『犬のてのひら』(4)

「はあ……」

 ――あ……また。

 今日何回目――いや何十回目かの溜息が漏れてしまって、その息を取り戻すように思いっきり息を吸い込む。

 そして緊張を解すために体操を……って、だめだ。俺、相当テンパってる。

 ――昨日、ここに来る時はまるで意識してなかったのに…っ。

 俺が何にこんな緊張してるかといえば、その理由は今俺の目の前にある『突起物』。この、浅見んちのインターフォンを押せなくてさっきから右往左往してる俺は、はたから見たらかなりの不審者かもしれない。

 わかってるのに、今までみたくこれを押して浅見を呼び出すことがためらわれてしまう。

『だから、ここに来ないでください』

 途中で俺が遮ってしまったけど、浅見は昨日俺に、確かにそう言った。

 もうこの家に来るな、と。……だから昨日、俺が帰ろうとしたときに浅見は引き止めなかった。

 それなのに俺は今日もここに来ている。

 ここに来ることを決めたのは自分のくせに、さっさと逃げ帰ってしまいそうな自分も確かに存在する。

 …こわい、のかもしれない。

 今までずっと浅見は好意的な目しか俺に向けていなかったから。

 もしも浅見に会って『なんで来たんだ』と言われたら……、そうでなくても疎ましげな視線を向けられたら、と想像しただけで寒気のようなものに襲われる。

 そうやって怖がってるくせに、俺は……。

「あ~っ、くそっ!」

 自分の思考が気に食わなくて、目の前の壁に八つ当たりで手を叩きつける。

――――ピ~ンポ~ン――――

「…………あ…?」

 恐る恐るどけられる右手。姿を見せるインターフォン。

『…はい』

 インターフォンから響く浅見の声。

「え、ぁ、う……」

 自分で自分に不意打ちを仕掛けたうえそれに思いっきり引っかかって、俺は人に見せられないほど動揺していただろう。 『? どなたですか?』

「あ、俺……だけど」

 その挙句、訝しげな浅見の声に名乗りもしない短い返事をすることしかできなかった。

 今のでもたぶん俺だっていうことは浅見はわかってくれたと思う。だけどインターフォンから返ってきたのは沈黙だけ。

「浅見……?」

 返事がないことにどんどん不安が大きくなっていく。確かに浅見はこの扉の奥にいるはずなのに、これ以上俺に言葉をくれない。

 そのことが、浅見が本気で俺を拒否するように感じられて…一瞬だけくらりと視界が揺れた。

 ――あ、やば……。

 かなりショックを受けてるらしい自分に気づいて、居たたまれなくなってくる。

 ……やっぱり、来るんじゃなかった

「片岡先輩っ!!」

 踵を返しかけていた俺は動きを止められてしまった。後ろからの声。思い切り扉が開け放たれたような音とともに、叫ぶように俺の名前を呼ばれて足が止まってしまったんだ。

 壊れかけたおもちゃみたいな動きで振り向いて、そこにいる奴の顔を見ただけで息が止まるかと思った。心臓が馬鹿みたいにバクバクいって、まともに息さえつけない。

 ――なんで、こんなふうに…っ。

 いや、俺はその原因を知っている。昨日、自覚したから。

 浅見にキスされて嫌じゃないわけがどうしてかを。

 かっと自分でもわかるほどに顔が熱くなって、そんな自分の変化を浅見に見られたくなくて顔を背ける。

「先輩、怒って…ますよね?」

 俺の態度を誤解した浅見の言葉。それは俺にとってありがたいものだった。まだ浅見に俺が抱えてる気持ちを告げるつもりはないからな。

 そして浅見があの、怒られた大型犬みたいな感じで居てくれるから、俺の方もやっといつもの調子が戻ってきた。

「とりあえず、家に上げろ」

 居丈高なセリフにびくりと浅見は反応して、おどおどしながら俺に入るように促した。


 てっきり浅見の部屋に行くと思ってたのに、通されたのはリビングだった。なんでだ、と浅見の顔を見上げると、浅見の視線は気まずげに逸らされる。

 …やっぱり浅見も少しは意識してるのかな?

