そうは思ってもなかなかうまくことが運ぶことはなかった。
浅見は勝手に紳士協定結んでるから手を出してこないし、俺の方も「抱いてくれ」とか「Hしろ」なんて言い出すことはもちろんできない。そんなこと言った瞬間にたぶん俺はそれだけで死ねると思う。
だから精いっぱい態度で示してるつもりなのに……。
――あのアホウはっ!
浅見の家からの帰り道。つい足を踏み鳴らして歩く俺を誰が責められるだろうか?
もうミニスカートとか服で誘うのは試したし、じっと見つめてみたりとか何気なく浅見に触ったりとかしたのに、浅見がその気になった気配すら感じられなかった(しかも今日は後ろから抱きついたのに、だ!)。
つーかなんで俺がこんなに悩まなきゃいけないんだ! そもそも浅見は自分のことだってわかってんのか!?
口汚く心の中で罵って。
「はぁ………」
ひと通り憤った後に襲ってくるのは虚しさだった。
――なんで浅見は……。
そこまで考えて、だけどまとまらないまま、また溜息が漏れる。
このままだと本当に浅見は女体化してしまうかもしれない。
でもそれは嫌だ。
俺は浅見にあのままでいてほしい。
男のままで、それで俺のことを……。
「あ~~~~っっっ!!」
思考が恥ずかしい方に暴走してきて、奇声を上げてしまう。おうちに帰る途中のお子様たちに変な目で見られた。
その小さな目から逃れるようにさっさかと歩き出す。そして脱線気味だった思考を元に戻して考える。
実際問題、俺が言葉ではっきり誘わない限り、浅見からアクションを引き出すことは難しいっていうのはもうわかってる。なのに何度も言うようだけど、俺はそんなこと言えるようなタチじゃない。
俺がどんなことを思ってるのか、それを浅見に告げるのが一番手っ取り早いんだけど……、俺としては浅見に手を出してもらいたい。
つまり毎回ここで思考が暗礁に乗り上げるわけだ。
だからこそ態度とかその他で誘ってるつもりなんだけど、元男の俺はどうやったら男がその気になってくれるかなんてまったく想像も付かない。
どこかで聞いたような知識はもう試したし、それ以上のこととなると、とてもじゃないけど恥ずかしくて出来ない(ベッドの上で…云々とか)。
「は………………あ!?」
またまた溜息を吐きそうになって、とても重大なことを思い出して声が出てしまった。
いるじゃないか、俺と全く同じ境遇でしかもちゃんと解決した人が!
「なあ、母さん」
夕御飯を食べ終わった直後に母さんに話しかける。今日は父さんも早く帰ってきて、早めの夕飯だったんだ。
父さんはいつも夕飯を食べ終わった後に、食後の一杯とか称してキッチンから自分で日本酒をついだコップを取りに行く。
今日もいつものように父さんが席を外して、そこを狙って俺は母さんに話しかけたんだけど…。
「なあに?」
いざ向かい合うと聞き辛くて、少しの間ためらってしまった。母親相手にこんな話をするのはどうかと思うし、どうやって聞けばいいのか、と少し迷って。
だけど生まれてから女をやっているうえに、妙にするどい母さんに慣れない嘘は無駄だ。
俺は思い切って直球で話を振ることにした。
「母さんって、どうやって父さんの童貞を奪ったんだ?」
ゴトン、と鈍い音が後ろから聞こえた。
何かと思って振り返れば、キッチンから戻ってきた父さんが口をあんぐりと開けて、そこに立っていた。
ちなみに落としたらしいグラスは割れなかった。丈夫なガラスでセーフだ。 「なっ…、い、し…っ」
おそらく『何言ってるんだ志緒』とでも言いたいんだろう。ぽっかーんと口を開けたまま途切れ途切れの父さんの声を推理していると。
「あ~あ~、もうなにやってんのっ! ほら、早くふきん持ってくる!」
まだまだ固まっていられそうだった父さんは、母さんに命令されてようやく自分の足元の惨事に気づいたらしい、慌てた感じでまたこの場から退場する。
「まったくもう、こんなことで動揺するなんて……」
いや、母さん。爆弾を落とした俺が言うのもなんだけど、父さんの反応が普通だと思うんだけど…。
「さ・て……と」
言葉は悪いけど、邪魔者を追い払ってから母さんは俺のほうに向き直る。
「そんなこと聞いてくるってことは、もちろん相手がいるってことよね? それって、あんたが『無理やりキスされたのに嫌じゃなかった』っていう彼のことかしらね?」
「……そうだよ」
目の前に鳩が豆鉄砲を食らった顔が現れた。
「なんだよその反応は?」
