黒龍盛宴遊戯 > 地雉精死断麺-下-

もう、べつにいいよ

「……」

いつまでそこに立ってるんだよ

「……」

おれがおかしいんだろ

「……」

おかしいってんなら、笑えよ

「……」

そうして、何も言わないで立ってるだけの

「……」

おまえなんか

「……」

おまえなんか、だいきらいだ

「……」

……だいきらいだ




「シャン・レイエイッ、さあ、マオマオをこちらに渡して貰おう!」

プリンセス・ルナティックは晴れ行く粉塵の中から眼前の男を指差した。

「爸爸(パーパ)!」

マオマオがたじろぐシャンの背後に隠れる。

「し、しつこいよアンタッ!」

「しつこいとは何だッ、貴様こそ女々しくこそこそと立ち回りよって!」

ずいずいと歩みを進める男の足取りはぎこちない。
足の幅に合わない女物のサンダルを無理矢理履いているからだ。

「シャン、一体あれはなんだ!?」

「オカマバーのツケを押し付けられてね」

相変わらず表情に乏しいながらも狼狽の色濃いシキョウに冗談混じりにシャンは応える。
無論、相手の剣幕はそれどころでなく“のっぴきならない”雰囲気を醸したしていたのだが。

「それに……大人(ターレン)!?」

屈強な肉体をなぜか宝物庫に仕舞われていた朱雀柄のドレスにみっしりと詰め込んだ女装の乱入者の左右には、目を爛々と輝かせた金(キム)大人と付き人の一人がおかしな様子で控えている。

「狂月別姫……? 聞いたことがないぞ」

「関わり合いになるとロクなことないよ、悪いが一時的に“戦略的撤退”だ」

シャンが慌てて荷物を抱える。

「逃すか盗人! 疾(チ)ッ!」

プリンセスの投げた紫色の札が素早く正確に飛び、マオマオの手を取るシャンの腕に直撃する!

「痛ってェッ!!」

「疾ッ!!」

続いて投げた黄色の札は半ばで突如何倍もの長さの帯に転じてマオマオに延びる!

「アイヤ──────!!」

「マオ──────ッ!!」

黄色の帯はたちまちマオマオに巻き付き、凄まじい速度でその体を巻き取った。

「ちくしょおッ、疾ィッ!!」

シャンは普段背中に負っている黒い箱を前方に構えて乱暴に叩く。
蓋が即座に上方に滑り、そのなかに地雉精を茹でる鍋を吸い込んだ!

「そんでもって瘟(オーム)ッ!!」

ポケットから何らかの小瓶を取り出し床に叩きつけると、尋常ならざる量の毒々しい赤い煙が吹き上げた。

「なッ!?」

「近づくなッ!!」

シキョウの腕をプリンセスの野太い指が掴んだ。

「これは……毒……!?」

「いいえ、これは“赤トンガラシと白コショー”です……わたしも一度やられて酷い目に遇いましたからね……」

プリンセスはやや冷静さを取り戻した様子で、シャンの姿を改めようとしたが、すでにあの狡猾な龍人はそこに居なかった。

「マオマオ人形とあの男を引き離すことには成功しました……が、あの男のことです、あの料理と引き換えにマオマオの身柄を要求してくる筈」

「……貴方は一体なんなんだ……!?」

シキョウがまたも現れたこの得たいの知れない女装の男を睨み付けた。

「……ようやく、話の通じる人に巡り会えたか」

だがそれで安堵の表情を浮かべたのはプリンセスの方だったのだ。



“赫碼院(カーマイン)”陳 撈月(チン・ラオユエ)。
それはこの黒龍の内情に詳しくないシキョウですら、この人物を単なる“女装の男”で片付ける事の憚られる高貴な名の持ち主であった。

金獅子帝統治下の済蓮、その直下の血筋である魔導四門と呼ばれる四つの皇家が国を支配していた。
そのうちの一つ、朱雀門“赫碼院”家。
四門の中でも勢力の強い家であったが、歴史上のあるときに、当主を巡るある“のっぴきならない事情”で存続の危機に立たされたことがある。
赫碼院家はその時の采配により複数の分家を生じ、陳家もその一つである。
金獅子帝の没後も四門は今だ強い力を持ち、陳家は食料関連公社の元締めとして済蓮に根付いている。

