リレー『sideコゲ』その4

 痛いと感じたのは、一瞬だけだった。次に迫ってきたのは、熱。

 自らの罪と罰の証が閉じてしまわないように―――
 俺は重い腕を浸してゆく。

 水の中に拡がってゆく紅い煙が、俺が与えた悲しみのように、零れて落ちる。

 洗面台の傍に立ちながら、ただただ目の前に広がってゆく、紅い海。
 陽も落ち、誰もいなくなった校内で水音が響いていた。

 既に水面の先は見えない程に水は色を変えていた。
 それは赤く、赤く、紅く―――

 ―――あぁ、何だか力が入らなくなってきた…

 カチャン とカッターナイフは小さく音を立てて床に落ちた。
 その刃に付いた薄紅の跡が霞み、歪む。

 ―――あれ?暗くなってきた…

 ―――それに、寒いや…

 体に力が入らない。視界も薄暗くぼやけ始めてきた。
 俺は何かに縋る様に膝を着き、洗面台に伏せる。
 薄暗い世界の中、鏡に映った自分は何と愚かで醜いのだろう。


 流れ出る水の音が薄れていくに連れ、心に上塗りされた懺悔が、剥がれて落ちてゆく。

 ――それは恐怖。

 ――それは孤独。

 ――それは愛情。

 ―――嫌だ、嫌だ、嫌だ!怖い、怖いよ…誰か…助けて…誰か―――!

 それは声にはなれずに涙となって頬を流れた。

 少女の意識は最早風前の灯だった。

「………は……つな……?」

 ―――どこにそんな力があろうというのか。
 少女は目を閉じる直前、確かにそう呟いた。

 薄れゆく世界の中で、彼女は何を見たのだろう?

 蒼白い顔は、どこか安らかに眠っているようにも見えた。


 ―――ここは…どこだ…?

 俺は見知らぬ場所にいた。
 歩き出そうにも指先一つ動かすことは出来ず、ただそこを眺めている。

 暗い…本当に真っ暗な世界だ。人どころか月明かりさえないような、永久の闇。

 ―――なんでこんなところにいるんだ…?

 ―――俺、何してたっけ…?

 ―――駄目だ、何も思い出せない…

 絶望が心を満たそうとしていた。
 しかし、その絶望はどこかに流れ落ちてゆく。

 ―――あぁ…あぁ…

 ―――逢いたいよ…

 暖かい、感情。
 それは心の穴を被う様に、大きくなってゆく。

 ―――何を、しているんですか?


 ――それは突然だった。

 目の前に現れたのは、一番待ち望んだ人。

 ―――何をしているんですか?そんなところで

 暗い世界に、仄かに光が燈る。

 ―――コゲさん、行きましょう?

 差し出される手を、笑いかける彼女を

 ―――さ……生きましょう……

 動かないはずの体で、掴まえる。

 ―――ふふっ…やっと、笑ってくれましたね…



 最後に見たのはいつだっただろう。

 求めて已まないそれは、俺を光の射す方へと―――


 ピッ…ピッ…ピッ…

 調子の整った電子音が聞こえてくる。

 俺はあの後…手首を切った後、どうしたんだ…?

 ゆっくり目を開いたと同時に飛び込んできた天井に見覚えはなかった。
 酷く頭が重く、体を動かそうにも力が入らない。

 点滴の管は一定のリズムで雫を垂らし、俺を生かそうとしている。

 ―――まだ、生きてるのか―――

 ―――こうやって、のうのうと―――

 そう考え、精一杯で管を引き抜こうと足掻く。
 しかしそれは叶わなかった。

「まったく…これだから気を抜けない…」

 カーテンを曳いて現れた白衣の男は、俺の腕を掴みながらそう呟いた。

 俺は、また――― 

 感情は負の連鎖を起こし、俺の顔を醜く歪ませた。


「おい、何でこんな事をした?」

 返答は、静寂…

「あ~…ウチは面倒な事が嫌いだから言うぞ?」
「あの娘がお前を助けなかったら、お前は死んでた」

 なんでそうさせてくれなかったんだ…!心から、そう叫びたかった。
 でも次の瞬間、俺は言葉を失った。

「…あ……………………え…?」


 そして口にしたのは―――

 拒絶して、裏切って、傷付けて…

 ―――今も尚、好きな人の名前


「…………は………つ…な……?」


 ――溢れ出す、涙―――


 男が指した先には、ソファーで寝息を立てる初菜の姿があった。


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最終更新:2008年07月21日 21:14
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