「…あ、ああ。志緒がこんなにあっさり認めるなんて思ってもみなかったから」
なんか、今日の俺って人のこと動揺させてばっかりだな。一番動揺してほしかった奴はしてくれなかったけど。
「まあ、教えてあげてもいいけど」
目を泳がせていた母さんが不意に真面目な声音で尋ねてきた。
「あんた、もしかして私と同じことするつもり?」
俺にも出来そうなことならたぶん、と頷くと母さんは難しい顔をしてウ~ンとのどの奥で唸る。
「なんか駄目なのか?」
「いや、駄目じゃないのよ。私が昔やったことなわけだし、ここで止める権利なんか無いのはわかってるわ。……だけど心配なのは、かなり乱暴なやり方だったから、あんたとその相手が後悔しないかってこと」
どこまでも真剣な視線でまっすぐと見つめられて、一瞬だけためらってしまう。
俺よりも人間としても女としても人生経験が豊かで、竹を割ったような性格をしている母さんが、ここまで言い渋るのにはそれだけのでかい理由があるってことで……。
だけど怖気づいてなんかいられない。
「やってみなきゃ後悔するかどうかわかんない」
母さんがしているように俺もまっすぐと目を見て。
「少なくとも俺はあいつがこのまま女になるほうのがよっぽど嫌だ」
告げると母さんはまた目を見開いた。さっきとはそこに宿る光が微妙に違う気がする。
「それに……もしもあいつが後悔するようなら、一生かけてそれを償ってやる」
自分が抱えてる気持ちを、ここまで正直に人に言ったのはこれが初めてかもしれない。
目を見開いていた母さんはその顔を隠すように額に手をやって、大げさにため息なんかを吐いた。
「あ~あ……。まったく、そんなふうに育ててないのに、やな所ばっか私に似ちゃって…」
ぼそぼそと呟いてから、ばっと母さんは顔を上げる。そして奇妙なほどに明るい顔色のままパンッと手を合わせた。
「いいわ! 教えてあげ…」
「怜さーん! ふきんがないよ~!」
――父さん……。
場に飛び込んできた、大の大人の男とは思えないほどに情けない声に、娘の俺の方が悲しくなってくる。
「あ、そういえば全部洗ってるんだった」
思わず頭を抱えたくなってる俺を尻目に、軽い口調で母さんが言って立ち上がる。
「あの人のあーゆー犬っぽい所が可愛くてしかたないのよねぇ」
「……惚気はよそでやってください」
「あら、あんたの相手だって似たようなものじゃない」
――いつ浅見のことを知ったんだ!?
こともなげに浅見のことを言い放たれて、首がとんでもない速さで跳ね上がってしまった。だけどそこにあったのは母さんのニヤニヤした顔。
「やーね、男の趣味までいっしょなわけ?」
――騙されたっ!
一気に顔が熱くなる。
鎌をかけられて、しかもまんまとそれに乗ってしまって。それに気づいた今の精神的衝撃はもう言葉にできそうもない。
「じゃ、あとで教えてあげるから、先にお風呂にでも入ってなさい」
言い残して母さんはキッチンの方に姿を消す。
残された俺は言いようのない恥ずかしさを抱えたまま、ただただ悶々とするしかなかった。
俺が決戦の日に選んだのは、母さんに色々教わった二日後。
なんで一日空いたかといえば、二日後(今日のことだけど)の方のが都合がものすごく良かったんだ。何の都合がといえば浅見がうちに来るように画策する時間が必要だったからだ。
でも結果的にかなり簡単にその画策は成功したわけだが……。
『明日、久々に料理作るから味見しろ』
『材料とか道具とか持ってくんのめんどくさいからおまえがうちに来い』
昨日、浅見の家でそう言ったところ、浅見はとくに疑いをもつこともなくすぐに頷いた。材料云々を理由に挙げたくせに、浅見がうちに来ることが決まってからその帰り道に慌てて材料を買い込んだのは秘密だ。
そして何よりも、今日は母さんたちが二人とも仕事で遅くなるってこと。
『ま、頑張んなさい』
出かける間際、訳知り顔(いや、実際知ってるんだけど)で放たれた母さんの言葉に、俺がまともな返事をすることが出来なかったのは言うまでもない。
「さて……作り始めるか」
ポツリと呟いてキッチンに移動。浅見には十一時過ぎくらいに来いって言っておいたからまだ一時間以上あるんだけど……それはともかく。
「昨日の帰り道に買い物したのはやっぱり失敗だったな……」
思いっきり舞い上がってるっていうかテンパってたから何を作るかを考えないまま材料ばっかり買っちゃったんだ。
