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Gate,Gate,Paragate-第三話-:みにくい白鳥

“僕は……いずれにせよ分からない……全く分からない。
何で賢明な人間たちを有刺鉄線の中に閉じ込めておくのか分からない”

“でも、ひょっとしたら、有刺鉄線の中に閉じ込められているのは彼らではなく、あなたなのかもしれませんよ”

──A&B・ストルガツキイ“みにくい白鳥”



……妬まれていた。

それは初めから、わかりきっていたことだった。

面白くないのは決まっている。
突然現れた得体の知れない人間が、今や先生から直接指導を賜る筆頭株だ。
すばらしい先生の教え子たちだから皆、僕には笑顔を向けてくれてはいたけれど。

……僕は、一人だった。

それは初めから、わかりきっていたことだった。

恐らくはそれすらも、僕が賜る試練であったのだろう。
僕は、一人だ。
そして僕は──なのだ。
ただ一人の“サモン”であり、ただ一人の──である。

それ以外、何があろう。

……嗚呼、雨が降っている。

この肌を無常の雨が撫でている。

僕は、“無い”。

どこにも、“無い”。

ただ、あるのは──



なま暖かい雨が、ヤクモの肌を撫でていく。
その顔、その指、その内股に至るまで。

目を開くことが出来ない。
手足を動かすことができない。
何か荒縄の様なもので拘束され、目隠しをされているようではあった。

「目を醒ましたらしい」

子供の声がした。

「どうする?」

「お城に着くまでは時間がある。できるなら薬で眠らせておきたい」

おおよそらしからぬ口ぶりで、別の子供が答えた。

「献上品に傷が付くのはなるだけ避けたい」

その言葉を聞くが否か、口の中に砂糖水の様に甘い何かが注ぎ込まれる。

「……ッ」

それがあまりに急だったので、噎せる前に飲み込んでしまった。
やがて舌に、喉に、麻酔性の痺れが襲いかかる。
それは喉から顔へ、首へ、胸元へと広がり、指先に不快なざわつきが走り抜けたあとには身体の自由は失われてしまった。

前後の記憶は既に無い。
ヤクモが僅かに焦燥を抱くのは、それに“慣れつつある”感覚だった。
あらゆる世界をたらい回しされ、もともと自分が何処に居たのか、何処から来たのか、それすら曖昧になってしまう。

果たして、自分は何処から来たのだろう。
果たして、いくつの世界を巡っただろう。

利かない手足の感覚から意思を背けるために、ヤクモは思考を巡らせる。

──東京。

──新宿。

──中央公園。

……それらももしかしたら、自分が巡ってきた世界のたったひとつでしかないとしたら。

……自分が“錨”を下ろすべき世界は、あるのだろうか。

「きゃッ!!」

小さく子供の悲鳴がした。
自分が乗せられている、荷台か何かとおぼしきものが激しく揺れた。

「やっ、やめてッ……!」

別の子供も声を上げたが、それも急に聞こえなくなる。

「へへへぇ……」

縄が解かれたようだ。
辛うじて動く、マネキンの様に感覚の無い手で目隠しを払う。

「かわいこちゃん……俺といいことしようぜぇ」

目前にあったのは、汚ならしく無精髭を伸ばした、見るからに悪意を持つ男の姿だ。
爛々と目を輝かし、酒臭い吐息を放つ、まるで絵に描いたような悪漢であった。

「……、……ッ」

声が出ない。
目も霞んで焦点が合わない。
だがどうやら、身を守らねば不味いことになるのは確実だった。

「……るはッ……《……者》……」

ヤクモの手に、朧気ながら光が集まる。

「ルー……るはッ……《……断》ッ……!」

そして光は一条の貌(かたち)”を辛うじて顕わす。

「……出でよッ……《鉄……》……ッ!」

刹那。

「──!!」

別の声が割って入る。
聞き覚えのあるようでない、だが確実に“男”の声だ。

直後、ヤクモと男の間に、鋭い風が吹き抜けた。

「……」

直後、男の姿は消えていた。
先ほどの風に吹き飛ばされたかなにかしたのだろうか。

ヤクモの意識は、それを見届けながら完全に途絶えた。



「……すまねえな、これはチップ代わりだ」

「え、そんな困ります」

「いーから、変なこと頼んじまった礼だよ」

微かに、声が聞こえてくる。

少女の声、そして先ほどの“男”の声だ。

「……」

まだ朦朧とする頭のまま、ヤクモは辺りを見渡した。
上等の照明、上等のベッド。
なにか、顔の辺りにくすぐったい感覚があるが、それはなにかわからない。

「……ふむ」

扉が閉まる音と共に、男の溜め息が聞こえた。

「……ッ、……」

まだ、声が出ない。

「……もうしばらく、休んでろ」

男は視線を向けずに応えた。

「少なくとも、ここは安全だ」

「……」

身体の感覚も戻らない。
まるで全身が痺れて、ぶよぶよの固まりになったような気分の悪い感覚しかない。

「……」

ただ、男の声は、なぜだかひどく安心する響きを持っていた。
この声には、聞き覚えがある。
いや、この声は、知らない。

また、記憶が曖昧なのだろうか。
この男には会ったことがある気がする。

焦点の合わない目で見る後ろ姿は、間違いなく転光生のそれだ。
長い尾がゆらりと揺れて、羽織った白いカッターシャツに軌跡を残す。
男の体格はがっしりとしていた。
その風貌は記憶の中に近しい人の面影を引きずり出す。

だが、なにかがおかしい。
そのうち誰とも、しっくりくる組み合わせが無いのだ。
ヤクモが最初に思い浮かべたのは“東京”で探偵を名乗っていた男なのだが、彼が持つ“赤い”雰囲気はあの男には無かった。
目の前の男の毛皮は暖かなグレー色をしている。
だが、この恵まれた体格をする男で該当する毛色の記憶が無い。

他人の空似か、ヤクモはそう思い、霞かかる頭を休めようと瞼を閉じた。

顔を見るまでは思い出せないだろうし、あるいは、覚えていないのかもしれない。

ヤクモは僅かに、次に目を醒ます瞬間に恐ろしさを感じた。



──延々部屋の外からは、雨の音しか聞こえなかった。
体感では三十分ほどの仮眠のつもりだったが、身体の感覚はほぼ戻りつつある。
ただ、あらゆる箇所に違和感が残った。
首筋や両手に、何かが絡み付く気持ちの悪さがあった。

「……ッ……」

ゆっくり、身を起こしてみる。
異様に身体が軽い。

「……なん……」

声を出しかけて、自分の身体の異変を知った。

手指に、長い黒髪が絡まっていた。
いや、そもそも、自分の腕ではない。
異様に“細い”のだ。

「……!!」

その髪は自分から延びていたものだ。
咄嗟に落とした視界に、ガウンの合間から膨らむ乳房を認めた。

「……あ……ッ……」

自分のものではない声が、自分の喉からあふれでた。

「ア──ぁ……ッ──!」

それはほとんど、悲鳴だった。

状況が呑み込めずに、感情で濾過しきれずに溢れだした恐怖を、そう形を与えて体外に排出せざるを得なかったのだ。

「──ッ!?」

ヤクモは突然現れた男に両肩を捕まれた。

「おちつけッ」

知らない声。

だが、聞き覚えのある声。

「深呼吸しろッ、ゆっくり、大丈夫だからッ」

鋭い目のかたち、その瞳は深い紅玉の色でまっすぐ自分を見据えている。
その瞳の輝きに魅せられたのか、ヤクモの目は釘付けになった。
言われるがままに息を整えていく。
そのまま全身の硬直が砕けて、男に促されるままベッドに横たわる。

徐々に自己がはっきりしてくる。
身体のすべてが変わってしまっても、これは自分だと言い聞かせる。

そしてヤクモは、心配そうに視線を注ぐ見知らぬ男の頬に手を伸ばし、その輪郭を指先で確かめながら、確かではないその名を呼んだ。

「……“シトリー”……?」

男はその目を丸くし、そして、安堵のような、むしろ“憐憫”と表現できる表情を浮かべて、相手の名を返す。

「……やっぱり、そうなんだな……“ヤクモ先輩”」



左門 ヤクモが知る“シトリー”という少年について、“彼女”は記憶を手繰り寄せる。

シトリーは少なくとも、ヤクモより二つは年下だった。
“東京”の下町暮らし、己に宿った“権能”に振り回され、ちょっとした騒ぎを起こしたところに居合わせたのがヤクモであった。
シトリーは、自らの基準における“硬派”を貫く自称純朴な少年であり、そして、自身が思う“硬派”を目指して鍛練を重ねる愚直な少年でもあった。
だがやはり、その若気の至り、若さ故の青さだけは例え強い信念の下にも拭いきれない。

それがヤクモが思う“シトリー”だった。
彼の持つ青さ、そして苦悩こそが愛おしかった。
どこか、胸のなかに何故かある“母性”のようなものをくすぐるものがシトリーの魅力と考えていた。

だが、自分が“シトリー”と呼んだその男には、そんな“青さ”を感じなかった。
面影こそはシトリーだったが、どこか垢抜けて成熟した印象をその表情は浮かべていた。
何よりその身体つきが、あの青いシトリーの成熟しきれていない四肢のそれとかけ離れている。
日々、“硬派”を目指して密かに鍛練を続けていたのを知っているヤクモが見れば、あどけなさの中に男くささを感じられる姿ではあったのだが、この男にそんな少年の印象は感じられない。
背丈はヤクモを見下す程に育ち、鎧のような胸板か衣服の上からでも見て取れた。
引き締まりながらもその四肢は太く堅く、骨張った手の甲はあまりに男臭かった。

そこにはもう、あの“少年”は、確かに居なかったのだ。

「何がどうなっちゃったんだか……」

自分の声とは思えない声でヤクモが嘆く。

「先輩、終わったかよ」

ヤクモの着替えを、シトリーは背を向けたまま待っていた。
一応、“女の着替え”と言うことで気を使ったらしい。

「待って、スカートが……これでいいのかな」

シトリーが言うには、自分はこの服を纏って拐われかけていたのだと言う。
確かにこの意匠は自分の学舎の女子制服のものだ。
……その学舎のことは、しっかりと思い出せない。
“なにか別の記憶が割り込んでくる”のだ。
その記憶は自分のものではないと、無意識のなかで拒絶が起きていることが正しい記憶の詮索を阻んでいる。