また同時に、済蓮の魔法の頂点であった魔導四門の力は、血の薄まりこそあっても子孫にたしかに痕跡を遺していた。

排帝撈月(ハイテイラオユエ)。

“帝に並ぶ者”とまで謳われたその人物こそが……

「……」

目前の“女装の男”の正体である。

「……よいお手前です」

聞香杯に残る茶葉の香りに心を落ち着かせながら、プリンセスは振る舞われた高級茶で唇を潤した。

「……一体何故そのような姿に……?」

シキョウの言葉に、プリンセスは一つ溜め息を吐く。

「あの人形の呪いのようなものです」

机の向かいには、呪符で拘束され身動きひとつしないマオマオの姿。

「本来、あれは陳家の秘宝のようなものでした……そんなものに手を出した私の父を恥じるべきなのですが……」

男の顔は神妙だった。
故にその女装姿があまりに可笑しく、表情に乏しく生真面目なシキョウでなければ耐えることは難しい。

「……私の友でした。レイエイは」

「……友」

「山家は青龍門“毘李江(ビリジャン)”家の末の末裔……彼の幼少期、私の父が弱味に付け込み、彼の身柄を買ったのです」

「マオマオ人形の、鍵として」

その言葉に、プリンセスは顔を強ばらせた。

「……ご存じ、だったのですね」

シキョウは小さく頷いた。

「マオマオは……我々で扱える代物でなかった……そしてレイエイの心も、また」

厳めしい顔に嘆きの色が差す。

「マオマオはレイエイの言葉しか聞きません。それに父は気づかなかった……マオマオの甘言に騙され、供された薬膳で、このような姿に……」

「そ、それは……」

「魔力を持たない者に我々は女に見えるらしく……それは父にとって余程の屈辱であったのか……正気を無くし、結局……」

プリンセスは頭を振った。

「私の頭も徐々に呪いに侵されつつあります……時おり、自分が女ではないかと……そうなる前に、私はあの人形を封印……」

「さっきから黙って聞いてれば被害者ヅラしてイケすかないね」

二人が声の方を向く。
呪縛の解けたマオマオが、椅子の上で足を投げ出しながらプリンセスを睨み付けていた。

「ッ……マオマオ」

「こちとら人形と思われて舐められたら終わりね、出るとこ出るあるよ」

シャンと居た時の態度とは明らかに違う。
この子供に感じていた違和感……妙に無機質なその瞳に確かに悪意を湛えた視線。
シキョウは初めてこの存在に恐怖を覚えた。

「……これ以上、レイと一緒に居るのは互いに良くない」

「何をもってそう言うね」

「歴史だ。お前は我々の一族の罪……それをレイに背負わせる訳にはいかない」

「納得いかないあるよ。勝手に作られて勝手に封印されて勝手に解かれたコッチの気持ちにもなってほしいね」

空気を凍てつかせるのは小さなマオマオが放つに不相応なプレッシャーだった。
金獅子帝の遺物、これほどまでに危険な物だと、シキョウですら理解する程に。

「それに他人ヅラしてるあんたにも言っとくあるよ」

ふと、マオマオの視線がシキョウを突き刺した。

「あのジジイ、もうすぐ死ぬね」

「な……っ!?」

そう言えば先程から金大人の姿が見えない。

「老体にそこのオカマが刺激的すぎてだいぶ寿命を縮めてるね。爸爸(パーパ)の薬膳でひとまず延命して適切な治療受けないと明日明後日の命よ」

「出鱈目をッ……!!」

シキョウが狼狽して声を荒げた。
あの表情に乏しい男が。

「爸爸のことよ、マオの身柄と引き換えにジジイの命は助かるね。ただし、そこのオカマが余計な口だししなければの話ね……」

「……否」

シキョウは再び表情を殺す。

「私は件の“見立て”を観ている……ならば私にも」

「無理無駄無謀ね」

「ッ……」

「おまえの魔力……“死”に染まりすぎてるね……」

シキョウは最早、その表情を殺しきれない。
悔しさ。
この人形相手に何もすることが出来ない。

「……媽媽(マーマ)」

打って代わってマオマオの声が艶かしさを孕む。

「でも、マオマオ、こどもね」

「……えっ、あっ、私か!?」

プリンセスが媽媽と呼ばれて狼狽えた。

「美味しい拉麺(ラーメン)、食べさせてくれたら……考え直してもいいあるよ」



シャンが逃げ込んだのは【維多利亜歌廳(ヴィクトリア・キャバレー)】からそう遠くない路地だ。
人通りなく、ただ足元を濡らす何らかの廃液にネオン看板が虹色に映る。
どうにか死守した地雉精の鍋をカセットコンロの寂しい火で煮込みながら、シャンはマオマオ奪取の機を伺っている。
面倒な相手に突っかかられた。
だが、だからこそ、まだ機会はある。
あの男が用があるのはマオマオではなく“自分”だと言うのがわかっているからだ。

だからこそ、面倒なのだ。

山家の没落はその身に流れる魔導の血の薄まりに原因がある。
その血筋、その魔の才が身分に直結する済蓮で、自らの“想”を外界に及ぼすだけの力を失った山一族の没落は目を覆いたくなるほどの悲劇だった。

レイエイ少年にとってはそれだけであれば別段不幸では無かったかも知れない。
何も知らない彼にとって人並みに幸福ではあったし、母の手料理は貧しい中でも決して彼を飢えさせなかった。
彼は何も知らなかった。
自分の未来を父親が他人に切り売りしていたなどと露も思わなかった。




「さあ、出来たぞ!!」

曲がりなりにも済蓮の食を司る陳家の子息、供された器は豪華食材が丼からはみ出さんばかりに並んでいる。

「倭国で学んだ固茹でちぢれ麺に絡むスープは濃厚な豚骨ベースに醤油を合わせ、とろけるような特製焼豚(チャーシュー)との相性もバッチリだ! ヘイオマチ!」

女装姿の巨漢は自慢げに謳いながらマオマオの眼前にどんぶりを叩きつけた。

「フゥゥーーーーーン……」

マオマオはぎこちなく箸を取り、一本だけ麺を掬い上げてまじまじと見つめた。

「……」

「……ッ」

空気が張りつめる。

「……ち(疾)」

「エッ」

マオマオが小さく呟くと同時に、プリンセスがその身を捕縛するのに使った黄色い呪符の帯がふわりと浮かび上がり、プリンセスの屈強な肉体へ襲い掛かった。

「なッ、マオマオ!?」

「ハァ? ナニが濃厚な豚骨ベースに醤油を合わせた特製スープね、こんな死肉くさいスープ、済蓮四千年の歴史の冒涜ね、ナニが家(イエ)系あるよ、ナニがヤサイカタメアブラマシマシよ」

「ぎゃああああッ、あづぅぅぅッ!?」

マオマオは縛られ転倒したプリンセスの鼻っ面に熱々のメンマを貼り付けた。

「大体あの国は生意気よ、他所の国の食文化勝手にアレンジして別物にすり替えといてナニ堂々と拉麺名乗ってるね、パチモンの国とかエラソーに言っときながらそれのどこが咖喱(カリー)よ、パチモンはどっちのことよ」

「ああぁぁぁぁああああ! あづいぃぃぃ!」

今度は瞼に焼豚を貼り付けた。

「んまぁ、この固茹でのちぢれ麺は歯応えありそうでまあ認めてやってもいいね……でもそれも豚の死体臭いこのスープで台無しあるよ、大体お上品さが無いね、拉麺はもっとこうシンプルで澄んだようなスープに……」

「あぎゃあああああああッ! シキョウ殿ォォォォオ!」

仕舞いには熱々の麺が下唇に落とされた。

「ラオユエ殿ッ、わたしはここに」

「まッ、マオマオの両乳首を同時に押すんだァァア!」

「今なんと!?」

マオマオは片手にもつどんぶりをゆっくりと傾ける。

「はやくッ……両乳首を同時に押すんだぁぁぁッ!!」

シキョウは言われた意味がわからない。
頭が理解を拒否している。

「シキョウ殿ォォォォオ────!!」

悲鳴にシキョウの体は遅れて動き、とっさにマオマオの背後から脇へと手を突っ込み、その柔らかな胸肉の頂き、乳頭の膨らみを同時に押した。

「アイヤッ……」

そしてマオマオはぐったりと動かなくなった。
小さな手から離れたどんぶりがプリンセスの顔に降り注ぐ。

「アアァァァァァアアアア────!!」

「……ッ……!!」

プリンセスの絶叫は眼前のシキョウに届かなかった。
額を冷や汗が伝う。
その掌のなかで力なくうなだれる小さな体に覚えがあったからだ。

それは幼き日の記憶。

動かなくなった弟の記憶。

「だから言ったろう」

突然の声に我を取り戻す。

「そいつァお前らの手に負えるシロモノじゃあないのさ……」

窓から長い首を伸ばす男は(決して格好の付く登場の仕方ではないのだが)ニヒリスト気取りの語り口調で言い放った。

「まあ、まずは此方の要望を伝えるか」

シャン・レイエイはネオンの七色を背負い啖呵を切った。

「マオマオを返してもらおう」

「……ッ……!」

シキョウは混乱した。
信じるべきを失って、心は今にも崩れそうに揺らいでいた。
冷静沈着に己を律してきたはずのその男が、眼前の事象に対応しきれないまま、最大の選択を迫られている。

