『犬のてのひら』(2)

 ミーティングはものの三十分で終わった。

 内容はと言えば、九月にある文化祭で何をするか? 特に目新しい意見が出ることもなく、今作ってくる刺し子の展示と、例年通りに何か食べ物を作って売ることになった。

 何を作るのかまではまだ決めてないけど、この感じだと去年みたいにお菓子系になるだろう。

 大まかな方向性が決まったということで今日は解散。

 女の子たちは帰ったり、これから遊びに行ったりするらしくさっさと家庭科室から出て行った。

 俺も腹が減ってたし、その波に乗って行きたかったんだけど、それをぐっと堪えて浅見を呼び止めた。

「はい?」

「昨日、二つほど聞き忘れてたことがまだあった」

 そう切り出すと浅見が首を傾げる。俺は周りに誰もいないのを確認してから、気になっていたことをぶつけてみた。

「おまえって……ホモじゃなかったのか?」

 ガタン! 浅見が思いっきりずっこけた音だ。ここまで動揺するってことは……?

「違っ……いや、結果的にそうなりますけど違います!」

 俺が勘ぐっていると、必死な声での否定が飛んできた。

「じゃあ、違わないってことになるんじゃないのか?」

 少しだけ意地悪で追い詰めるようなことを言ってやる。いきなりキスなんかしてきたんだからこれくらいの報復くらいしたっていいだろ?

「…結果的にはそうかもしれませんけど、俺が好きになのは片岡先輩だけです」

 他の奴らなんてどうでもいいです、とまっすぐ俺を見て続けられて、ドクンと心臓が跳ね上がった。  いきなりなそれに驚いて俺は咳き込んだ。やべ、不整脈か? 

「どうしたんですか?」

 あんなこと言ったくせに涼しい顔をした浅見が訊いてきて、なんだかむかついてくる。

「うるさい。……それはそうと、なんで昨日俺にあんなことした?」

 昨日と同じ質問をする。一応答えも聞いてはいるが、あんなんで許されるのはそれこそ小学校低学年までだ。

「それは………」

 同じ説明は許さないとも言ったせいか浅見は思いっきり言いよどんで、そして何か考えているのだろう、遠い目をしたまま固まってしまった。

 それを間近で眺めながら、俺のほうもぼんやりとここ数日間のことを思い返す。

 なんでかわからないけどこいつがいきなり告白してきて…、そして男だった俺はそれをもちろん断った。

 んで、その二日後、俺は女になってしまった。もちろん以前の俺の面影なんかまったくない。

 ………でも、こいつは…、どっちの俺でも変わらずに好きでいてくれてるって事なんだよな…。

 そんなふうにボーっとしていたせいで、なんとなく思いついた言葉がするりと口から出てしまった。正気じゃなかったんだ。普通なら思いもつかない、思いついたとしてもその瞬間には打ち消すような言葉だ。

 俺の名誉のためにもう一度言う。

 俺はこのとき断じて正気ではなかった。

「じゃあ…もう一回してみるか?」  浅見が目を見開いて絶句したまま固まる。

 その有り様を見た瞬間、自分の言ったことに気づいてものすごい後悔に襲われた。

「すまん、悪かった。いまのは忘れ――――ッ!?」

 それ以上の言葉は紡げなかった。

 ――な、に…!?

 少しの間訳が分からなくて、でもすぐに浅見に抱きしめられてるんだとわかって、そこから抜け出そうと体を捩じらせる。

 だけど、ただでさえ浅見は力が強いうえに俺は女になってしまったんだからまったく相手にならない。

「浅見っ!」

 いいかげん放せという意味合いを含めて、咎めるように名前を呼んでも、その手は放すどころかますます力を込めて俺をぎゅっと閉じ込める。

 それを嫌じゃないと思ってしまうのが、すこく嫌で…俺はますます抵抗を強める。

「放せ、って。――――ぁんっ!?」

 なのに、また俺は唇を奪われていた。

 体から力が抜けていく…。どうして、唇を重ねられているだけなのに……こんなふうになってしまうんだ…俺?