「ん、たぶん大丈夫」

ヤクモの言葉にシトリーが振り向く。
……シトリー、だと、自分に言い聞かせる。

「……ッ」

「あ、パンツ出てない?」

「ばッ、馬鹿言えッ、出てねえよ!」

だが、目の前の男が顔を赤らめて目を背けた様を見て、むしろヤクモは安堵した。
ああ、シトリーだ、と。

「とりあえず、シトリーさ」

「……なんだよ」

「どうしてそうなっちゃったの」

おまえに言われたくない、と言う顔でシトリーが見返した。

「……おいら……いや、“俺”にもわかんねえけど……気がついたらこの姿で、雨ん中、立ってた」

「……なんで言い直したの?」

「違ぇんだよ、この見た目で“おいら”とか言ってたら糞やろうに絡まれて仕方なくッ」

どっかりとソファに身を沈めながらシトリーは毒づく。
その様が、今までのシトリー像とやはり解離する。

「ともかくさ、よくわかんねえけど、この街は糞やろうで溢れてンだよ」

ヤクモはベッドサイドに腰掛け、顔にかかるうざったい髪を掻き上げながら、シトリーの言葉に耳をそばだてる。

「……ほんと糞だよ。大人は朝から飲んだくれてる。逆にガキは変に小賢しくてさ」

「……」

「ラッキーだったとは言え、先輩と合流する前に……俺、それなりに情報集めておいたんだぜ」

自慢げな表情を浮かべてシトリーが立ち上がる。

「この街は……ていうか、この“国”って言っていいのかな」

「……国?」

「この国を支配してる奴がまずとんでもねえんだよ」

シトリーはふと、サイドテーブルのピッチャーの水をグラスに注ぎながら口を開く。

「その名も“子供皇帝ネモ”だとさ。この国は子供に支配されてンだよ」

ヤクモが怪訝な顔をする。

「……そういえば僕……のこと、拐おうとしてたのも子供じゃなかった?」

シトリーに倣って一人称を改めようかと思ったが、気分が咎めて諦めた。

「そうだな。どうにもその皇帝とやらに献上する貢ぎ物にされるとこだったみたいだせ、先輩」

「マジか……」

ヤクモが頭を抱える。
その度にまとわりつく髪を、どうにか掻き上げ背後に払う。

「何もかもがめちゃくちゃなんだ。何もかもが子供のママゴトで、どんだけ賢いフリしてもなにかしら歪なんだよ」

「……とにかく、脱出のことを考えないといけないね」

「そうだな、先輩と俺がなんで“こんなことになってるか”も調べねえと」

しかめ面で腰に手を当てるシトリーの姿に、別の男の面影を見る。

「……シトリー、なんか私立探偵って感じだね」

「はぁ? まあ……そう言うことにしとけばいいか」

「じゃあ僕はその美人助手ってことで」

シトリーは唐突な言葉に顔を真っ赤に染めた。

「いッ、いい加減にしてくれよ先輩ッ、やりずらいなあッ」

「……ほんとシトリーって硬派だよね」

「う、うるせえッ」

腕を組み、視線を背けるシトリーのしぐさに、ヤクモはやはり強い安堵を覚えた。



「ほお……」

初めて見る街の光景にヤクモは感嘆を漏らす。
金色に輝く夜景、所々に運河が走る水の都。
沢山の街灯が立ち並び、昼間の如く明るいが、その空は吸い込まれる様に黒く、雨が降りしきる。

「おい、カッパひとつくれ」

シトリーが行商の少年に何かを手渡す。
よく見ればそれは、なんのことはない色とりどりのボタンだった。

「……」

少年は僅かにそのボタンに見惚れてから、鞄から一着の雨合羽を取り出す。

「ありがとよ」

同じく合羽姿の少年は貰ったボタンを嬉しそうに眺めながら雨の中を立ち去った。

「──調子狂うだろ?」

シトリーにそう言葉をかけられながら、ヤクモは手渡された雨合羽を羽織る。

「……あれは?」

運河の先、盛り上がった小高い丘の上に、一層強く輝く黄金色の城が見えた。

「あれが“子供皇帝”の黄金宮殿だとさ、とんでもなく遠いらしいけどこっからでも見える」

「ふうん」

合羽のフードを目深に被り、二人はとかく、ヤクモが拐われかけた現場に向かおうとしている。
何をするでも切っ掛けがほしかった。
この世界で起きた直近の出来事といえば、それしかない。

「また酔っぱらいどもに絡まれたらどうしようか」

「それはそれで好都合かもな」

隣に立つ、背の高いシトリーは好戦的な笑みを口許に浮かべた。

「……」

やがて寂れた通りに出ると、無惨に破壊された荷台が見えた。
白い、高級そうな外套を纏った子供たちが、どうやら“現場検証”をしているらしい。

「だれだ!」

二人に気づいて白外套が駆け寄る。

「立ち入り禁止です!」

もう一人の少女も走り寄ってきた。

「事故かい?」

シトリーはフランクに話かけた。

「大人には関係のない話だ!」

「おっと、失礼」

ふと、シトリーが袂を探る。

「無礼のお詫びにこちらを」

シトリーが取り出したものを見て、ヤクモはあっと思わず口走りそうになる。

「レディには是非髪飾りに」

子供たちが呆気に取られているうちに、シトリーは少女に何かを施す。

「ミスターには胸元にあしらって頂くと非常にお似合いかと」

少年の胸元には、極楽鳥花色の鮮やかな“羽飾り”があしらわれた。

「……さて、ここで何があったんだい?」

ぼんやりとした子供たちに、改めてシトリーが問う。

「──ネモ皇帝さまに献上のお品が、大人に奪われてしまったんです!」

「全部皇帝陛下のものなのに!」

子供たちは唐突に、秘匿していたはずの物事を惜しげもなく語りだした。
それがシトリーの“神器”。
“真意”を引き出す“鷲獅子(グリフォン)の羽”は、あるときにはあり得ない結合を引き起こし──

「“願望機”にお願いした通りのものが届いたんです!」

「なのに大人たちが!」

──あるときには、隠された“本心”を引きずり出す。

「ちょ、待て待て待て」

聞き捨てならない言葉が出てきた。

「その……なんだ、“願望機”?」

「知らないの?」

子供たちが小首を傾げる。

「どんな願いでも叶えてくれるの」

「でもね! 大人はだめだよ! 大人はもう願いを叶えつくしちゃったんだから!」

少年は語気を強めた。

「でも、悪い大人は子供を拐って、願望機を使おうと……」

徐々に、子供たちが冷静になっていく。

「……あれ?」

「ごくろうさん、大人はもう引っ込むよ」

子供が呆気に取られているうちに、シトリーは荷台の前を通りすぎた。

「……ん」

ヤクモがふと、その荷台に積まれていたらしき品の中に、いくつかの鳥籠を認める。
しかし、その中に居るのは、鳥ではなく。

「……猫……」

一匹の籠の猫が、エメラルド色の瞳をヤクモに向けてにゃあと鳴いた。

「……その猫も貢ぎ物なの?」

「おい、先輩」

シトリーに咎められながらも問う。

「ん……」

子供たちは手元の書類を確かめる。
ヤクモが覗き込んだそれは、クレヨンで書かれた落書きにしか見えなかった。

「猫は違います」

「でも、捕まえたので、陛下に献上します」

「皇帝は猫のステーキがお好きなので」

その言葉にヤクモ眉を顰める。

「長靴を履いていない猫はすべて屠殺することになっています」

「……その猫、貰っていい?」

「先輩ッ、なに……」

そう言ってヤクモは、袖口の金ボタンをひとつむしり取る。

「ゴールデンボタンと交換、じゃダメ?」

手元できらりと輝くボタンに、子供たちは釘付けになった。




一人の男と一人の少女、そして男が腰から下げた一足の長靴から顔を覗かせる黒猫という奇妙なブレーメンの一団は、雨降る街でそれとなく過ごすよう振る舞いながら、徐々に情報を集めていく。

子供たちの街。
子供の皇帝。

大人たちは支配され、子供たちに使役されており、そうでない大人が酒に溺れ浮浪者となる。
そして子供たちは成長し、やがて大人として使役されるのだ。

だが、この街の子供たちには特権がある。

「シトリー見て、八時の方向」

ヤクモが示す方向に、シトリーは視線を向ける。

「……あれって、アレだよな」

「うん」

それは、あえて気にすることがなければ見落としかねないさりげなさでそこに佇む。
だが、中世じみたこの風景の中でやはりそれだけが異質なのだ。
あえて気にして初めて気づく、異様なその佇まい。

「電話ボックス……だよね」

それらしい装飾で見落としがちになりそうだったが、時おり子供がそのなかに入り、小銭を使って何処かに電話を掛けているのが散見された。
だが、先程から、この街で通貨代わりに使われているのは色とりどりのボタンやビーズ、その他子供が興味を惹きそうな、“子供の価値観に基づくなにかすてきなもの”なのだ。
そのママゴトじみた街の仕組みにあって、子供たちが“硬貨”を用いてしきりにどこかへ電話を掛けている。
シトリーにも、ヤクモにも、その様子は“異質”に見えた。

「あの金の出所はどこなんだ……? あいつら、小賢しい割に小銭なんかで買い物してる様子はなかったのに」

「にゃあ」

同意するように猫が鳴いた。

「それに……どこに電話を?」

「サンタさんじゃない?」

「は?」

突拍子もない答えにシトリーが訪ね返したが、そのヤクモ本人が自分の言葉に頭を捻っていた。

「……とりあえずさ」

「ん?」

「……足元が寒いからどこかで休まない?」

シトリーはその言葉で、ヤクモの姿を思い出す。

「スカートありえない……下着丸出しで何も隠せてないじゃん、女の子の気が知れないよ」

「……」

そして顔を赤らめる。

「とりあえず何処かで飯だな」

「にゃあ」

同意するように猫が鳴いた。



「お待たせしました」

年場はヤクモとそう変わらなさそうなウェイターの少年が、二人に軽食を運んできた。
街から少し外れた、大きめの飲食店のつもりで入ったそこは、子供たちの集まる“サロン”のような場所だった。
ヤクモとシトリーはこの少年に、目立たない隅の席へと通された。
店の中央付近は尊大な子供たちが小難しい話をフルーツパンチ片手に繰り広げる。
まるで大人の世界の戯画(カリカチュア)だ。