あてもなくただ身を隠す為の闇を求め、流れ流れてこの黒龍の腹の中に逃げ込んだ。

寄る辺無き己を救った主は今、色に狂い、その命を無下に削り、今や死の淵にある。

今、何を信じればいいのだ。

今、何を選ぶべきなのか。

手の中の人形は、ぐったりと項垂れていた。

「うぉおおぉッ!」

プリンセスは怪力で呪縛の符を引きちぎる!

「疾ィッ!!」

「よッ」

爆発の符の一撃をかわし、シャンは室内に転がり込んだ。

「レイッ、もう止めるんだ!」

「アンタが話をややこしくしてンだろうがッ!」

二人は睨み合う。

「なにもかもそうだッ、テメェらの都合で人生狂わされてなお面倒事を巻き込みやがって!」

「レイッ……だから私は如何なる責めでも受ける……だからッ」

「五月蝿ェッ、てめぇの正義を押し付けて悦に浸ってンじゃねえッ!!」

シャンは背負う箱から数枚の黒い呪符を撒き散らす!

「ォ瘟ッ!!」

印を結ぶと共に符が爆ぜ、無数の黒い異形の鴉がプリンセス目掛けて飛びかかる!

「疾いィッ!!」

プリンセスが臆せず踏み込むと同時に数枚の白い呪符が壁となり広がり、鴉の群れを押し退ける。

「シキョぉウッ!!」

シャンが怒鳴る。

「偽善とてめぇの主人の命ッ、選ぶならどっちだァ!!」

「……!!」

刹那。

咄嗟に目を庇ったシキョウが見た光景。
その状況を理解するのは叶わなかったが、少なくとも何か破壊的状況が発生したようではあった。
シャンが侵入してきた窓は壁ごと砕かれ、向かいの壁目掛けて何か巨大な質量が通りすぎたかのように抉られている。
その破壊が行き着く先、壁面に蜘蛛の巣状に広がる割れ目の中心に在るもの、

例えるならそれは“鋼鉄の掌”だ。

二人の法師を捕らえて壁面に埋まるそれを、当のシャンとプリンセスも狼狽しながらも身動きが取れず、ただひたすらに困惑する他なかった、

『グワハハハハハハハハ、ハァ!!』

残った窓枠すべてが鉄の腕(かいな)に凪ぎ払われる。

『死を前にしてよぉぉおやく、このくすんだ頭が冴えてきおッたわァ!!』 

「た……大……人……ッ!?」

黒鉄の“蟹”、いや“蜘蛛”と表現すべきか。
恐らくは大戦時より遺された魔導兵器の類、もしくはそれこそ金獅子帝時代の異物かもしれぬ。

『永劫の命、傾世の美女……もはや死すら恐るに足りぬ我が指をくわえて供されるのを待つか? 馬鹿馬鹿しいッ!!』

鉄の蜘蛛が頭を突っ込む。
その額に当たる空洞から金大人は拡声器片手に身を乗り出した。

『ゼィっ、ゼィッ……! ちょぃと脈が……んンッ!』

咳払いと共に大人はシキョウを睨み付けた。

『ぜぇ……! さあッ、マオマオ人形を私に寄越せぇ!!』

「シキョぉウ!!」
「シキョウどのぉお!!」

シャンとラオユエが同時に叫ぶ。

帰着を望む結末は違えど、その叫びが意味する所は概ね同じだった。

この呪われた人形を主に渡すわけには行くまい、と。

「ッ!!」

シキョウは駆けた。
割れた扉を蹴破り、階段を転げ落ち、上階の騒音に集まってきた野次馬を蹴散らして、シキョウは駆けた。

『シィィィキョおオオオオオォォッ!!』

ああ、また逃げてしまった。

自分が導いた物事の重圧に耐えられなかった。

シキョウは、逃げる。

逃げる、逃げる、逃げる!

扉を破り、街を往く娼婦を突き飛ばし!

どこへ、どこへ逃げる!?

闇へ、闇へ、闇へ!

己の輪郭も忘却するほど深く昏い闇へ!

「はあ、はあ、はあ!」

だが【霓虹路(ネオン・ロード)】に闇はない。
その名の通りにネオン看板の極彩色が昼夜を問わずに煌めいているからだ。
鮮やかなその光がコンクリート床の四方八方、逃亡者の暗い影の輪郭を、七色の彩りで確かに明らかに浮かび上がらせる。

「はあ、はあ、うう!!」

みるみるうちに呼吸は浅くなり、十分な酸素を得られぬ脳髄が朦朧とし始める。

何故だ、何故走る?

その理由を改め直す時間も無い。

「ああああああああ!!」

吐ききれぬ息を獣の唸りに変えて吐き出した。

道往く人々がすべてあの石切り場に転がる岩石に見えた。
その道はあの日に逃げ出した道。
聞かん坊の弟を連れて来た道を、シキョウは独りで引き返すことができなかった。
“弟”が独り、這いずり戻ったであろうその道を。

おにいちゃん。

延びる影がささやいた気がして、彼は思わず足を縺れさせた。

激しく地面に体を打ち付け昏い影に頬を擦り付けた後に顔を挙げれば、目前に小さな躯がでたらめに手足を投げ出して、あのときのように横たわる。

あのときのように。

「ウ、ア」

言葉を知らぬ赤子のように、抱えきれない重圧を声に変えて喉が漏らした。

『駄目じゃあないか』

街往く人の悲鳴とネオンを割る音とを引き摺りながら、狭い胡同(フートン)の天蓋を巨大な蜘蛛の影が覆う。
鋼鉄の長い脚が違法増築された集合住宅の壁面を掴み、切れた電線が激しく散らす火花に不気味な姿が照らされる。