 そうやってなんとなく目を合わせない浅見に言われるままソファに座る。L字型のソファだったから俺の斜め向かいに浅見も座ると思ったのに…。

「どうしたんだよ、そんなとこに…」

 言いかけてやめた。俺の前の床に正座した浅見は、すごく強い目で俺を見つめたまま、何かを言いたげにしていた。

 こういう時は何も言わずに待った方がいい。こんなふうにしてる浅見は本音を話してくれる。

 だから俺は浅見の言葉を待つことにしたんだ。



 と思って待ち始めてから実に十五分。……いい加減この沈黙がきつくなってきた。

 目が合うとすぐに浅見は逸らしてしまうから、ずっと俺が顔を眺めていたなんて浅見は気づいていないだろうけど、それでも…相手の気持ちが見えないままのこの状況はつらい。

「……あのさ~」

 沈黙を破ったのは俺の方だった。

 未だに視線をうろうろさせている浅見にそう声をかけると、あからさまにビクリと反応されて少しだけむかつく。

 俺は立ち上がってすばやく浅見の後ろに回りこむ。

「せんぱ…?」

「足痺れないか?」

 困惑した浅見が後ろを振り向くより早く、俺は正座してる浅見の足を思いっきり踏んでやった。

「――――っっ!!」

 声にならない声で叫んで浅見が飛び上がる。やっぱり予想通りだったか。

「いきなりなにするんですかっ!?」

 両手を前の床について、顔だけこちらに向けての浅見の苦情。

 ――……えいっ。

「うわっ…!」

 お~、痺れてる痺れてる。

 ちょっとつついただけで大げさに反応するもんだから、ちょっと楽しい。 「なにするんだ…って言われてもな。言っとくけど、自分で自分の足勝手に痺れさせたのはおまえだろ?」

 足をちょんちょん。浅見がびくびく。

 ……こりゃ面白いわ。

 調子に乗って何度も何度も浅見の足を刺激する。その度に顕著に反応して俺のことを楽しませてくれた。

「ちょっと、せんぱっ、やめて、くださいっ」

「やだ」

 浅見の主張に無邪気に答えて、なおもつんつんと刺激を続ける。だけどそうやって遊ぶことが出来たのはほんの少しの時間だった。

 すっ、と浅見の足が俺の手から逃げる。滑らかなその動きは足の痺れが治ったことを教えてくれて……。

 ――やべ…、浅見、かなり怒ってる?

 振り向いた浅見にギッと睨まれて、金縛りにあったかのように身体が動かなくなる。こう、怖さから来るものではない理由で。

「先輩……」

 硬い声で話しかけてくる浅見に、つい見惚れてしまった。

 いつもの情けない犬っぽさが抜けて、ただただ男っぽい真剣なその表情は……、キスしてくる直前の顔に似ていて……。

「すいませんでしたっ!!」

「うぇっ…!?」

 唐突に頭を下げるという浅見の行動についていけなくて変な声が出てしまった。

「なん…だよ…? なんで、浅見が謝るんだ?」

 疚しいことを考えてたのがばれないように、いつものように振舞ったつもりだったのに、思いっきり声が掠れてしまった。

 それよりもなんでいきなりこいつは…? 今のは調子に乗った俺の方が…。

「嫌われたく、ないんです」

 え……?

