『放っておいて触れないで』(2)

――――キーンコーンカーンコーン……――――
 ここまで良い気分のチャイムは初めてかもしれん。
「はい。じゃあ後ろからテスト用紙集めて」
 あぁ~……と悲痛な声を上げつつ、机に突っ伏しながら用紙を前に回していく奴ら。時間が足りなかったんだろう。俺も前回は同じ境遇だった。
「な、問二の(二)って答え、-2.8でいいんだよな?」
「いや、マイナスにはならないだろ」
 試験用に出席番号順の席順になっているため、いつもなら視界に入らない後ろの席にいるムサい野郎が目の前に陣取っている。
 んでもってそいつが自信なさげに質問してきたので、親切にも俺はそいつの問題用紙に書かれた解答方法を見て、色々と助言を入れてやる。
「じゃ、じゃあ問三の(三)の答えは……」
「3:2:5だな」
 ちなみにそいつの問題用紙には『1:2:3』と自身なさげに書いてあった。
 勝手に打ちのめされたようになったそいつを放って俺は帰り支度を始める。今の数学の試験で定期テストの日程は全て終わりだ。
「北村くん、もう帰る?」
 おずおずといった感じではない、普通の口調での質問。
「ああ。今日の約束覚えてるよな?」
「うん」
 ただそれだけの会話を交わしてから、結と連れ立って教室を出る。
 今日は初めて結の家に行くことになっているんだ。
 今まではずっと結がうちに来るばかり(俺んちが結の帰り道にあるせいだが)で、結の家に行くという初めてのイベントはかなり楽しみである。
「ほんとにサンキューな」
 まずは途中にある俺の家に寄って俺の荷物やら制服やらをどうにかしようということになっていたので、その道すがら結に礼を言う。
「何が?」
 真面目にわかってないキョトンとした様子で聞き返してくる結は、思わずぐりぐりしたくなるほどだったが、そこをぐっと堪えて説明をする。
「ほら、結が色々教えてくれたおかげで、俺今回の試験めちゃくちゃ調子良かったからさ」
 今までの俺の成績と言えば、返ってきたテスト用紙に丸が極端に少なく、大量の三角でどうにか赤点を免れていたという、運頼みの綱渡り状態だった。
 定期テストが近づいてきた憂鬱期間にそれを結に伝えたところ、良かったら一緒に勉強しないかと提案されたわけだ。
 その時初めて知ったんだが、俺とは違って結はかなり成績が良い。
 別に今までの結のテスト結果を見たわけではなく、コツを上手く教えてくれるやり方だけで判断できた。
「結のおかげで今まで取ったことないような良い点が取れそうな手ごたえがあったんだよ。だから、ありがとう」
「…………そ、う」
 目を逸らしてまっすぐ前を向いたまま、結は短くそれだけ返してきて、それ以上の言葉はなかった。
 ――はたして、俺の心からのお礼は届いたのだろうか?
 ……なんてな。
 わかってる。今の結がどうでもいいから、そっけない返事をしたんじゃないことぐらい。
 ――たぶんだけど……。
 ここで言い切れないところが俺の駄目なところかもしれんが。
 それからとくに会話の無いまま、だけど決して気詰まりなことはなく歩いて、学校から徒歩十分の俺の家に到着する。
「じゃ、着替えてくるからちょっと待っててくれ。あ、うちの中で待つか?」
「ううん、ここで大丈夫」
 断られてしまっては仕方がないと一人で家に入る。
 外に結を待たせていると思えば、ゆっくりできるはずもなく。俺は普段家で過ごしている時とは比べ物にならないほどの機敏さで支度を済ませ、玄関にとって返した。
「すごい早いね」
「結のこと待たせるのだけは嫌だからな」
 少し驚いたふうの結に冗談半分、本音半分でそんなことを言うと結はじっと俺の方を見て止まってしまった。
「どうした?」
「あ……なんでもない」
 なんでもないはずないだろうと思わないわけではないが、俺は『そうか』とだけ返して、結の家に行くことを提案する。
「うん……」
 素直に頷いて、ぎこちなく視線を外しながら結は歩き出した。
 ……こういう時の結は何を考えてるのかわからない。
 たまーに、結は今みたいに動きを止めて、驚いたような……なんとも言えない雰囲気でこっちを凝視してくる。
 ――嫌われてる……わけじゃなさそうなんだけどな。
 奇妙な結の態度はかなり気になるものなんだが、わざわざどういうことなんだ、なんて訊くのも憚られるし。
 ――つーか、結にあの感じで見られるとなんか落ち着かないんだよな~。