操縦孔(コクピット)から除く金大人の顔は明らかな狂気に満ちていた。
“死”を前にして一層輝きを増す黄昏の如き眼光を、シキョウは恐ろしいと感じた。

『可愛(カワイイ)シキョウ……どこまで逃げる?』

「……!!」

ラブホテルの窓から裸の男女が異常事態を覗いている。
キャッチの男が蜘蛛の足元で狼狽えている。
食堂の客も、託児所の子供も、皆が道に溢れ出してざわつき始めた。

『そうだ、こんな夜だった、お前を拾ったのは』

そのすべての視線が自分を向いているようにシキョウは感じた。

『ほとんど物乞いのお前がゴロツキに絡まれているのを拾ってやったんだ』

【愛情旅館】の桃色ネオンが火花を散らして明滅する。

『その時のお前の目は何色を見てた? この街の七色とは程遠い灰色だったろうが!!』

蜘蛛の脚がネオンを砕いた。
わずかの闇がシキョウを包んだ。

『逃げるのかシキョウ、その灰色をこの私に押し付けて! その“死”の色を私に擦り付けて逃げるのかシキョウ!!』

違う。

怯えるシキョウは漸く逃げ出す理由を取り戻した。

“死”は決して灰色なんかではない。

美しくないかもしれない。あるいは眩いほどの色彩をしているのかもわからない。

少なくとも明らかなのは、灰色の“永遠”よりも、闇の“黒”よりも優れた色彩をしていなければならないということだ。

無為な生より死は尊厳あるものでなければならない。

闇の黒に溶けたまま永遠の灰色に染まろうとする主をシキョウは許せなかった。

生まれたものがすべからく逃れられぬ“死”という終着は、万人の救いでなければならない。

それがこの男の矜持(エゴ)だった。

「大人」

『あ!?』

「その“灰色”は、わたしだけのものです」

シキョウは立った。

「疾ッ!!」

そしてその脚で円陣を斬り、掛け声と共に踏み抜いた!

『んああああああああああ!?』

シキョウを中心に空気中の塵の間を静電気が走り抜け、集めた電流が電線を通じ、ネオンを短絡させ眩い光の爆発を巻き起こす!
その隙を突いてマオマオ人形を抱きかかえ、シキョウは再び闇の向こうへ走り出す!!