「俺、自分のことを抑えられなくて、先輩に酷いことして…。昨日、先輩が帰ってからものすごい後悔しました」

 頭を下げたまま、言葉を選ぶようにゆっくりと話す浅見の表情はわからない。…けど、苦渋に満ちた声で、浅見がどんな顔をしてるのか簡単に想像がつく。

「でも、昨日もう来るなって俺に言ったのはそっちだろ?」

 だったら俺が帰ったことはおまえが望んだことなんだろう、とそうしようとは意識してなかったのに恨みがましい調子になってしまった声で浅見に告げる。

 昨日、浅見に言われたそのセリフに、自分で思うよりショックを受けていたと改めてわかった。

 ――…って、もしかして……。

 ふと嫌な考えが頭に浮かんだ。どこまでも後ろ向きな、まったく自分らしくない考え。

 そんなことはないと否定するのに、それは口から出てしまった。

「俺にあんなことしたのも、俺を追い返すため…だったのか?」

 がんがんと頭が痛む。自分で発したはずの声なのに、遠くから聞こえるような感じさえする。……浅見の反応は目を見開いただけで、何も言ってくれない。

 ――浅見は、俺のこと、疎ましく思ってたのか? 浅見はもう俺のこと…。

「違います! っていうか、なんでそんなことになってるんですか!」

 力強い大きな手が俺の両肩をつかんで、それといっしょにほとんど怒鳴るような浅見の声を浴びせかけられる。

 なのに俺は肩を掴まれた痛みとか、怒鳴られた驚きとかは全くなかった。

 ただ、すごく安心できて……嬉しかった。必死に否定してくれる浅見。その顔がすごく近くにあってどんな顔をすればいいのかわからなかった。

 ――でも、もう誤魔化したりとかしたくない。

 だから目を逸らさずにじっと浅見を見つめていると、浅見の方が気まずげな顔になって手を外した。

「なんで、そういう顔をするんですか……」

 そんなこと言われても自分でわかるはずもない。

 苦々しい口調になった浅見は、何かを堪えるようにぐっとまた拳を握っていた。

「……なあ」

 それを見ても昨日のような恐怖が湧き上がってくることはなかった。

 理由は……ああ、もうちゃんとわかってる。

 …浅見にキスされた後、俺はいつも浅見を罵るばかりでそこで考えることをやめていた。知らず知らずのうちに、なんで浅見にキスされるのが嫌じゃないかの理由を考えないようにしてたんだと思う。

 だって元男のくせに、男にキスされて喜んでいる自分を認めたくなかったんだ。

 でも今の俺はそれを認めてる。恥ずかしい話だけど、昨日のその……なんだ、一人でいたしてる時に気づいたんだ。

「まだ俺のこと好きか?」

 二度もキスされてたのに、貞操の危機があるにもかかわらず浅見の家に通ったのも、こんなふうに浅見の気持ちが知りたいのも……。


 俺が浅見のことを好きになってたからだ。


「当たり前です! その、好きじゃなきゃ…あんなふうに反応しません」

 最後の方がボソボソとした浅見の返事。すごく嬉しいけど、あんなふうってなん……。

「あ………」

 記憶が蘇ってきて、俺は一気に赤くなった。

 ――いろいろありすぎて忘れてたけど、こいつのアレって、あの時…。

 勃ってた。

 それはもうはっきりとわかるほどに。

「~~~~~っ!」

 思わず浅見のそこに目が行きそうになって、慌てて目を逸らす。そんなことをしている自分が恥ずかしくしょうがなかった。

「やっぱり…迷惑、でしかないんですよね? 先輩は優しいから、ただ最初から断ることができなかっただけなのに……」

 俺が目を逸らしたのを誤解したのか、浅見が俯き加減で話し始める。

「俺、そこにつけこんで…しかも先輩にあんなに酷いことして…っ。そのくせ、あれに飽き足らず、今も手を出しそうなのを抑えてるんだから…軽蔑しますよね」

 やば……。

 どこまでも自虐的なセリフ(いや、客観的に見たら事実かもしれないけど)を吐き続ける今の浅見には見覚えがあった。

 入部当初、人見知りなうちの女子たちが浅見を避けてしまうのを、全部が全部自分のせいだと思い込んだ時と似て――いや、それよりも酷い状況かも。

「えっと…あさ…」

「いいんです」

 何がだ?

「いいかげん、言われなくてもわかってますから…」

 だから何をだ?