 どこかもやもやした――そのうえ答えの出ないものを抱えつつ、俺は先を歩く結の後ろをついて行った。


 結の家は俺んちの近くの駅から急行で二駅。
 そんなに離れてないはずなんだけど、いつもは行かない方向だったおかげでたった二駅なのに『おのぼりさん』のようにきょろきょろしてしまう俺だ。
「ここらへんって何かあるのか?」
 駅から歩いて五分ほどした所で結にそう尋ねてみる。
 駅からここまで完全に住宅しかないので気になったのだ。
「もうすぐコンビニが……あ」
 途中で言葉を途切れさせた結の視線を追えば、言葉の通りにそこにはコンビニ。
「あ、結。ちょっと寄ってきたいから待っててもらってもいいか?」
 それはともかくとして、自分の思惑を叶えるための俺の提案に結は素直に頷いてくれた。
 さて店内に入った俺がどこに向かったかといえば、二十歳未満禁止コーナー。ぶっちゃけ、酒売り場である。
 聞くところによると、今日は結の家は親がいないらしく、酒盛りをするにはうってつけだ。結にはこのことを伝えていないが、少しくらいは付き合いで飲んでくれるだろう。
 ……ああ、ただ単に自分が飲みたいだけなんだ。
 だけど勘違いしないでほしい。俺は普段から酒を嗜んでいるような阿呆ではない。
 こう、正月とか、特別な日に親父に付き合わされるだけだ。で、今日はその特別な日に俺の中では分類されている。いつになく手ごたえのあった試験が終わり、 そのうえ初めて結の家に行くんだからな。
 そしてもう一つ、女の子を酔わせてどうこうするような最低な真似だけは絶対にしない。
 もちろん、もし結がほんの少しでも嫌がった瞬間には、酒は全部流し台から下水に直行させるつもりである。
「お会計九百八十一円になります」
 買うのは初心者にも飲みやすい甘いカクテル系だけにすると決めていたのでその数本をレジに持っていった。
 俺が老けてるのか、それとも毎回当たる店員が不真面目なのか。こういう時に止められたことは一度もない。そしてそれは今回もだった。
「ありがとうございました」
 マニュアルな声に押し出されるようにして店外に出る。
 そして結は……と視線を彷徨わせて、見つけたくないものを見つけてしまった。
 出来ることなら店内に逆戻りして身を隠したかった。わざわざ面倒ごとに突っ込みたくなんかない。
 が、それをする前にあちらから俺の方に近づいてきたんだ。
「ひさしぶり~、元気だったぁ?」
 甘えるような声はヒットする奴にはするんだろう。俺にはもう耳障りでしかないが。
「……ああ」
 我ながら冷たい声だった。
「なによう、久しぶりに会ったんだからもっと笑お? ねっ、ほらほら!」
 しかしおよそ二ヶ月前に別れた、元カットモデルで元彼女は俺の態度を気にした風もなく馴れ馴れしく話しかけてくる。
「北村くん……?」
 どこにいたのか、一気に落ち込んだ俺の機嫌を浮上させる声が耳に届く。
 俺がそれに応えようと後ろを振り向こうとした時、俺より早く元カノが結に噛み付いていた。
「あれ、あんた誰? 征人の知り合いなの?」
「あ、あの…?」
 困惑する結を放って、じろじろと値踏みするような視線を向ける。もちろんそこに遠慮などない。
「僕は」
 それが気に触り、やめさせようと声を出そうとしたところで結が口を開いた。
「北村くんの、クラスメイトで……とも…」
「あっ、そうなんだ! ふ~ん?」
 結の言葉を遮り、またも無遠慮な視線を向ける。
 ――……気持ちが悪い。
「へぇー、征人があんたみたいのと付き合ってるなんてね~」
「……ぇ……」
「ねえ、征人。なんでこんな暗い子といっしょにいるわけ?」
 この言葉が限界だった。
「つまんなくない? ……今日さ、私ヒマなんだよね。この子よりさ、私と…」
「なあ」
 腹の中で何かが渦巻いている。それとは裏腹に口から出たのは、酷く冷静な声だった。
「なになにっ? やっぱ…」
「おまえ、何様のつもりだ?」
 渦巻くものの正体は、怒りだった。ただただ目の前の女が許せない。ここまで憤ったことなど生まれて初めてかもしれない。
「そりゃ、私は」
「俺の元カットモデルで、俺の元彼女。それだけだろう? ただの『元』だ。今さらなんの関係があるんだ?」
「な、なによう。別にいいじゃない! それにもし征人が良かったら私は」
 そこで言葉を止め、頬を染めている。どこまでプライドが無いのだ。