「ねぇ」

「……はい」

ヤクモの声かけに少年は怯えた様子で顔を上げた。

「あなたは“わたし”とそう変わらない年だと思うけれど」

「そう……ですね」

「働いてて偉いわね」

ヤクモは暖かい紅茶を一口啜る。

「……?」

「ああ、失礼」

シトリーが察して話を合わせる。

「“お嬢さん”はこの前の“事故”に巻き込まれて記憶が少しね……ほらあの、裏通りの」

「ああ……それはお気の毒に……それでは」

「待って」

ヤクモは虚ろげな表情を作って少年を呼び止めた。

「同じ年くらいの人を見たことが無いの……いいものをあげるから、もう少しお話をさせて」

ヤクモが目で合図すると、シトリーは彼の胸元に“鷲獅子の羽”を飾ってやった。

「……こ、困るんですけど、その、ご主人様に見つかったら大変なことになるんで手短に願えますか」

「あら素直」

「そしたら、その羽を旦那さんにくれてやればいいさ、君にはこっちのブローチをやるよ、拾い物だけど」

シトリーが先程の事故現場でこっそりくすねた金のバッジをちらつかせた。

「……」

渋々、ウェイターは椅子に座る。

「だ、だいたいあんた、なんでそんな年格好なんです? “金貨”でも盗られたんですか?」

「……“金貨”?」

ヤクモは演技を続けながら首を傾げる。

「ああ、あんた記憶が……僕たち子供が持ってる“金貨”ですよ、“願望機”に願いを叶えてもらうための」

あまりに早く電話ボックスの謎が解けてしまった。

「僕は……盗られてしまったんだ……大人に襲われて……」

「それと歳に関係が?」

「あるに決まってるだろ、“金貨”をなくしたら僕らは大人になってしまう、だから“子供でいたい”って願いを叶えてもらうために“金貨”が要るのに……!」

「ああ……」

シトリーは語気を強める少年を宥める。

「大人は“願望機”を使うために、子供の“金貨”を巻き上げるんだ……僕は“金貨”を盗られて、ここの主人に分けてもらうために、こんなどっち付かずの姿で……」

「なるほど、じゃあ“お嬢さん”もその可能性があるな、ありがとうよ」

シトリーはこっそりと、バッチを彼に手渡した。

「バレないよう隠しときな」

「……」

少年は怪訝な顔でそれを袂にしまって席を離れた。

「……たぶん、この街でまともに労働してる大人たちは、みんなその“金貨”欲しさにやってるみたいだね」

ヤクモが演技を解いて、シトリーに小声で話しかけた。

「大人が腐ってる理由もだいたい掴めてきた……」

と、シトリーがサンドイッチを口に運びかけた刹那。

「────!!」

子供たちの悲鳴が上がる。

「ギャハハハハハハハハ!!」

汚い大人の笑い声がそれを塗りつぶす。

「なにあれ」

呆然としてサンドイッチを落としたシトリーの横で、ヤクモが冷静な顔で呟く。

「よォ────シお子さま共ォ、大人しくするんだなあァ!!」

「つーてもお子さまに“大人しく”出来るモンかねぇ!」

「なにッて……アレ……」

シトリーもなるだけ冷静であろうと、その異様な光景をつぶさに観察しようと努める。

「……“海賊”じゃね?」

だが、それも馬鹿馬鹿しくなるほどのステレオタイプな光景は、それこそ危機感を通りすぎて呆れてしまう程であった。

ボロボロの船衣、とかく威圧感を出すために纏われた各種装飾品。
酒と煙草とすえた汗の臭い、血走り眼と刃とをぎらつかせるその様は、それこそ子供が想像するままの“海賊”の恐怖そのものだった。

「“せんせえ”ッ、こいつァアタリみたいですぜ!」

男の一人が言うが早いか、無法者の山から一人、異様に身なりの整った人物が現れた。

「ン────……」

背の高い男。
刈り揃えられた黒ひげを掻きながら、だが他の男たちの非ではない狂気を孕んだ眼光で、彼は怯える子供たちを一瞥する。

「──諸君」

パン、とひとつ手を打つと、ニヤリとつり上げたその口を開いた。

「──おはようございますッ!!!!」

「ッ!?」

白い歯を剥いて満面の笑みを浮かべ、明朗に叫ばれた言葉に子供たちは震え上がる。

「……ン──、お返事がないねェ、まあ良い」

男は首を巡らせながら髭を撫でる。
その周りで刃を構える男たちはニタニタと笑っていた。

「さあ少年少女諸君、お元気でしたか? ンン──結構結構、元気が一番」

華美な帽子に豪勢な羽飾りが揺れる。
ヤクモは男を“船長”と仮定した。

「だが諸君、お遊戯の時間はおしまいだ、これからは──」

再び男が白い歯をニタリと覗かせる。

「“先生”と一緒に──“お勉強”の時間だヨ──」

そして懐から銃を一丁ギラリと抜き付け、天井に一発撃ち込んだ!

──それからは、まるで舞踏のようだった。

男たちは即座に散開し、テーブルを薙ぎ倒しながら、他のすべてに目もくれず子供たちを捕らえていった。
巻き起こる怒号、凄惨なる悲鳴すら、“船長”とおぼしき男はまるで音楽でも聴いているかのように、微笑みを浮かべ目を閉じて楽しんでいた。
シトリーも、ヤクモも、その一瞬の出来事に身動きひとつ取ることができない。

やがて中央付近に居た尊大な子供たちは“船長”の前に集められた。

「さて少年少女諸君、教えてあげよう」

椅子に腰かけた“船長”は、腰に下げていた馬上鞭を教鞭よろしく振るいながら語りかける。

「“大人”の世界は無慈悲で残酷だ……夢は無く、希望は無く、ただ馬車馬の如く働き老いて死ぬ定めだ……」

そして唐突に、ひとりの子供の眼前に鞭を振るった。

「ヒッ!!」

「さあ少年、何故大人には夢が無いのかね?」

子供はガチガチと歯を鳴らした。

「……答えは!?」

「ヒイッ!! ぜ、全部希望を叶えちゃったからでしょう!?」

子供の答えに“船長”は酷く悲しい顔をした。

「ンン────、違うねぇ、全く違うッ!!」

振り下ろされた鞭が床を叩く。

「正解は“希望を持ち去られたから”だッ! お前たち子供たちにねェ!!」

子供たちが泣き叫ぶ。

「お静かに!!」

再び鞭が鳴らされた。

「ハイそこの君ィ!!」

今度は別の少女を鞭が指す。

「何故、大人たちの希望は無くなってしまったんだと思う!?」

「──わがりまぜェン──ッ……!!」

慟哭混じりに少女は答える。

「ンッン────よろしい。“わからない”と無知を認めることは素晴らしい。そしてそれを“教えてあげる”者こそが私だ────」

“船長”は満足げに首を巡らせた。

「では教えてあげよう!! 君たちが大人になることを止めてしまったからだ! こうして希望の循環は絶たれた! 君たちのッ、所為でッ!!」

「────っ!」

感情任せに振り下ろされた鞭がまたも音を立てる。
その度に子供たちは身を竦めて怯えた。

「……ッ」

このままで居られないのは二人共に同じだったが、ヤクモらが動けばよりよくない状況に陥るだけだ。

「……ふゥ────ッ……」

恍惚の表情で“船長”は天を仰ぐ。

「……気分がいい……“教えてあげる”のは……危険な未来に夢砕かれる前に……こんなたくさんの子供たちを……救える……」

狂気の笑みを浮かべた“船長”が、次なる獲物へ鞭を振るった。

「では本日のまとめッ! そォこのアダルトチルドレンんッ!!」

「ひいぃぃッ!」

そしてそれは、先ほどのウェイターだった。

「何ァ故ッ!! 君たちは大人になれないのかねッ!?」

「ッ……!!」

ウェイターは冷や汗で光る顔に恐怖の表情を張り付かせて、蚊の鳴くような声で答えた。

「……わかり……ません……」

「────」

“船長”は、手に持つ鞭を取り落とした。

“信じられない”、という顔をしていた。

「……っ」

ウェイターが震えながら見守るなか、黒髭の“船長”は涙さえ浮かべながら、右手を掲げ──

──ぱちん、と指を鳴らした。

「ウワァアアアアァァァッ!?」

ウェイターは海賊たちに無理矢理、“船長”の前へ引き出された。

「ワ、カ、ラ、ナ、イ……!?」

部下の海賊が落とした鞭を差し出した途端、“船長”の顔は怒りの形相へと変わっていった。

「ここまで教えて“わからない”とはなんだァ────ッ!!」

唸る鞭が手近なテーブルの上にある食器を吹き飛ばす。

「あァ!? おまえェ!! 何を聞いてタッ!? まさか“わからない”と言えば教えてもらえるだなんて都合のいいトコだけ見てたのか!? ヒトが必死に教えてヤッてンのによォ!!」

「ご、ごめんなさいッ、ごめんなさいッ」

「ゴ、メ、ン、ナ、サ、イっ!?」

どうやらウェイターのその場逃れの謝罪は“船長”をより刺激してしまったようだ。
その怒りの気迫にシトリーも、ヤクモですら、恐怖を覚えて互いを庇い合う。

「謝れば許してもらえると!? 何で怒られてるかもわからずに、いま目の前の恐怖から逃れたいだけの謝罪になんの意味があるッ!!」

「ひぁッ!!」

唸る鞭が手近な椅子を吹き飛ばす。

「ああああああああ、そうだね!! 教えてあげなければ!! おなじあやまちをォオ、くりかえさないよおにいィィィッ!!」

飛び出そうとするヤクモを、シトリーは力ずくで押さえ付けた。
か細い胴を、堅い腕が抱え込む。
その時わずかに手が乳房に触れそうになり、ヤクモはぞわりとした不快感に襲われ、抵抗の隙を失ってしまう。

「キミタチがッ、キミタチがぁッ、大人になれないのはぁぁぁ────!!」

「────!!」

「“希望を持ち逃げするつもりだから”だろぉがぁぁぁぁぁ────ッ!!」

バシン。

鞭が、ウェイターの背を打った。

「──────ッ!!!!」

絶叫と共に──

「ッ!?」

──そのからだから、“金貨”が零れて床に墜ちた。

「……ッ……」

「……ほうら……隠してたァ……」

拾い上げた“金貨”を恍惚の顔で眺めた後、それを震える子供たちに“船長”は見せつける。

「これだよ、これ……これをお前たちは手放したくないんだよ……そうだろうッ!?」

「───ッ、──、───ッ!!!!」

「大人になってッ、“夢”もッ、“希望”もッ、失いたくないからッ、お前たちは、そんな姿でェ────ッ!!」

鞭がウェイターを滅多打ちにする。
絶叫と共に──“金貨”が、きらきらと輝きながら、じゃらじゃらと音を立てながら、からだの中から溢れていく。

「はぁー、はぁー、はぁー……」

人混みの所為で、ウェイターがどうなったかはわからない。
ただ、海賊たちが、彼から溢れた“金貨”を拾い集めている様子は見て取れた。
そして、その中央に立つ狂気の男は、再びあの異常にさわやかな笑顔を取り戻していた。

「……じゃあ諸君、今度は君たちの“体”に“教えてあげないと”いけないね」

「ッ!!」

男の目的は、おそらくあの“金貨”だ。
どういうことかはよくわからないが、子供たちが隠し持つ、“願望機”に願いを叶えてもらうための“金貨”を狙っているのは明白だ。

つまり、ここに囚われた子供たち全員が、今のような目に遭うのだろう。

「それでは“ネバーランド”の子供たち、一緒に大人の国へ向かおうじゃないか!!」

「……ッ!!」

「っ、先輩ッ!?」

一瞬の隙を突き、ヤクモはシトリーの拘束を逃れて“船長”に向けて飛び出した!

「──役割(ロール)は──《流者》ッ!!」

ヤクモの手に光が集まる。

「──権能(ルール)は──《離断》ッ!!」

そして光は一条の“貌(かたち)”を顕わす。

「──我が名において“銘”ずる──出でよッ──」

「……ンン?」

「──《鉄刀送……びッ!?」

突然、ヤクモは、自らが呼び出した剣を取り落とし、それに躓き前のめりに転倒した。

「────!?」

剣があまりにも“重い”。

「……なんだね君は?」

──違う。

“剣を振るえるだけの力”が、女の細腕に無かったのだ。

「ンン──良くない、良くないよキミィ」

男の顔が仰向けに倒れるヤクモに迫った。

「先輩ッ!?」

飛び出そうとしたシトリーの首元に海賊の剣が突き付けられる。

「つまらない正義感に駆られて身の丈以上のことを成そうとするのは愚の極みとしか言えないねぇ、まあ、“美談”としては尊いのかもしれないが」

「……ッ」

「それは良くない。だってそれを美しいと教えてしまうのは大変良くない。そうやって玉砕することが尊いと教えてしまったら、ただの“無駄死に”が増えるだけなんだよ?」

男はヤクモの細腕を掴み、立ち上がらせた。

「……」

ヤクモは、恐怖を覚えた。 

この男は、想像より遥かに不気味だった。

「そんなただ一時、一瞬の痛みや恐怖の為に死に急ぐなんて、あまりにも愚かではないのかい? だって死んでしまったら」

からだが、動かない。

「なんの希望もむしり盗れやしないからネ!!」

「ッ!」

刹那。

「──《弄寵恋雲》ッ!!」

鋭い風が、二人の間を引き裂いた。

「──《ア・ラ・グリュプス》ッ!!」

極楽鳥花色の翼を広げ、シトリーが宙を舞う。
直後、シトリーの翼から溢れた何枚もの“羽”が、強い光を帯びて矢の如く降り注ぐ!

