結局、雨が降る#03:大島大河が君によせる愛はジェラシー

浜百合が咲いているところを見ると、どうやらぼくらは海に来ているらしい。
鳴海 延明にとって、こんなレジャーらしい休日は経験の無いことで、未だに現実として受け入れられていない。
岩場に咲く南国の色彩を放つこの花の名前も、車で迎えに来たレスリング部の顧問が口ずさんだ古い歌に出てきたからというだけの知識である。

ここは海。
シーズンよりまだ微かに早く、好き者ばかりがウェットスーツ姿で波と戯れる。
日差しは強いが風はまだ心地よい涼しさで、毒気すら感じる色彩の浜百合を揺らしている。

鳴海 延明はわからない。
自分がなぜここに居るのかがわからない。

言われるがままに修吾と大河に荷造りさせられ、学校から顧問の車に乗せられ訳のわからないまま連れて来られた。

今日から三日、レスリング部の合宿があるのだと言う。

鳴海 延明はわからない。
自分がなぜここに居るのかが未だにわからない。



「と言うわけでね、今年は合宿やりません」

連休前の緊急ミーティングには、体育準備室にわずか二人が集められた。
午後六時とは信じがたい窓の外の明るさと気の早すぎた蝉の声の中、レスリング部顧問は極めて遺憾そうな顔で告げる。

「部員、少なくなったしね……」

レスリング部長、清水もまた遺憾そうな、だがどことなく安堵したかの様にも見える複雑な面持ちで答えた。

「んで、清水センパイも行かないンしょ?」

副部長、大島 大河はそんな相手に問いかける。

「うん……進学切羽詰まっててさあ……オープンキャンパスとか行きまくりで」

「清水はまだいいよ、他の三年はどこ行っちまったんだか……」

「んで一年は交通費が勿体ないとかで行かないって言ってるワケでしょ、不景気な話だよなあ……」

顧問は大きくため息を吐く。

「海、行きたかったなあ……」

清水と大島が顧問に向ける目は冷たかった。

二人は知っている。
レスリング部の合宿とは名ばかりで、内容の大半はレジャーである。
それも顧問が学校の金で海遊びがしたいと言うそれだけの理由で、そのために部員を買収して言い訳を作り、合宿をしている体裁を保ってきたのだ。

「交通費出せば一年も来るんじゃないんスか?」

「いや……そうすると予算が足りないんだ……あとバスも借りなきゃならなくなる……学校のアレで」

「えッ、去年はバス借りましたよね?」

「予算が削減されてンだよ……まあ去年もわりとカツカツだったんだけどな」

顧問は女々しくため息を吐くばかりだ。
五月蝿いほどの蝉時雨がそれを掻き消す。

「うみ……いきたかった……なあ……」

「先生今年なんか子供みたいッスね……」

「あ……予備校の時間なんで行きます」

無情にも清水は一礼して席を発った。

「……」

蝉時雨が淀んだ空気を上塗りする。

「ッ、大体時期が悪いんスよ……夏休み中にすればいいじゃないですか」

「いや……そうすると体育館が予約で埋まってて借りられないし、オンシーズン入るとホテルも高いからって学校に止められるンだよ」

カレンダーを指差しながら顧問が応える。

「七月からオンシーズン、だから六月末ギリギリまでなら許可が出る。ンで、三日間は遊びたいし、そうすると……六月三週の末、創立記念日振替休日で三連休になるこのタイミングなら旅館が取れる、と」

「カンペキにせんせーの都合じゃないですか……」

そして大河は知っている。
前回の合宿、修吾や先輩達と夜の街に繰り出す顧問をこっそり追跡し、二夜に渡って高級で優良な特殊浴場に(こればかりは流石に自費なのだろうが)飲み込まれて行ったことを……

「……うみ、いきたいなあ……」

大島 大河はわかっている。
こう言う状況下で顧問が自分を頼ってくるのは、大概すでにろくでもない解決策を思い付いていて、それを自分に承認してもらいたいのだ。
大河はそう言う汚れ役を常々押し付けられている。

「……行くンですよね、海」

「ウン、予約ももういれちゃった」

「……何人つれてけば偽装できるンすか」

「三人」

「で、おれ、清水センパイ、そんで頼まれたら嫌と言えない静島の三人を想定してたんスね」

大島 大河は勘が鋭い。

「そもそも清水センパイは無理っすよ……真面目だもん」

「あいつもたまには息抜きしなきゃよう」

「去年の合宿、ちゃんとした合宿だと思って着いてきて後悔したっつってましたよ」

それを聞いて顧問はしゅんとなる。

「まぁ……おれと静島は確定として……」

そして大島 大河は何だかんだでお節介だ。

「……一応、一人、心当たりはありますけど……」



修吾からの着信を合図に、延明は大荷物を抱えて玄関を開けた。

「おぃーっす」

「お、おはよう……」

この時になっても鳴海 延明は状況が飲み込めていない。
既に空は夏そのものの様相を呈する。
だが早朝の風は涼やかだった。
引きこもりがちの延明にはそれこそ目眩のするような爽やかさで、修吾と大河はそこに立っていた。

「なんか……随分大荷物だな」

「りょ、旅行って言われて、何持ってけばいいのか、わかんなくて……」

「持つか?」

「だ、大丈夫……」

結局、何を入れたのかすらはっきりと思い出せないボストンバッグは修吾に奪われた。

それこそ、大河から連絡があったのは前日の夜である。
連休の予定は無いと伝えるや否や、突然旅行に連れていくと言われ、てんやわんやで支度をした。

「大河くん、お、お金とかは……」

「へーきへーき、どうせ県内だし」

「えっ」

大河はわしわしと延明の頭を撫でた。

「でもよ、合宿にノブ連れていっていいのか?」

修吾がキョトンとした顔で訪ねる。

「が、が、合宿……!?」 

「おう、せんせーも許諾済」

「え、え!?」

鳴海 延明はわからない。
何を言っているのかわからない。

「へーきだっての、何かオソロシー事が待ってるワケじゃなし」

ああ、なんと恐ろしい笑みか。
恐らくは二人の間で【鳴海 延明ダイエット計画】のような邪悪な企てが成されており、なにか凄まじい研修施設のような場所に囚われ血を吐くような地獄が待ちかねているに違いないのだ。

