耳を澄ませる……
獲物までの距離は30……20……10―――!
どさっ、という音と共に木々に留まっていた鳥達は飛び立って、その頃になってようやく俺は茂みから身を乗り出した。
手にはハンマー。落とし穴の中の獲物に向かって、振り下ろす。
この感触は何度味わっても慣れないもので、それでも俺は繰り返しそれを振り下ろした。
体毛は類人猿のように生え、足の裏の皮は分厚くなり、爪は鋭く尖っている。それが俺。
これで髪を伸ばしっぱなしにすれば完璧に歴史の教科書によく載っている彼等だけど、欝陶しいので短くはしてある。
獲物を抱え上げると、家へと持ち帰る。
幸いな事に、家はすぐ近くだった。少し崖を降った所にある横穴。それが今の俺の住家。
パチパチと薪が弾け飛ぶ。この暮らしはもう何年目だろうか。
我ながら変に逞しい自分を呪ってやりたい。
でも、ここもこれでいて中々快適な暮らしを……いや、本当は戻りたい。けど、今の俺じゃ皆を驚かせるだけだ。
俺だって、まだ見ぬ家族に迷惑はかけたくはない。
こんな時、少しだけ故郷が恋しくなる。
毎週欠かさず見ていたテレビ。騒がしい友達。母さんが作る美味しいご飯……
俺を包んでいた暖かいものを思い出して、空を見上げる。
この空の下、確かにあの世界はあったのだ。
見上げた空、蒼の彼方にある太陽の光が差し込んで、思わず目を逸らす。
―――刹那、視界の片隅へ煙を上げながら遠くへ落ちていく飛行機。
俺の視線はそこに釘付けになった。
蘇る、悪夢。蘇る、出来事―――
俺は走り出していた。
なだらかな岡を越え、鬱蒼と繁る密林を抜け……俺が着いたのは、狭い砂浜だった。
岩陰に隠れ、辺りを伺い見る。
目の前に広がる光景は、あまりにも自分の遭遇した事故と似ていた。
竹を割ったように真っ二つの飛行機。
燃え上がる、海面。
砂浜に打ち上げられ、動かない人々。
思い出す、血まみれの両親。
動かない、人々。
泣き叫ぶ、幼い頃の自分。
ズズン…と飛行機の一部が弾けた。
腹にまで響くようなその音に、俺は過去の自分を重ねていた。
確かあの時も、同じように……
「お母さん! お父さぁん……あああああぁぁん……」
そう、彼のように泣いたんだ。
砂浜に独り立ち尽くして、動かない塊を見つめながら。
俺自信、極度の対人恐怖症みたいな感じだったんだと思う。
もう何年も会っていないヒトから、俺は逃げ出そうとした。
……そして、迂闊に岩陰から出た自分を呪ったんだ。逃げようとしたけど、足が震えて立てなかった。
なんせ今の俺はもう、人間じゃ無いようなみてくれだから。
……だからこそ、驚いたんだ。
「お兄ちゃん、手伝ってくれる?」
少年はこんな姿の俺に怖じけづく事なく話し掛けてきた。
それどころか、まだ小学生位だろうに、両親の『死』を受け入れていたんだから。
「これでよし、と」
落ちた枝と蔦で作った即席の十字架に手を合わせる。
神様はいつだって非情で、子供にばかり試練を与えるのだ。
俺が同じように手を合わせると、少年はしゃくり上げ始めた。
唇を食いしばり、必死に我慢しようとしているみたいだけど、やはり零れる、溢れる。
俺は自分の過去を思い出していた。こんなに、強く泣けていただろうか。
慣れない暑さと環境は辛くて、焼け焦げた人の肉の臭いに嘔吐した。
あの頃の俺は誰もいないこの場所で、真っ暗な夜を歩いた。
……でも今は、俺がいてこの子がいる。
俺は、一人ではなくなったのだ。
俺は何がしてあげられるあだろう?
不謹慎ながら彼が来てくれて、よかった。
でも俺には、彼にしてあげられる事はここでの生活を教える事だけだった。
「君……名前は……?」
ようやく鳴咽の治まった彼に尋ねると、彼は振り返って口をパクパクと動かした。
―――刹那、喉を押さえ、困惑の色が広がる。
「お兄ちゃん、手伝って」
それが、俺の聴いた最初で最後の彼の言葉だった。
最終更新:2008年07月21日 20:26