きたら、妙に頭が重かった。昨日の夜に寝るのが少しばかり遅くなったせいもあるし、最近伸びてきてしまった髪のせいもあるんだろう。しかも今日はやたらと髪が長い気がする。

 ――そろそろ切らないとなー…。

 寝起きのぼんやりとした思考のままダイニングまで降りていく。そこにはお決まりの体勢で新聞を読む父さんとテレビを見る母さんがいた。

 俺と違って二人ともすでにピシッとした姿をしてる。共働きだしな。

「おはよ~…」

 俺が声をかけると、少し間を置いてからすごい勢いで、それも二人同時にこっちを向いてちょっとだけびびる。

「なに?」

「…あっ…、えぇ~っと……志緒…か……?」

 恐る恐るといった具合に父さんが聞いてきて俺は首をかしげた。あんたは自分の息子に対して何を言ってるんだ?

「志緒…よね? ちょっと、来なさい」

 めんどくさい、いやだ、と言いたい所だったけど、ただならぬ雰囲気をかもし出してる母さんに圧されて渋々後に従う。

 連れてこられたのは洗面台。

「一応、聞いておくけど、あんた…Hしたことある?」

 ゲホッゲホッ!

 あんまり驚いたせいで咳き込む俺。つばが気管支のほうに入ったんだ。

「朝っぱらから何言いだすん…」

「ないでしょうね」

 俺の反論を遮ってまで断定する母さん。しかもそれが真実だったりするから言い当てられても恥ずかしいのと悔しいのをどこに持って行けばいいのかわからない。

「そんなのっ、なんでわかるんだよっ!?」

 つい大きくなってしまった声で食って掛かる俺には応えずに、母さんはただ鏡を指差す。

 そっちに視線を移動させると、そこには母さんと……。

「前からあんたを知ってる人からしたら…そんなこと丸分かりよ」

 一度も見たことがない女の子が鏡の中からこっちを見ていた。


「……………………………………………………」

 開いた口がふさがらない。そして鏡の中の少女もあんぐりと口を開けてこちらを見ている。

 後ろを振り返る。…誰もいない。

「現実を見なさい。あんたは女の子になったの」

 きょろきょろしている俺に落ち着き払った無情な声がかけられた。

「なんで母さんはそんな落ち着いてんだよ? 俺、いきなり女になっちゃってたんだぞ!?」

 知識としては『15、6で性交渉未経験の男は女体化する』ということは知っている。中学の保健体育で腐るほど聞かされてたからな。

 でもそんときは『女体化する3~7日ほど前から貧血・吐き気。場合によっては骨の軋みがある』って先生言ってたじゃん!

 俺そんなの無かったし! なんだよ、あの教科書ウソじゃん!

「いいから落ち着きなさい」

 軽めに頭を叩かれてハッとした。

「だって…!」

「過ぎ去ったことをグダグダ言って、それで何かの解決になる?」

 あまりにも正論を言われて俺はぐっと言葉に詰まった。……だけど母さんがいつもニュース番組とかに言ってることを言われるなんて思ってなかったな。

 ダイニングまで戻ってくると、父さんはなんだかそわそわしていた。

「ど、どうするっ、これから?」

「何であなたが慌ててんのよ。大丈夫だから、あなたは早く仕事に行きなさい」

 そう言われてもまだぐずぐずする父さんだったけど、母さんに尻を叩かれて渋々といった感じで出かけていった。

「ま、大体の想像はつくけどね」

 ポツリと呟かれたそれに俺は首を傾げる。なんのことだ?

「あんた、そっくりなのよ。私の若いころにね。………いえ、認めるのは癪だけど私の全盛よりレベル高いわ。これでもこの地域一帯でトップクラスだった私よりも。だからあの人が志緒に見惚れるのはしょうがないってこと」

 ああ、そうか…と納得しかけて、聞き捨てならないことに気づく。

 父さんは母さんの顔がどストライクなわけで。そして今の俺がその若いころの母さんに似てるってことは……。俺ヤバくない?

 そのことを伝えると鼻で嗤われてしまった。

「昔、あの人があんまり手出してこないから、私が乗っかってって女体化を食い止めたくらいなの。だからあんたになんかしようなんて思いつきもしないでしょうね」

 何よりあの人には私がいるんだし、と最後に付け加えて言葉を締めくくる母さん。ごちそうさまでした。

 って、母さん? なんで仕事用のバッグ持ってるんだ?