「ぎゃああああ!!」

着弾と共に、海賊たちの脳裏に強烈なイメージが流れ込む。
それは、鷲獅子の羽が持つ側面、“結合”を強く望むイメージだ。

「ぁあッ、あ、ああああぁぁ!!」

海賊たちは、そのあまりの“淋しさ”に身悶えた。
シトリーの“権能(ルール)”としては、まるで恋患いにでも陥ったかのような状態を引き起こすものに違いはないはずなのだが、今のシトリーはそれよりも強力な権能を発揮している。
次々に海賊たちは膝を折り、無力化された。

「……ふむ」

だが、“船長”にはそれが通じなかったらしい。
突き立った羽を指で弾くと、ヤクモとその隣に降り立つシトリーを見据えた。

「……ッ」

ぞっとするような視線だった。

「……よろしい。今日の授業はここまでとしよう」

生き残った何人かの海賊が、仲間を引きずり外へ飛び出す。

「ま、待てッ」

膝の震えを堪えながら、ヤクモは男を睨み返した。

「……授業内容に納得がいかないのかね? 気持ちはわからないでもないが、生憎わたしは“真実”しか教えない」

男は踵を返す。

「もしそれ以外の“答え”があるなら……むしろ教えてくれたまえよ」

ヤクモは男を追うつもりだったが、できなかった。

「この“黒髭”……“エドヴァルド・ティーチャー”にネ……」

恐怖で足がすくんだ訳ではない。
シトリーに止められた訳でもない。

「……ッ」

“気が咎めた”のだ。

何故、そんなことが。

身の毛の弥立つ、悪意に満ちたそれを追うのを、何故。

「……グ……」

呻き声に、ヤクモははっと我を取り戻す。

「あの子が……ッ」

だが、その言葉は続かなかった。

「ぐぉおお……ッ」

あの、ウェイターだった少年の姿は、そこに無い。

代わりに、自身を捕らえていた縄を引きちぎり、立ち上がろうとする、巨大ななにかが、そこに居た。

「……おとなだ……」

誰かが恐怖混じりにそう呟いた。

「大人だぁぁあああ!!」

蜘蛛の子を散らすように、子供たちが逃げ惑う。

「ガァァァアアアアア────!!」

だが、“大人”は、速かった。

ヤクモら二人には目もくれず、ふてぶてしい態度を取っていた子供の一人をその巨大な手で捕らえると、その上半身と下半身を玩具の如く捻じ切った。

「──ッ!!」

そこから溢れたのは、血でも、臓物でもなく……

「逃げるぞ、先輩ッ!!」

立ち尽くすヤクモの手を引いて、シトリーは店を飛び出した。
雨に打たれ、走りながらも、ヤクモは眼前に起きた光景に囚われていた。

溢れる“金貨”を浴びる怪物──“大人”。

その“大人”となってしまった、ウェイターの少年。

少年から“金貨”を奪い、“大人”にしてしまった黒髭と名乗る男──

未だに、店の阿鼻叫喚が聞こえてくる。

『では諸君──また明日!!』

高笑いと共に、“黒髭”の船が、空の彼方に消えていく。

──すべてが、想像しうる範疇の外にあった。

無論、それは非力な“女のからだ”になってしまった自分もそうだ。

ヤクモは、自分を見失いそうになる。

これは、なんだ。

これは、だれだ。

ここは、どこだ。

ぼくは──だれだ──。



──ヤクモたちが逃げ去った、地獄のごとき状況の顛末を、ただ黙して見据える人影があった。

外套を纏い、目深に帽子を被るその人物は、雨にぐっしょりと濡れたまま、助けるでもなく、ただその光景をじっと見ていた。



──夢を見た。

真っ白な夢だ。
真っ白な中を、一人、たたずむ。

目の前には、古びた電話ボックスがある。

ヤクモは、その扉を開いた。

手には一枚の“金貨”が握られていた。
あの、いまいましい記憶が、鮮明に甦る。

何故、自分が“こんなもの”を──?

ヤクモの手は……細い指の、女の手は、その“金貨”を電話器に飲み込ませた。

自然と、ダイヤルが回りだし──ベルが鳴り響く。

ヤクモは、受話器を取り、耳に押し当てた。

『おまたせしましたぁ主様!ささ、どぉーぞ、このボクにお願いごとをお申し付けくださいませ! 』

その、聞き覚えだけはある声。

ヤクモはその名を呼ぼうとして、思い出せないことに気がついた。

『あれれぇ、どうしましたぁ主様? なんでもお願い聞いちゃいますよぉ』

妙に胡散臭い声だ。
忘れるはずの無い、だが、思い出せない声。

「……」

ヤクモは何かを云おうとする。

だが、声が出ない。

『主様ぁ、お願いごとを言ってくれないとボク拗ねちゃいますよぉ』

妙に腹立たしい口調で“声”が煽る。

だが、声が出ない。

『ま、言うて実のところ、主様はいま“願いを叶えている最中”ですので他のお願いは叶えられないンですけどねーっ』

「……っ……?」

『まあ、それはそのうちわかるといいですねぇー、色々ど複雑な事情がありましてぇ』

“声”は、なおも煽り続ける。

『どうせ夢ですから今回はノーカン、お気になさらず。ある方の“お願い”で、ボク自ら主様の知りたいことをご説明しにやって来ちゃいましたぁ』

「……」

『ご存知の通り、ボクは所謂“願望機”ですぅ、対価を戴いて代わりにどんなお願いでも叶えておりますぅ』

ささやく、悪魔のような声。
この声は、覚えている……覚えている、はずなのに。

『その対価って何かって? 端的に言えば“可能性”とかですかねえ? まあ、望みが叶ってるんですから、別に無くなったところで困らないものですし?』

“声”は、そう言い放つ。

『むしろ、努力とか挫折とか無駄なプロセスをぶっ飛ばして願いが叶ってるんですから相当な省エネですね。ボク、すごいでしょ?』

「……」

『ちょっと端的すぎましたかねえ、もうちょい丸めて言うなら“夢”とか“希望”とか……“願望”とかですかねー。まあ、そう言うのをちゃんと正しい願いに変換するのが“願望機”の仕組み、ってわけですね』

ヤクモは、黙してそれを聞いている。
いや、言いたいことならいくらでもあった。

『まあ、主様が今頃、一言物申したい顔をしてるんじゃないかなーってのは、ボクも予想つきますけどねー、電話なんでカオ見えないですけどね』

“声が出ない”のだ。
言いたいことを、声に出して伝えられない。

『けどまあ、無理ですね。ボクがいま主様の夢に干渉しているのは、“別の主様”のお願いだからですので。主様のお願い聞くためじゃありません』

「……ッ」

『まあ、そんなこんなで、誰かの願いの為に何かを押し付けられたりすることもそう珍しくないことですから気にしちゃいけませんよー、例えば今の体とかですね。誰かがそう願ったんでしょ』

ヤクモは、息を呑んだ。

『誰かの願いの為に誰かが犠牲になるとか、そんなこと言ってたら不幸にしかなれないじゃないですかー、なら気にせずじゃんじゃん他人を犠牲にして幸せになるべきですよ』

「……ッ」

『だいたい、主様はどうしてこんなめんどくさい大それたこと願っちゃったんですかぁー? そうじゃなければ、さっきの子供が落とした“金貨”でもとに戻ることも出来たのに』

汗が伝う。
胸が締め付けられる。

『ていうかそれ、ほんとうに主様の願いなんですかぁ──』

電話が、ブツリと切れた。

「……にゃあ」

アメジスト色の、青い瞳を向けた黒猫が、電話器の上からヤクモを見つめて鳴いた。



「──先輩」

ヤクモは湯船の中で目覚めた。

「朝っぱらから風呂で寝てると風邪引くぞ」

「あぁ、うん、色々あってちょっとね。今上がるから」

立ち上がるとたんに、身体中に長い髪がまとわりついた。
──自分でも忘れている何かに、がんじがらめになっている。
張り付く髪が、そんなことを想起させる。

海賊が襲った店からそこそこ離れた宿に二人は身を隠して一夜が過ぎた。
とは言え、あの海賊たちが改めて襲ってくることはあるだろうか。

──黒髭、エドヴァルド・ティーチャーは“また明日”、と、そう告げた。

今日もまた、彼は子供たちを襲うのか。

先程の夢から鑑みれば、彼は子供たちから“金貨”──“未来”を理不尽に奪い、それで私服を肥やしている、ということになる。
それをどうにかするために自分はここにいる──