もちろん今もテンパってるっていう自覚はある。
だからこそさっきから無駄なことを考えたり、独り言を呟いたりして平静を保とうとしてるんだけど……。
「はあ~……」
大きく息を吐いて緊張を解す。
……不安は、なくなりはしない。
おとといの夜、母さんが教えてくれた方法は俺にも出来そうなことだった。
だけど、こんなやり方をしたら…浅見の気持ちを無視してるんじゃないか、とか、浅見に引かれるんじゃないかとか……。ぐちゃぐちゃとした考えがいっぱい湧いてきて頭が痛くなってくる。
あのときは母さんに大見得きって一生かけて償ってやるとか言っちゃったけど、たぶん俺は浅見に嫌われたら、近づくことさえ出来なくなると思う。
それくらいだったら……と考えかけて、時間はそう無いことを思い出す。
俺が男のときに告白してきた浅見。一時はホモかと疑ったけど、あいつは女になった俺を一瞬でわかってくれて、そして好きだと言ってくれた。
俺にとって浅見はどこまでも大事で……大事だからこそ、失いたくない。
浅見は俺が男でも女でも俺自身を見て、そして好きだと言ったけど、俺には到底マネ出来そうもない。
浅見にはあの大型犬のような少し情けない感じで、たまに少し強気になるっていう今のままでいてほしい。
「はあ…」
深呼吸のような溜息を吐いて、俺の視線は自然とキッチンの戸棚に吸い寄せられる。
母さん曰く『多少理性がぶっ飛ぶけど、常用性もないHなクスリ』が入ってるという小瓶が収められた戸棚にへと……。
昨日の夜、栄養ドリンクとかの茶色い小瓶によく似た瓶を取り出してきて、風呂上りだった俺に母さんはこともなげに言い放った。
『これ、あげるわ』
俺に続いて父さんが風呂に入ったタイミングだったんだけど、それの正体がわからなくて首を傾げる。手にとってみて振ってみると中で液体が揺れるような感じがした。
『なんだこれ?』
『媚薬』
あまりに日常からかけ離れていて、まったくもって信じられないセリフに、俺の動きは完全に止まってしまっていたと思う。
――えっと…、ビヤクってなんだ?
『はい、現実逃避しなーい。……ったくもう、だから嫌だったのよ。自分の子供にこんなこと話すのもアレだっていうのに』
そっぽを向いてぶつぶつと文句をたらした母さんはすぐにこっちに向き直って。
『いい? これを使えばたぶんあんたの相手も一発で発情するから。大体の使い方はあとで……』
『クスリ…だよな?』
なんでまだこんなもん持ってんのか、とか、他にもいっぱい疑問は湧いてきていたけど口から出たのは、たったそれだけだった。
『なんか…その、色々とまずいんじゃ…』
『平気よ。これ合法のやつだし。まったく常用性はないから一回二回じゃ健康に害は無いわ』
ポンポンと母さんの口から出てくる非日常の単語に、頭がくらくらしてきた。生きていればこんな話をする機会もあるかもしれなかったんだろうけど、まさかその相手が母親なんて……。
『だけどクスリ使うなんて…』
『あら? 別に使えなんて言ってないわよ? ただあんたにこれをあげるって言っただけ。使う使わないは自分で決めなさい』
んでもって今に至るわけである。
突き放した言い方のようにも聞こえるけど、これはかつて母さんがやったことなわけで。もしかすると母さんはほんの少しだけ後悔してるのかもしれない。
父さんに薬を盛って、その……そういうふうになったのを。
だからこそ母さんは俺に選択の余地を与えてくれたんだと、俺はそう思った。
『一応…キッチンの戸棚に注意書きといっしょに入れておくから。後は好きにしなさい』
頭の回転が速くていつも自信に溢れてる感じの母さんが、あんなふうに迷っているっぽいのを見たのは初めてで。
――俺も、後悔……するかも。
母さんがしたように俺も浅見に薬を盛って…、それでどうにかなったとしても本気で嬉しいと思えるはずないことなんかわかりきってる。
下手をすれば…、浅見に嫌われてしまう可能性があることも、ちゃんと考え……。
「…てるつもりなんだけどな~……」
溜息混じりのボヤキが出てしまった。
やっぱり、怖いんだ。浅見に嫌われるなんて、ほんの少しだって想像もしたくない。
「……あーあ!」
暗い方向に突っ走りそうだった思考を、奇声とともに頭にすみに無理やり追いやる。
考えたって仕方ない。もう決めた道を引き返していたら時間切れになるんだから。
「さて……って、え…?」
気を取り直してキッチンに立って、思いっきり愕然とした。