「私も今日は早いのよ。しかも外せない用事だし。これ、女の子に最低限必要な物を書き出しといたから、このお金で買い揃えなさい」

 いつの間に出したのか、母さんは机の上のメモと万札の束を指差した。

「学校への連絡と制服の手配は私がしておくから。じゃあね」

 呆気に取られてるうちにもう玄関が閉まる音と、ヒールが走っていくような音が外から聞こえてきた。

 本当にぎりぎりまで俺のために時間を使ってくれてたらしい。

 本音を言えば色々付き添って欲しかったけど、それはわがままなんだろうな。

 それにこの歳なんだから、自分の買い物くらい…。

『最初に買う物、下着(ブラジャーなど) 駅ビルの下着屋が良い』

 前言撤回。

 母さん、付き添ってください。



 結局、全部の準備が終わるのに一日半を費やして、女体化二日目。

 ……ああ。買い物には一人で行ったさ。死ぬほど恥ずかしかったさ! 自分で自分を褒めてやりたかったさ!!

 もうブラジャーをしているけど、やっぱ慣れるまではきついかもな…。

 つーか母さんはけっこうな大きさなのに、むす……娘の俺がそれほどでもないってのはどういうことだ?

『うらやましいですねー、こんなに形良くて』

 下着屋の店員さんの言葉が浮かんできたけど、そんなのはセールストークだろうし。

 他の人のなんて見たことないし、未だに恥ずかしくて自分のですらまともに見れないんだから、そんな形の違いなんかわかるはずない。

 ……ま、いいか。でかいとたれるとか、肩凝るとか聞いた事あるし。

 さて、今俺が何をしているかというと登校している。

 もう夕方で、それも私服だけどな。

 なんで今この時間に学校に行くのかといえば暇だからだ。急ピッチで作られた女子の制服は夜に届くみたいだしそれまでやることが無かったからだ。

 玄関の所からこっそりとスリッパを拝借して校内に潜入。先生に見つかると面倒くさいからばれないように移動して。

 そして何人かの生徒に不審げな目を向けられながらも俺は家庭科室の前まで来た。

 もう放課後だから部のほうにだけでも報告しとこう思ってな。

 運動部の場合、女体化してしまうと目も当てられなくなることがあるけど、ここはホームメイキング部。業務に支障は一切無い。

 一度深呼吸をして扉を開ける。

「ういーす」

 声が返ってくることはなかった。ふと思い出す。今日は金曜日、うちの部活が休みの日だ。

「なんだ……無駄足だったんか…」

 校内を歩くのに気を使いすぎてたせいで一気に力が抜ける。やれやれと思って勝手に取り出した椅子に腰掛けた。

 もう用事もないんだから帰るべきなんだろうけど、帰っても暇だからな~…。

 家庭科室特有のでっかい机に突っ伏す。その時だった、教室の扉が開く音がして俺は慌てて顔を上げる。

 先生が来たのかと思ったけど、そこにいたのは違った顔。

「…ぇ……? 片岡…先輩……?」

 この部活で唯一の男子部員になってしまった奴がそこに立っていた。



 まさかこのタイミングで浅見が来るなんて思ってもみなかったからすごくびっくりした。

 いや、そんなことよりも…。

「なんで……『俺』だって、わかる?」

 ――身長は縮んで、体は華奢になってる。何より性別が違うし、顔だって……。

 昨日あの後じっくりと鏡を見てみたけど、本当に母さんに似ていて、どちらかと言えば父さん似だった男の俺の面影は全く無かった。

 そう。毎朝鏡で顔を突き合わせていた自分でさえ、そこから以前の顔と似通った部分を見つけられなかったのに…。

「なんでわかるんだ?」

 もう一度同じ質問を投げかける。だけど浅見はまた答えずに、何か困ったような感じで視線を彷徨わせる。

 それでも答えを待っていると、浅見の手に封筒のような物を発見して、俺は無言で歩み寄って油断していたらしい浅見からそれをひったくった。

『退部届け』

 その字を認めた瞬間には、封筒は真っ二つになっていた。

「ああっ!? 何すんですかっ!?」

「うっせーボケ!!!」

 無性に腹が立った。このタイミングでこんなもん用意してるってことはアレだ。

 この野郎は俺にフられたからってだけで、部活をやめようとしてるわけだ!