「あ、あ、あの」

だが荷物はすでに修吾の手の内だ。
あの鉄腕から全財産の入った鞄を取り戻すのは不可能である。

気づけば既に校門の前で、見るからにレンタルの白いワンボックスカーが軽快にクラクションを鳴らす。
否、それは世界の終焉を告げるラッパの音、滅びを運ぶ黒き馬車の……

「お元気ですかァ───?」

窓からグラサンバッチリ決め込んだ顧問が白い歯見せて笑いかけた。

「お(はようご)ざ(い)まぁ───ス」
「う───ス、おはようございまース」

地獄の担い手が挨拶した。

「おーッ、コロちゃんも来たかァー」

「ぶヒッ!?」

「ん、今豚がいたな?」

「いねェよ」

既に闇の洗礼名もついていた。

「よォーシ、後ろ開けッから荷物のせろーッ」

「あ、の、せん、せ」

延明はガタガタ震えながら顧問に話しかけた。

「コロちゃァ───ん、お元気ですかァ───?」

「こ、ころ、ちゃ……ッ?」

「せんせー、だからそれ定着しないよ……ほら延明乗れ、修吾はその隣ッ」

「あ、あ」

問答無用で延明はワンボックスの中に転がされ、大河は助手席に乗り込んだ。

『窓辺に───たたずんでる君を見てると───』

「うわッまた陽水聴いてるし……」

「好きなンだ、いいじゃんかよぉ」

流行り歌ばかりのラジオよりかは幾分はマシかもれない。
未だに空気の呑み込めない延明に続いて修吾も乗り込んだ。

「ん、なんだノブ、トイレか?」

「いや、そうじゃない、けど……」

「ほら、シートベルト締めろォ、行くぞォー」

そして車は滑り出す。

『君によせる愛は ジェラシー……』
「きみにィよッせぇぇるあァいぃーわァぁんジぇらすぅぃィイー♪」

このようにして、鳴海 延明は連れ去られた。



君によせる愛は ジェラシー

春風吹き 秋風が吹き さみしいと言いながら

君によせる愛は ジェラシー

ジェラシー……




浜百合が咲いているところを見ると、どうやらぼくらは海に来ているらしい。
鳴海 延明にとって、こんなレジャーらしい休日は経験の無いことで、未だに現実として受け入れられていない。
岩場に咲く南国の色彩を放つこの花の名前も、先ほど顧問が口ずさんだ井上陽水の歌に出てきたからというだけの知識である。

ここは海。
シーズンよりまだ微かに早く、好き者ばかりがウェットスーツ姿で波と戯れる。
日差しは強いが風はまだ心地よい涼しさで、毒気すら感じる色彩の浜百合を揺らしている。

鳴海 延明はわからない。
自分がなぜここに居るのかがわからない。

「海だぜ……」

「海だな」

「うみ、だ、ね」

他に形容し難い程、眼前に広がる光景は海である。

「ノブ」

「は、はい」

「水着、ちゃぁーんと持ってきたよな?」

大河の問いかけに延明は渋々荷物を漁った。

「が、学校のやつ……」

「カァーッ! だろうとは思った! この歳になって海にダッセェ学校の水着持ってきちゃダメだろォ!」

「う……」

本当はこんな競泳用の無地ブーメランパンツ、授業ですら恥ずかしくて履きたくはない。
だが水着と言われて延明のなかでは他に選択肢は無かったのだ。

「た、大河ッ」

「どした? 修吾」

突然、不安になって荷物を探りだした修吾が狼狽する。

「お、俺ッ、水着と間違えてシングレット持ってきたッ……!」

「馬鹿じゃねェの!? お、泳げなくは無さそうだけどよォッ」

だがやはり水泳用でないものを水泳に使うのは恐らくは良くないだろう。
大会にも来ていく物なのだから、海水に浸けて何かがあっては困る。

「ンあぁーッ、思った通りだッ、おめーらそう言うンだろうと思ってよォッ!」

怒り肩で大河が荷物を漁る。

「買っといたンだよぉッ! おめーらの水着ッ! ドンキでよォ!」

取り出されたのはサーファータイプの当たり障りの無い範囲で小洒落た水着だ。

「あ、あの……」

「どうせお前らケツ回りのサイズ一緒だろッ、ほらッ、ロッカー借りに行くぞォ!」

ちなみにこの水着の代金は、大河と顧問の間で交わされた偽装工作のための諸経費として、顧問からむしり取ったポケットマネーによるものである。

「あいつが一番はしゃいでるな……」

「合宿……だよね?」

延明と修吾は顔を見合わせるばかりだ。




「───コロちゃん、付いてきてくれるといいんだけどなあ」

「だから先生、それ定着しないから……」

金色の日差しと蝉の声が、二人きりの体育準備室を満たしている。

「コロちゃん口堅いかなァ」

「それはまぁ心配いらんと思いますけど、そういう奴じゃないし」

更に言えば延明が友達と言える様な相手が修吾と自分しか居ないことを大河は理解している。
延明自身も二人が能動的に関わるようになった為か、不良の付け入る隙が無くなった事を感謝していた。
その結果は大河にとって誇らしいことだ。
自分の行いが人のためになることは、大河にとって最も自己を肯定しうる結果である。

この時も大河は顧問の無茶な要望を叶えるのに最もハッピーな選択肢を模索している。
身内の誰かが結果的にマイナスを被る選択は選ばない。
度合いにも因るが自分が貧乏くじを引く程度ですべての願いが叶うなら自己犠牲は惜しまない。