「あいつ、この歌廳(キャバレー)の看板だとばかり思ってたンだよ……」

拘束されたままのシャンが、件の鉄の蜘蛛についてそうぼやいだ。

「だとすればよほど趣味の悪い看板だ」

「趣味の良い看板がこの黒龍にあるってのかい」

身動きの取れない二人はせめて口を動かすくらいのことしか出来なかった。

「シキョウ殿は逃げられただろうか」

「無理だね。この胡同は狭すぎる」

プリンセスの言葉をシャンは即座に否定した。

「では……どうにかせねば」

「てめえの馬鹿力でもどうにもならんのはわかったろうが、オカマ野郎」

今にもその長い首を締めてやりたかったが、鋼鉄の掌は確かにびくともしなかった。

「年貢の納め時かねえ」

顔をそむけてシャンは嘆いた。

「……レイ」

プリンセスが呟く。

「こんな機会でも無ければお前は逃げてしまうだろうからな。今のうちに話しておきたいことが山ほどある」

「俺はお前に文句しか言わねえからな」

「構わんさ」

ラオユエはそう笑った。

「お前にはその筋合いがある」

「それ、それだよ」

シャンが漸くラオユエに向き返る。

「俺はまずお前のそこが気に食わねえ」

そして早速毒づいた。

「てめえが全部悪いみたいな顔して結局てめえの正義を押し付けてッ、救われてえのはてめえじゃねえかってハナシなんだよッ」

「……」

「俺はもう親父に売られた時から堕ちる運命だッ、そんなかでベストを尽くして良いように生きていこうッて努力してンだよッ」

長い尾をジタバタさせてシャンは続ける。

「それをてめえは恵まれた場所から勝手偉そーに救うだなんだ言いやがって! 冗談じゃねえ! てめえの救いはいつだっててめえの方しか向いてねえんだよ!!」

「……ッ」

ラオユエは言葉をつまらせた。
その言い分が的を射ているからだ。

「……言いたいことあるンなら言えよ」

少し冷静になってシャンが言った。

「とは言え俺は文句しか言わねえからな」

「……」

ラオユエは視線を落とした。

「……嫌いだと、言ったんだ」

「あ?」

「お前なんか嫌いだと、お前は言ったんだ」

「ああ嫌いだよ」

シャンは即答する。

「そうやってダンマリ決め込む……」
「そうして、何も言わないで立ってるだけの」

「ッ……」

「お前なんか、大嫌いだと」

シャンの苦言を遮ったその声に悲しみが満ちていた。

「どうにかしてやりたかったんだ。あまりにも、かわいそうで」

「……」

「父上がどうとか、そういうことは、幼心にはわからなかった。お前がわたしの家に来た理由もはじめわからなかった」

心を平らかに保つことを努めて、ラオユエは静かな抑揚で告げた。

「少なくともそのとき、お前はただわたしに近しいものだと思っていたんだ。同じ年格好の者は身の回りに居なかったからな」

「あー、そうかい」

「……だからかわいそうだったんだ。いつも理不尽な扱いをされ、涙を流すお前が我が身のようだった」

徐々にシャンはバツが悪くなってきた。

「それなのにわたしはなにも出来なかった。お前にしてやれることのすべてがお前に届かなかった。わたしは無知だから」

「……」

「何も出来ないまま、近しいと思っていたお前はどんどん遠くに行ってしまった。寂しかった。わたしの半身がなくなったような気持ちだった」

シャンは、黙った。
口を開くことができなくなった。

「お前はそうして闇に染まり、マオを連れてわたしの家を破壊していった。それはもう、恨んでいない」

「恨んでいない!?」

「むしろ清々しいくらいだよ。お前を貶めたあの家が滅びて本当に良かったと思っている」

「おま……」

ラオユエの表情に怨嗟の色は確かに無かった。

「ただ、お前が幸せになってほしいだけだったんだ」

そのかわりに悲しみが満ちていた。

「……オカマのくせにきもちわりい」

「ああ。本当に滑稽だと思う」

自傷的にラオユエは嘲った。

「こうしてお前を好きにならなければ、お前を苦しめることもなかったのかな」

シャンは一度背けた顔を即座に戻した。

「……今なんて言った?」

「うるさい。二度言うようなことじゃない」

「そ、そうですか」

シャンは再び顔を背けようとしてやはり戻した。

「あ、あの、一つ確認していいですか?」

「文句しか言わないのではなかったか?」

「うるせえ。まさかとは思うが、お前のその姿……」

ラオユエは一瞬息を詰まらせた。
一番気づいてほしくない部分であったからだ。

「……そうだ。本気で“女になろうとして”あえて自らお前の罠に陥ったのさ。結果はこのとおり」

「な、な、な、なんで、そ、そんな」

「言ったろう」

向き返ったラオユエの表情は妙に艶っぽかった。

「お前が好きだからだよ」

今度は開いた口が塞がらなくなった。

「言わせんな、莫迦」

そして妙に艶っぽく顔を背けた。

「ば、ば、ば、ばっかじゃねえええええのかあああああ!?」

シャンは狼狽した。

「えッ!? なんで!? なんで俺!? なんでそんなことしちゃったの!??」

過去に無いほどの自責の念がその他あらゆる感情を引き連れ、ない交ぜになって溢れ出た。

「そッ、そんなッ、カンっペキに俺悪モンじゃねええかッ!! だっ、駄目だろそんなッ、俺サイテー男じゃねえかよッ!!」

「べッ、別に……お前は悪くない……お、おれが、勝手に、好きになっちゃっただけで……」

ラオユエが顔を赤らめる。

「おっ、お前ッ、絶対俺恨んでるだろッ、むしろ恨んで!! 恨めください!! そのほうがよっぽど俺の為に良い!!」

「う、恨むわけねえだろッ、惚れた男の幸せの為ならおれはなんだってしてやる! ただ男から好かれてもお前は幸せになれないと思ってッ!!」

「アアアアアアアアアアアアーーーーーーーーーーーーー!!」

キャパシティを遥かに超えてシャンのあたまがばくはつした。

「てめええはぁあああああああああああああああああああ!!」

そのすさまじい“想”の奔流に応えて

「むかしっからぁああああああああああああああああああ!!」

“渦輪(タービン)”が廻りだす。

「そうやっってぇぇえええええええええええええええええ!!」

必然かつ唐突に、極まる、昂まる、この恍惚の夢魔。

「いいいいいいいっつもぉぉおおおおおおおおおおおおお!!」

“枯渇”を喰い、“豊穣”を吐き、

「ひとりよがりでぇぇぇぇええええええええええええええ!!」

“死”の器に光明を降らす!!


刹那、閃光と爆音とが部屋を満たし、飽和した。



シキョウ少年には一人の弟が居た。
済蓮北西部、玄武省・玄西(シャンシー)は静かな村で、彼ら兄弟はその村で静かに育った。
高齢化の進む玄西の村で幼い兄弟は厳格にしきたりを守り続けてきた老人たちに囲まれて暮らした。
そしてその頭の中には、玄西に伝わるある秘術が絶えることの無いようにと、もれなくこの幼き法師達にもしっかりと焼き付けられていた。

とは言え彼らもまた普通の子供ではあった。
もの静かで主張こそ激しくはない大人びた面はあってもやはり子供は子供だった。
成長にしたがって玄西の村は次第に窮屈に感じられるようになった。
そして大人の目を上手に盗んで遊びにいくことを覚えた彼らを誘ったのは。

決して行ってはならないと、大人たちが素敵なスリルを無数に隠した古の石切場だったのだ。



「ハッ!?」

数秒の失神の後にシキョウは我を取り戻す。
背中に酷い痛みがあったが致命傷ではないようだ。
その胸の内にはマオマオ人形もしっかりと抱えている。

しかし彼は動けなかった。
瓦礫のなかで辛うじて首を巡らせ、己が状況を理解する。
あの“鉄の掌”だ。
打ち出されたそれに半ば押し潰される形で瓦礫の山に体を埋めていた。

『これでッ……っんホンッゲホ! んッんッ、これでもう逃げられまいよ!』

昂る心肺に噎せながら大人が言い放つ。

再びシキョウの胸中を諦念が満ち始めた。
結局、この闇の迷宮に逃げ込んだところで何処にも行き場は無いのだ。
野次馬が集まりだす。
ヤイヤイと、人、人、人の目が彼を見る。

『さあ、人形を渡せッ、最後のチャンスだ、ここで忠義を見せるならまだ手元に置いておいてやるッ』

拡声器の声が割れる。

『さあ、どうするシキョウッ!!』

影を求め、闇を求めて身を沈めてきた。
ここがその闇の底、あるいは地の果てか。

強く保ち続けたその心も、今まさに屈しようとしていた。

「「疾ィッ!」」

『んなぁぁ!?』

機械蜘蛛はその背中に突然の爆風を受けた。
咄嗟の出来事に蜘蛛が鉄の掌に繋がる鎖を巻き上げた。
本来はこうして人を捕らえるものなのだろう。

『誰だッ!?』

“快楽的不夜城”のネオンを背負い、二人の人影がそこにあった。

「あぁーあ、てめえの癇癪でてめえの街潰しちまってどぉーすんのヨ」

恥ずかしさからか決めポーズを5秒も保てなかったシャンがウ○コ座りで悪態を吐く。

「金大人ッ、目先の欲に目がくらみ、民の身を省みず面妖な機械で破壊を撒くその愚行、この狂月別姫が月に代わって成敗するッ!」

プリンセス・ルナティックはその豊満な胸筋を揺らしてポーズを決めた。

「……ノリノリじゃねェかオカマ野郎」

「う、うるさいっ、何かとこの方がハッタリが効くのだ……」

一瞬だけラオユエに戻ったプリンセスが赤ら顔を背けた。

『おのれおのれおのれぇぇえ────!!』

対する金大人は徹底抗戦の態度を採る。
鋼鉄の蜘蛛はシキョウを忘れて二人の襲撃者へ向き返った。

『跶蛛喇(ダチュラ)、戦斗モード!!』

《遷移到戰鬥模式系統(システム 戦闘モードへ移行)》

大人の声に答えた鉄の蜘蛛が、背中に四門もの呪砲を背負い、その操縦孔を装甲の内側へと包み隠す!

「やっこさん戦争でもおっ始めるかね」

「大人は法師ではないから、それほどの力は出せないはず」

「不不(いやいや)、ここは黒龍城塞だよ……」

構えるプリンセスにシャンは諭す。

「“世界渦輪(せかいタービン)”のお膝元……ここに渦巻く“想”は、“血”じゃなくて“感情”が廻すのさ」

シャンがそう云い終えるや否や、蜘蛛の呪砲が火を吹いた!