「『ヨリを戻してもいい』? そんなことなんでしなきゃいけないんだ? おまえ、自分がなんて言われたのかももう忘れたのか?」
 ここへ来て、ようやく俺が本気でキレていることに気づいたのだろう。さっと表情を変えて俺の顔を見上げてくる。
「おまえの中で好きだったのは髪だけだ。それ以外には魅力を感じない」
「そ、そんなふうに、言わなくたって…・・・」
「言われて当然だろ? 自分からフッた男に馴れ馴れしく話しかけてきた上、いきなり俺が大事にしてる友達を貶してくれたんだからな。そんな品性のかけらもないような奴のどこに魅力を感じるのか、俺にはちっともわからない」
 言い切り、俺は唖然としている結の腕を掴んで、その場から去ろうとする。
「征人ッ!」
 耳障りな声とともに腕を伸ばされ、しかし俺は掴まれる前にそれを叩き落した。
「触るな。なんで髪だけしか魅力がない……いや違うな、もうおまえに良い所なんて俺は見つけられない」
 付き合ってる間は好きだったはずの腰まである髪でさえ、今はもう霞んで見える。
 それほどまでに結を貶されたのは許せなかった。
「それに、今の俺にはおまえとは比べ物にならないほどの良いカットモデルがいてくれてる。……二度と顔を見せるな」
 完全に顔色を失ったそいつはもう呼び止めてくるようなことはなく、今度こそ俺たちはその場を後にした。


「ごめんな」
 コンビニから少し来た所で結に話しかける。
「な、にが……?」
「俺がもっと早く止めてれば、結があんなこと言われずに済んだのに」
「別に、大丈夫、だから」
 さっきから結が目を合わせてこない。そして言葉もどこかぎこちなく、緊張した感じになっているのはわかってる。
 だけどそれを追究するのはどこか怖くて、そうか、と曖昧な返事をすることしか出来なかった。
 それまでは会話がなくても平気だったはずなのに、今現在はただ黙々と歩くこの状況がキツイ。
「ここが、家」
 コンビニから五分もなかったはずの距離。だがかなり長く感じた道のりの末、不意に結が立ち止まって今のセリフを言った。
「結の家ってマンションだったんだな」
 独り言のつもりで言った言葉に律儀に結は頷く。
 エントランスに移動し、結が鍵を開けてマンション内に入る。
 どうやら築何年も経っていないマンションらしく、どこもかしこも小ぎれいできっちりと手入れが行き届いていた。
 エレベーターで三階へ。そして三階の角部屋が結の部屋だった。
「いらっしゃい」
「あっ、おじゃまします」
 いつもと逆な挨拶を交わし、俺が通されたのはリビングだった。
「着替えてくるから、待ってて」
 そう言い残して、結はたった今通った廊下に消える。途中で扉が三つあったからどれから結の部屋なんだろう。
 ――……ん?
 手持ち無沙汰のせいで色々観察してしまい、そして妙な違和感に気づく。
 こう言うと変態みたいだが、この家は結の匂いしかしないんだ。
 普通なら他の家族の匂いやら何やらが混ざり合って、その家独特の匂いが生まれるはずなのに。
「お待たせ」
 生まれた疑問を考え込む間もなく、結がリビングに戻ってきた。黒い無地のTシャツにジーンズという洒落っ気のないもの。ま、俺も同じようなもんだけど。
 ――そういや結の私服見るのは初めてだな。
「なあ、結。……もしかして結って一人暮らしか?」
 生まれたばかり疑問を口にすると、結はかなり驚いたようでさっきまで合わせなかった目を思いっきり見てきた。
 その感じが、どうしてわかったんだ、と訊いているように思えて、俺は実際訊かれてもいないのにさきほどの考えを結に話していた。
「北村くんって、鼻がいいんだね」
 結の感想はこれだけだった。良かった、もし口に出して変態とか言われたら、なんだかへこみそうだからな。
「そういえば、ご飯はどうする?」
 言われて初めて気がついた。
 時間割の関係上、最終日の今日は二時間目で学校は終わって、そして途中で色々寄りつつもまっすぐここに来たおかげで、ちょうど今は昼時だ。
「もし良かったら、僕が何か作るけど……」
 どこか遠慮がちに提案してくる結に俺は首を横に振った。
「俺もいっしょに作る」


 意外なことに、結は酒の存在を許してくれた。
『今まで飲んだことがなくて、一回だけどんなふうになるのか試してみたい』というのが結の弁。
 そういうわけで料理は簡単な和え物や炒め物というほとんどつまみのようなものばかりを作った。それでもやっぱり飯類がないのはさびしいので、いま米を炊いている。炊けたら炒飯なりなんなりに料理しよう。