 だけど今回は前とは違った。

「ん~~~~~っっ!!!」

 かすかに開いてしまっていた俺の口にヌルリとした何かが入り込んできた。

 口はぴったりとくっつけられてるから、必然的にその正体は浅見の舌ってことになる。

 ドンドンと不自由な腕で浅見の胸を叩いても、放してくれないまま傍若無人に口の中をかき混ぜられる。

 縮こまってしまっていた俺の舌を、上顎を、くすぐられるように刺激されて、ぞくぞくとしたものが体を駆け抜ける。

 ぴちゃ…と小さな水音が部屋に響く。  頭のどこかで、こんな学校で何をやっているんだと、冷静な声が聞こえたけど…。頭がぼうっとしてきて、俺はもう抵抗することも忘れてしまっていた。

「はっ…ぁ……あ…」

 ようやく口を放されて俺は荒い息をつく。いつのまにか浅見の手は俺の背中を抱きしめているのではなく、後頭部に回されていた。

 なのに俺の手は浅見の制服にすがりつくようになってしまっていて…、でもなかなか手を外すことができない。

「すいませんでした。大丈夫ですか?」

 先に謝られてしまって怒るタイミングがなくなってしまった。

「…いや、俺が、言い出したことだし……」

 ごにょごにょと我ながら歯切れの悪い返答だと思う。

 目を合わせられずにいるこの状況の居心地が悪くて、思いついたことが口から出てきた。

「おまえ、なんであんなに……っ」

 言いかけて言葉を切る。自分がどれだけ恥ずかしいセリフを言いそうになっていたのか気づいたんだ。

『なんであんなにキスが上手いんだ?』

 そんなこと聞けるはずがない。

 聞いてしまったら、こいつとのキスが気持ちよかったと、まるっきり自分からばらしているようなものだ。

「あんなに……何ですか?」

 きょとんとして首を傾げる浅見が少し憎くなった。なんでこいつはあんなことした後に、こんないつも通りでいられるんだっ。

「なんでも、ない」

 悔しくて、不機嫌な顔を作ってそっぽを向く。

 元はと言えば、今の出来事は、浅見がなんで昨日いきなりキスしてきたのかを確かめるためだった。 

 それなのに…『やっぱり浅見とのキスに嫌悪感を覚えていない』と、自分が再確認させられるという結果だけが俺の中に残った。

 なんで嫌じゃないか、なんて答えはもちろん出るはずもなく、俺は目の前にいる後輩を無意味に殴っておくことした。



 それから、特に変わったことは起きずに日々は流れていった。

 クラスメイトたちも俺が女になったことに意外とすぐ慣れたようだし、部活の女の子たちも俺が女として来たその日には受け入れてくれた。

 曰く『中身が片岡先輩だったら全然怖くないですよ』らしい。

 果たしてうちの女子は単純なのか神経質なのか…?

