星も見えない夜空と言えど、闇と言えるほど黒くもなれない。
午前二時を過ぎてなお、地上が明るすぎるのだろう。
誰一人遊ぶものの居ないはずの公園でさえ、煌々と照らされた木の枝が異様なほどのコントラストで浮かび上がる。
寒空の下、その乾いた一定の音は暫くして鳴り止んだ。
このただ広い公園の向こう側、ただロープ一本で区切られたその先は、ただコンクリートの塊ばかりが無数に転がる。
あと一年もしないうちに、この公園は無くなるのだと言う。
すでにこうして、公園の半分は砕かれてまっさらな荒野と化していた。
そのあとに空けられたこの場所が如何に使われるのかは、誰も知らない。
公園の明かりに照らされる人工の荒野に、ひとりの男の影が延びていた。
一通り、手作業で寄せ終えた瓦礫の山を、なんの感慨も無さそうに、ただ見つめている。
──よくある話だ。
借金のカタに一般生活用のボディを人質に取られ、作業用の重機ボディから戻れなくなった悲しきプロレタリア。
錆と傷にまみれた黄色と黒の鉄の塊、だがそれでも男は人間だった。
日の光の下、一般人の目につくような場所で生きていけないそのロボットのような身体で命を繋ぐしかない彼らのような人間は、一般生活用のボディが返却されるまで、こうして人の目につかない時間で延々ひとりで土木作業を続けている。
辛うじて支給されるブドウ糖液のカートリッジと日中の充電だけがその身体を動かしている。
やがて、そんな生活のなかで、人間としての心が磨耗して、浮浪者のごとき生活に落ちぶれていく。
──よくある話だ。
男に割り振られた作業はすでに終え、何の意味もない夜回りだけがタスクとして残っている。
夜が明けて、再び施工者がやって来るまでの間、彼はただぼんやりと瓦礫を見つめ、日が昇ると同時に人目を避けて、どこかの物陰に潜んで充電を行う。
そして人の往来が無くなる頃に這い出すと、施工者が散らかしていった瓦礫の山を、静かに手作業で片付ける毎日を続けている。
ロボットでも出来るだろうそのような仕事を、彼は借金が終わるまで、延々繰り返すのだ。
もうすでに、人としての感情は擦りきれてしまったように思えた。
──瓦礫の山に腰掛け、男は夜空を見た。
星も見えない夜空と言えど、闇と言えるほど黒くもなれない。
そんな空の下、電灯の真下で自分を見つめる人影を見つけた。
──気味が悪い。
男は無感動なりにそう思った。
たしか先週も、同じ人影が夜明けまで飽きずに自分を見ていたことを思い出す。
時おり、冷えた身体を動かし耐えながら、何がおもしろくてこんな錆びたサイボーグを覗き見ているのだろう。
あるいはこの何もない現場で何かを企んでいるのだろうか。
あるいはこの錆びたサイボーグをバラして屑鉄としてでも売りさばくつもりなのだろうか。
──男は別に、どちらでも良かった。
それほどに、男の感情は擦りきれていた。
『……』
ふと、電灯の下の人影が、境目のロープを跨ぐのを見た。
そして、一歩一歩、こちらに歩み寄ってくる。
『……おい。立ち入り禁止だよ』
とりあえずの警告はしたが、特に立ち上がろうとも思わなかった。
──男は疲れていた。
疲労などしないこの金属の身体であっても、男は疲れ果ててしまっていた。
どうにも人影は若い青年のようだった。
コートのポケットに深々と突っ込んだその手には、違法改造のスタンガンでも握られていて、そいつで脳神経を焼かれてバラされるのだろうか。
男はもう、それで良かった。
死の恐怖のようなものは、どこかに置き忘れて来てしまっていた。
「……ども」
『……立ち入り禁止だっての』
「カタいこと言わないでよ、寂しいだけなんだ」
青年はポケットから両手を出して、丸腰であることを強調した。
「どうせ誰も居ないでしょ、こちとら泥棒でも無いし」
『だから? この現場に何の用だ』
「なにもないよ。話し相手が欲しかっただけ」
──気味が悪い。
男は無感動なりにそう思った。
『世間話するような相手じゃないぞ。ただの土木作業用ロボットだ』
「嘘。サイボーグでしょ、おじさん。おばさんだったらごめん」
『失礼なやつだな。どのみち男だ』
青年はその答えに満足そうだった。
「──おじさん、前々から見てたよ」
『知っている。気味の悪いやつ』
口に出して言っては見たが、相手は気にしていない様子だった。
「かっこいいなって思ってたから。他にイイ相手居なかったし」
『イイ相手? 何の話だ』