そう、思いたかった。

「シトリー」

「あ、なんだよ」

体を拭い、長い髪の扱いに戸惑いながらもその水気を払いながら、ヤクモはシトリーに尋ねる。

「……あの海賊、ほっといていいのかな」

「んー、まあ、ほっといていい連中じゃあねえな」

浴室からヤクモは、バスタオルだけ巻いた姿で現れる。

「少なくとも、ガキに手ェ上げるってのは“硬派”じゃね……ぅう!?」

そんな姿を見て、シトリーは慌てて背を向けた。

「べつにいいでしょ、僕なんだし」

「でもッ、お、女の裸とかッ」

「……なんかさぁ、気持ちはありがたいけど、そんなふうにされるとさ」

ドレッサー前の椅子に腰掛け、シトリーを見る。

「僕が僕でなくなっちゃうみたいでさ……」

ヤクモはそう告げながら、生乾きの髪を弄ぶ。

「シトリーはさ、どんな姿でもシトリーだろ」

「……ッ」

シトリーはどこか、その言葉に思うところがあったようだが、渋々ヤクモの姿を見た。

「……ほんとさ……調子狂うよ」

「それは僕も同じだよ」

肩を竦めて微笑むヤクモの姿を、シトリーはやはり、ヤクモとして見ることが出来ない。

「あのさシトリー、頼みがあるんだけど」

「なんだよ」

「髪括るの手伝って欲しいんだ」

シトリーは目を背けようとしたが、仕方なくヤクモの背後に立つ。

「この辺で適当に括って。なにするんでも邪魔でさ」

ポニーテールと言うにはやや高い位置に、ヤクモは自分の髪を纏めた。

「……先輩さ」

「ん?」

「……無理して、ついてこなくてもいいんだぜ。俺が、あの海賊どもをシメてくれば、万事解決って気もするしさ」

ヤクモが手渡した、応急処置用の包帯でシトリーが髪を束ねる。

「足手まとい?」

「そうじゃねえよ」

髪が突っ張り、ヤクモは小さく痛ててと呟く。

「……剣を振るえない、ってのは厳しいかもね」

「それ以前の問題だろ」

「ん?」

だが、ヤクモは何か、シトリーに触れられていることに嬉しさを感じている。

「俺はその、女に粗っぽい真似、させたくない」

「……なんで?」

「そりゃ、まあ……」

シトリーが浮かべる複雑な表情を、ヤクモは知り得ない。

「硬派じゃ……ねえから」

だが、ヤクモは、それを気にするでなく、ただ瞼を閉じて、シトリーが髪に櫛を入れていく心地よさに微笑みを浮かべた。

「……上手だね」

「えっ」

「髪、結うの。お姉さんの髪も結ってあげてたの?」

「えっ……いや……」

恥ずかしそうに、シトリーは櫛を手放す。

「……そんな“子供の時のこと”……忘れたよ」

「……そうか」

ヤクモは結われた髪を見て、満足そうに微笑んだ。
首元の風通しも良く、まとわりつくこともない。

「シトリーさ」

「……なんだよ」

「“硬派”って、“貫くこと”じゃない?」

突然の言葉に、シトリーは戸惑った。

「一本筋を通し続けること……それって、硬派でしょ」

「……まあ……うん」

「だから僕は、僕であることに……しがみついていたいんだよ」

ヤクモは鏡越しに、シトリーを見る。

その、シトリーの眼は。

「────」

どこか、怯えていた。

「……俺は……ヤクモ先輩の事を、護りたくて……だから……」

「……うん」

その言葉が嬉しくて、ヤクモは微笑む。

「大丈夫、自分のことは自分で護るし。それに、頼るところは頼れる後輩に頼るから」

「……ッ」

シトリーは、頬を赤らめた。

「けッ、ケンゴ先輩にばかり、ヤクモ先輩のこと任せてるのも、硬派じゃねえしな!」

その言葉は、簡単な誤魔化しのつもりだった。

「──ケンゴ」

「……先輩?」

「──いや、ちょっと……ね」

覚えのある名前だった。

──誰だったろう。

「……どうもここに来てから、物忘れがね……」

「……えッ」

──物忘れ。

シトリーにとって、その名は、ヤクモに関連付けられる上で、

「……おい……先輩……?」

そんな程度の言葉で、済ませられていい喪失ではなかった。

「まさか、おい、“東京”のこと、忘れちまったわけじゃないよな!?」

「──うん、そのはず……なんだけど」

ヤクモの表情は曇った。

忘れていない、忘れていないはずなのに。

「……なんていうかさ、忘れたっていうより……思い出せないんだ」

「思い、出せない、って……」

「……なんか……知らないはずの思い出が雪崩れ込んできて……それに薄められてるって、感じ」

そう言葉にするには、あまりに曖昧で、境のない自分の記憶。

でもやはり、自分の知る人が──少なくとも今、“自分が知っている人”が、共通しているはずの記憶に齟齬があると告げるのならば。

「僕じゃない、誰かの思い出に──“思い”の海みたいなものに──溺れているような気がする」

──告げておかなければ。

漂流する“自分”を、繋ぎ止めておける人が、傍らに欲しかった。

──でも、何故だろう。

もっと自分には、気持ちの近しい──家族のような人たちがいたはずなのに。

それが──曖昧になって──確かな名すら、思い出せない。

「そ、んな……」

シトリーは、狼狽した。

それはヤクモの記憶から、知人の名が消えたせいだろうか。

──ヤクモの眼は、不思議と冷めた、優しい眼は、その顔色を冷静に読み取ってしまう。

彼の顔には──

「そんな……」

何故か、“恐怖”と、“後悔”の色があった。

「嘘だろォ、先輩……ッ」

シトリーは思わずヤクモの肩に掴みかかり……はらりと胸元を隠していたタオルが落ちる。

シトリーは咄嗟に視線を反らし、悔しそうに俯いた。

「……ちくしょう……俺の……おいらの……せいで……」

「……」

「なんで、ヤクモ先輩がッ……“女”なんだよッ……」

ヤクモはなにかもやついた気持ちで、衣服に手足を通していく。
なにかバツの悪い、触れてはいけないところに触れてしまったようで。

「……シトリー」

「なんだよッ」

「でもさ、ちょっと思ったんだけど」

この“毒”には、なにかそれとない形を与えて吐き出してしまうのが楽だと、ヤクモは知らず知らずに気づき始めた。
それがたとえ“自分をはぐらかす”ようなことであっても。

「僕がこのまま女の子だったらさ、シトリーの彼女になれるかもしんないよ」

「はぁ!? 何言ッ……」

予想もしない言葉に顔を挙げかけて、スカートに悪戦苦闘するヤクモのあられもない姿から目を反らす。

「だッ、駄目だよッ、ヤクモ先輩はッ」

「……駄目なの?」

「おッ、おい……俺のヤクモ先輩は男じゃねぇとさ! 女のヤクモ先輩と肩並べて戦えねえし……」

真っ赤になりながらシトリーは必死に言葉を探す。

「それにッ、こ、硬派じゃねェ!!」

いつもの調子を取り戻したシトリーを、ヤクモは嬉しく思った。

それでいいんだと、自分に言い聞かせて。

「んッ……」

突如、部屋に置かれていた電話が鳴り出した。

「……」

電話など、置かれていただろうか。

「……先輩……?」

妙な胸騒ぎを覚えて、ヤクモは電話に手を伸ばす。

「……もしもし」

『もしもーし、主様ーーーーっ!』

夢で聞いた、あの声だった。

『よかったですねぇ、“お願い”、叶いそうですよぉ!』

その外で、なにか聞きなれない音が聞こえてくる。
そして、なにかきな臭い風が二人の鼻腔を掠めていった。

「──先輩ッ!!」

シトリーの、成熟した肉体がヤクモを押し倒す。

刹那。

「──ッ!?」

窓が、壁面が、吹き飛んだ。
その衝撃がヤクモとシトリーの頭上を貫き、聴覚が一瞬麻痺した。

「……トリーッ!!」

「……いきだ先輩ッ、怪我はねぇか!」

音が耳に戻ったところで、外から鳴り響く轟音と爆発音に、二人の声は掻き消されそうだった。

「おはよぉ────ございまぁ────す!!」

だが、その轟音すら乗り越えて、確かにその声は二人に届いた。

「……“黒髭”ッ!!」

シトリーが背中に被さる瓦礫を押し退け、破られた壁に駆け寄った。

「……ッ」

頭上に、巨大な“海賊船”が浮かんでいた。
そして、気まぐれに放たれる砲火が向かいの建物に直撃し、飛び散る金貨がきらりと輝いた。

「今日はものわかりの悪い諸君に特別授業だッ、実習はみんな大好きだろォ、先生も大好きサッ!!」

悲鳴が、悲鳴が、雨音に混じる。
轟音が、砲火が、それを押し潰す。

「────」

ヤクモは、それを見ていた。

静かな瞳で、それを見ていた。

「──たすけなきゃ」

そして、小さく呟いた。

「……先輩?」

その“異変”は、シトリーにもわかった。
ヤクモの身体に、なにか“金色の光”が、静かに燃えるような“光”が、まとわりついているのだ。

「──役割(ロール)は──……者》」

一歩、一歩。
ヤクモは、崩れた壁に足をかけ、吸い寄せられる様に外へ向かう。

「──権能(ルール)は……」

「……先輩ッ!!」

「っ!?」

シトリーが背中から、ヤクモの身体に抱きついた。
とたんに、あの怪しげな光は消えていった。

「しと、りー?」

「“翔ぶぞ”ッ、先輩!!」

シトリーは鷲獅子の翼を広げ、力強く羽ばたいた!!

「わあああああああ!?」

「舌かむぞッ、こらえろ先輩!!」

急激なスピードで、シトリーは風に乗り、ヤクモを抱えたまま上空へ飛び上がる!!

「────ッ!!」

「“助けに行く”んだろッ、先輩!!」

一瞬、海賊たちの驚く顔が掠めていった。

「なら俺が……“おいら”がッ、先輩を助けなきゃ……」

大砲がシトリーを狙うが、その速度に追従しない。

「“漢”がッ、廃るンだよォォ───!!」

十分な高度を得たシトリーは、そこから海賊船の甲板に向けて急降下する!

「うおああああああ!!」

海賊を吹き飛ばし、ヤクモとシトリーは敵の群れへと飛び込んだ!

「……来たね、君を迎えに来たんだよ」

剣を抜いた海賊たちを制して、黒髭が姿を現した。

「僕たちに何の用なの? 間違いなく狙ってやったよね」

ヤクモは黒髭を睨む。

「用? 当然さ、“教えるため”だよ」

「なにを?」

「“不条理”を、ね」

黒髭は隣にいた海賊から剣をむしり取り、ヤクモの足下に投げて寄越した。

「……」

「抗うチャンスはくれてやる、もちろんそれは無意味だろうが……“不条理”とはそういうことだよ」

ヤクモはその剣を手に取る。
やはり重い……が、あの時に比べれば随分マシだ。

「チャンスは与えられても結果は決まっているものさ、君が間違っていることだけを証明するためにチャンスは与えられる」

「……」

「たとえそれが、君にとって納得のいかない結果であっても……私は君の間違いさえ証明できればそれで勝利できるのだからね」

黒髭もまた、自らの剣を抜いた。

「では、授業をはじめよう」

「……!!」

ヤクモが黒髭に斬りかかる。
それに応じて黒髭が剣を防いだ。

「ッ!!」

「剣を取り落とさなかったのは褒めてあげよう!! 無意味な事でも褒めてあげよう!!」

今のヤクモには、黒髭の斬撃が重い!

「だってそれが“教育”だから!! たくさん、たくさん褒めてあげよう!!」

「くっ!!」

「そうして君は私に褒めてもらうためになんでもしてくれるようになる、まるでパブロフの犬のように!!」

ぶつかり合う刃が火花を散らす!

「そのために君を褒めてあげよう、どれだけ君が愚かであろうと、無知蒙昧の犬であろうと!!」

「ッ!!」

瞬間的に激高し、見苦しい一撃を放ちながらも、ヤクモは黒髭から距離を取って冷静さを取り戻す。

「“大人”が“子供”を褒める理由なんてそんなものだよ、扱いやすいよう調整を施してやらんとね」

「お前には子供が奴隷に見えるのか!?」

再びヤクモが斬りかかる。

「僕にはそうは見えないぞ!!」

「ほう、どのようにそう思う!!」

「この世界じゃ……まるで大人が奴隷のようだ!!」

遊んでいるかのように、黒髭はヤクモの攻撃をいなす。

「そうだろう、子供に希望を奪われた大人の姿は!!」」

「そうじゃないッ!!」

二人は斬り結ぶ!

「お前たちはまるで“希望”の奴隷じゃないか、欲しいもののために希望を奪い合うよう仕向けられた!」

「──成程!!」

黒髭が退く!

「共に自分が思う“希望”に操られて……本当に欲しいものを見失ってしまっているのは同じじゃないのか……!!」

「……!!」

黒髭が笑顔で目を見開く。

「その中で──」

ヤクモが躍りかかる!