 そういえば文化祭で出す食べ物も決定した。プレーンとチョコの二種類のカップケーキとクッキーだそうだ。クッキーの方はラッピングも凝るようだ。

 ショートケーキも作りたいって意見もあったけど、コストがかかることと、生クリームは食中毒の危険性があるってことで無しになった。………ちっ。

 で、展示するって事になってる刺し子の方は各自家で仕上げてくるってことになった。

 どうして部室でやらずに各自でかというと、今はもう夏休みだからだ。

「あ、また縫い目粗くなってきてる」

 後ろから肩越しに覗きこみながら指摘してやると、ちくちくと細かく動いていた大きな手がぴたりと止まった。

「片岡先輩…」

 何か疲れたような感じで浅見が振り返ってきたけど、俺はそれがわかってないフリをしてやった。

「なんだ?」

「あの、どうしてここのところ毎日俺んちに来てるんですか?」

 浅見の言葉の通り、俺は浅見の家に来ている。それも浅見の部屋だ。

「それ、昨日も答えただろ? 『夏休みだけど、遊ぶ相手もいなくて暇だからここに来た』って」

 昨日とまったく同じことを言ってやると、何も言い返せなくなったのか浅見は黙り込んだ。そんなふうに黙り込まれたって、その説明で過不足ないんだからしょうがないだろ。

 でも、実際はそれだけじゃない。

 女になって日が浅い俺はまだグループというものに上手く溶け込めてなかった。

 それに俺が女になったことで今まで遊んでいたような男連中はみんな、俺のことを女として見てくる。

 しょうがないって頭ではわかってるんだけど、どうしようもなくそれが不快で…。だけど浅見相手にはそんなことを感じなくて。

 だから俺は浅見の所に入り浸ってるのかもしれない。

「ほら、手止まってるぞ」

 いまだだんまりとしている浅見に注意すると、一応手だけは動き出す。それでも何かを考え込んでいるかのような浅見の顔は固定されたままだった。

 浅見がちくちくやってるうちは俺は浅見のベッドでごろごろしたり漫画を読んだりしてる。ここ数日間で、そんなふうに浅見の部屋で過ごすことが普通になりつつあった。



 ギシ…、とベッドが軋む音と、微妙に身体が沈んだことで俺は目を覚ました。…って、俺寝てたのか?

 意識は覚醒して起きたといっても目が開けられないくらいにまだ眠い。昨日の夜遅くまで掘り出してきた昔の本を読んでたせいだろうな。

 何が現実なのかもわからない夢うつつの状態で俺は、奇妙なほどに安心できる匂いのする場所でもう一度意識を手放そうとしていた。

「片岡、先輩……?」

 だけどそれはできなかった。

 浅見に、とても近くから名前を呼ばれたからだ。…あ、そうか。ここって浅見の家だっけ。

 反応したいのに、頭は起きてても身体がまだ寝てる、俗に言う金縛り状態で俺は何かを言ったりしたりすることもできずに、そのままねっころがっていた。

 そうしているとたぶん浅見の手が俺の頬を撫でるように触っていった。ここら辺で身体の方も覚醒してきてたし、すぐにやめさせることもできたんだけど、すごく心地いいそれを止めることができなくて、寝ているフリを続行する俺。

 触られているうちに目をつぶっているからこそわかる新しい発見があった。見た目がかなりごつい浅見の手だけど、意外というのかけっこう柔らかい。運動部じゃないんだから当たり前かもしれないけど。

 あ、今度は髪いじり始めやがった。

 頭の表面を指先でくすぐられるようにされて、こう、もぞもぞと落ち着かない気分になってくる。

 同じところを何度も何度も往復して、そのもぞもぞした感じが、何か、別のものに変わっていく気がしてきた。

 ――つーか、触り方がなんか…。

 エロい。

 いや、経験無いから実際のところどうかはわかんないけどさ(あったら俺は女になってない)。頭を撫でてるだけだし。

 だけど同時に、まるで大事なものを扱うかのような浅見の手の動きは嫌ではない。でも俺は妙に腑に落ちないものも感じていた。

 ――いやちょっと待て。それ以前に、なんで俺が浅見にされるがままでいなきゃいけないんだ?

 自分で寝たフリをしていようとちょっと前に決めたくせに、そんなことはすっかり忘れて、浅見に文句を言ってやろうと何の拍子もなく上半身を跳ね上げ…。

――――ゴッ!――――

 鈍い音が響いて、額に衝撃が走った。

『……い……ったぁ~!!』

 高い声と低い声の悲鳴が重なった。

 起き上がろうとした俺はベッドに逆戻り。そこで額を押さえてごろごろとのたうちまわったことになった。

「~~~~っ!」

 おでこのど真ん中がずきずきと鈍い痛みを訴えてくる。なんの助けにもならないとわかってるのに言葉にならない言葉が口から出てきて、あまりの痛みに涙まで滲んできた。

 それでもようやく少しマシになってきて、涙目のままうっすらと目を開けると浅見は床に転がって悶絶していた。

「浅見」

 呼ぶとなぜか浅見はギクリといった感じで動きを止めた。

「な、なんですか?」

 どうしてどもってるのかちっともわからないが、俺と同じように額を押さえてる後輩に俺は頭を下げた。

「ごめんな。いきなり頭突きかましたりして」

「い、いえ、俺の方こそ…………あの、冷やすもん持ってきます!」

 ――俺の方こそ?