ただ、大河はこういう、打算的な自分が何より嫌いだった。
他人の顔色ばかり伺う自分が嫌だった。

それでも、それならせめて、誰もをハッピーにしたかった。

掛け値なしで物事を受け入れられない狡猾な自分に架す、最低限の規則である。

「……わりぃな大島」

「はい?」

「いや、なんかさ」

顧問はそっと窓を開け、内緒な、と呟きながらジャージから煙草を取り出し、蛍のような灯を着けた。

「……俺、来年度末で学校辞めンだよ」

「……え」

その言葉は耳に入ったその瞬間より遅れてじわりじわりと動揺を広げていった。

「な、なんでまた」

「田舎で独りのおかーちゃんもあと何年かなーって感じだしよ、でもさ、俺もクラス持っちまってる以上、ちゃーんと今見てる連中送り出してから帰りたくてさ」

蒸した風が煙草の煙を微かに室内へ捲き込んだ。

「でもやっぱり俺はレスリング部の顧問で、毎年夏休み前くらいにゃおめーらに良い思いさせてやりたかったし」

「……」

「おめーらともよー、思い出作っときたかったンだよ」

携帯灰皿を閉じた顧問は淋しそうだった。

「ガキっぽいだろ?」

そして、笑うのだ。



「よーし、着替え済んだなー」

笑う大河を他所に延明は気が気でなかった。
このあと足のつかない荒波のなかを三キロ近く泳がされ、弱音を吐けばジェットスキーで引き回しの刑に処されるのだ。
体育会の合宿という前提で見た海のイメージはそんな感じだった。

「た、た、たいがくん、ぼく、およげ」

「見りゃ判るよ、ほれ」

一足先に着替え終えた大河が、最も大きいサイズのレンタル浮き輪を二個携えていた。

「ほら、バンザーイして……んでこのシュノーケルつけて……あー、似合うー……」

「お前はおかあさんか……!」

「あ、あの……」

ほっこり顔の大河に、ようやく延明は疑問をぶつけた。

「これ、合宿、だよね……?」

「……」

大河は突然真顔になった。

「鳴海くん」

「はい」

「君は今、確かに“合宿”に来ている……いいね?」

「あ、アッハイ」

延明は気圧された。

「よぉーしッ、修吾ォ、先行くぞォ───!」

一人はしゃいで砂浜を行く大河に、二人は顔を見合わせる。

「……合宿、だよね……?」

「合宿なんだとさ」




まだ海水浴本番と言える程海水温が高かった訳ではないが、昼前にも関わらず日差しも強く風も熱を孕み、その中で水は心地よかった。
波打ち際でビーチボールで遊ぶ修吾と大河を遠目に見る延明は、くらげか何かの如く浮き輪で波間に漂っている。
合宿、とは言いつつも、他のレスリング部員の姿が見えないところを鑑みれば、顧問の先生がぼくらを遊びに連れて来る口実だったのではないかと、漸く延明は思い立った。

しかし、鳴海 延明はわからない。
なぜ、レスリング部と何の関係もない自分を連れてきてくれたのだろう。

どことなく、自分という存在が場違いな様な気がしてならない。
修吾と大河は自分に良くしてくれているが、そもそもそれがなぜかわからない。

あるいは、先生がいじめに気づいて彼らを使って自分を助けに来てくれたのだ、という形でなら、今の状況に納得できる。
つまりは、やはりこの関係はうわべの友情なのかもわからない。