「ッ!!」

「疾ッ!!」

シャンが咄嗟に放った札が光弾に直撃し、白い煙となって相殺した。

「とっとと封じねえと街がヤベぇぞ!」

「任せろ!」

プリンセスがビルから飛び降り、鳳凰の羽で身を包んで見事な着地を見せる。

「み、見ろッ!」
「ああッ、あの方はッ!」
「テレビで観たわ!」
「明眸皓歯容姿端麗ッ!!」
「「狂月別姫さまぁ────!!」」

そして野次馬に飲み込まれた。

「ぬおおおおぉぉぉぉッ、レイぃぃぃいい!!」

「……あんのカマやろうッ」

頼りにならない女装の変態に悪態を吐き、シャンは意を決してビルから飛び降りた。

「翔べェ、疾ィッ!!」

そして懐から丁寧に一つずつ呪符で巻いた爆竹を投げつける。

「からのォ瘟ッ!」

長い尾をどこぞの婦人のシミーズが揺れる洗濯紐に辛うじて引っ掻けながら、短い指で印を結ぶ。
途端に投げつけた二条の爆竹が不気味な紫の大蛇に転じて鉄蜘蛛・跶蛛喇が背負う呪砲に絡み付き、閃光を上げてもろともに爆ぜた!

《呪砲損失(呪砲ロスト)》

『んぎゃああああ!?』

跶蛛喇が脚を縺れさせて転倒するその眼前に、シャンは空中で一回転半しながら着地、両足裏にジンジンと広がる痛みと戦っていた。

「ッー……シキョウッ、生きてっか!?」

長い首を巡らせ見つけた瓦礫の山の中、シキョウは辛うじて埋もれた半身を起き上がらせた。
しかし自由が効かない。

「くッ、シャン殿ッ!!」

左足が曲がった鉄骨に挟まれて抜け出せない。
骨は折れていない様子だったが、鉄骨を切断するか瓦礫を破砕しない限りは逃げ出すこともままならない。

「マオマオを!!」 

「あいよォ!!」

人形を差し出すシキョウに駆け寄ろうとシャンが身を翻した刹那、その間を何かの光が通りすぎ、向かいの壁面が爆発した。
その道程に真っ赤に燃えた一条の傷跡が生々しく融解する。

『死がァァァアアアア!!!!』

大人が叫ぶ。

『死が来るぞぉぉぉァァァアア!!!!』

抗うように跶蛛喇が咆哮する。
そしてその口許が閃光を放つ。

「うわあああああ!?」

再び放たれた光条の刃が“快楽的不夜城”の一角を豆腐のように切り裂き、中でお楽しみの男女を詳らかにした。

「ナニやってやがるユエぇぇッ!!」

恐怖混じりにシャンが叫んだとほぼ同時、突然別の閃光が跶蛛喇を襲った!!

『なぬぅぅぅう!?』

その光源は“黒龍電影中心(海賊版AV機器専門店)”の壁面に狭しと並ぶテレビジョンだった。
太陽のごときその画面を眼を凝らして見てみれば、無数のモニターそれぞれにキメ顔のプリンセス・ルナティックが映し出されていた。

「私はあまりにテレビ映りが良い為に画面がキラキラ光るのだ!!」

「お前は恥じてンのか自慢してンのかどっちなンだよ!!」

「とうッ!!」

歓声と共にビデオカメラ(メーカー非正規品)を向けられていた狂月別姫が宙に跳び上がる!

「隙アリぃぃ!!」

隠し持っていた強化呪の刻まれた鉄扇を投げつけ、光の刃の砲門を二分する。

《光刀片損失(レーザーブレードロスト)》

『まだまだぁぁぁ!!』

苦し紛れに大人はシキョウ目掛けて件のロケットアームを打ち出した!

「いかんッ!!」

ラオユエは咄嗟にもう一方の手に構えていた別の鉄扇を投げつける。
回転の速度を上げて銀色の円盤と化した鉄扇は鉄の掌の鎖を切り裂き、その軌道をねじ曲げる!

「シキョウッ、頭引っ込めろ!」

シャンが僅かに遅れて札を放つ!

「瘟ッッ!!」

失速したロケットアームが落下する直前、シキョウを捕らえる瓦礫が爆ぜ、その衝撃がマオマオもろともシキョウを上空に跳ね上げた!!

『もらったぁぁ!!』

小型のマジックアームが打ち出される!

「「さぁせるかぁッ!!」」

身を呈してシャンとラオユエがその軌道に躍り出る!

「ギャンッ!!」
「うぬぅぅッ!!」

マジックアームが二人の体に激突し、シャンの背負う黒箱から地雉精の鍋が飛び出した!

『そして奥の手ぇぇえ!!!!』
《緊急逃生執行(ベイルアウト実行)》

直後、大人の座す跶蛛喇の操縦孔がその複合装甲を吹き飛ばして射出された!!

「ハァ────ッハッハッハアッ──────!!」

狂喜と共にシャンを、ラオユエを、シキョウを撥ね飛ばし、たるんだ頬肉を風にはためかせながら、老体は宙に投げ出されたマオマオ人形を掻き抱いた。
やがて操縦孔は向かいのブティックの店先に衝突し、二、三度転げてようやく止まった。
随分と派手に着陸したものだが、中の大人は動悸息切れに苦しみながらも無事な様子であった。

「ぜい、ぜい、ひい、ひ、ひひひ」

ただしそれは端から見ての判断でしかない。
実際に彼の心筋はすでに硬直を始め、不整な脈を辛うじて続けられているほどに疲弊しており、その胸中には比喩ではない激痛が走り抜けていた。

だが、もう、それは些末なことであった。

なぜなら金大人は、今まさに自分の手で手に入れたのだ。

“永遠”を。

死の灰色でも、黄昏の金色でもない。
今、大人が見ているのは、虹よりも優れた極彩色の世界だった。

「ウヒ、う、ひひひ……い」

冷や汗でぐっしょりと濡れた冷たい手で、大人は腕に抱いた“永遠”を撫でた。

「わ、わたしの、ものだ」

震える舌で言葉にした。

「だれにも、わたさぬ」

その言葉で事実を刻み付けようとする。

「ひひ、ひ」

良く良く見れば随分と愛らしい顔をしているではないか。
人形とは言え金獅子帝が慰みものにしたというのも頷ける。
微かに開いた口の蠱惑的なこと。
“今すぐにでも舌を捩じ込んでください”と嘆願している様にも見えてくる。