「んじゃ、乾杯」
「か、かんぱい」
 物慣れない仕草で結は缶を傾ける。その初々しさはずっと眺めていたいような気にさせるものだ。
 あ、もちろん結には先に牛乳を飲ませてある。初心者の空きっ腹にはかなりクルからな。
「そんな酒っぽくないのを選んだけど大丈夫か?」
「うん。少しピリピリするけど、ジュースみたいでおいしい」
 聞けば酒は全部苦いものだという固定観念があったらしく、それを打ち破った甘いカクテルを結はけっこう気に入ったみたいだった。
 そんな感じで珍しく上機嫌を隠さないでいる結に、俺もつい調子に乗って進めてしまい。
 自分の失敗に気づいたのは炊けたご飯をほとんど具なしの炒飯にして、テーブルに戻ってきたときだった。
「もうやめといたほうがいいな」
「やっ、もうちょっとだけ」
 結が持っている缶を取り上げようとすると、俺からしたらかなり小さい手の反抗にあった。
「わかってないだろうけど、結、もうかなり酔ってるぞ。初めてなんだからこれくらいで我慢しなさい」
 言って、力が抜けた時を見計らい缶を抜き取ると、ぷぅっと頬を膨らませてこっちを上目遣いで睨んできた。酒のせいでほんのりと色づいてる顔で。
 それを見ているとなんとなくやばくなりそうだったので、俺はその凄みのない視線を遮るように結の頭を撫でる。
「ほれ、せっかく作ったんだから食べろ」
「うん。いただきます」
 勝手に引き出しから出してきたスプーンを握らせると、これまた珍しくパクパクと口を動かす結。いつもはゆっくり食べる結とは対照的だ。
 ひとしきり結の食べっぷりを観察した後、俺も炒飯に手を伸ばす。自分で言うのもなんだが、今回はけっこううまくできたつもりである。
 一口食べてみて、自分がかなり空腹だったのがわかる。健康な男子高校生。つまみごときじゃ腹はいっぱいにならん。
 そんな感じで思わず食事に没頭してしまった。だけども結の手が止まっていることに気づいて、俺も手を止める。
「結……?」
 ついさっきまで上機嫌でいたはずの結から、一切の感情の動きを感じることができなくなっていた。
 ただぼんやりとした様子で俺を見つめてくる様子は尋常ではない気がした。
「もしかして、気持ち悪くなったか?」
 質問すると首を横に振って答える。そのやり取りを数回しても、やはり結は黙って否定することしかしなかった。
 ――それならいったいどうしたんだ?
「あのね、北村くん…………もし僕のことが嫌になったら、すぐに言ってね……?」
「は? いきなり何言ってんだよ?」
「大丈夫。僕、嫌われるのには慣れてるんだ」
 酒に酔って上がったテンションが急に下がってしまったからの言葉だと、この時は思っていた。
「理由もないのにいきなり嫌いになるわけないだろ?」
 結は酔ってるのだから落ち着かせるような言葉を選んで言う。
 でも結は首を振った。
「僕なんかが人に好きになってもらえるはずないもん」
 言っていることとは逆に結の顔は笑っていた。ただし隠れている目がどんな表情をしているかはわからない。
 この時、酔ってはいても結は本当のことを言っていたんだ。
 俺にはとうてい理解できない、本当のことを……。
「だって……僕ね。今まで二人の人に、『おまえさえいなければ』って言われたんだ……」





「首を……絞められながら」





「…………な……?」
 最初は自分の耳を疑った。
 次に結が嘘をついてるんじゃないか、と疑い、しかしそんな必要性などどこにもないことにすぐに気がつく。
「僕ね、お姉ちゃんがいたんだ」
 それに、結がこんな嘘をつくはずがない。
「お姉ちゃんはね……僕より七つ年上で、すごく優秀で、優しくて……僕は小さかったけど一番の自慢だったんだ」
 俺が何も言えずにいるうちに、結が言葉を続ける。
 口を、笑みの形に固定させたまま。
 いつもどおりに聞こえる結の声。
 ともすれば、楽しげに思い出を語ってるようにも見えるその姿に……けれど違和感ばかりが積み重なっていく。
 それでもその違和感はすぐに消えた。
「だけど、僕が小学校の、三年生の時ね……」
 結の言葉によって。
「朝、歯を磨いてたら、いきなり言われちゃったんだ」


 後ろから来たその姉に、首を絞められながら。
『おまえさえいなければ』と。


「……………………」
 奇妙なほどに口の中が乾いている。
