『声を聴かせて』~第三章~

すっかり砂浜で寝こけてしまった俺は、葉月に突かれて目を覚ました。
頬や二の腕を悪戯をするようにつつく葉月は、起きた事に気付くと『おはよ』と口を模った。

頭を掻きながら欠伸をしていると、今度は肩を叩かれた。
砂浜を指差し、葉月は俺にこんな事を聞いて来た。

『もしも僕が女の子になったら、どうする?』

それは勿論、言葉ではなくて文字。葉月の、唯一何かを誰かに伝える手段だった。
独特の丸い文字だ。

「女に? まぁなるわきゃないけど、そーだな……」

目を閉じて、考える。
女……この島に来てしまってからは、生きている女には会っていない。
もしも葉月が女だったら俺は、どうしたんだろう―――

そこまで考えて、また肩を叩かれる。
くりくりとした大きな目で、俺と地面を交互に見ている。
地面に目が移ったところで、葉月はまた何かを書き始めた。

「ん? お…よ…め…さ…ん…に…し…て…く…れ…る…? ……は? え? 嫁? 俺の?」

男にこんな事言われて狼狽する俺はどうなんだろう。
ちょっと自分が情けなくて、俺は肩を落とした。
葉月は、未だに目を輝かせて返事を期待しているようだ。



仔犬が尻尾を振りながら、餌を待つように。
そんなたとえがよく似合っていた。

「葉月、ある訳ないだろ」

そう言っても、葉月は俺の腕を掴んで離さない。
ぶんぶんと首を横に振って、それはさながらだだをこねる子供のように。

「んー……ま、有り得ないが……葉月なら、喜んで」

俺がそう言った瞬間の葉月の表情の変貌ぶりは凄かった。
つぼんでいた朝顔が咲くように、笑顔が零れた。

洞窟に戻ると、葉月は『正』の数を数え始めた。
彼がこの島に来て以来、初めて電源を入れた『ケータイ』という道具と見比べながら。

その姿を見ながら、ぼんやり俺も考える。俺はもう何年、何日ここにいるんだろう。
もししっかりと記していたならば、と考える。正確な年齢なんて知る術も無かった。
記していたとしても、恐らくその『正』の数も物凄いものになっているだろう。
1年365日、年に73個の『正』が増えていく事になる。おそらく、500個は越えるのだから尚更だ。



―――ツンツン

狩って来た獲物(猪)の干し肉を作っていると、葉月につつかれた。
振り返ると、何やら屈託の無い笑みを浮かべて立っている。
葉月は俺の腕をくいくいと引っ張っている。
どうやら連れていきたい場所があるみたいだ。

「ん? しっこ?」

取り敢えずからかってみると、ほっぺをふくらませてジト目で見られた。

「わかったわかった、そう怒るな」

頭をくしゃくしゃと撫で、俺は立ち上がる。
今日はどこに連れてってくれるんだろうか。

葉月はすっかり慣れた足取りで林を駆けた。
もう2年以上もここにいるんだから当たり前といえばそうだけど、最初は大変だったのだ。
突然親を失い、声を失い、彼に残ったのは小さなバッグと自分の身体だけだった。
この島で暮らしていく知識も体力も持ち合わせてはいなかった。
辛そうに山道を歩く葉月を見て何度も背負おうとしたが、彼はそれを頑なに拒んだ。

―――多分、解っていたのだ。
俺を見て、何日経っても救助が来ない状況を見て、生きるには強くなるしかないんだ、と。
当時11歳だった葉月だが、頭が良かったのだ。
勿論勉強がどうだかは解らない。でもそんなものここでは関係ない。
要は、どうすれば生きられるか。自分は今どんな状況なのか。
それをありのままに捉えられる奴なのだ。



俺の手を引きながら、おそらくあの浜辺への道無き道を進む。
碧い海の中のような木漏れ日が、俺達を包んでいる。
カラッとした暑さは心地良く、遠くで鳥が鳴いている。

葉月の背中を追いながら、また思い出す、あの頃。
あの小さな背中は、縮こまって丸まっていた背中はもう無かった。
今目にうつるのは、しなやかに一回りも二回りも大きくなった男の背中だった。

この密林を抜けて、顔面岩を過ぎて岩場を少し下る。そうすると、もう海だ。
遠浅の、比較的波の穏やかな浜。葉月は何か伝えたい事があると、必ず俺をここに連れてくる。
もちろん住家にも平たい岩と炭という代用品はあるんだけど、余程ここが好きなのだろう。代用品は、あまり使われなかった。