「よ、よせェ!」
「大ァ人ンッ、やめろォ!」

二人の法師は痛みを堪えて絞り出した。

だが遅い。

老人は幼子の唇に、酒と煙草と嘘の薫りの染み付いたぬらつく舌を差し入れた。

『主系統重啟管理器啟動(メインシステム再稼働マネージャを起動します)』

「何?」

俄に瞼を開いたマオマオの口から、夢遊病かなにかのように聞き慣れぬ言葉が矢継ぎ早に飛び出した。

『系統結構和外殼驗證完成(システム構造体及びエンクロージャの検証完了)』
『任務初始化(タスク初期化)』
『操作系統啟動(オペレーションシステム起動)』
『開始從休眠區臨時存儲數據(ハイバネーション領域より一時保存データの読み込み開始)』
『協議開始 驗證所有者的資格(プロトコル開始 所有者の資格照合を行います)』

「な、なんだ、古代済蓮語か!?」

失われた古代の言葉を雪崩の如く紡ぎ出す。

『!錯誤 無法驗證所有者的資格和認證因素(エラー、所有資格および資格認定因子の確認ができません)』
『!警告 我將從此轉移到保密信息的自衛順序(警告、これより機密情報保全の為、自衛シークエンスへ移行します)』

「えっ?」

「ヤバイヤバイヤバ、ぐうっ!!」

駆け寄ろうとしたシャンが激痛に蹌踉めく。

『防禦系統激活(防衛機構アクティベーション)』
『認證過程初始化 防火牆全種擴展(認証プロセスをイニシャライズ、防壁を全種展開)』
『!警告 在屏障激活時產生的剩餘脈衝具有殺傷力(警告、防壁活性化時に発生する余剰パルスには殺傷力があります)』
『请立即停止重新启动(ただちに再起動を中止してください)』

そして、金大人は、次の瞬間に閃光を見た。

否、実際に見たかどうかは定かではない。

少なくとも、その場に居合わせたシャンは、シキョウは、ラオユエや野次馬たちは、落雷の如きその閃光を確かに認めた。



目が焼けるほどの光と、耳が聞こえなくなる程の轟音から漸く感覚が戻ってくる。

眼前の光景は、あまりに静かだった。

瓦礫の山と、土埃、そして、その中心に、まるで祭壇かなにかのように鎮座する操縦孔の残骸の中。

金大人が居たその場所には、ひとのかたちの炭の塊のようなものだけが燻ぶりながら残っていた。

「……」

だれも、言葉を発さなかった。

発するべき言葉が思いつくほど、頭が働かないのも事実だった。

それだけあまりにあっけなく、あまりにも唐突に、惨劇の痕跡だけがその場に現れたかのような、理解を逸脱した光景だった。

「あいやー」

その静寂の中で一番はじめに発された声は、気の抜けた子供の声だった。

「えらいめにあったね」

人型の炭がぱさぱさと虚しく崩れる中から、マオマオが何食わぬ顔で身を起こす。

「あ、爸爸(パーパ)!」

そして迷子が親を見つけたときのような空々しさで、呆然と立ち尽くすシャンの足元へ駆け寄っていった。



「そん、な」

シキョウが、激痛に軋むその身を起こして思わず呟いた。

それ以上の言葉の出ないまま、一歩、一歩、足を進める。

一歩、一歩。

足を、進める。

あまりにも認めがたいその光景を。

一歩、一歩。

認めていくように。

「ああ」

まず喉から声が漏れ出した。

「ああああ」

遅れて涙腺が決壊した。

「あああああああああああああああああああああああ!!!!」

そして魂が咆哮した。

あまりにもあっけない。
あっけない幕切れであった。

元を正せばただ一人、老いに怯えて富へと逃げ走り、その果てで要らぬ欲に自ら溺れ、その結果として命を失った、ただそれだけのことであった。
そしていま、こうしてさわめき始めた野次馬たちの大半も、よくわからないがここで凄まじいことが起きていた、ただそれだけのこととしか認識していないことであろう。

ただ、それだけ。

金大人の死は、ただ、それだけのことにしかならなかった。

「……」

ラオユエはあまりに痛ましいシキョウの背中から目を背けることしか出来なかった。
気の利いた言葉のひとつもかけてやることが出来なかった。

確かに痛ましい出来事ではあったのだが、金大人の死は、単なる欲張りの自滅という、ただ、それだけのことでしか無かったからだ。

「……“生死ノ去来スルハ棚頭ノ傀儡タリ、一線断ル時、落落磊磊……異国のそんな言葉もあるなあ、知ってるかい大人”」

寄り縋る残虐な生き人形の頭をなでながら、

「“大人、トモダチに悲しい姿を見せないでくれよ”……」

シャン・レイエイは、その行き場のない思い、そして明日の我が身への思いを、ニヒリズムで塗りつぶす。

「────」

そうしているうちに、シキョウはそれ以上足を踏み出せなくなって、その場で膝から崩れ落ちた。

認めることがどうしても出来ない。
金大人の死を。
その死があまりに無為であることを。

それはあの日も同じだった。

あの幼い日。

わんぱく盛りの弟が、石切り場の切り立った岩の上から、足を踏み外して真っ逆さまに堕ちていった。

その小さな頭蓋を岩にぶつけて割ってしまった。

じわりじわりと岩の隙間に赤い泉を湛えていくその光景を、目の当たりにしたあの時と、なにもかもが同じだった。

ひとの死は、こんな無為なものではあってはならない。

絶望の中にその矜持を見いだしたのも、同じだった。

「……死は」

「?」

「意味のあるものでなければ……いけないんだ……」

その時、シャンは、ラオユエは、背筋に何かおぞましい寒気を感じた。

「意味のある、ものでなければ……」

死は、無為であってはならない。

死は、生の結果として、納得の行くものでなければならない。

例えば、今シキョウの足元に倒れた鍋からこぼれた、誰も口に出来ないまま無為に殺された雉肉のような、無意味な死はあってはならない。
“食”とは、ひとが意味ある生を営むために定められた原罪だ。
そのために屠られる畜の死とは、ひとが意味ある生を、意味ある死を迎えることで救われるものでなければならない。

だから“死”とは、意味あるものでなければならない。

未来も何も得られないまま、岩から落ちて死んでしまった弟のような、そんな死はあってはならない。

シキョウは、この“死”を受け入れない。
シキョウは、この“死”を認められない。

だからまた、逃げ出そうとしている。

この“無為な死”という残酷な現実から逃げ出すために、また過ちを犯そうとしている。

「これは“死”では、ない」

そして“扉”は開かれた。



「!!!!」

シキョウを中心に、凄まじく昏い魔力が吹き出した。
それは魔導の血が薄れ、あるかないかもわからない世界渦輪の力を借りてかろうじて魔法を紡げるシャンでさえ、その凄まじさを肌で感じることが出来た。
例えるなら、墓場の土の下に吹きすさぶ凍えるほどに冷たい風が、胸の窓を貫いて吹き抜けて行ったような、そんな恐ろしさがあった。
魔の才に優れたラオユエが、その巨体を縮こませて震えていることから、それは確かなことのようであった。