だが鳴海 延明にはわからないことがある。
修吾と、自分の関係が、そんなうわべだけで形成されうるものではないからだ。

そうすれば、やはり最大の疑問が浮かび上がる。

なぜ、修吾はこんな自分が好きなんだろうか。

沖から見る修吾と大河の方が、よほど自分と居るより楽しそうなのだ。
修吾の仏頂面は相変わらずだが、見るほどに身体を動かしている方が彼にとっては楽しいことの筈だ。

なぜ、修吾は自分を好きだと言ったのか。
嘘で口づけなどをするような男だろうか。

「───あれ、波高くなってね?」

「……ノブは?」

延明はそんなことを考えている内に、予想より遥か沖に流されていた。

「オイオイオイオイ!?」

「の、ノブ!?」

そして高波に翻弄され、上下逆さまに転覆した。

「ノブ───!?」




ライフセーバーに救助された延明は海の家の畳の上でぐったりと項垂れていた。

「修吾くん……ごめんね……」

「い、いや、俺こそすまん、ちゃんと、見てなくて……」

流石にオフシーズンだけあって、周りにほとんど客の姿はない。

「……ごめんな」

修吾は大きな手で延明の頭を撫で、そっと指先を絡めた。

「ハイ人目がないからッて公然でイチャつかない」

「ッ!?」

うなじに冷えたペットボトルを押し付けられ修吾は身体を跳ね上げた。

「ノブは何飲む? 麦茶か、ファンタか、コーラ」

「ふ、ファンタで……」

畳にどかりと座り、大河はペットボトルを並べていく。

「お、おま、なんか、その……」

「あ? ナニ、お前らデキてンの?」

「そ、そういうのは……ッ!」

修吾が捻りだそうとした言い訳は大河がコーラを開けた炭酸の音に掻き消された。

「そ、その、た、たいがくん」

「あン?」

「なんか、邪魔しちゃって……ごめん」

「いやいや、ノブ連れてこうってハナシにしたのおれだし、どうせツルむんならおれはこの三人が良かったからさ」

大河の笑顔に邪気はない。
延明にはむしろそれが何故だかわからない。

「ノブはいちいち気にしすぎなんだよ、おれはノブが居て楽しいし、な?」

「お、おう」

何故かちっちゃく丸まりながら修吾は応じた。

「わ、わかんない……」

「おれもわかんねえ、けど、楽しいならいいじゃん」

大河は延明の太鼓腹をぐるぐると撫でた。

「な、なあノブ、腹減らねえか……?」

唐突に修吾が切り出した。

「ちょっと……うん」

「まあ、もう来るだろ」

「?」

ちょうどそんな話題が沸きだした頃に、スーパーの袋を下げた顧問が現れた。

「お、みんないるな、バーベキューやるぞ」

「うわ、せんせー神タイミングじゃんー」

余りにも図った様なタイミングである。
修吾と延明は互いに顔を見合わせた。

「大島ー、火着けるの手伝えー」

「あいあいー」

大河は席を発つ。

「……」

「……」

「あいつ、気づいてンのかな」

「そんな感じ……」

それならば、延明を置いてこれなかった理由としては妥当だった。
大河は修吾に気を使ったのだ。
延明は、なにか申し訳のない気持ちばかりが深まった。



静島 修吾は大島 大河を回想する。
出会いから一年強が経過し、何かと言えば自分を引率してきてくれた。
それは誰に対しても同じことで、だから彼は副部長という大役をこなすことができるのだと認識する。
同じ様に自分が出来るかと問われれば否だ。
そんな大河に、自分の他に友達が居ないと言うのだからわからない。

大島 大河は何でも出来る。
炭火の網で肉も野菜も焼くことが出来るし、おどおどする延明にも気を配り、まごつく自分以上に何でもしてしまう。

延明に問われて自分も考える。
自分は延明や、大河に、何をしてあげられているのだろう。

「イカうめえ」

「うん、おいしい……」

「おう」

思えば奇妙な四人組である。
顧問は既にビール缶を三本ほど空けて愉快になっており、喋らない二人の分、大河が場を盛り上げている。

「おめぇら、あンま食い過ぎンなよぉ」

「つーてもせんせー、そんな量買ってきてないじゃん」

「ちげぇーよォ、夜がよォ、すげぇのよォー」

「夜?」

顧問が邪悪な笑みを見せる。

「焼き肉ゥ」

「やきにく……!」

「それも」

「そ、それも……!?」

「ヴァイキング」

三人がおぉ……と声を漏らした。

「カルビ食べ放題」

「ふぉおおお……!!」

「せ、先生、大丈夫なんですか……」

顧問はVサインで応じた。

「コロちゃんに一杯肉食べさせたくて先生フンパツしちゃったぞォ」

「まあせんせーはその後ソープランドだしな」

「ぶフゥッ!?」

壮大にビールを吹き出し場は一瞬で修羅場と化した。

「ああーッ! こ、こぼれてるっ、先生!?」

「お、おいッ、拭くものッ」

「た、大河ーッ、おま、バラすなよォッ!?」

大河の笑みは邪悪である。

「レスリング部はみーんな知ってるぜぇ、去年追跡したもん」

「きょ、きょ、去年ッ!?」

「あああーッ先生、先生ビール! ビールこぼれてるよ!?」

顧問の顔は真っ赤を通りすぎてどす黒くなっていた。

「おま、ッ、がッ、学校にはバラすなよッ」

「流石にそこまではしねぇよ……」

盛大に汚れたシャツを脱ぎつつ、顧問は訝しむ。

「よ、よし、内緒ついでにおめーらもキレーなチャンネーにフデオロシしてもらうか? ん?」

「俺は興味ない」

「ぼくもちょっと……」

「せんせー、未成年にそれはダメだろ……」

共犯者に仕立て上げる目論見は潰えた。

「かぁーッ、若い内にヤっとけよーおめーらー、俺なんか18ン時に小遣い貯めてソープで筆下ろししたンだぞぉー、気持ちよかッたなぁーアレはよぉー」

「だからせんせーずっとなんかドーテー臭ぇんじゃねーの……?」

おじさんの中にはアルコールが入った途端に下ネタに走る者が一定数いる。
顧問は少なくともそういう類いだった。

「思い出したら勃起してきたな……」

「だぁああッ公然ワイセツ!!」

「延明、見るな」

「あぅうー」



旅館の大浴場は露天風呂完備の立派なもので、廊下のパネルを見るにこの旅館最大のウリのようである。
炭火臭い三人は晩餐前に身を清めようと、連れだって浴室の戸を開いた。

「わ、貸しきり……」

「オフシーズンってマジでこんななのかよ……場所に寄るのか?」

広々とした室内、窓向こうの露天にも、人の姿は見られない。

「しっかし、せんせーヤバイなー、よく教師やってられんな……」

「ふ、普段の……ストレス……とか」

「皮被ってたな」

修吾が下ネタを口にしたことに驚愕した二人が同時に顔を見合せた。

「……とりあえず身体早く洗いてーよ、薫製だよ薫製」

洗い場の席に着くなり、大河はシャワーを頭から被る。

「……」

同じく修吾も猛獣の水浴びの如く豪快に水を頭から被る。

「……どうした?」

黙って見ている延明に尋ねる。

「いや、な、なんか、こう」

「ん?」

「住む世界が、ちがうな、って」

修吾と大河が互いに見合う。
言われてみれば修吾と大河はクラスが同じで、体育の時間などに互いを見ているのでそんな感動も無いわけであるが、このまんまる生物にとってはそんな感想のひとつやふたつ出てもおかしくないほどに、二人の身体は高校生離れしている。

ただしこれはレスリング部内においても異常の部類に入る。
二人がプロレスに出会い、そこへ至る道を目指したのが早かったのもあるのだろう。
筋肉に於いては校内で右に出るものはいない。
二人に人が寄り付かないのは、その見た目から来る畏怖と、口を開けばプロレスの話しかしない残念さからである。