 本当に、あまりにも唐突な結の言葉に俺はまともな言葉を何も返すことができない。
「……僕、小学生の時まで喘息があってね。本当になんにもできなくて、家族に迷惑ばっかり掛けてて……」
「だ、からって……」
 喉に引っかかるような声で、なんとか結の言葉を止めようとする。これ以上、話させてはいけないような気がした。
「お姉ちゃん、学校でいじめにあってたみたいなんだ」
 けれど結は淡々と話し続ける。
「僕がいるせいで、お姉ちゃんは、両親に頼ることが出来なかったから」
「……そんなの、結のせいじゃないだろ」
 ようやくまともな声が出せた。しかしそれも掠れきっている。
 どう考えても、結が悪い所などどこにもない。
 悪いのは幼かった結にそんな最悪の八つ当たりをしたその姉か、そもそもいじめをやった奴らに決まってるのだから。
「僕のせいだよ。そうじゃなきゃ……お母さんがあんなことするはずないもん」
 最悪な予感がした。
 今まで二人の人に……結はそう言った。じゃあそのもう一人とは? ……一つしか答えが考えつかない。
「次の日にお姉ちゃんね、死んじゃったんだ。遺書も何もなかったけどね、警察の人は、自殺したんだろうって」
「なっ……」
「母さんが少しずつ変わっていったのはそれから」
 ――まただ。
 結はこんな嘘をつかない――つく必要がない。つまり結は真実を話しているはずだ。
 それなのにこんな内容の話を、結は淡々とした、いつもの調子に聞こえる違和感だらけの声を続ける。
「お姉ちゃんがいなくなっちゃったのは僕のせい」
「そんなことな……」
「お母さんが、そう言ってた」
 今度は状況を明かさなかったが、おそらくそれも首を絞められながら言われたんだろうと想像が付いた。
 たぶん、もっと酷い言い方で、棘だらけの言葉を結にぶつけながら。
「結の、親父さんは何やってたんだ?」
 普通なら思い出したくないだろうことばかりを口にする結に、せめて……という気持ちをこめて質問をぶつける。
 せめて、何か救いとなるようなことはなかったのか、と。
「……僕が母さんに首を絞められてるのを見て、止めてくれた」
 内心ほっと息を吐く。ちゃんと結に味方がいてくれたのか、と勝手に思い込んでしまった俺はどこまでも浅はかだった。
「北村くんは……一回見たよね?」
「あ…………?」
「僕の、顔」
 言われて、初めて結を家に招いた日のことを思い出す。今よりもさらに長かった結の前髪を上げた時のこと。
 その時の結の反応を。
「僕の顔ね、お姉ちゃんとお母さんに……そっくりになっちゃったんだ」
 気づけば結の口からは笑みが消えていた。
「だから、僕は父さんからも遠ざけられた」
 話し出す前の、まったくの感情が読めない顔になって、結はさらに言葉を続ける。
「僕を見ると、死んでしまったお姉ちゃんを……おかしくなったお母さんを思い出してしまうから」
 だからこのマンションをあてがわれたのだと結は言った。中学からずっとここで暮らしているとも……。
「僕さえいなければ、お姉ちゃんは死ななかった。僕さえいなければお母さんは優しい人のままで……父さんたちは別れることがなかったんだ」
 どこか支離滅裂とした、しかし結の中の事実を吐き出す。
「僕さえいなければ、家族がばらばらになることは…なかった」
「……んなこと、あるわけないだろっ!?」
 どこをどう考えれば、結が悪いということになるのかさっぱりわからない。
 自分さえいなければ……そう繰り返す結を見ていられずに、思わず大きくなってしまった声を抑えることを、俺はしなかった。
「あのな、なんで自分が悪いなんて思うんだよっ!? 今の聞いててもどうして結がそんな目にあったのか、俺にはちっともわからん! むしろ悪いのは結をそんなふうに苦しめてるあっちの方だろ!?」
 これまで結の淡々とした声しか落とされていなかった部屋に、俺の怒鳴り声が響いた。
 我知らず立ち上がっていて、そこから結の黒い頭を見下ろす。
 そしてゆるゆると俺を見上げた結は。
「だって……しょうがないよ。僕が、悪いんだから」
 あまりにも違う温度差に眩暈すら覚える。
 なんでそこまで……と考えて、結を取り巻いている違和感の正体に、俺はここでようやく気づいた。
 普通、こういう話を切り出してくる奴というのは、大抵はこんなふうに淡々と話をしない。笑い話に仕立てたり、聞いた話のように披露したり、もしくは同情を引こうとした話し方になる。