 引っかかる言葉に眉を寄せたときには浅見は部屋から飛び出すようにしていなくなっていた。ダダダ、と階段を駆け下りる音が聞こえてくる。

 まあ、いいか。戻ってきたら問い詰めてやろう

 ………………………って、ちょっと待て?

 俺が寝ているうちに髪とかを触ってたのは嫌じゃなかったわけだし別にいい。

 だけど『俺が身体を起こしたら頭突きになる距離』でそういうことをいたって事になるわけだよな?

 ここで問題だ。眠っている女(俺)のちょっと上で、女に顔を近づけている男(浅見)。

 さてこの後に男が取りうる行動といえば? そんなのは簡単だ。

「持ってきました……って、せんぱ……い?」

 両手にアイスノンを持って戻ってきた浅見が呑気な声をかけてきて、それに俺は冷たい眼差しでもって応えてやった。

「あの、片岡先ぱ…?」

「ちょっとそこに座れ」

 いつぞやの家庭科室の時と同じように命令すると、浅見は叱られた大型犬のようになって従順に俺が指した所に正座する。

「おまえはあれだな? 俺が言ったこと全然守る気がないってことだな?」

「あの…何を、ですか?」

 わかってないのにこいつは正座してるのか?

「起きてた」

 文字にして、たったの四文字。だけど俺の短い言葉は浅見の動きを一瞬にして凍らせてみせた。

 何かを言いたげに口を開いて、でも何も言わずに浅見は俯く。

 しゅん…と見えない犬耳が哀しげに垂れるのが見えた気がするが、こいつに犬耳なんかちっとも似合わな……いや、そうじゃなくてっ。

 あろうことか、こいつは俺の寝込みを襲うという狼藉を働こうとしていたわけだ!

 ムカムカと不思議なほどに腹が立ってくる。

「え~っと? 一回目は不意打ちで二回目は俺の油断してる時で? それで今度は寝込みを狙うって……どういうつもりだよ?」

 わざと今までのことも当てこすって嫌みったらしく言ってやる。……じっと下を見たまま浅見に反応は無い。

「おい、なんか言えよ」

 今度は普通の調子で話しかける。やっぱり浅見の反応はない。

 居心地の悪い思い空気が流れる。つか、どうして俺がこんなことを思わなきゃ…。

「先輩………って」

 ボソッとした声が聞こえてきた。

「ああ?」

「片岡先輩、もううちに来ないでくれませんか?」

 目を逸らされたままの言葉に、殴られたような気分になった。

「……は? なんで、おまえにそんな、こと…」

 こんなにショックを受けている自分が不思議だった。そんなのを認めたくなくて反論したけど、声が震えてしまっていて内心で舌打ちをする。

「先輩は」

 俺の中で色んな葛藤が渦巻いているのなんかわかっていないのか、浅見は淡々と言葉を続けた。

「俺のことを見くびってます」

 普段は聞かない単語に一瞬反応が遅れる。

 ――俺が、浅見を見くびってる?