「ノブがうちの部入ってマッチョになればいい」

「だめだッ」

即否定したのは修吾である。

「ノブは今が一番いい」

「……わかりみ……」

まんまる生物は困惑した。

「なんつーか、癒し系だよなぁ」

シャンプーを泡立てながら大河が語る。

「ムードメーカーっつうか、ノブ見てるとすっげぇ和む」

「え」

「いや、体育会系って意外に女々しくてギスギスしてっからよー、却ってノブみたいなのが癒しなんだよ」

「うむ」

巨体を泡だらけにしながら修吾も頷く。

「そ、そうなの、かな」

「そうだよ、自信もてー」

「……」

そんな延明は気づけば大河に洗われている。

「あッてめえ、抜け駆けするな」

「い、いや……こ、この背中の球面? 見ると、手の届いてないとこ洗いたくてしょうがなくて……」

「俺が洗う」

「わ、なんだこの二の腕ババロアみてえ」

「俺が洗うッ!」

浴場は全日本泡レスリング会場と化し、後に入ってきた顧問にめちゃくちゃ叱られた。

「……」

そして延明は今、スチームサウナでの我慢大会に真っ先に敗退し、温湯に浸かって三人が出てくるのを待っている。

やはり、住む世界が違いすぎる。
未だに自分がここにいていいのかと不安ばかりが過っている。

「どはァッ!」

延明が逃げ出して10分、汗だくの大河が吐き出されて来た。

「あー、やべー、しんどいーっ」

そして浴場は急に煩くなった。
ざばざばと水を被り、頭から水風呂へ沈んでいく。

鳴海 延明は信じられない。
とてもじゃないが真似は出来ない。

「ぷはァ! ヤベエってこのスチームっ、熱湯が滴になって頭に落ちてくるンだよッ」

大河は顔をタオルで拭いながら延明に歩み寄る。

「……」

「……んぁ、どうした?」

「いや、その……」

延明はあるんだかないんだかわからない小さな目で大河の体を一瞥する。

引き締まった肩は流線型で、スマートな印象もありながらやはりその腕は太く、胸板もそれに似合って厚い。
腹ははっきりと六つに割れ、それこそ天然の鎧を思わせる。

「住む世界が、違うなって……」

「あー? おれなんて全然だよ」

「ブハァッ!」

大河が脱落して10分、蒸気が逃げないよう低くなっている戸の上端に頭を打ちつけながら、修吾が転び出た。

「あのクソゴリラに比べたら……」

「さ、さすがにキっちぃ……100度近かったぞ温度計……」

そう言いながら掛け水も無しに水族館の白熊よろしく頭から水風呂に沈んでいき、その質量で周囲の通路がプールと化した。

「あいつ本当に高校生かよって裸見るたびに思うもん」

「うん……」

兎角その肩幅の広さ、そして体の分厚さは高校生のそれではない。
その重量を支える両足もまるで恐竜のようで、歩くだけで相当の迫力を呈する。
大河が感心するのも頷けた。

「あっちいから露天でて涼もうぜ……」

「おう……」

三人はそのまま露天風呂へと歩いていく。

「……」

延明には、並んで歩く二人が一番サマになるように見えた。

「……ノブ?」

「あ、ごめん」

つい、その二人に見とれてしまう。

「住む世界が違うように見えるんだとさ」

「なんだそりゃ」

「いや、その」

まんまる生物がもじもじしている。

「か、かっこいいな、って」

まるでゲームのキャラクターが現実化してきたような二人だ。
だが面と向かって言われると、二人ともなぜか急に小っ恥ずかしくなり、共に視線を逸らした。

「せ、せんせーに露天にいるって言ってくる」

「お、おう」

逃げるように大河は行ってしまった。

「しゅ、しゅうご、くん」

「ん?」

「ところでさ、その、前……隠さない?」

修吾は視線を落とす。

「いや、隠すような相手も居ないかなって……」

「だああああああああ、修吾ぉぉぉッ、せんせー倒れてるーッ!」

大河の絶叫が木霊した。



ひと悶着あってからの焼肉は旨かった。
ただ先ほどサウナで倒れたとは思えないほど元気になった上に、更なる酒気を帯びてえらいことになっていた顧問がホールのおねーちゃんに行う数々のセクハラを全力で阻止していた為に修吾は体力を消耗し、用意されていた布団でいつの間にか爆睡していた。

「んダぁーッ、ベヨネッタ使えねぇぇよォッ!」

「え、ベヨネッタ強キャラだよ……」

なんで旅行にゲーム、それも据え置き機を持ってくるかと大河は延明にツッコミを入れたものの、何だかんだ一時間近く熱戦を繰り広げた。

「あー、勝てねェー……休憩ッ!」

大河は大の字に寝そべった。

「……修吾くん、起きないね」

「こいつはイビキかいたらもう朝まで起きねえよ」

そう言いながら大河はゲームのコントローラーで修吾を小突いたが、確かに僅かに寝返りを打つ程度で反応は薄かった。

「鈍感だからなーこいつ、落書きしようぜ」

「だ、だめだよぉ……」

いずれにしてもマジックを持っていなかった。

「ノブ」

「?」

大河は次に延明に対して悪戯めいた笑顔を向ける。

「花火、やりに行かね?」



旅館から少し歩いた所に自販機の立ち並ぶ一角があり、そのうちのひとつには花火の自販機がポツリと存在する。
そのうちひとつの窓には“何が出るかはお楽しみ!”とポップ体で書かれた紙で目隠がされており、去年の合宿では皆これで楽しんだと言う。