「そんなくだらない理由でほいほい辞めようとすんじゃねぇ!」

「くだらなくなんてないですよ」

 不意に落とされた静かな、力のある声。

 驚いた。浅見の奴、こんなにかっこいい声も出せたのか…。

「俺は本気であなたのことが好きなんです。だから、あなたが…他の誰かと付き合うことにでもなったら……、それを近くで見ていることなんか、俺は耐えられない」

 苦しげな口調で、それでもどこまでもまっすぐ俺を見つめる浅見の目。

「…なんだ? 俺が全部悪いとでも言いたいのか?」

 その目に気圧されたのを悟られたくなくて、わざと威丈高に言ってやると「そっ、そんなことないです!」とどこまでも浅見らしい情けなげな声の返事があった。

 そのことに不思議な感情を抱きながら、俺は言い聞かせるような口調で話しかける。

「あのな、俺はもう女になってるんだぞ? おまえが好きだって言ったときの男の俺じゃないんだ」

 浅見よ、こう言っちゃなんだが、おまえは『ホモ』だろ? だったら女になった俺に興味なんかないだろうから、別に部活にいたままだっていいじゃないか。

 そのことを浅見に伝えると、浅見はなんともいえない顔になった。

 なんだかんだ言って、俺は浅見と同じ部活でいたかった。それも今まで同じような関係のままで。

 もし俺が男のままだったらこんな願いは叶わなかっただろうけど、女になったんだからそれも可能だろうと思ったんだ。

 ――というか、女になったら今までの関係が変わらない、って……、普通逆だよな?

 そんな感じで俺は油断してたんだ。浅見は男にしか興味が無い、と勝手に思い込んで目の前の後輩に無防備な姿を晒していた。

 微妙な表情で俺を見ていた浅見が急に動き出す。乱暴に肩を掴まれて少し痛かった。

 そのことを非難しようと見上げたその瞬間だった。

「――――っ!?」

 俺は浅見にキスされてしまっていた。


 あまりのことに思考が完全に停止する。

 文字通り息が触れ合う距離にある浅見の顔のアップがある。

 真っ白な頭で、それだけを認識した瞬間、手が握りこぶしを形作る。だけどそれを動かす前に浅見は体を離した。

 それでも追いかけてこぶしを突き出す。よけられた。このやろう。

「浅見」

 女になって高くなってしまった声なのに、俺の今の声はとても低い。二回り以上も大きな体をしている後輩はビクリと動きを止めた。

「そこに座れ」

 そして俺の命令に従順に聞いて、俺が指差した椅子におどおどと腰掛ける。俺はその前に仁王立ちになった。

「おまえ、今、誰に、何をしたのか言ってみろ」

 俺は今、浅見の襟首を引っつかんだまま、その顔をボコボコにしてやりたい衝動に駆られている。けれどもそれを押し込めて、俺は努めて冷静に浅見に問いかけた。

「片岡先輩に……キス、しました」

「ちゃんとわかってるみたいだな。じゃあ、次だ。なんでこんなことをした?」

 続けて訊くと浅見は自分の手を額にやって考えるようなポーズをとる。余裕こいてるように見えるけど、これは浅見が本気で困ってる時の癖だ。

「したかったからです……」

『したかったからした』。まるで小学生のような理由説明を怒鳴りつけたくなったが、それも俺は我慢した。

「そうか。じゃ、最後に訊いておくが…、俺は同意したか?」

「あ、あの……」

「俺は、していいと、同意していたか?」

「してません…」

 いちいち言葉を区切って問いかけると浅見はしゅんと項垂れた。まるっきり叱られた犬状態だ。

「ほんとに……すいませんでした…」

 項垂れたまま心底申し訳ないって感じの声。俺はそれに溜息をついた。

「本当に悪いと思ってるんだったら、そんな態度で良いと思ってんのか?」

 そう言った瞬間、浅見が立ち上がって俺の目をじっと見る。俺よりもずっと高い背で見下ろされるのはけっこうな迫力があったりするけど…。

「すいませんでした!」

 予想通り浅見はそこから頭を下げた。危うく頭突きが当たりそうだった。

「………よし。今回は許してやる」

 え、と浅見は顔を上げる。こんなに簡単に許してもらえるなんて思ってなかったんだろう。

 そして目が合った浅見に笑いかけてやる。

 キス自体には意外なほど嫌悪を感じなかった。けれど人の気持ちを無視してそういうことをしたのに、とてつもなく腹が立った。

 でもこいつはそのことをちゃんと本気で謝っている。

『本当に悪いと思ってるんだったら、目を見て謝るのがスジってもんだろ?』

 どんな話の流れだったか忘れたけど、前、浅見の相談に乗っている時に俺はそう言ってやった。そして今、こいつはちゃんとそれを守っていた。

 妙に、気分が良かった。

 なぜか、と自問しても答えは見つからなかったけども。



 次の日の土曜日、俺は女子の制服を身につけて登校した。

 スカートなんて俺には似合わない、無理だ思っていたんだが、その姿は我ながら元男とは思えないほどの完璧さで、鏡を見て溜息をつきたくなった。

 あれだな、自分の姿にはどうあっても興奮とか出来ないようになってるもんなんだな。いや、ただ単に母さんっぽい顔のせいか?