「俺は男です。すぐ近くで、しかも自分の部屋で、好きな人が無防備に寝てて……。それで手を出さないでいられるほど、自制心も強くない」

 浅見が顔を上げる。その表情は苦々しいもので……。そして俺と目が合うや否やまた目は伏せられた。

 言われて初めて、俺がどれだけ浅見に酷な状況を強いていたのか少しだけ理解できた。

「だから、もうここに来ないでく……」

「うっせーボケ!!!」

 俯いたままくだらないことを吐き続けるアホの頭を思いっきりはたいてやった。こっちの手まで痛くなったじゃないかっ。

「~~~っ! 何すんですかっ!!?」

「うるさいっ、俺が言いたいのはそういうことじゃねえ!!」

 さっきも言ってやったけど、まともにやってきたことなんて一度たりともない。

 二回目の時は俺から言い出したことだけど、それを否定してる時にいきなりしてきたんだからやっぱりまともとは言い難い。

 つまり何を言いたいかと言えば、こいつは俺の意見を聞いた事が一度もない。

 普段こそ、やたらと低姿勢で……、俺が言うことをハイハイと聞いていて……。

 そのくせに、こういうときになったら、やたらと強気というか……、俺の意志なんか無視してるみたいに、俺の内面なんかどうでもいいみたいにされて。

 それが、たまらなく嫌なんだ。

「じゃあ…ちゃ……んだら、させてくれたって言うんですか?」

 少しの間、ぼうっとしてしまっていたらしい。

「あ、ああ」

 浅見の質問が飛んできて、はっとさせられた俺は、よく聞こえてなかったくせにその浅見の尻上がりの声に頷いた。

「本気、ですか?」

 すっ、と浅見の雰囲気が変わる。

 ――え…?

 さっきまでは気の小さい大型犬だったくせに……、今はまったく違う印象のする後輩に意識せずに身体が後ずさった。

「片岡先輩」

「な、なんだよっ!?」

 浅見が怖いと感じたのは、初めてだった。浅見から発せられてる妙な迫力に圧されて、でも精一杯の虚勢を張って聞き返す。

「キス、させてください」

 浅見らしからぬ強い視線と、信じられない内容のセリフ。

 驚きすぎて何も言えなかった。いつぞや浅見に告白された時とちょうど同じように俺は固まってしまっていた。

 けど、浅見の方は前と同じではなかった。

 いきなり正座を解いて立ち上がったかと思えば、俺の肩を無言で押す。

「ぅわっ!?」

 ベッドの近くギリギリに立って浅見のことを見下ろしていた俺は、ベッドの縁に足を取られて仰向けに倒れこんだ。

「なにす…!」

 言いかけた声はそこで途切れる。浅見が俺の上に覆いかぶさってきたからだ。

「な、なんだよ…?」

 声が震えているのがわかってしまった。

 ――こわい……。

 無表情の浅見の顔がすごい近くにある。その両目はじっと俺の目を捉えていて、なぜか逸らすことさえできなかった。

「先輩、今自分で言いましたよね」

 至近距離での浅見の言葉が何を指しているのかわからない。俺が言ったこと?

「ちゃんと頼んだらキスしてもいいんでしょう?」

 浅見らしくない嘲るような口調にカッと血が頭に上る。

 ――誰がそんな尻軽みたいなことを言ったんだ!?

「あのな……」

 意味がわからないことばかり言ってくる浅見に説教の一つでもかましてやろうと口を開く。そして、また言葉が途切れた。

 今度は違う理由で…。

「やっ……んぅ…っ…!」

 浅見の顔が近づいたと思ったら、いきなり口の中に一度だけ経験のある感触が忍び込んできた。

 わけがわからなくて、ろくな抵抗すらできなかった。

 それをいいことに、浅見の舌が…、俺の口の中の色んなところを探っていく。

 ぴちゃ…といやらしい音が響いて、体温が一気に上がった。

「~~~~~っっ!!!」

 浅見の身体を押し返そうと、力の入らない腕でどんどんと浅見の胸を叩く。

 何がどうねじれて伝わってしまったのか…。無理やり浅見にこんなことをされているこの状況は――――また俺の意思を無視されていて…嫌なのに……。

「ふ…ぁ……んっ……」

 …嫌なはずなのに、どうして俺は本気で抵抗できないんだ…?

 浅見に手は、ぎゅっと握られたまま俺の顔の横に置かれている。手は自由だから、その気になれば指で喉を思いっきり押したりとか、もっと簡単に舌を噛むとか……できるはずなのに……。