「智慧でなく力でそれを奪い去ろうとするお前たちの方が──あまりに惨めなんじゃないのか──!!」

「……それは……」

刃が、火花を散らす!!

「“ざんねん”!!」

「ッ!?」

鋭い剣撃にヤクモは剣を取り落とす!

「先輩ッ!?」

「──っ」

「……いいとこまでいった。いいとこまでいったよ君」

だが黒髭はそれ以上攻め込まなかった。

「確かにそりゃあ惨めさ。概ね間違ってはいない」

「……」

「だがね、君はひとつ大きな間違いを犯している……故に、この方程式を解くことができない。その理論に代入すべきものを間違えているかぎり」

ヤクモは、再び剣を拾う。
数度の打ち合いですでに両手は痺れてきていた。
あまりにも無力だ。

「さあ、君が答えを見つけるまで先生がつきあってあげよう!」

「──いや」

ヤクモは、自らを奮い立たせる。

「だいたい、答えはわかったよ」

「──ほう!?」

躍りかかるヤクモの刃を、黒髭が受け止める!

「おかしいとは思ったんだ」

擦れ合う刃に火花が踊る。

「僕は、この世界を救いたい──なのに」

黒髭の瞳が爛々と燃える。

「一番救いたいのが、あろうことが“あなた”だなんて」

「────」

「この世界の“理不尽”を──壊したいのは、“あなた”なんだろう?」

ヤクモの剣が黒髭の帽子を切り裂いた。

「さあ、僕に教えてくれ、その方程式を解くための鍵を!」

黒髭は、嬉しそうに、嬉しそうに、口角を吊り上げた。

「──“嫌だネ”!!」

黒髭は一瞬の隙に、懐から銃を抜きつけた!

「“君が解くべき問題”を、私が解いてなんの意味がある!!」

「ッ!!」

裏切りの銃弾を受けたヤクモの剣が砕け散る。
それを合図に、海賊たちが一斉に斬りかかる!

「──シトリー!!」

「っ!?」

「“ぶちかませ”!!」

ヤクモの言葉を受けたとたん、シトリーは全力で上空に飛び上がる!

「──どうなったって知らねェぞォ──!!」

そしてその鷲獅子の翼を、力強く羽ばたかせた!

「──《弄寵恋雲》ッ、《ア・ラ・グリュプス》っ!!」

シトリーの翼から、無数の羽矢が真っ赤な軌跡を引いて海賊どもに襲いかかる!

「──!!」

そして羽矢に貫かれた海賊が、一斉に黒髭を見た!

「せんせぇ────っ、だいすきぃ────!!」

目の色を変えた海賊の波が黒髭に向かう!

「シトリー!」

「合点だッ!」

滑空してきたシトリーが、ヤクモの細い胴を抱き、上空へ再び舞い上がる!

「──役割(ロール)は──《流者》ッ!!」

ヤクモの手に光が集まる。

「──権能(ルール)は──《離断》ッ!!」

そして光は一条の“貌(かたち)”を顕わす。

「──我が名において“銘”ずる──出でよッ──」

ヤクモはその“剣”を構え、シトリーと共に海賊船に向け急降下する!

「──《鉄刀送尾》──ッ!!」

「!!」

閃光と共に、“海賊船”を形作った何者かの“願望”が切り裂かれた。
叶えられていたはずの願いが離断され、海賊船は無数の金貨に転じて海賊たちを飲み込みながら、黄金の雨となって上空から降り注いだ。

「────!!」

海賊たちも大地に叩きつけられ、金貨となって砕け散る。

彼らもまた、誰かの願いが作り出したものだったのだろうか。

「ぐぅッ!」

だが、黒髭だけが、地面に叩きつけられ血反吐を吐いた。

「シトリー!」

「ああ!」

剣が掻き消えると共に、シトリーたちは黒髭の側へ降り立った。

「────」

半ば虚空を見つめながら、黒髭は小さく痙攣する。
致命傷であるようだった。

「ああ────」

ヤクモの姿に気づき、その見開いた目を向けた。

「──これできっと──こたえが──わかる」

黒髭は不敵に笑う。

「……」

やがて、道端の子供たちが、様子を伺っていた大人たちを退けながら、降り注ぐ金貨を集め始めた。

黒髭に金貨を奪われていったはずの、大人たちを退けながら。

「ああ──せんせえのことは──きにすること──ないよ──」

ごぼごぼと黒い血を吐きながら、黒髭は尚も笑う。

「わたしの──ねがいは──叶うから──ネ──」

そして、事切れた。

「……先輩……」

「……」

ヤクモは、黒髭の亡骸の目蓋を閉じた。
不思議とそれは、充足した表情を浮かべていた。

「……黙っているのは“硬派”じゃねぇから……」

シトリーはなにかを云おうとして、ヤクモの人差し指に阻まれた。

「それより、今一枚金貨拾ったでしょう」

「……」

「そのほうが、“硬派”じゃないんじゃない?」

ヤクモは微笑んだ。

「……そうだな。そうだ」

シトリーは、掌のなかに隠していた金貨を一枚、そのまま棄てた。

「……でも、ひとつだけ。たぶん、先輩がこうなったのは……俺のせいだ」

「……たぶん?」

「俺も──ここに来た直後のことが思い出せない、それがなんでか、ずっと考えてた」

シトリーは頭を振る。

「なんだかまるで昔のことみたいなんだ……“子供の頃のこと”だったみたいに」

その言葉にヤクモは目を丸くした。

「シトリーが……“大人になっちゃったから”……?」

「……きっと、そうだ」

それと共に、ヤクモの疑念がひとつ浮かび上がってくる。
だが、それにもシトリーはひとつの考えに至っていた。

「きっと、先輩がケンゴ先輩のことを忘れちまったのは……ヤクモ先輩が“別人”になっちまったから……いや、“別人になりつつあるから”じゃねえかって……」

「……」

「それから……たぶん、ヤクモ先輩をそんなにしちまったのは……きっと、ヤクモ先輩を知ってる、俺なんじゃないかっ……」

再び、ヤクモの人差し指がシトリーの口許を塞いだ。

「それは、憶測でしょ」

「……お、おう……だけど」

「まあ、少なくとも、僕らがもとの姿を取り戻す理由が出来たわけでさ」

“このままでは他人になってしまう”。

憶測であったとしても、その危機感は確かにあった。

「たぶん、この男も、それが不味いとわかってて止めたかったんだ……“止めてくれる誰か”を、探してたんだよ」

「でもッ、こいつは」

「シトリー、見てごらん」

ヤクモに促されるまま、シトリーは辺りを見渡す。

「……」

そこにいるのは、“餓鬼”だった。

子供に戻りたい大人たちを迫害し──金貨を、“希望”を貪るその姿は、最早“子供”などという、生半可な言葉で表現することはできなかった。

「あの人たちには、止められないよ」

「……」

シトリーは、先ほどまで金貨を握っていた自らの手を眺めて震え上がる。

ヤクモが止めるまで……自らの願いの精算を願うつもりで、自分はあの餓鬼と同じところに堕ちようとしていたのだから。

「じゃ、行こうか」

「……何処へ」

シトリーが我を取り戻す。

「落とし前、つけたいんでしょ」

「……」

「“願望機”、ぶち壊す」

そうヤクモが微笑んだ時だった。

「タイホする────ッ」
「タイホするう────」

「んッ!?」

巻き貝に似た高速で動く乗り物に乗った、数人の子供たちがヤクモとシトリーを取り囲む。

「タイホ────!」

「おまえたちを“こどもこうていネモ”さまのもとにレンコーするー!!」

「てをあげろ────!」



“子供皇帝”の近衛兵に捕縛された二人は、見た目に反して強靭な色とりどりの毛糸に絡め取られ、小舟で運河を渡っていく。

抵抗はそれほど難しいものではなさそうだった。
だがあえて彼らが捕らわれたのは。

「……見えてきたね」

運河の向こう……小高い丘かと思われていたのは、盛り上がった水面だった。
“子供皇帝”の黄金宮殿は、その上に浮かんでいる。
宮殿の明かりに真っ黒だった空が照らされて、ヤクモたちは初めて、自分達が“水中”に居るのだと気づいた。
空のように巨大な水泡のなかに、都市が丸々浮かんでいたのだ。

黄金宮殿はドーナツ状に広がる水上都市から離れた中央に鎮座していた。
彼らが甘んじて縄についたのは、“願望機”が潜むとおぼしき、黄金宮殿の内部に潜入するためだったのだ。

「……でっけぇーなー」

球体か何かを連想させるその威容は、近づくに連れてやがて鸚鵡貝を模して作られたものだと気づかされる。
見上げるような巨大さに、二人は息を呑む。

小舟はやがて盛り上がった水面を登り、宮殿のエントランスへ飲み込まれる。

「ついてこい!」

「こいー!」

二人は乱暴に立ち上がらされ、広いエントランスの中へと押し出される。
白亜の大理石と黄金で彩られた絢爛な宮殿内部は、それでいて生き物の気配すら感じないほどの静けさだった。

「……」

ここに、願望機があるのだろうか。
何れにしても、その在処を子供皇帝に問いたださねばならない。
二人は、子供たちに急かされるまま、静まる宮殿の中へと足を踏み入れた。

──その様子を、柱の影でただ黙して見据える人影があった。

静まる宮殿の中、外套を纏い、目深に帽子を被るその人物は、雨にぐっしょりと濡れたまま、ただその光景をじっと見ていた。



ヤクモとシトリーは、ステンドグラスで出来た大きな扉の前に立たされる。
向こうからはまるで太陽でも差し込んでいるかの様に、暖かな光が降り注いでくる。

「ここでまて!」

「まてー!」

槍を構えたまま子供たちが告げる。

「はいはい」

「はいは、いっかい!」

付き合いきれないと言う表情をシトリーは浮かべた。

「……」

「……」

「……ん?」

唐突に、子供衛兵がその場で倒れて寝息を立て始める。
同時に、二人を絡め取っていた毛糸がほどけて床に落ちた。

「──どうぞ」

目前の扉が開く。

「……」

二人は警戒しながらも、恐る恐る扉を潜る。

「あなたをまっていました」

その先にあるのは玉座だった。
三角推を横倒しにしたような形状の部屋、天窓はすべてステンドグラス仕立てになっている。
その奥側、見上げるほど高いモニュメントの足元に座す人影があった。

あれが“子供皇帝ネモ”で間違いないだろう。
引きずるほど長いマントを垂らし、巨大な冠を掲げている。
だがその姿は紛れもない子供だった。
未就学児程の年齢だろうか、ただ、そのアルカイック・スマイルを浮かべる顔に生気は感じられなかった。