「なんだ、何が起きてる!?」

「爸爸」

表情を一つ変えずにマオマオが口を開く。

「あいつの魔力……“死”に染まりすぎてるね……」

昏い魔力の奔流が、惨劇の舞台に竜巻のごとく渦を巻く。
大人だった消し炭の灰の一粒まで全て巻き上げて、冥界の風が吹きすさぶ。

シキョウが背負う、その全ての咎のはじまり。

玄西道士の秘中の秘術、そのおぞましさから迫害の原因となり、禁忌として封じられながらも確かに受け継がれてきた救済の技法。

幼き彼が背負いきれなかった“死”から逃れる為に犯した過ち。

一歩、また一歩。

死の嵐の中をシキョウは歩む。

その覚束ない足取りは、奇しくも、死した彼の弟が、ひとり、村へ帰る道を戻っていった、その背中に良く似ていた。

「瘟」

シキョウの言葉と共に、死の魔力が落雷のごとく地に落ちる。

それは、焼け焦げた操縦孔に残る、ほとんど崩れてしまった金大人の亡骸へ、ではなく。

シキョウの足元に打ち捨てられた、シャンの鍋の中身に向けて降り注ぐ!!



「────────────────!!!!」

“それ”は、咆哮した。

もとの質量から遥かに超えたその巨体を、冥界から雉の死肉を依代に、たしかに現世(うつよ)に顕現させる。

「うそ、だろ」

シャンは割れた眼鏡をずらし、その異様を肉眼で捉える。

「あの野郎」

あまりにも不気味で、あまりにもおぞましい、その醜悪な肉の塊は、

「“死霊使い”だったのか……!!」

滅び去ったはずの、あの“時を遡る霊鳥”の姿を表した。

「────勅令────」

シキョウは印を結び、そこから紡がれた術式が質量を纏って呪符をかたちどる。

そして鋭く放たれたその呪符は、半ばで九つに別れると、同じ数だけ首をもたげるその頭に穿たれた。

「────────────────!!!!」

こうして“九頭雉鶏精”は、殭屍(キョンシー)なる冒涜の躰を得て蘇った。

狭い黒龍城塞の壁面をも突き破り、騒然たる咆哮を不協和音で奏でながら、時間の西方より東へと昇る太陽のごとき極彩の翼を広げて羽ばたく。

過去へ向けて。栄光の昨日へ向かって。



【霓虹路(ネオン・ロード)】に夜はない。
その名の通りにネオン看板の極彩色が昼夜を問わずに煌めいているからだ。

しかし今は、そのネオンの輝きは全て消え失せ、そのかわり、水平線の向こうから昇る朝日の灼けるような光が砕けた壁の向こうから差し込んでいる。

霊鳥が飛び去った際の突風で、あらゆるものが吹き飛ばされた。
半ば大災害でも起きた後のような惨状ではあったのだが、不思議と怪我人は居なかった。

幾年ぶりの陽の明かりに、シキョウは目を細めて呆然と立ち尽くす。
感情の荒れ狂うままに、何か取り返しのつかないことをしでかした覚えはあるが、その頭ははっきりとしない。
ただ、ほとんど廃墟の様になった街が陽に照らされる、その影と光の対比とがあまりに美しかった。

自分の輪郭を忘れてしまえるほどの闇へ、闇へと逃げ続けた。

そのシキョウが、昇る朝日を美しいと思った。

「ふえ」

その声を、誰もが聞いた。

「うええええええ」

赤子の泣き声だ。

それは、あの惨劇の祭壇、大人が死した操縦孔の中から聞こえた。

「……?」

シキョウが歩み寄り、覆いかぶさった布切れを剥ぎ取った。

そこには、文字通りに生まれたままの姿の、獅子の乳飲み子が産声を挙げていた。

「……大人……?」

雉鶏精は時を遡る霊鳥だ。
その翼には時を巻き戻す権能があると聞く。

「大人」

「金大人……?」

「ターレン!!」

裸の情婦も、料理屋の主人も、皆、シキョウの抱く赤子の元へと歩み寄る。

皆、若かりし金大人に救われた者たちだ。

薄っすらと金大人が死んだらしいと噂に聞きつけて、少なからず胸を痛めた者たちだった。

「……大人……」

金大人は、何もかもを無くした代わりに、もう一回分の一生を手に入れた。

シキョウは、死から逃げてきたこのちいさな大人に、変わらず忠誠を誓うのだろう。

それが、弟の死から逃げ出した、その咎の贖罪になると願って。



「クソみたいな仕事だったぜ、畜生が」

黒龍城塞のどこかの外殻。
朝焼けに染まる海を眺めて、シャン・レイエイは海風に吹かれていた。

「マオに悪いことするやつが悪いね」

そして悪魔の人形は悪びれない。

「てめえのせいで半ば俺もヒトゴロシみたいなモンじゃねえか、しばらくあの街に近づけねえぞ」

「でも、黒龍は広いね、また荒稼ぎするあるよ」

「とんでもねえ餓鬼だよ、おまえ」

黒龍島の向こう、海の彼方に棄てて久しい済蓮の街が見える。
それに対しての感慨はもはや無い。

「さて、めんどくせえ奴が追ってくる前に次のカモを探しますか」

「爸爸」

立ち上がったシャンの服の裾をマオマオが引く。

「爸爸は、マオのこと、きらいにならないでね」

その言葉は、なにか妙にぞっとする響きを持っていた。

「……おまえさんがいい子にしてるならな」

マオマオは笑顔で首を縦に振る。

シャンがそれを認めて笑った。
鰐のように鋭い牙の列が朝焼けに染まる。



──── 一方。

「どはああああッ!!」

ラオユエはガラクタの山から漸く顔を出す。

「おとおさーん、オカマが埋もれてるよォ」

「あァ!? ンなもん放っとけ! こちとら忙しいンでぇ!」

子供は無様な姿の女装男を一瞥して去っていった。

「……レイ─────ッ、今度は絶対に逃さんぞぉぉぉぉぉおおおお!!!!」

魂の咆哮が、黒龍城塞の深い深い闇の中へと呑まれていった。



黒龍盛宴遊戯-地雉精死断麺 -The END-

再见!!


最終更新:2017年06月12日 00:47