 不意に浅見の腕が動いて、無意識に身体がビクリと震える。

 そして口がくっついたまま、俺は浅見のでかい手に耳を塞がれていた。

――――くちゅ……ちゅ…――――

「ぁ……!?」

 頭の中に音が反響して、頭が煮えそうに……どうにかなりそうで…っ。

「あ……むぅ…!」

 舌の動きが更に激しくなる。

 こくん…と流れ込んできた浅見の唾液が飲み込んでしまった途端に、身体の中がかっと熱くなった。

「ぁ、あっ? やぁぁ…!」

 ぞくぞくと腰から背中にかけて何かが駆け抜けて、勝手に軽く身体が跳ねてしまった。思わず大きな声を出してしまったのに、重なっている口の端からは少ししか聞こえない。

 ちゅ…と最後に俺の唇を吸って、ようやく浅見は口を離した。

 それにさえ、身体が震えた。どんな理由でか、は……ちっともわからない。

「…片岡先輩、大丈夫ですか?」

 浅見は身体を起こして、ベッドから降りた。

 俺は息を整えるので精一杯なのに、浅見は普通な感じで訊いてきて……、でもそれに答えることも出来ずに俺は手で目を隠した。

「先輩ってキスが好きなんですね」

「な…っ!?」

 聞き捨てならないセリフに俺は飛び起きた。何をもってそんなことを言い出すんだこの野郎はっ!

 浅見はベッドの近くに立っていて、ベッドの上で身体を起こしているだけの俺は見下ろされる形になっている。

 気に食わなくて、俺も立ち上がろうとして…、でも俺はそこで固まってしまった。

 身体に力が入らなかったんだ。初めてだからわからないけど、これが『腰が抜けた』ってやつなのか?

 いや、本当の理由はそうじゃない。

 さっき俺が思ってたことはまったく外れてたのかもしれん。

「おまっ、なん……勃って……!?」

 不意打ちで見てしまったから、思いっきり動揺して声が上擦ってしまった。

「興奮するなって言う方が無理です」

 勃たせたままでいるくせに堂々と浅見は告げた。

「好きな人にこんなことして、冷静でいられるわけありません」

 言葉とは裏腹に淡々とした浅見の言葉。けどよく見れば、浅見の手は、ぐっと握られたまま震えている。

「……………………」

 何も、言えなかった。ただ足元から言いようのない感情が湧き上がってくる。

『こわい』と…。

 どこからその恐怖が出てくるのか、見当もつかない。浅見が怖いのか…、それとも……。

 色んなことが頭を回る。……このままここにいることが……俺はできなかった。

「……帰る」

 俺の一言だけの言葉に、浅見は何の反応もしなかった。

 浅見の横をすり抜けて、部屋のドアノブに手をかけて……。部屋から出て、そして扉を閉じても、浅見の声は俺にかけられることはなかった……。



 何も考えないように、わざと走り続けて自分の家まで帰ってきたのは覚えてる。

 だけどどこをどう帰ってきたかの記憶は無くて、気づけば自分の部屋の床に俺はへたりこんでいた。

 酷使した足がすごくだるい。心臓の方もバクバクと酸素を送るのに必死になってる。

 それでも時間が経つとともに、過呼吸になりそうなほどだった息遣いは、徐々に収まってきてしまった。

 身体が落ち着いてきて頭の方も冷静になってくる……。でも何も考えたくなくて、俺は冷房をかけて自分のベッドで頭から掛け布団をかぶった。

 ――…なんなんだよっ?