ここでうちのキッチンの説明になるけど、うちは最近流行り(もう流行りは過ぎたか?)のシステムキッチンというのではなく、ふっつーのガスコンロだ。
代わりといったら変だけど、広さはまあまああって道具の方はいいのを使ってる。そして場違いな可愛らしい小さな置き時計が置いてある。なぜならうちにはキッチンタイマーなる物は存在しておらず、しかもキッチンからリビングの時計は見えないからだ。
というわけでどこぞの貰い物だった時計が配備されているんだけど、俺はその小さな時計にまったくの動きを封じられた。
時計が指している時間は…十時半過ぎ。
記憶が正しければ、俺がキッチンに入ったのは三十分以上も前のことだ。
「何やってんだ、俺」
ひとしきり驚いてからポツリと呟いて、今度は思いっきり脱力してしまった。
ぐだぐだと考えてるうちに、ぼーっと三十分以上も突っ立っていたことになる自分に呆れてしまう。
「急がないと」
あともう少しで浅見が来てしまう。まだ何を作るかもろくに決めてないのに。
「そういやあいつの好きな料理ってどういうのだ?」
和? 洋?(中は油多いのばっかで、片付けんのめんどいから今回はなし)
……ま、いいか。今日は俺が好きなので。
冷蔵庫を覗いて、中にある材料を確認。……なんで俺は高野豆腐なんか買ってんだ? 使わないわけにいかないか…。
――えっと高野豆腐の煮物とかぼちゃのスープと…。
そこまで考えて、不意に浅見の顔がよぎった。
女になって多少味覚が変わったのかあんまり油っぽいのは少し苦手になった俺に合わせたら、浅見は少し物足りないか?
――――ドンドンドン――――
だったら何を作るか、と考えたところでなにやら玄関の方から扉を叩く音がした。
「はいはいはいはい」
ったく、インターフォンがついてんのが見えないのかっ?
無作法では済まない来客者に舌打ちをして玄関に向かう。不審者じゃないだろうかと普段は使わない覗き窓を使って、驚かされた。
「お、まえっ、来んの早いだろっ!」
乱暴に扉を開けて、そこにいる奴に開口一番そう怒鳴っていた。
たかだか三十分早いだけでそんなに悪いことをしていないはずなのに、浅見はしゅんとして耳をたらした。
「すいません、でした。ちょっとそこらへんで時間つぶして……」
背を向ける浅見の服のすそを掴んで思いっきり引っ張る。少し浅見の服が伸びた気がするけどそこは無視だ。
「あのな、なんでこんな言葉間に受けて勝手にどっか行こうとしてんだよっ?」
自分で言ったくせに、まるっきり棚に上げて浅見に文句をぶつける。
まだ料理を何にするか決めてないうちに浅見が来てしまって、ちょっと焦って口汚くなってしまっただけなのに。
いっそ浅見にはもっと強気できてほしい。そしたら俺だってもっと……。
「先輩……?」
訝しげな浅見の声にはっとさせられた。そしてまだ浅見の服を掴んだままでいる自分に気づいて慌てて手を放す。 「あ~……浅見?」
「はい」
「いらっしゃい」
「はい! おじゃまします!」
ぱっと笑顔に変わる浅見に、俺は背を向けた。
――あぶね……。
危うく思いっきり赤面するのを見られるところだった。
浅見を家に上げて、待ってる間DVDでも見てろとリビングに放り込む。
「何か手伝……」
「久々に作るから味見しろって言っただろうがっ!」
そういう性分な浅見がそうやってキッチンに顔を出すのは予想できていたから、ソッコーで用意しといたセリフとともに追い出す。
料理に薬を入れるところでも見られたらめんどくさいからな。っと、料理といえば……。
「浅見、なんか好きな料理ってあるか?」
材料があったら作ってみる、と告げると浅見はほんの一瞬だけ悩むようなしぐさを見せてから。
「ロールキャベツです」
キャベツとひき肉はあったから……よし。
「わかった。トマトは平気か?」
その質問に浅見が頷くのを見て、俺はキッチンに引っ込む。冷蔵庫から色んな材料を取り出して、そして俺は……あの戸棚を開けた。
昨日見たままの茶色い小瓶…と、母さんが書いたらしい白いメモ。
『薬を使う』。そのことが急に現実味を帯びてきて、鼓動が早くなってくる。少しだけ震える手をあえて無視してメモを手に取った。
『使用量:一回に大体50ml。多少味がついているので濃い味のものに混ぜること』
――50って……大体瓶の半分だよな? 料理に混ぜるとしたらどのくらいに調節したらいいんだ?