 もちろんクラスではかなり騒がれることになった。主に男子から。

 …ま、それはしょうがない。いきなりこんな美人(両親談)が教室に現れたら、そりゃ健全な男なら興奮もするだろう。

 が、ある程度までは我慢してやっていた俺の寛大な心を踏みにじるようなセリフが飛んできた。

「お、おれと付き合ってくださいっ!」

「何言ってんだよ、おまえー!? と言いつつ俺も立候補!」

 ふざけ半分の禁句たちは、俺の怒りメーターを振り切れさせるのに充分だった。

「は?」

 完全に据わった目と全く温度を含まないそのたった一文字で、アホな男どもは一発で黙ってしまった。

 これぞ母さん直伝の氷の眼差し。かつて学生だった母さんもこうやってアホどもをあしらっていたそうだ。話半分に聞いていたけど実際にここまで効果があるとはな……。

「かっこい~……」

 さて、女子の皆さん? どうして男の時じゃなくて女になった俺にそんな悩ましげな溜息を吐くんでしょうか?



 半日で終わったクラスの様子はこんな感じだった。楽観的というか、軽いノリの奴らばっかりだからな。俺が女体化してしまったために、クラスの男子がアホだけになってしまったのが悔やまれる。

 それはともかく俺は家庭科室に向かっている。部活に出るためだ。

 土曜日は本格的な活動はなしで適当なミーティングだけが行われる。俺の身の上を報告するにはちょうどいいだろう。

 そう思ってるうちに家庭科室の前に到着。

 ……昨日、ここで起こったことはもちろん覚えている。

 あの後、ポカンとしたままの浅見に、部活を辞めるのは禁止、ちゃんと部活に出て来いとだけ言い聞かせて帰ってしまったんだけど……。

 ――どうなってるかな~…?

 …考えてもしょうがない。

「うい~っす」

 扉を開けて、おなじみの声とともに中に入ると、一気に部員の皆さんの視線が俺一人に注がれる。

 ここでうちの部活の女子に備わっている性格を思い出した。

『人見知り』

 いきなり知らない女子が堂々と入ってきたら硬直するのも納得だ。だけど納得していない自分も同時に存在する

 ――…誰か一人くらい気づけよ……。

 授業が半日だったせいで学校中に噂は行かなかったらしいし、同じクラスの奴もいない。

 だけど、俺はいつも通りの登場をしただろ? それに、女体化する奴は月に一人二人くらいいるんだから、もしかしたら……って誰か思わないのかよ…?

 俺対女子部員で溝が出来そうな、そんな空気の中、俺がたった今入ってきた扉がまた開かれた。

「あ…、早いですね」

「んなの、あたりまえだ」

 気の抜けた浅見の声に答えてやる。よし、いつもの浅見に戻ってるな。

 そのやり取りを見て、部長が浅見にこそこそ話しかける。

「あのさ、浅見くん。この子が誰か知ってるの?」

「何言ってるんですか。片岡先輩ですよ」

『えええっ!?』

 そこ、ハモるな。

 こともなげに浅見が言った真実は、女子部員を驚愕の渦に巻き込んだらしかった。女の子たちは遠慮という言葉があるのを忘れたようで、俺の方をすごいじろじろと見てくる。

 ――やっぱり、誰一人わかってなかったのか…。

 肩を落としそうになって、あることにハタと気づく。

「ほほほほんとうに、片岡くんなの?」

 いや、信じられないのはわかるけど、そこまでどもるのはおかしいぞ、部長。

「そうっすよ。片岡志緒、三日前までは男でした」

 ある種の開き直りでそう言ってやると、あからさまにほっと胸を撫で下ろす女子部員一同。

「よかった~。片岡先輩だったのか~」

「なんだか怖い女の先輩が来たのかと思った」

 などなど。やはり俺の外見は美人だけどきつめの印象を与えてしまうらしい。女の子たちは、その怖い女が俺だと分かれば、別に人見知りをすることもなく普通に接してくれた。

 その中で、俺が女体化したことに対して根掘り葉掘り訊いてこないことに、やっぱりいい人の集まりだな~、と俺は再確認させられた。

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最終更新:2008年06月14日 22:16
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