「派手な奴来いッ」

五百円玉を押し込み、大河はボタンを押した。

「……線香花火」

「マジかよッ、しょっぺぇー……」

取り出し口から小さなパッケージを拾い上げ、大河は頭を掻いた。

「ねえ……1000円でセットの奴買おうよ……」

「それは修吾が起きてる時にしよーぜ」

それもそうかと納得して、延明もまた五百円玉を機械に押し込んでボタンを押す。

ゴトン。

「あれッ、なんかでかくね!?」

「た、大河くん」

延明は取り出し口から何か筒状のものを拾い上げた。

「う、打ち上げ花火……!」

「マジかよォ!?」

「あ、はは」

延明は小さく笑った。

「おめー、秘めたる何かを持ってやが……ん?」

何かに気づいた大河は、延明の肩を叩いて共に自販機の影に隠れる。

「……あ、先生」

旅館から出てきたジャージ姿の顧問は、やたらと背後を気にしながら何処かへと消えていく。

「おっさん懲りないなァ、あれソープランド行くぜ」

「お、おいかける……?」

珍しく上擦った声で延明が問う。

「いンや、おっさんも楽しみたいんだろ、邪魔しないどこうぜ」

顧問の姿が見えなくなった所で、大河たちは自販機の影から出てビーチの方向へ歩き出した。

「ほれ、暗いから」

大河が手を差し出す。

延明は何の疑いもなくその手を取る。

「……やっぱな」

大河は延明の手を引いて歩き出す。

「修吾と二人きりの時も」

「え」

「こうやって手繋いで歩いてンの?」

その語気は至って普通の声だった。
しかし、延明は明らかに動揺していた。

もしかしたら。
ぼくは何か取り返しのつかない過ちを犯したのではないか?

「まあ、いいけど」

「……」

「ほら、足元石転がってッから転ぶぞ」

凄まじくその気遣いが不気味だった。

昼間のあの眩しさはなんだったのか、夜の海はまるで表情が違う。
街灯に照らされた浜百合が毒々しく揺れ、砂浜の向こうは水平線も見えない。
まるで目の前に巨大なブラックホールでもあるのではないかと思うほどに海は黒く、時おり強い風が耳元で鳴った。

「このへん座るか」

砂浜へと下る階段に大河は腰を降ろし、その隣を二、三度叩く。
促されるままに延明は隣に座したが、胸中から湧いてくる恐怖からか、闇に消えた海の向こう一点をただずっと見つめていた。

「……」

「……ビックリさせた?」

「ぶヒッ」

大河は宥めようとして延明の背に触れたが、却って逆効果だったようだ。

「ん、今豚がいたな」

「……」

冗談で和ませようにも駄目そうだった。

「……」

恐らく月でも出ていればもう少しマシだったのだろうが、雲が出たせいで海はまるっきり暗闇だった。

「……いや、別に、からかうつもりはなかったんだよ」

「……?」

「なんかさ、あれから……修吾見てると、わかっちまうんだよね」

大河は自分を宥めようと、肩の力を抜いてひとつ溜め息を吐く。

「あー、こいつ、ノブのこと好きだなって」

「……」

波音も暗闇に呑まれていく。

「……ノブはさ」

「うん」

「あいつのこと好き?」

少し考えて延明は応じた。

「……わから、ない」

大島 大河はわかってしまう。
その“わからない”は、恐らく“イエス”だ。

「……そうか」

大河はそのまま踊り場に寝そべる。

「あー、すっきりした」

そう空に向けて吐き出した。
これで星でも見えていればドラマチックだったかもしれないが、あいにく空は薄曇りだ。

「……?」

「お前らさ、言わねーんだもん、だからこっちが変に気ィ使うっての」

「ご、ごめん」

「ほんとだよ」

漸く目線をこちらに向けた延明に、大河は変わらぬ笑顔で返した。

「なーんかさ、おれ、二人のお邪魔虫なんじゃねーかなって、心配になっちゃって」

「そ、そんなこと、ないよ……」

慌てて延明は訂正する。

「つ、つきあってるの、とは、ちがう、みたい、だし」

「ん、そーなの?」

「うん……ぼく、わかんないって、言っちゃったから」

事実、鳴海 延明は未だにわからない。

「なんで……修吾くんが、ぼくのこと好きなのか」

それを見て大河は口を尖らせる。

「そんなモンじゃねーの、レンアイ」

「そ、そう?」

「いや、おれもしたことねーからわかんねーけどさ」

再び大河はまっ暗闇の空を見る。
なんだか自分の中を見るようだとも思う。

「たぶんさ、理由だとか、理屈とか関係なくてさ」

自分の事なのに、まるで心の内が見えない。
いつも手探りで自分の思いを探している。

「もう、そいつが居ないと駄目だってなっちゃうのがレンアイなんじゃねーの」

だからせめて、他人に告げる言葉は、他人にとって幸福な言葉であってほしい。

「修吾はもう、ノブがいねぇと駄目なんだよ」

大島 大河は、そんな自分が嫌いだ。

「……線香花火でもするか」

上体を起こし、延明の顔を覗き込む。
何か少し安堵したような顔をしていて、大河はそれで満たされた。

ちいさなパッケージから一本、情けなく撚られた花火を一本取り出して、延明に持たせてやる。
その端に旅館の名前の掘られたライターで火をつけると、火の玉が妙に明るくパチパチと花を咲かせた。