メモがあまりに端的に書いてあるせいで肝心なところがよくわからない。めんどくさいからいっそのこと『栄養ドリンクがあるけど飲むか』とかなんとか言ってこのまま飲ませたいくらいだ。
バクバクいってた心臓は母さんのメモのおかげでだいぶマシになった。すると次に湧いてきたのは、どんな味なんだろうという好奇心だった。
……ああ、わかってる。俺が馬鹿だったんだ。だから誰も何も言わないでくれ。
―――トントン…トン―――
「はあ……」
さっきから、なんかおかしい……。思う様に手が動かなくて、包丁が刻むリズムがとびとびになってしまう。
――なんだ、これ……?
息苦しくて、何度も溜息に似た息を吐く。
あつい……。まるで熱が出たときのように、なんとなく視界もぼやけている。
火も使ってないし、冷房もちゃんと入れてるのにじんわりと汗も滲んできて、流石におかしいと自覚する。
……さっき薬の味見をしたのがやっぱりまずかったのか?
小さじ一杯の味見を思い出して舌打ちをする。
なんか口に入れた途端かっと熱くなるような感じがして、奇妙な香りと味のする薬は大しておいしくなかった。
――アレが原因、なのか?
ついに頭までくらくらしてきて、それでも歯を食いしばって料理を続けながら考える。
――そんなはずない。だって俺が飲んだのは効果が出る十分の一くらいのはずだ。
メモに再び目をやる。『一回に大体50ml』。ほら、現にこうやって……。
「んん?」
メモの下の方に何か走り書きっぽい汚い文字が……。
『ごめん。量間違ってたのに朝気づいた。正しくは5mlだから』
適当に付け加えられたらしい母さんの文字。俺にはそれが死刑執行の命令書に思えた。
――じゃ、じゃあ……俺が飲んだ量って…。
自覚した途端、ものすごい吐き気が襲ってきて膝が折れる。
「せっ、先輩!?」
喉でも渇いたのか、それとも俺が倒れた音を聞きつけたのか。
浅見の焦った声が聞こえてきたけど、それに答えることもできず俺の意識は薄れていった。
「……ぱい! 片岡先輩っ!」
ぺちぺちと頬に当たる感触。取り乱したように俺のことを呼ぶ声にゆっくりと目が開いた。
「あさみ……?」
「大丈夫ですか!? いきなり倒れて……あっ、気持ち悪くないですか? 頭とか打ってないですか!?」
もう心底焦ってますって感じの浅見が可愛い。
なんだかぼ~っとする頭のまま逆光になってる浅見の顔を見上げる。……逆光? ああ、そうか。これって浅見に抱きかかえられてる状態なんだ。
つまり、浅見の顔が近くにあって……。
「せっ、センパイッ!?」
俺が首に手を回しただけなのに浅見の声は裏返っている。その反応が楽しくて今度はぎゅーっとしがみつくと、無理やり身体を離されてしまって悲しくなった。
「あのっ、先輩どうしたんですか?」
「…きもち、わる……」
けどまともに声が出ないくらい胸の辺りに不快感が纏わりついててそれどころじゃなかった。
「えっ!? えっと、水……いや、それより吐きますか?」
冷たく身体を離したくせにどこまでも優しく俺を気遣う声。だけど俺は首を振った。
「へいきだから…。部屋…つれてって」
吐けそうもなくて、ただ横になりたかったんだ。
俺の部屋は二階の一番奥にある。そのことを途切れ途切れに伝えると、浅見は俺のことを強引におぶって歩きだした。
人一人おぶってるのにまったくふらつかない足取り。ぐらぐらした頭を抱えている俺を刺激しないようにか、浅見はゆっくりと歩いていたのにすぐに俺の部屋に着いてしまった。
後で気づいたけど浅見が俺の部屋に入ったのはこの時が初めてだ。
「ありがと」
ベッドの上まで運んでくれた浅見に礼を言う。短い俺の言葉に、浅見は心配そうな目を向けてきた。
「あの、本当に大丈夫なんですか? もしもアレだったら、薬とか買ってきますけど」
アレってなんだ?