「いつになるのか、わからないですけど……。ちゃんと気持ちに整理つけます。……その時はまた…」

 浅見の言葉はそこで途切れる。何故か? 俺が思いっきりこいつの頭をぶったたいたからだ。

「せんぱい…?」

 頭を押さえて目を白黒させながら、呆然とした声を浅見が出す。それを尻目に俺は立ち上がって。

「そこに正座しろ」

 そう浅見に命令していた。さっきまで足が痺れてたくせに浅見は諾々とそれを聞いて正座する。

「俺さ、『人の話は最後まで聞け。一人で勝手に結論をつけるな』って、本当に、いっちばん初めにおまえにこうやって説教したよな?」

「は、はい」

 浅見がそのことを覚えていたことに、嬉しさよりも腹立たしさが勝った。

「じゃあ、なんでおまえは今、俺の話を聞いてくれないんだ? なんで勝手に終わらせて、なんでまた俺を追い返そうとするんだ?」

 自分の声が弱々しいものになっていくのに気づいていた。けど止めることが出来なかった。

「自分で始めたことは最後まで責任もってやれ、って、前に俺、言ったよな?」

 声が震えてる。

 切り捨てるようなことを言ってほしくなかった。

「何もかもいきなりで、人の気持ち引っ掻き回して…っ。それなのに勝手に納得して、俺を追い返すのが…おまえの責任の取り方なのか? 馬鹿に、すんなっ!」

 罵る声は震えていて全く迫力がなかった。言えば言うほどに胸が痛くなって、のどに何かがつっかえる。

 やっと自覚したのに終わりにしてほしくなかった。俺にとってはこれからなのに、もうどうでもいいことと思われたくなかった。

 浅見に、好きでいてもらいたいんだ。

「じゃあ…どうすればいいんですかっ!?」

 正座を解いた浅見が立ち上がる。その顔には強い何かの感情が込められているのがわかったけど、今の俺にはわからない。

「前にも後ろにも進めなくて…! だけど気持ちだけは止められないんです! だから先輩にあんなことして…だけど後悔して!」

 どんどん苦々しい顔つきになっていく浅見の顔。

「先輩にこれ以上乱暴なことをしたくない。なのに、自分を抑えられない。……だったら、諦める以外に何が…」

「考えろよ」

 言葉を遮った俺の声に、浅見が、え…と顔を上げる。

 俺はそんなふうに無防備になった浅見の胸に、初めて自分から抱きついた。

「考えろよ。……察しろよ」

 恥ずかしくて言葉に出来ない代わりに、せいいっぱい行動で示した。

 浅見のことが好きだ。だからここにいるんだ、と。

「……!」

 ぎゅっ、と背中に腕を回されて抱きしめられる。

「ありがとうございます」

 耳元で囁かれた次の瞬間には身体を離されていた。

「まだ俺、先輩のことを好きでいていいんですね?」

 ――そんなこと、聞くな馬鹿。

 そっぽを向きながらも、浅見の言葉に頷く。するとこの大型犬は。

「わかりました! 俺、努力します!」

 …………ん?

「先輩に好きになってもらえるように、本気で努力しますから!」

 ちょっと待て。なんでそういう結論に行く? 俺がおまえのこと好きだってわかるだろ! 

「だから覚悟して待っててください」

 もしやわざと言ってるんじゃないかと疑いかけたけど、どうやらそうじゃないらしい。この鈍感阿呆は本気の本気で気づいてないようだった。

 がっかりしたのか安心したのか、腹立たしいのか愛しいのか、もうまったく判断のつかない感情が襲ってくる。

 ――まあ、いいか。

 やたらと明るい顔をしてる浅見を見てるのはそれだけで楽しいから。

「勝手にしろ」

 それだけ言って、俺は背伸びをして大型犬っぽい後輩の頭を軽く叩いた。

 時間はたっぷりあるし、多少長期戦になったとしてもそれくらいの忍耐力は俺にだってある。

 一つ問題があるとすれば、まだちゃんと口にしていない俺の本音。これを言えば、一気に話は進むんだけど……。

 ――さて、いつ言ってやろうかな?

 横にいる浅見を見上げながら、俺の顔は自然とほころんでいた。



 あれから――浅見と、まあ一応和解してから少し経った今日この頃。

「浅見、ちゃんと宿題終わらせたか?」

 今日も今日とて俺は浅見の家に来ていた。夏休みも半ばを過ぎて終了まで残り二週間。自分はもう終わったという優越感からかなり早いタイミングで浅見に尋ねていた。

「……今、俺がなにやってるか見えますか?」

 もちろんわかってる。わかっててわざと聞いてるんだ。

 小さな四角いちゃぶ台に『数学のプリント』を広げている浅見の背中にぺったりと張り付いて、肩越しにちゃぶ台を覗き込む。

「あ~…、教えてやろうか?」

 そのままの体勢で――つまり浅見の耳元での俺の提案。数学は得意科目とは言えないけど、一年のやつなんだから全部出来る。

「大丈夫です。もうちょっとで終わりますし」

 苦笑しながらのやんわりとした口調だけど、はっきりと断られてしまった。そのまま浅見は立ち上がって、身長差で俺は抱きついていられなくなった。

「のど乾いたんで、麦茶持ってきます。先輩もいりますよね?」

「ああ」

 返事をすると浅見は爽やかに微笑みながら頷いて部屋から出て行った。

 ――『また』だめだったか……。

 内心で溜息を吐く。そう、この一連の流れは全部計算づくでやったものだ。

「あの馬鹿やろーめ」

 思わず恨み言のようなものが口から出てしまう。この俺がなんでこんな誘うようなことしてるのか、浅見のやつは全くもってわかってないんだろう。

 どうやら浅見の中では紳士協定(たぶん使い方まちがってる)が勝手に結ばれたらしい。あの日以来、俺はまったく浅見に手を出されていない。

 俺の推測だけど、浅見は俺に乱暴なやり方で手を出したことをかなり恥じてるらしく。どんなに俺が餌をちらつかせても、浅見は新しく創り上げた強固な意志でもって自分を律してるようだ。俺の苦労も知らずにな。

 ――少しはわかってほしいもんだ…っ!