「あ、なんか、きれい」

周りがやたらに暗かったせいもあるのだろうが、二人の目には火花の軌跡がしっかりと焼き付いて美しかった。

「……大河くん」

「ん?」

自分もまた線香花火に火を着ける。

「大河くんは……修吾くんのこと、好き……?」

「んー?」

二つの火の玉が闇に浮かぶ。

「likeの意味では大好きだよ」

大河は答える。

「憧れに近いかも」

「あこがれ?」

「うん」

じりり、じりり。
溶けたように丸まる火が撚られた花火を登っていく。

「アイツみたいなさ、男くせぇ生き方できたらなぁって」

「……うん」

じりり、じりり。
火薬の臭いが鼻を掠める。

「ムスッとしてて口下手な癖して、優しいやつでさ……」

「……うん」

「……まあ、自分には無理だけどさッ」

大河は花火を揺らして延明の火の玉を奪おうとする。
だが大河の火の玉は延明のそれにくっついてしまい、

「あ」

大きくなった火の玉は一際輝いてから落ちた。

「……」

そして一層の闇が包む、

「……ある意味、修吾のそばにいるのはさ」

「うん」

「なれない自分の姿を、修吾に重ねてンのかなー、なんて、思ったりなんだり」

光に慣れてしまった延明の目に、大河の表情は見えなかった。

「打ち上げ花火、火つけていい?」

「うん」

大河は立ち上がり、階段を降りて打ち上げ花火を立て、導火線に火を着けた。

そして急いで延明の元に戻り、その肩を抱き寄せた。
修吾とはまた別の、硬く筋張った腕だった。

三連発の筋が闇に走り、かなり高い場所で三色の花になった。
輝く火が雨の様にきらきらと降り注ぎ、風に撒かれて消えていった。

「思ってたよりしょっぱいな」

「うん」

「……ノブ」

延明の肩を抱いたまま、大河は口を開く。

「……修吾、幸せそうだよ」

「え」

「お前に逢えて」

溜め息をひとつ吐く。

「なーんか、妬けるなあ」

そして真っ黒な海を見る。

「ノブさ、おれ」

火薬臭い風が、どうと吹いた。

「……修吾になりたい」



午前六時。
早めに寝ていた修吾が目覚めた時、散らかる部屋には大河と延明が寄り添って寝ていた。
退屈だったので起こそうと思ったが、時計を改めてあまりにも早すぎると諦めた。
ただ、少しばかりの寂しさがあったので、修吾は二人にそっと歩みより、自分もそこに身を横たえた。

そして、背中を向ける延明を大きな身体で包み込む様にして抱き、その心地よい温もりと首もとの日に焼けた皮膚の嗅いで安息を得る。
再び修吾は目を閉じた。


それを大河は薄目を開けて見ていたが、修吾が寝息を立て始めたと判るとそのまま目を閉じ、二人に背を向けた。


あいにく二日目の海はやや曇り空だ。
それでも三人は割とはしゃいで遊んでいて、それを見守る顧問に大河は時おり笑顔で手を振った。

無理をさせてしまったな。
大人はそう思った。

「なんか今日、波高くね?」

「台風が来てンだとよ」

顧問が携帯で天気予報を見ながら答える。

「明日はもっと波高くなるぞ」

「じゃあ、海遊びは、今日までだね……」

「おう」

海の家であやしい四人組が軽食を採っている。
ラーメン、ラーメン、ラーメン、アメリカンドック。
こういう時にも延明は住む世界の違いを実感する。

「……コロちゃんさぁ」

麺を飲み込んだ顧問がふいに口を開く。

「表情、明るくなったよなァ」

「ぶひッ!?」

思わず手を滑らせそうになった。

「そうか?」

「おめーは鈍感だからわかんねぇよ……」

言われて修吾が顔を覗き込むので、延明は顔を赤らめた。

「なんだかんだ、来てよかったよな、海」

大河がそう笑い掛けた。

「う、うん」

正直な所、いわゆる“合宿”がこの体裁でよいのかは未だにわかっていないのだが。
それでも、延明は、乏しい表情筋を目一杯使って笑い返した。

「ノブッ」

「!?」

急に修吾が声を上げた。

「ちんこのとこにマスタードついてる……!」

「えッ、わ、ウワァ」

「向こうに水道あったから洗ってこいよ」

もうちょっと歯に衣着せた言い回しなかったのかと思いながら、大河は慌てて走る二人を見送った。

「……大島」

それを見守る顧問が口を開いた。

「疲れる“役”させちまって、悪かったなあ……」

その言葉は、大河には些か心外だった。

「……そんなつもりじゃ、ねーし……」



夕方になって強い風が雲を吹き飛ばし、空は桃色に染まっている。
さすがに台風の影響が出たのか、素人目に見ても波は危険に寄せては引き、遊泳禁止を告げるメガホンの声がウエットスーツのサーファー達を浜へと上がらせる。