葉月は漂着物を一通り漁ると、砂浜に腰をおろした。
少し離れた場所にいる俺に小石を投げる。
手招きと自分の隣をポンポンと叩くジェスチャーで、俺は葉月のもとへ向かった。

俺が隣に座ると、葉月は持っていた木の棒で砂浜に文字を書き始めた。
ウキウキと、踊るような手つきで何かを真剣に書いている。

「えー…何々? あ…と…1…ね…ん…? …ん? 何があと一年なんだ?」

葉月は一度俺の顔を見てニッコリと笑い、再び書き始めた。

「1…5…さ…い…? おぉ、15歳の誕生日って事か? もうそんなになるのか……」

複雑な、気持ちだった。
この島で暮らし始めて、俺は自分の歳を数えるのを止めた。
祝ってくれる人もいない。誕生日なんて、死へ一歩近付くだけの話だった。
口には出さないが、誰かが救助に来てくれるかどうかもわからないのだ。
無駄な考えは捨てて、今とこれからを生きる事だけを考えて生きて来た。

……でも、葉月はそんな希望を捨てずに、今も生きている。
このまま、ずっとこの島で暮らさなければならないかも……そんな事は、言える訳がなかった。

突然俯いた俺の顔を、葉月が覗き込んだ。
眉をハの字にして、心配そうに俺の腕を掴んだ。

「……心配…してくれたのか?」

葉月は小さくコクリと頷くと、何かを走り書いた。

『どうしたの? どこか痛い?』

小動物のようなつぶらな瞳をパチクリさせながら、また覗き込んでくる。
この優しい子に心配かけてちゃいけないな……

俺は鼻もとを手で擦りながら、不機嫌そうな顔で、葉月を睨みつけた。
硬直する葉月。何故か目には涙が浮かんでいる。
俺はそのままの顔で鼻を啜り、言った。

「……くしゃみが出そうで出ないって、気持ち悪くね?」

寄せては返す、波の音が響いている。

……ひっ!

葉月の身体が、僅かに揺れた。

……ひっ…ひっ……

顔に腕を当て、しゃくりあげる。
うん、泣かせてしまうとは予想外だ。

『驚かせんなよなー!』ばちーん!

くらいなモンだと思ってた俺が、今度は狼狽する番だった。
結局、泣き止むまで待つしか出来なかったけど。


「……なぁ、悪かったって」

まだ鼻をぐずりながら、顔を上げない葉月の頭を撫でる。
随分情けない姿だが、気にしない。
独りになってしまうのが、今は何より恐ろしいから。

やっと顔を上げた……と思ったらジト目のまま、棒を踊らせる。

「……う……わかったからそんな目で………ん? せ…き…に…ん…と…る…? わかった、何でもするよ」

葉月は一瞬、何かとても嬉しそうに目を見開いた。
すると、身体を翻し、反対側に何かを書き始めた。

こういう時、覗くとしこたま怒られるのを俺は知っている。
以前『ケータイ』とやらを覗こうとしてかなり怒られた。
……複雑なお年頃、ってヤツだろうか。

そんなくだらない事を考えていると、葉月はいつの間にか俺を見ていた。
まだ薄赤い目を擦りながら、手でジェスチャーを送ってくる。
どうやら『見ろ』ってことみたいだ。

「ん? どれどれ……」

俺は立ち上がって、葉月の身体の陰になってる部分を覗き込んだ。

【ぼくと いっしょう いっしょにいて】

「…………プッ」

思わず吹き出した。あ、睨まれてる。
だって、何を真剣に書いてるのかと思ったら、あんまり可愛い事を書いてあるんだもんな。
また頬っぺたを膨らませながらポカポカ叩く葉月の手を制しながら、俺は謝った。

「あーすまんすまん。わかったよ、約束する。ずっと一緒だ。―――ほれ!」

小指を差し出して、指切りをする。
メロディーも何も無い、ただ指を絡めて揺するだけの約束。
……なのに、葉月の顔は晴れ渡った。
ニコニコと何度も何度も腕を振る。

時俺は、聞いておくべきだったんだ。気付いておくべきだった。
何故そんな、ある訳がない例え話をするのかということを―――







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最終更新:2008年07月21日 20:27
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