 しかし結はまるで教科書を音読するように、無感動に淡々と自分の過去を話している。
 それは……結が慰めも同情も共感も、何も欲しがっていない証拠に思えた。
 子供のころ、一番信頼できるはずの肉親――絶対的に自分を守ってくれるはずの人間達から、結は否定されてしまった。
 その衝撃はまったく俺にはわからない。けれど想像はできる。
 小さいとき、俺は両親に約束を破られたことがある。その約束の内容なんて欠片も覚えていないくせに、破られた時のショックだけは未だにうっすらと覚えているほどだ。
 子供の時は心の守り方を知らないから、こんなつまらないことでざっくりと傷ついてしまう。
 それでも『傷』をまったく気にせずにいられるのは、もうその『傷』は治っているからだ。その後の両親が、環境が、『傷』を治す手助けをしてくれたからだ。
 けれど結は俺とは比べ物にならない、一人では治せないほどの深い『傷』をつけられて、それを完全に放って置かれたままここまで来てしまった。
 慰めや癒しを貰えないことが、結にとって当たり前になってしまっている。
 だからこそ結の中では自分が悪いということで、全てが完結してしまっている。その誤解をまず正してくれるべき人間達が全員、結のことを裏切ったのだから。
 そこまで考えて、俺は腰を下ろした。
 こんな季節なのにうっすらと寒気がしてくる。
 おそらく間違っていないだろう自分の想像が恐ろしかった。
「……結」
 さも理解しているように、相手を思いやるように慰めることは意外と簡単だ。でも、今の結にそんなこと口先だけのことはしたくはなかった。
「なんで、この話を俺にしたんだ?」
 こんな内容の話をいきなりした理由はなんなんだ、と問いかける。
 その理由こそが、結が俺に求めているものかもしれないと思った。
「うん。だからね、僕、嫌われることに慣れてるんだ」
 いきなり、この話の最初のセリフを繰り返されて面食らう。
「北村くんも、僕のことなんか嫌いになる。……だから、そう思ったらすぐに言ってほしいんだ」
「だから…っ、俺言ったろ? なんの理由もないのにいきなり結のこと嫌いになるわけないって」
 俺もまた同じ言葉を告げて、さらに付け加える。
「だいたい、なんで俺が結のことを嫌いになるっていうのが決定事項なんだ? 俺としてはこの先も付き合いを続けていきたいと思……」
「どうしてそんなふうに思えるの……?」
 俺のかなり真面目な思いは、平坦な声によって遮られる。
「家族にも好きでいてもらえない僕が、どうして他の人に嫌われないなんて言い切れるの?」
 言われて、ぐっと言葉に詰まってしまう。
 こういう時になんと言えばいいのか、そんな言葉を俺は持ち合わせていなかった。
「それに……北村くん、言ってた。『元カットモデルにはなんの関係も無い』って」
「なんだそ……」
 なんだそれは、と言いそうになって今日ここに来る途中のことを思い出した。
 今、結が言ったのは、俺が元カノに言い放ったものだ。
「北村くんが僕に構ってくれるのは……僕の髪がちょうど良かったからでしょ……?」
 それは、たしかに俺が結に告げた言葉だ。最初にカットモデルを頼んだ時、たしかに俺はそんなことを言った気がする。
「あのな、結。そりゃそういう言い方したけどな? 全部が全部そうだってわけじゃ……」
「カットモデルが終わったら、髪が魅力的じゃなくなったらっ、北村くんは僕のことなんかどうでもよくなる……嫌いになる……!」
 言ってるうちに興奮してきたのか、結の口調はあの無感動のものではなくなっていた。
 いっそ無感動だった方がマシだったと思ってしまうほど、悲痛なものに。
「何回言ったらわかってくれるんだ? 仮にカットモデルが終わったとしても、それでどうして嫌いになるんだよ?」
「北村くんは僕のことを良いカットモデルって言ってくれた。けど……僕よりもっと良い人が見つかったら、僕は北村くんに顔も見せちゃいけないんだよね……?」
 噛み合わない会話。
 あまりにも聞く耳を持たない結に、俺の方もイライラとしてきた。
「なんでそうなるんだ? いい加減俺の言うこと信じろよ!?」
 つい本気の声量で怒鳴ってしまって、結が肩を弾ませるのが視界に映る。
「だから……だよ」
 俯いた結がポツリと漏らす。
「何が……」
「北村くんが言ったこと考えたら、その結果しか考えられないんだもんっ!」
 ――俺が言ったこと?