「随分しおらしいじゃねえか……表の連中もお前の仕業か」

皇帝はゆっくり頷く。
その冠はなにかコードのようなもので玉座と繋がれていた。

「こどものみみには、しょうしょうこみいったおはなしがありますので」

子供皇帝はそう微笑み──

「エドヴァルド・ティーチャーのとうばつにさいし、まことおんれいもうしあげます──」

その頭を垂れた。
皇帝の右手元には電話機が置かれている。
あれが、願望機だろうか。

「僕たちになにか用?」

皇帝を前にしてヤクモは淡々と訪ねた。
この世界のすべてが見た目で判断できない以上、目前の人物が本当に皇帝である証明も無い。

「くろひげとうばつはわたしのひがんでした」

「……」

「ゆえに、ひとつほうびをさしあげたくおもいます」

やはり、皇帝はまるで人形のようだ。
その笑顔にも、言葉にも、生気が無い。

「わたしはなんでもさしあげることができます。なんなりとおもうしつけを」

「……なんでも?」

「はい」

ヤクモとシトリーは顔を見合わせる。
互いに、その答えは決まっていた。

「……僕たちを、願望機のある場所に連れていって」

「────」

皇帝は、微笑んだ。

だが、その笑みは不思議と“安堵”のようなもの感じさせた。

「──よいでしょう。あなたがたならば」

皇帝の玉座が、唐突にぐるりと回転する。

「わ、わ、わ」

同時に、周囲にあった装飾品が勝手に動きだし、その配置を変えていく。

「おふたかた、こちらへ」

皇帝に促されるまま、玉座の間の反対側……三角推の先端側へと回り込む。

「みちすがら、おはなししたいこともございます」

「……」

宮殿が微揺する。
僅かによろけたヤクモの肩を、シトリーが支えた。
ヤクモはそのまま身を委ねる。

「では、がんぼうきのもとへごあんないいたします」

背後の装飾品群から、立体映像の天使が現れ、何かを口々に呟き始める。

『エンジン始動』
『エントランス閉鎖、潜航モードへ移行』
『ベント解放、メインバラスト注水開始』

「え、え、えっ」

「──“ノーチラスごう”、せんこうかいし」

大きな揺れと共に、黄金宮殿が水面に沈んでいく。

「ちょ、ちょっと──」

「……“がんぼうき”、という話があります」

皇帝が唐突に口を開いた。

「ある北の国に……どんなねがいもかなえるきかいが、あるといいます」

「──」

「そのきかいがある“のぞみのかなう部屋”をめざして……森を行く男たちがいました」

ゆっくりと、ゆっくりと宮殿が沈んでいく。

「その二人は兄弟で……森にしかけられていたわなにかかり、弟は死んでしまいました」

頭上に、ドーナツ状の都市が浮かんでいる。
だが、ノーチラス号が離れると同時に、それを包んでいた水泡が弾けてしまった。
水圧に都市が砕かれていく。
たくさんの“金貨”が、海中に投げ出されてきらりと輝いた。

「……おい……」

「心配いりません。僕の夢のようなものですから」

振り向いた時、子供皇帝は十代くらいの姿になっていた。

「……話を続けましょう」

怪訝な顔で二人は皇帝を見た。
その表情にやはり生気は無かった。

「兄は命からがら、願望機の元にたどり着き、“弟を返してくれ”と願います」

──辺りが徐々に暗くなっていく。

「願望機は願いを叶え──男にたくさんの金を寄越しました。弟は蘇らないまま……」

「……」

「兄は心の底では、弟の命より富を望んでいたのでしょうか──」

都市の瓦礫が降り注ぐ。
たくさんの金貨の雨が、ゆっくりと水底へ落ちていく。

「──わたしの話をしよう」

子供皇帝は──変声期を過ぎた低い声で口を開いた。

「わたしは港町の生まれで、父親は弁護士、母親は船乗りの家の出で、竜巻のような想像力を持つ人だった」

「──」

「わたしは冒険に憧れた。船乗りたちの語る物語に胸踊らせ、海の英雄になりたいと夢見ていた──」

最早、そこに座す男は子供では無かった。
微動だにせず、ただ、静かに、言葉を紡ぎ出す。

「十一の時に恋を知った。わたしはその娘に、珊瑚の首飾りを送ろうと、密かに水夫の真似をしてある船に忍び込んだ……」

青年は虚ろな目のまま……過去を覗き見るように、静かに語る。

「嵐が船を飲み込んだのは七日目だった。船は沈み──わたしは海に投げ出された。これで死ぬのだ、そう思う間も無くわたしは溺れた」

気づけば、隣で話を聞いているシトリーも、心なしか若返ったように見える。
本人は微塵も気づいていないようだったが。

「──声が、聞こえたんだ」

「……声」

「母の声だった──」

皇帝が感慨深そうに、海面を見上げる。
だが最早、天窓の外は闇でしかなかった。

「気づけば、このノーチラスと共にあった。やがて“男”がやって来た。おめでとう、君は“願望機”を手に入れたと告げて──」

「……」

ヤクモの顔が険しくなる。

「そんなことよりわたしは帰りたかった。そう願うと答えた。だが、ノーチラスの浮上のためには、たくさんの願いを叶えてそのエネルギーを集める必要があると“男”は告げた」

皇帝の顔は窶れてきていた。

「思い付く限りの願いを叶えた。富もそうだ、ノーチラスを宮殿に改造したのもそうだ。誰にも劣らぬ智恵すら望んだ。だが全然足りなかった。人ひとりの願い程度ではどうにもならなかったのだ」

「……それで、どうしたの」

「簡単なことだ、“願う人間”を増やしたんだよ」

それが、あの都市の存在意義だった。
一人分の願いで足りないのなら、願うものを増やせばいい。

「だが……不思議なものだ……」

皇帝だった男は、すでに中年期を迎えていた。
その面影には、覚えがある。

「わたしはね、簡単なことに気づかなかったんだよ」

「……なにに?」

「鳥は、鳥籠の中にあってはじめて雲を恋うものだ。はじめから空にある鳥が、果たして自由を望むだろうか──」

皇帝の目が、遠い遠い空を見る。
海底という籠に囚われた小鳥のような瞳で、叶わぬ空の青さを探す。

「皆、思い付く願いを叶えてすぐに満足してしまったようだ。なに不自由無く、ただ、老いるだけ……それがね、本当に不自由なことだと思うものはわたしの他には居なかったのだよ」

その顔は、どこか、あの黒髭を名乗った男に似ていた。

「──そうして、故郷に戻れないまま、なに不自由無い灰色の時間を過ごしてきた。それはまあ、楽しい時間だったよ。ただ、生殺しにされているような気分は晴れなかったけどね」

「……何年、ここにいたの」

ヤクモが尋ねた。

「わからない。もしかしたら……そう長くは居なかったのしれない。なぜなら」

皺が深く刻まれた相貌がヤクモを見た。

「願望機に願う対価として、あれはわたしたちの“時間”を奪っていったのだから」

「……!!」

「……“可能性”って、言ってなかった……?」

あの電話の悪魔は確かにそう表現した。

「おなじことだよ。夢を叶えるために必要なのは時間だ。あの願望機に関して言えば、それでどうにもならない願いまでも、わたしたちから他の可能性を奪うことで叶えてしまうのだけれども」

これで、金貨の謎も解けた。
子供たちから“時間”を奪い、ただどうしようもない“大人”へと変えてしまう。
そしてあの子供たちは、互いの時間を、有意義な時間──“可能性”を奪い合い、それに負けたどん詰まりの大人を支配していた、ということだ。