「ノブとせんせーは?」

「爆睡」

はしゃぎ疲れたのだろう、二人は海の家の畳で大イビキをかいている。

昨日の晩、延明と二人で語らったのと同じ階段に、修吾と大河は肩を並べて座した。

「知ってる? せんせーが来年で学校辞めんの」

「いや」

「おれたちの卒業までは居るらしいんだけど」

サーファー達が去り、海水浴客の姿も見えない。
水平線はオレンジとピンクのグラデーションで、まるでフルーツジュースのパッケージだ。

「……だから、無理してでも合宿やりたかったのか」

「まあ、おれがね、無理矢理そう仕立てた感じなんだけどさ」

「……」

「ノブも楽しんでくれたみたいだし、いいや」

大河はそう言って膝を丸めた。

「修吾は楽しかった?」

「おう」

「なら、もっといい」

その笑顔は淋しげだった。

「……」

「……」

高波の音。
かもめの鳴く声。

「ノブにさ、聞いた。お前らのこと」

「……そうか」

修吾は冷静なつもりだが、胸にはチクリとなにかが支えた。

「……いいなって、思った」

「……そうか」

安堵したようなため息が出た。

「……あーッ!」

大河は背伸びながら声を挙げる。

「悔しい」

そう、口から転び出た。

「……?」

「なんか、悔しい」

無意識に、修吾の顔色を窺った。
なにか不安そうな面持ちだった。

「……なんかさ、おれ、人の顔色ばっか気にして生きてきた気がする」

膝を抱える大河に風が吹き付ける。

「そういう自分が嫌だからさ、なら、みんなのためになんでもやりたいなって思うんだけどさ」

「……」

「せんせーに、疲れる“役”させちまってゴメンな、なんて言われて」

「……」

「なーんか、おれ、馬鹿みたいじゃん、空回りしてさ」

修吾はなにも言えない。

「結局さ、おれ、嫌われたくないだけなんだろうなって」

気の効いた言葉がわからない。

「なんか、そういう、自分が嫌だ」

「……」

言葉は返ってこない。
それでも大河は救われたような気分だ。
静島 修吾はなにも言わない。
だから、心の内を吐露しても、そばにいてくれる。
そんな安堵がある。

「……ちょっとさ、ノブに嫉妬してるんだよ」

「ノブに?」

「おう」

波打ち際に視線を落とす。

「なんつーかさ、自分に酔ってたところがあるんだよ。お前の、一人っきりの友達だってとこにさ」

「今でも友達だろ」

「……でも、独り占めできない」

静島 修吾はわからない。
その気持ちがわからない。

「自分でも変な気持ちなんだよ」

「……」

「お前が一番の友達だし、ノブのことも大好きだよ、でも」

高波が寄せては返す。
風はただ吹き付ける。

「なんか、おれ、寂しい」

大河は、笑った。

「あーあ、修吾が先に恋人できたのかー、とかさ、そーだよなー、ノブはかわいいもんなー、とかさ」

「……」

「そんなことで、お前に嫉妬してるおれが嫌だ」

「大河……」

その笑顔が薄れていく。
夕間暮れの色に変わる空と同じく、その色彩がなにかに変わる。

「大河」

「おう」

「俺は、お前のこと、すげえって思うよ」

宥められると思っていなかった大河は少し面食らった。

「俺にできない事、なんでもできる、昨日のバーベキューもそうだし」

「父子家庭だからじゃねえの? 自炊してるし」

「……俺は、ノブのことあんなに面倒見れねえし」

「でも、ノブはお前に懐いてるよ」

大河は無意識に、修吾が差し伸べようとする手を払ってしまう。
それは、自分がそれに値しないという決め付けによるものだ。

大島 大河は、自分が嫌いだ。
そして。

「……おれ、ずっと、お前みたいになりたかったんだよ」

「……」

「ガタイがでかくて、顔も凛々しくて、男気っつーのかなァ、なんか、そんな感じで」

静島 修吾はわからない。
自分のどこにそんなものがあるのかがわからない。

「はじめて見かけた時から、かっこいいなって思ってた。タイガーアモールみたいだな、なんて、思ってた」

静島 修吾はわからない。
木偶の坊の自分がそんな訳がない。

「おれ、さ」

その声が涙で微かに湿る。

「おまえみたいに、なりたかった」

そう、言い終えるや否や。
大河の身体は、力付くで修吾に抱き寄せられた。

何が起きたのかわからなかった。
分厚い胸板に頭を埋められ、丸太のような腕に押さえつけられ、その巨体に包み込まれた。

「ば、ばかか」

大河は動揺した。

「そ、そういう、ことは、ノブにやれ」

「……」

静島 修吾は、こわかった。
大河が、急に、どこかにいなくなってしまう様な恐怖があった。

離したくなかった。
大河に側に居てほしかった。

延明の時と、同じような、胸中の耐えがたい虚しさがそうさせた。

「し、しゅッ……」

無理矢理に顔をこちらに向かせ、その距離を縮める。

「やめろッて……そういうんじゃ……」

「……」

「おま……キスは、駄目だろッ……」

拒めなかった。

唇を重ね合い、貪るように舌を絡ませた。
大河は、拒めなかった。
望んだわけでも無かった。

でも、拒めなかった。

「……」

「……」

修吾は唇を離し、その分だけ強く、大河を抱き締めた。

静島 修吾は、わからない。
他に、何をしてやれたかがわからない。

「……もう、離せよ」

大島 大河は、わからない。
どうして、愛する者のいる人間が、こんなことをするのかがわからない。

「嫌だ」

そして大島 大河はわからない。
この腕の中が、重ねあった唇が、なぜもこう虚しく、求めてしまうのか。

「……お前には、ノブが居るじゃんかよ……ッ」

それでも、その手を離せなかった。

静島 修吾にとって、鳴海 延明も、大島 大河も、共に手放せぬ存在だった。

それが如何なる意味を持つのか。
静島 修吾には、わからない。



「……ぐはぁぁああ……」

湯船に浸かる大河がもはや溜め息と呼べないなんらかのわだかまりを口から吐き出した。

「大河くん、大丈夫?」

「あ? あぁ……なんかスッゲー疲れがドッと出た」

露天風呂の中にも強い風が吹いている。
台風の接近が確実になりそうなので、後の計画は切り上げて翌朝家路に着くことになった。

「ほぉッてぇルはリバッさぁぁぁーイ♪」

隣の酔っぱらい顧問がほかに人が居ないのを良いことに大声で歌う。

「かぁっわぞぉいリバッさぁぁぁーイ♪」

「ここは海沿いだッての……」

「んんーコロちゃんんんーッ、お元気ですかァァー!?」

「ぶヒィィッ!?」

酔っぱらいおじさんがまんまる生物を補食する貴重な映像である。

「あッやべえコロちゃんのおっぱいやわらけえ」

「ひえええええ!」

「せんせー昨日ソープでヌいてきたばっかりだろッ」

「思い出したらなんか勃起してきた……」

「変態教師ッ!」

大河の足払いで酔っぱらいおじさんは湯船の藻屑に消えた。

「はーっ、はーっ、あれ、修吾くんは?」

「あン? あの変態ビッチ?」

「び……?」

一方、静島 修吾はあのあとこっぴどく大河に叱られた為に、サウナ室で一人反省の刑に処されていた。

だが静島 修吾はわからない。
なにがいけなかったのかがわからない。

大河が言うには延明という恋人がいるんだから一途になれと言うのだが、一途というのがわからない。

曲がり無く、自分は鳴海 延明が好きで、大島 大河が好きだ。
それじゃ、いけないのだろうか。

「修吾ーッ」

延明と大河がサウナ室の戸を開く。

「ノブがせんせーにおっぱい揉まれたーッ」

「ッ!?」

「あッ鼻血」

大河はひとまず、あれはアホの気の間違いだとして気にしないことにした。
あの思い出、拒めなかった自分の弱さにも蓋をして。
少なくとも今夜、この二人をどう弄くって遊んでやろうかという刹那的な考えでもやつく気持ちを塗りつぶした。

どうせ二人は途中でやめるから、夜の長さを何度も味わえる。



─つづく─


最終更新:2016年06月30日 20:07