 俺が言ったことが、『俺が結を嫌う』ことに結びつくらしい。結が言うには。
 結の中で何がどうしてどうなっているのか、ちっともわからない
 思い出すまでもない。
 俺は結に悪意も敵意も、悪感情を向けた覚えなんかないからだ。
「髪にしか魅力がない……って北村くん、あの人に言ってたでしょ? それ僕にだって当てはまる」
「あれはあいつに言った言葉だろ!? 結に向かって言ったわけじゃない」
 言い聞かせるような俺の言葉に結は首を振った。
「あんなに可愛くて、それで北村くんのことを好きって思ってる女の子に価値がないんだったら、僕は…どうなるの?」
 結の口がまた笑みを形づくる。それなのに泣きそうな声で、また俺に問いかけてきた。
「あの人より良い所なんて、髪しかない。でもそれが終わったら、僕なんか……っ!」
「あんなのと自分を比べるな。あいつに比べたら結の方がずっと性格が良いし、俺がそばにいて楽しいのはだんぜん結の方だ」
 心からの、嘘偽りの欠片すらない俺の言葉を、結はまた信じようとしない。
 どこまでも頑なな結に、思わず俺は額に手をやる。
「なあ、結……。そんなふうに自分を貶めて考えるなよ。他の奴らはどうかは知らないけどさ、俺にとって結は大切な――――」
 ――…大切な?
 まったく何も考えずに、口から出てきた言葉に自分で困惑する。
 俺は、いまなんて続けようとした?
 クラスメイト? カットモデル? 友達……? 
 結との繋がりを表す言葉を一つずつ並べていって、けれどそのどれもが今自分が言おうとしていたものではない気がする。
 ――なんだ…? 俺は、何を……。
「大切って何?」
 ポツリと呟かれた声は、ぞっとするほどになんの感情も含まれていなかった。
「ゆい…?」
「なんでそんなこと言うの? なんでそんな在りもしないことを言えるの!?」
 次の瞬間、あの結が激昂していた。
「在りもしないなんていうな。……ちゃんと結のことを大事に思ってる奴がいるはずなんだから」
 少なくとも俺は思っている。
「もう、わかってるくせに…どうしてそんなこと言えるの!? 家族全員に嫌われて! みんな僕のこと大切になんかじゃなかったって、もう知ってるのに、どうして!?」
 宥めるつもりの俺の言葉は逆効果でしかなかった。
 聞いているだけでこっちが苦しくなってくる声で、結は叫ぶ。
「……たしかに。結の家族に関しては、そうかもしれない。だけどな、結。それはそいつらが悪くて、結が悪いわけじゃない」
 どうにか落ち着かせたくて、俺は結の隣に行って、近くでゆっくりと言い聞かせる。
「じゃあ……僕は、何もしてないのに首を絞められたの? 何もしてないのに、いらないって言われたの……? 悪くないのに、こんなふうに一人で遠ざけられなくちゃいけなかったの……っ?」
「ちがうっ!」
 ――くそっ。
 俺の言葉は、ことごとく結のことを追い詰めてしまう。どうすればちゃんと意味を伝えられるのかわからない。
「ちが、わないでしょ…? 僕は、何もしてないのに人に嫌われちゃうんでしょ? だったら…それを早く言ってもらいたいって間違ってないでしょ!?」
 行動に移す前に、口で言ってほしい。そうすれば、自分はちゃんと遠ざかるから。
 あまりにも悲しいことを、結は本気で望んでいる。
「そんなこと、言うなよ。あのな結、俺は――」
「僕を大切だと、大事だと思ってる人なんかいるわけない!」

――――ブツリ――――

 何かが切れるような音が、自分の中でした。
 許せなかった。
 自分自身を否定し続ける結を。
 他人――俺までをも否定する結を。
「なに……っ?」
 椅子に座っている結の腕を掴んで無理やり立たせる。
 そして俺は逆の手を結の頭に回して、結の両足を払った。
「あっ……?」
 結果、俺が結を組み敷くような体勢になる。
「きたむら、くん?」
 結は心底驚いているようだった。
 倒れたときに前髪が全部めくれていることに気づいていないらしい。
 俺がまた見たいと思っていた、結の顔。
 まるっきり無防備な表情。大きな目をさらに見開いて俺を呆然と見上げてくる。
「……おまえの父親が、結のことをどう思ってるかは知らないけどな。俺は結の顔が好きだな」
 理解できていないのか、俺の言葉に結の表情は変わることはなかった。
 けれど結の腕を放して、その手を結の顔に持ってくるとびくりと目を閉じる。
 その小さな顔が可愛くてしょうがなかった。
 だから――。
「え、んぅ……っ!?」
 結の驚きの声はまともな声にならなかった。
 俺がキスをしたからだ。
 よほど驚いたのだろう。結の口は驚きの声を上げようとしたまま、つまり開いたまま固まっている
 ちょうど開いていたので、俺はそこに舌を入り込ませる。
「んんーっ…」
 結の声を無視して、俺は舌を動かし始めた。
 まだ二回しか見たことのない結の瞳を、じっと見つめたまま俺は好き勝手に結の口の中を犯していく。
「…っふ、ゃ……」