「──それに気づいた時……わたしも含めて、すべての者が望んだのは──わかるだろう、唯一有限であるものを、無限に手に入れようとするのは」

「……時間を、巻き戻した……」

皇帝は深く頷いた。

「取り戻せるなら取り戻せるうちに取り戻すだろう。それが浅はかな考えだった──」

「……」

「──いままで、すっかり“忘れてしまっていた”がね」

最早、目の前に居る皇帝は老人だった。
延びるに任せた髪が、髭が、その時を物語る。

「わたしたちは口々に……たくさんの時間を取り戻した。そうして子供に戻ったのだ。たくさんの記憶や経験を失ってね」

「どう、して」

シトリーが狼狽する。
その姿は、ほぼ、ヤクモが良く知るシトリーの姿だった。

「子供に“巻き戻って”しまったからね……そんな過ちを何度繰り返し、何度巻き戻したのかは最早わたしにはわからない」

「……」

「その内……ある時、あの“男”がまた現れたのだ。そうだ、確かにあの“男”だった──すっかり忘れていたのだが」

皇帝は頭を振る。

「──もっともわたしは、自分の名すら忘れて、“ネモ(誰でもない)”などと名のっていたのだがね──」

骨ばった両手を擦りながら、老いた皇帝はなにかに思い当たる。
不思議とその表情は、子供だった時に比べて遥かに“人間”らしかった。

「“願望機に、必要以上の願いが流れ込んでいる。このままでは、願いが歪んでしまうだろう”──そんなようなことを述べていた。子供のわたしにはわからなかった」

皇帝は顔を覆う。

「──民草が、願いの対価を奪い出したのはそんな矢先だった」

「その結果が、あれか」

「そうだ。子供のわたしは恐ろしくなって、願望機に願ったのだ。この悪夢を終わらせてほしいと──」

皇帝は、ため息を吐いた。

「そして、あなたがたが現れたのだ」

ヤクモとシトリーか互いを見る。

「──あ」

その姿は、互いに良く知る姿だった。

「あの“黒髭”は、恐らくあなたがたにこの歪みを知らしめるために現れたわたしの亡霊だ……あなたがたに随分先んじて現れた様子ではあったが」

「だから言ったのか……“願いは叶った”と」

「……ならば……わたしの願いも……叶うのだな……」

老人は最早、声を出すのもやっとだった。

「あんた……」

シトリーは悲痛な表情でそれを見ている。

「この……海底二万里の先に……“願望機”はある。そこには願いを否定する力場が働いているらしい……誰かが“願望機を壊す”等という願いを叶えぬように」

「だから、あんた──」

「あるいは誰かが、永遠に願いを叶え続けられるようにとも願ったせいか……いや、あるいは……」

老人は幾度と咳き込んだ。

「あるいは……わたしの願いの対価が、精算されているのかもしれないな……」

乾いた瞳で、老人は海底の闇を眺めている。
その先の空を、雲を、光を眺めている。

「“願望機”の話には続きがある……やがて……罠の張られた森に、三人の男がやってくる──」

老人は静かに口を開いた。

「男の一人は学者で……願望機を壊すための爆弾を抱えていた……誰かに悪用されぬ内にこんなものは壊してしまおうと……だがそれはできなかった」

「……」

「男の一人は作家で……願望機はまるで悪魔の鏡だと悟って部屋には入らなかった……自分の心の醜さを、自分は見たくないと告げて」

掠れる声で男は続ける。

「最後の一人は案内人だ……彼は部屋には入らず、この場所に誰かを連れてくることを生業としていた……」

「……それで?」

ヤクモが優しく続きを乞う。

「男は……現実世界では何の役にも立たない人間だが、ここは居心地がいいと泣き叫んだ……不幸な人間がいる限り、ここでは自分に……“意味がある”と……」

老人は瞼を閉じた。

「……わたしはあのとき……あの荒波のなかで……何を望んで、ここにいるのだろう……」

そして……そのまま息を引き取った。

「……先輩……っ」

シトリーが涙を堪えきれずに、ヤクモの胸元に飛びこんだ。

「……かわいそうだよッ……おいら……この人がッ……かわいそうだッ……」

「……そうだね」

ヤクモは優しく、シトリーの肩を抱いた。
小さく、だが、しっかりとした男の肩をしていた。

「おいら……おいらも……願ったんだ……なにも……しらなくてッ……」

嗚咽に溺れながら、シトリーが言葉を紡ぐ。

「……“大人になりたい”って……ヤクモ先輩を守れるように……強い大人に……“硬派”な大人に……なりたいって……」

「……」

「とうちゃんの声で……あいつが言ったんだ……どんな願いも叶うって……でも……」

シトリーの背を撫でながら、ヤクモは静かにそれを聞いていた。

「あの人が言ってた……あいつは、“時間”を奪うって……だからおいらは、おとなになって……」

「うん」

「あいつが本当に叶えた願いで……ヤクモ先輩は……」

シトリーの願い。
本当に望んでいたのは、何か。
シトリーにも、わからない。

「……」

事実としてわかったことは、ヤクモが女に変わったことだけだ。
少なくとも、それがシトリーの願いの結果だった。

「でも……おいら……たぶん、まちがってたんだ……」

「ん? なにを?」

「だって……だって」

息も絶え絶えに、シトリーは泣きじゃくる。

「“女のヤクモ先輩”に……胸、借りられねえじゃねぇかよぉぉ……っ」

「……ふふ」

ヤクモはシトリーを強く抱き締め──

「あはは」

小さく、笑った。

「わッ、わらうんじゃねぇ……ッ!」

「あははっ、違う、違くて」

嘲笑うつもりは無かったが、その言葉がヤクモにはくすぐったかった。
そして嬉しくて、どこか恥ずかしかった。

「……シトリー、ズルしたなって思って」

「……なん、だよ……」

「シトリーだけ先に大人になろうだなんて」

シトリーの三角の耳がピクリと立った。

「なッ、なんでズルなんだよッ……おいらは……先輩と……肩、並べたくて……」 

「じゃあ、尚更じゃん」

ヤクモはシトリーの涙を拭う。

「僕だってまだ子供だもん。シトリーと一緒に大人になりたいし」 

「──!!」

シトリーは真っ赤になった。

「ズルして大人になろうだなんて、“硬派”じゃないなあ」

そう笑うヤクモを小さく突き放し、真っ赤な顔を隠してシトリーは背を向けた。

「……違ぇねえなッ、ちくしょう!」

ヤクモは、その様子に笑顔を溢した。

『目的……地に……到着……』

ノイズ混じりに天使が告げると、ノーチラスは力を失ったように海底に沈んだ。
轟音が止み、小さな振動の後に、動かなくなる。

「……着いたみたいだぜ、先輩……」

シトリーは、一呼吸して皇帝の亡骸を見る。
そこには、朽ちた冠がただ、転がっているだけだった。

「……」

ステンドグラスの天窓が、静かに崩れた。
あの海底都市同様の水泡に包まれているようで、その先には空気があった。

「……シトリー」

「おいらが、先に行くよ」

「……?」

シトリーは強がって笑顔を見せた。

「先輩のこと守れなかったら、“硬派”じゃねえからな」



遺跡、と言うべきだろうか。
彼らの目前で砂に埋もれていた設備は、金属とも鉱石ともつかない材質で造られ、ただ、その口を開けていた。
──これが子供皇帝の語った、“願いの叶う部屋”だろうか。

「……」

ひたすらまっすぐ、通路を進む。

人工物としか考えられない、無機質な道だった。

「……先輩」

シトリーがヤクモを止め、通路の先を見る。
鷲獅子の翼を広げ、シトリーは最大の警戒を払いながら先の部屋へ進む。

「……ここみたいだぜ」

ヤクモがそれに続き、その威容を見た。

「────」

端的に言えば、そこはゴミの山だった。

粗大ゴミの巨大集積所、その山の中心に、怪しい存在があった。
それは巨大な球形をしていて、幾何学的に分割されたその表面を、不快な音を立てながら捻らせている。
その合間から不気味な光を放ちながら、それは蠢いていた。

「……!!」

ゴミの山に、目立つように埋もれた電話機がなった。

「……たぶん、僕宛てだ」

ヤクモはシトリーを制止し、その受話器を手に取った。

『やアっと会エましタねぇ、主サマぁ』

悪魔のような、歪んだ声がヤクモを迎えた。

『ドウでしたぁ? 願い、叶いましタかぁ?』

「……」

『連れナイなぁ、せっカク、ボクが主サマの願いを叶えテあげるのにィー』

嘲笑うように“願望機”が回転する。
不快な金属音が部屋を満たす。

『サァ主サマ、次は何を叶えますかァ?』

「……」

『ダいたい、主サマはドウしてこんなめんどくサい大それたコト願っちゃったんデスかぁー?』

汗が伝う。
胸が締め付けられる。

『“世界を、救いたい”ダなんて──』

「──」

『──テいうかソレ、ホントウに主サマの願いなんですかぁ──』

ヤクモは、受話器をチンと置いた。

「……見苦しい」

「え?」

ヤクモはひとつ溜め息を吐くと、“願望機”を睨み付ける。

「“願いの理由”なんて野暮なこと語るなんて、“硬派”じゃないよ……なっ、シトリー」

「お、おう」

きょとんとしたシトリーを横目に、ヤクモが微笑む。

「──役割(ロール)は──《流者》ッ!!」

ヤクモの手に光が集まる。

「──権能(ルール)は──《離断》ッ!!」

そして光は一条の“貌(かたち)”を顕わす。

「──我が名において“銘”ずる──出でよッ──」

そして、ヤクモはその“剣”を降りかぶる。



「──《鉄刀送尾》ッ!!」



太陽の眩しさに目を醒ます。

白い砂浜に、ヤクモは身を横たえていた。

「──」

そして、徐に自分の肉厚な手を見て、安堵する。

「……う」

隣で、聞きなれた声が零れる。
変声期寸前の、少年の声。

「──先輩?」

しばらく呆然と辺りを見渡してから、シトリーは隣人の姿を見つけた。

「……せんぱ」

「シトリー!!」

ヤクモは悪戯な笑顔を浮かべて、砂浜に座すシトリーに飛び付いた。

「うわぁッ、なんだよ藪から棒にィッ」

「はぁーよかった、ちゃんとシトリーだ!」

「ぅあぁッ重ッ、先輩ィッ、助かったからってそりゃねーだろォ」

ヤクモに押し倒され、羽交い締めされたシトリーがもがく。

「いーじゃん、誰も見てないしィ」

「そういうの“硬派”じゃねぇぇ──!」

シトリーは全力でヤクモの腕から逃げ出した。

「──だってシトリー、願ったんじゃないの?」

「なんだよッ」

「僕が、“女の子だったら”って」

その言葉に、シトリーは真っ赤になった。

「そッ、そうじゃねぇ──! 絶対、絶対そうじゃねぇ──から! そんなこと願ってねェ──!!」



そのとき、彼らは光に包まれた。

「んッ!?」

足元の砂浜も消えていく。

「せ、先輩……!?」

光の中で二人の身体が浮き上がる。

「──ヤクモ先輩──!?」

だが、ヤクモの身体が、うっすらと消えていくのにシトリーは気づいた。
その背後に現れた──白い門に、吸い寄せられるかのように。

「せっ、先輩、どこ行くんだよォ!!」

シトリーが叫ぶ。

「……まだ、やらなきゃいけないみたいなんだ」

ヤクモが寂しそうに笑った。

「多分、もうちょっとしたら帰るからさ」

「ヤクモ先輩!?」

「なんかそんな気がするから、あの願いの“硬派”な言い訳、考えといて」

そう言うと、ヤクモの姿はあっけなく消えてしまった。

「せんぱ──」

そして、それすらも曖昧になり、シトリーは──



──その様子を、波打ち際でただ黙して見据える人影があった。

真っ青に晴れた外套を纏い、目深に帽子を被るその人物は、雨にぐっしょりと濡れたまま、ただその光景をじっと見ていた。

……“男”は、足元に流れ着いた、朽ちた冠を拾い上げる。
それと同時に、海面を割って、巨大な──

「────」

巨大な、円盤が、空へと浮かび上がってきた。

『$BG$L3?k9T%r3NG&0』

円盤が、“男”に語りかける。

『$BM=A[%7F@%J%$;vBVFs%J%C%?』
『$B5!4XIt%N8N>c%K%h%j%3%NOG@1FsIT;~Ce%7%F!"%3%s%J%K1J%/N)%A1}@8%9%k%3%H%K%J%m%&%H%O(B』

「────」

“男”は、円盤をじっと見据える。

「$B7k2LE*Fs!"%"%N;~6u4V%+%iDL>o6u4VFs5"4T%G%-%?;v%O4q@W%H%7%+I=8=%G%-%J%$」
「$B2f!9%O!H4jK>!I%N%A%+%i%r2a>.I>2A%7%9%.%?%h%&%@(B」
「$BCNE*@8L?BN%N4jK>%r%k!<%W%5%;!"%=%3Fs@8%8%kAjE>0\%(%M%k%.!<%rMxMQ%7%FC&=P%r;n%_%k%"%$%G%"%O0-%/%J%+%C%?%,」
「$BM>%j%K%b8=CO?M%N07%$FsLdBj%,%"%j%9%.%k(B」

“男”は手に持つ冠を眺めて答えた。

『$B46>p%J%I%O%k%+0JA0Fs<:%C%?2f!9%G%"%k%,』
『$B2f!9%NL\E*FsBP%7%F%N%3%9%H%O!H3d%K%"%o%J%$!I%HI>2A%;%6%k%rF@%J%$(B』
『$B46>p%NL5%$%O%:%N2f!9%G%9%i5$%,Rk%a%k7k2L%@(B』
『$B5!4X%NK=AvD>A0Fs%J%C%F@)8f%7%-%l%J%$!H46>p%NAjE>0\!I%O!"%3%N%h%&%J:3Kv%JL\E*%N0YFsMxMQ=PMh%J%$(B』

“男”の持つ冠が分解され、光の円盤となる。

「──$BH`%K%3%N5-21%rJV%9%Y%-%+(B」

『$B2f!9%,07%&%Y%-%b%N%G%O%J%$!"H`%KJV4T%7!"H`%NH=CGFsG$%9%Y%-%@(B』
『$B9,%$!";~6u4V%k!<%WN%CG%N8z2L%G9R9T5!4X%O@5>o2=%7%?!#H`Fs5-21%rJV4T%7!"%=%l0J>e%N43>D%rBG%A%-%j5"4T%9%k(B』

“男”は、頷く。

「$BO)K5%N%T%/%K%C%/%N%D%b%j%,!"%"%^%j%K1J%$N9Fs%J%C%?%J──」

そうして、男の姿はその場に衣服だけを残して消えてしまった。
濡れた外套も、帽子も、すべて波が呑み込んで消えた。

『──$B%=%l%K%7%F%b』

やがて円盤も強く発光し始める。

『$B%"%N0l=V8=%l%?!"8=CO;~4V49;;%GLs8^O;2/<7@iK|G/AjEv%N;~6u4VK`;$%O……$B0lBN%J%s%@%C%?%N%@%m%&%J(B──』

そして次の瞬間にはそれすらも消失し、ただ、波の寄せては還す音だけがそこにはあった。



「みにくい白鳥」 -END-


最終更新:2018年04月03日 23:37