 憤っても仕方がない。こんな回りくどいやり方を選んだのは俺なんだから。

 だって口で言うのはなんかいやだろっ?

「持って来ました」

 俺の焦りなんか露知らず。

 どこまでものんきな浅見の声が部屋に響いた。



 残された時間は一ヶ月を切っている。


『いつ言ってやろうかな?』

 な~んて悠長なことを考えてる暇はないことに気づいたのは、自分の気持ちを受け入れた三日後。

「教科書ってアテになんないよな」

 と切り出したことによってだった。

 その時は浅見の家まで残り少ない宿題を持ってきて、ちゃぶ台に頭を突き合わせていっしょに勉強をしていた。和解したって言ってもふとした瞬間に微妙な間が……というか俺が浅見のことをすごく意識しているのを浅見に気づかれたくなかったからだ。

 あ、もちろん『だから来ない』っていう選択肢はない。

 浅見が俺のことを疎んじてるわけじゃないし、何より俺が浅見の近くにいたいから…。

 ……それはともかくっ、英語でどうもわからない表現があったから、教科書の似たようなのが載ってるページを探してる時になんとなく思い出したんだ。

「何がですか?」

「いや、俺が女体化したときの状況が、中学の保健体育で習ったのとは一個も当てはまんなかったからさ。なんか教科書に信用が置けないっていうか…」

「そこまで言うほどなんですか?」

 半信半疑といった感じのあいまいな笑みで浅見が訊いてきて、あの時の憤りが今さらになって蘇ってきた。

「そうだよっ! 『女体化する3~7日ほど前から貧血・吐き気。場合によっては骨の軋みがある』とかなんとか! おまえも同じような教科書使ってただろうからわかるだろっ?」

「ああ、そんな事書いてありましたね」

 捲くし立てるようになってしまった俺の言葉をさらりと受け流すような返事が気に食わない。

「しかもだ! 『誕生日に女体化する例がほとんどである』ってなんだよ! 俺は九月生まれだっつーの!」

「あ、俺と同じですね。俺も九月生まれなんですよ」

 どこかずれている浅見の相槌は俺の勢いを削ぐのに十分だった。

 教科書の記述にあまりにも納得が行かなかったから、女体化してすぐに俺なりに一度調べてみたことはある。

 それで出た結論といえば、不本意ながら本当にごくごく稀に俺のようにまったく前兆なしに女体化してしまうことがあるということ。

 調べてるうちになぜか教科書の製作者までたどり着いて、電話で直接話したんだから多分間違いない。

 つまり、つまりだ。逆に考えてみれば大半の女体化は教科書に載ってた通りに起こるって事で……。

「あ……そうなのか」

 適当にしてると取られてもしょうがない調子での俺の返事に、浅見はとくに何を言うでもなく自分の宿題に目を戻していった。浅見の視線がなくなったのをいいことに、呆然と俺は浅見の頭を見つめる。

 ――こいつも……女になっちゃうのか?

 今の今まで全く考えたこともなかった現実。

 例外の俺は違ったけど、女体化のほとんどが十五から十七の誕生日に起こってしまう。

 ――やだ……。

 ひんやりとしたものが身体の中に入ってきて、意図せずに身体が震えた。

 もしかすれば……、あとひと月もしないうちに目の前にいる奴はいなくなってしまう。俺が好きな大きな手も、大きな身体のくせに犬っぽいこの浅見はいなくなって、別の新しい女の子になってしまう。

 ――そんなのはいやだ…!

「先輩? 寒いですか?」

 顔を上げた浅見に指摘されて、我知らず自分で自分の肩を抱いてしまっていたのに気づいた。

「いや、別に平気」

 答えながら、俺は心の中で決意した。

 ――浅見を女体化させてやるもんかっ!

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最終更新:2008年06月14日 22:20
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