 上顎を、舌の裏側を尖らせた舌先でくすぐっただけで、結の身体から力が抜けていった。
 それに気を良くして、俺はさらにキスを深いものにしていく。
「……ぅ…………」
 けれど俺の動きはいとも簡単に止められてしまった。
 理由は……結が泣いていたから。
「……………………」
 声も上げずに、ただ涙だけを流す結を見て一気に血が下がった。
 過去の話をする時も、俺の言葉を誤解して激昂した時も泣かなかった結が、泣いている……。
 誰がどう見ても、俺のせいで。
「ごめん……」
 結の上からどいて、なんの実にもならない謝罪を告げる。
 どうしてこんなことをしてしまったのか、自分でもわからないせいで、何を一番に謝ればいいのかわからない。
 決して声を漏らさないまま結は起き上がって、そして俺に背を向けた。
 その細い肩は震えていて、俺がどこまでも愚かなことをしてしまったのかを伝えてくる。
 これ以上、俺がここにいるだけで結には負担になってしまう。
「……悪かった」
 適当にしていると取られても仕方のない謝罪をして、俺は立ち上がる。
 こんなことをしておいて逃げ帰るのか、と責めるような声が心の中で聞こえたが、それでも俺はここにいることができなかった。


 俺を引き止める声なんか……あるわけがなかった。


「森本ー」
「はい」
「安岡ー……安岡? 珍しいな欠席か…」
 どこかほっとしている自分に気づいて自己嫌悪に襲われた。
 日曜日を挟んで、今日は月曜日。
 試験休みなどというものはかなり前に消滅したらしく、定期試験が終わったというのに俺たち生徒は普通に授業を受けている。
「……はあ」
 溜息が漏れてしまう。試験休みがないことに対してではない。
 ……土曜日、定期試験最終日に結の家で起こった……起こしてしまったことが延々と頭の中を回っている。
 初めて余裕で高校の試験をクリアして。そして初めて結の家に遊びに行って。
 楽しいことばかりの一日だったはずだ。
 それが狂いだしたのは、結の家に向かう途中、元カノに会ってから……いや、これは人のせいにしちゃいけない。
 俺が結にしてしまったことは、全部、俺の責任だ。
 どうして結があんな話をしたのかはいまだにわからないままだ。けれど時間を置いて冷静に考えてみれば、ある程度は納得できた。
 幼い頃に肉親全員から否定されれば、ああいうふうな考え方になってしまうかもしれない、と。
 俺にはどうすることもできないかもしれない。
 けれど、結がずっとあのままで、ずっと自分を責め続けていくなんていうのは我慢ができなかった。
 だからこそ説得しようとして……そして否定されて俺はぶちぎれてしまったわけだ。
 そのキレる方向性は……どう考えてもおかしかった。
 なぜあんなことをしてしまったのか、と日曜日を丸ごと使って自問して。
 消去法で残った理由は……いかにも俗っぽいことだった。
 ――…一人暮らしの女の家に行って、酒飲ませて酔わせて、そして押し倒した挙句……。
 自分がしでかしてしまったことを一つずつ挙げていけば、いっそ俺なんぞ死んだ方がマシなんじゃと思ってしまう。
 最低最悪なことをしてしまったおかげで結に会うのが、怖かった。
 そんなことばかりを悶々と考えているうちに短縮の時間割になっている授業は全て終了して、放課後のHR。
「あ、北村。ちょっと」
 HRもつつがなく終わり、いざ帰るときになって担任に呼ばれる。
「このプリント、安岡のとこに届けてくれないか?」
 言われて渡されたのは、たった今のHRで配られた用紙。
「……は? 明日とか、結が来た時にでも渡せば……」
 俺が結の家になんか、行けるわけがない。
「最終の提出期限明後日なんだよ。それに判子押してもらわないといけないし」
 仮に明日も結が休んだら、まためんどくさくなる、とこのダメ担任は話す。
「いやまあ、ここだけの話。これもっと前に配んなきゃいけなかったんだけどな? つい忘れてたっていうか……」
 言いつつ、誤魔化すような笑みを浮かべる担任。これはダメが一つではすまないな。
「それにほら、最近おまえら仲良かっただろ?」
 ずん、と腹の底が重くなる。
 その情報は間違ってはいない。……土曜日に学校にいた時点では、俺たちは普通の関係だった。
 それを、俺が崩したんだ……。
「じゃ、頼んだからな」
 言い残して、担任は教室を出て行く。
 これを届けない、という選択肢はない。修学旅行の参加不参加を届ける用紙だからだ。
 これを未提出にすれば、最悪、結は修学旅行に行けなくなる。
 だから、俺は行かなくてはいけない。
「…………だけどなぁ……」
 溜息に似た息が漏れる。


 俺はどのツラ下げて結に会いに行けばいいんだ……?



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最終更新:2009年01月15日 00:47
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