そうは思ったけど何も言えずに、首を振って平気だと浅見に伝える。
――あ、でも薬って……そうか。
俺がこんなふうになったのってあの薬のせいだったんだ。あの、媚薬の……。
「ひぁっ…!」
ぞくん、と何かが背筋を通り過ぎた。気持ち悪いのはもう消えていて、代わりにどうしようもなく身体が熱くなってくる。
「先輩!? やっぱりどこか悪いんじゃないですか!?」
――浅見の、唇だ…。浅見の顔が、近くにある。
自分を止める余裕とか、そんなのはもうなかった。
腰を少しだけ浮かせて顔を前に突き出す。俺は初めて、自分から浅見にキスをしていた。
唇が触れ合って、それだけなのにすごく気持ちよかった。でもそうしていられたのはほんの少しの間。
「え……?」
トン…と肩を押されて俺はベッドの上にしりもちをつく。
「あさ……」
声が途切れてしまった。浅見の顔を見た瞬間に、言い表せないほどにぞっとした。手を口に当てて、眉間にしわを寄せた浅見が俺のことを睨んでいる。
「ぁ……」
その鋭い目に、一気に血が下がっていくのがわかった。
自分が今してしまったことは、俺がされて嫌だったことだ。何も聞かれずに、自分の意思を無視したように勝手にキスされて、すごく嫌だった。
なのに、俺は身勝手にも同じことをしてしまったんだ。
「ご、め……」
麻痺したようになっている口からは、ほとんど息だけの声しか出ない。まともに謝れもしないなんて最低だ。
でも、こんな時なのに、身体は熱いままで。処理が追いつかない頭は混乱して、視界がぼんやりと滲んでくる。
「なんでこんなことするんですか?」
感情の無い声で問いかけてくる浅見に答えることが出来ない。今になって、初めてあのときの浅見の気持ちがわかった。
『したかったから』
だからキスしたんだ、なんて俺には言えない。
答えないまま顔を逸らす俺に、浅見は舌打ちをしそうな表情になってさらに話しかけてくる。
「俺のこと、からかってるんですか? こんな倒れるふりまでして、わざわざ部屋まで俺を連れてきて」
違うのに。 「先輩のことを好きでいていいって言ってくれたのは、本当に嬉しかったです。……だけどこんなことをされるのはつらい」
ふるふると首を振るのに浅見は気づいてくれない。
「先輩に俺のことを好きになってもらいたくて、でもどうすればいいのかわからないままでっ。…だからせめて乱暴なことはしないようにしたいのに」
「……していい」
信じられない、と浅見の表情は語っていた。
「何、言ってるんですか!?」
一瞬の硬直から解けた浅見に怒鳴られる。どれだけ馬鹿なことを言ってるのか理解しているつもりだ。
「だって、今しなかったら…もうすぐ浅見は女になっちゃうかもしれないんだぞ?」
あ……と浅見の口が動く。やっぱり自分のことなのにわかってなかったらしい。
「だから…って、俺のために先輩が犠牲になるっていうんですか!?」
犠牲……ってなに?
「あんなに怒ってたのに、どうしてっ」
「したいから」
前に浅見が言ったことをそのまま使う。
目を丸くしている浅見をじっと見て笑いが漏れる。今なら言えそうだった。ずっと心に抱えたままでいた普通のときはとても言えない気持ちを。
「嫌だったのは俺の意思を無視して、いきなり押さえつけるみたいにされるのだけで、浅見にされるのは嫌じゃなかった。あの時は自分の気持ちもわかんなくて、それでおまえのことを怒ったけど今は違う。浅見のことが好きだから。ちゃんとわかったから。キスされても……それ以上のことをされても俺は嬉しいと思う」
全部言い切るとふっと胸が軽くなった気がした。
目の前にいる後輩は固まっていて、じっと見つめていると厳しいままだった浅見の目に違う色が宿る。
次の瞬間には、俺は浅見の胸の中に閉じ込められていた。
「訂正とか、もう俺聞けないですよ?」
そんなのはしない。浅見の体温に包まれてるだけで、ぞわぞわが止まらなくなってる。
「うん。浅見は俺のこと…」
「好きです!」
それが引き金だった。
頭の中で何かが弾けるような錯覚に陥って、俺はまた自分から浅見にキスを仕掛けていった。
最終更新:2008年06月14日 22:22