 頭が痛い。

 何も考えたくないのに、ぐるぐると同じことばかり頭の中を駆け巡っている。

 なんで、浅見の家で怖いと思ったのかの答えが、冷静になってくるにつれて、勝手に生まれてきてしまった。

 浅見は、本気で俺のことをそういう対象として見ている。

 あの、強く握りしめられたまま震えていた浅見の手が、それを物語ってた。

 まだ浅見は自分を抑えてたみたいだけど、もし浅見が本気でキレたら……と考えたら、怖くて仕方なかった。

 …………でも、それ以上に怖かったのは、俺自身に対してだった。

 あんな風に倒されて、覆いかぶさってきて、それで『また』俺の意思なんか無視しての浅見の行為だったのに……。

 ――なんでっ、俺は…っ。

 思い出しただけで身体が熱くなって、また冷静でいられなくなってくる。

 あの時、俺は本気で嫌がってなかったんだ。

 もう少し長く浅見にキスされていたら、俺は……たぶん浅見にすがりついてしまっていたと思う。

 キスが終わった直後に『もっと』と言いそうになって、自分が信じられなかった。

 今まで抵抗できない理由はおどろいたからだと、納得させてきたのに……それは違ってた。俺は、抵抗できなかったんじゃなくて、抵抗しなかったんだ……。

 それに気づいてしまって、自分が自分じゃなくなるような恐怖が一気に襲ってきた。

 女になっても俺は俺だと思っていたのに、それが足元から崩されて……どこまでも怖くなったんだ。

「………………っ」

 冷房が効いてきて、掛け布団の中も少しずつ涼しくなってくる。けれど、俺の頭はちっとも冷めない。

 俺は、いつまでも冷めない身体を持て余していた……。



 誰かが帰ってくる気配があって、俺は布団から這い出した。

 結局自分の中で何も解決しないまま。意識を失いたいこういうときに限って、眠気は一向に訪れてくれなくて、俺は今までずっとベッドで悶々としていた。

「あ、志緒居たの? ただいま」

 リビングに行くと、そこには母さんがいた。時計を見ればまだ六時前で、いつも母さんが帰ってくる時間にはまだかなり早い。

「おかえり。……今日は妙に早いね」

「ああ、言ってなかったわね。今日は結婚記念日でね、あの人と半日休暇で映画を見に行ってたのよ」

 だけど途中で父さんは予期せぬ会社からの呼び出しを食らったせいで、母さんだけ早く帰ってきたそうだ。

「ま、それだけあの人が頼りにされてる証拠ってことなんだけどね。それはそうと、なんであんたはそんなに酷い顔してるの?」

 母さんの言葉にバッと手を顔にやると、おかしそうに母さんが言葉を続ける。

「嘘、よ。顔はそんなに変わってないわ。……でも、そうね、雰囲気がちょっとおかしいわ」

 そう言ってくれたけど、鋭い母さんのことだから俺が何も言わなくても、ある程度わかってるんだと思う。

「……あのさ」

 こんなことを訊くのはかなり恥ずかしい。自分がどれだけ情けないかを自分から話すんだから。

 でも女になって一月ちょっとの俺がずっと一人で悩んでいるより、生まれた時から女をしてる母さんに相談するのが一番いい気がしたんだ。

「無理やりキスされたのに……それでも嫌じゃないって、どうしてだと思う?」

 だけど口にしてから思いっきり後悔した。もうちょっとマシな言い方は無かったのかと、我ながら愕然とする。

 ――これじゃあ、浅見にされたことまんまじゃないかっ!

 俺の質問に母さんは目を丸くして、そしてわざとらしく「あらまあ」と言ってから綺麗な笑みを浮かべた。

「ふ~ん?」

 そのくせからかうような声を出されて、かなり居たたまれなくなってくる。

「ちょっと想像すれば、簡単なことで答えは出るんじゃない?」

 事も無げに言われて顔を上げると、今度はいたずらっぽく微笑む母さんの顔があった。似たような顔になってしまった俺だけど、こんなふうに笑うことなんて出来ない。

「例えば、違う人に同じことをされたらどう感じるか…って想像してみた? 一回でも経験したんなら、リアルに想像できるでしょ?」

 もしそれで想像した場合が嫌なものだったら、ってことらしいけど、そんなこと言われてもなぁ……。

「それだけで、本当に答えが出るわけ?」

「まさか!」

 どっちなんだ?

「でもま、自分の感情がどっちに向いてるかの道しるべくらいにはなると思うわね。あんたは変な所で疎かったりするんだから、いきなり答えを探すなんて無理なのよ」

 だからゆっくりと外堀から埋めていくくらいの気持ちで考えなさいとだけ教えられた。

「さて、もうめんどくさいから店屋物にでもしましょうか」

 もう母さんの中では話は終わってしまったらしい。

 頼む物を決めて、注文して、そして食べてる時もぼんやりと何かを考えてる俺に母さんは何も言ってこなかった。

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最終更新:2008年06月14日 22:18
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