「ここ、ハッテン場だからさ」
青年はそう微笑んだ。
──ハッテン場。
前世紀に消えていてもおかしくない言葉だった。
ある時期には、同性愛者の逢瀬の場として、夜間の公園等が使われていたことがあった。
互いの関係を発展させるという意味でハッテン場と言う隠語で呼ばれていたそれは、しかして時間と共に、出会いのシステム、あるいは防犯の強化、またあるいは同性愛者間の関係性の整備により、不特定多数との衝動的な性的接触が悪習として駆逐された背景から廃れ消えていった文化とされる。
『何時の時代の話だか。前世紀から化けて出たか?』
「僕もアーカイブでしか知らない。でもここは有名だったらしいから」
『いまだにホモのお仲間が居ると思ったか?』
青年は頷いた。
「でも、誰も居なかった」
ため息が、微かに白く棚引いた。
『そんな事しなくても、今時お仲間はどこでも居るだろう』
「それはそう、でも、なんていうか」
青年は少し間を置いて、適切な言葉を探した。
「……はみ出してる方が、居心地が良くて」
『……』
「退けものにされている方が、気楽なんだ。でも、寂しくて」
矛盾しているな、男はそう答えようとして、どことなく理解できてしまう自分のためにそれを止めた。
ただ土木作業用ロボットのふりをして、しがらみもなく、感情に振り回される事もない今の環境は、過酷だか気楽ではあった。
ただ、孤独と言われれば孤独だった。
「ハッテン場って言葉を知って、ここで誰かと出会えたら……って期待を抱いているのが幸せだった。誰かに会えたら嬉しいなって思った」
『……』
「けど、誰もいなかった」
それがわかっていて、青年はこの公園に通っていた。
いつか、その絶望を振り切る出会いを求めて。
一方で、また誰にも出会えないと絶望がしたくて。
それはある種の自傷行為だった。
自分と同じものが他に居ないと言う事実で、自己を確立する儀式でもあった。
しかし、それと孤独は、別問題だった。
「おじさん、イイ男だったからさ。話しかけたくて」
『目が腐ってんのか、ただの重機だぞ』
「いいじゃん、男らしくて」
すり寄る青年を不快に思えども、男はさせるがままを貫いた。
抵抗の意味を見いだせないほど、男は疲れていた。
『変態が』
「自分でもそう思う」
鉄板の胸板に、青年は頬を寄せる。
「……思ってたより暖かい」
『……』
──男は気まぐれに、コンクリート塊を砕くその鋼鉄の手で青年を抱き寄せた。
青年は、それに気を良くして男の頭部に唇を寄せた。
土と、埃と、鉄の味がした。
「……ちょっと、見ててくれる」
そう言うと、青年はおもむろに自分の陰茎を露にした。
何がそうさせたのか、硬く勃ち上がったそれを、青年は男に見せるように扱き始める。
『……変態野郎め』
男はそう呟いて、腕の中の青年の恥態を無感動なりに見つめていた。
「……っ」
『おい』
青年は、男の股関節に手を伸ばす。
本来なら、そのカバーの下には、男性としての機能を保つための部品があるはずだった。
「……無いじゃん」
青年は意外そうに呟いた。
『……痴情の縺れってヤツでな、痴話喧嘩の果てに一発電撃喰らって、気絶してる間にブン取られた』
「強烈」
『だから俺はただのロボットだ。男としてやっていけん』
男はそう呟いた。
「……おじさん、イイ男だよ」
『変態に言われてもな』
「確かに……でも」
何もないその空間に指を触れて、青年は身体をよじる。
「……いつか、抱いてもらいたいな」
『モノさえありゃ考えてやるよ』
「用意するよ。そのくらい」
青年は笑う。
「そしたら、めちゃくちゃにして」
『──』
男は喉からゼイゼイとノイズを出した。
それが男の、精一杯の笑いだった。
「……イきそ、う」
──そう呟く前に、青年は男の鋼の身体に精液を撒き散らす。
「あ、ごめん」
『別にいい。汚れたところで』
男は無感動にそう答え、青年から身を離す。
『ハッテン場探しなんて止めとけ。ロクな奴居ないぞ』
「僕もまあ、ロクデナシだから」
『チンポ引きちぎられても知らねえぞ、俺みたいに』
──その言葉に、青年はようやく、男が“仲間”らしいことに気がついた。
その痴情の縺れから、男は“男”を奪われたのだ。
「……じゃあそれ取り戻したら、おじさん、付き合ってくれる?」
『バカ言え。気軽に言いやがって』
「……おじさんに惚れたからさ」
青年はズボンを履き直し、踵を返す。
「次に逢ったら、抱いてね」
『二度と来るな』
その悪態に青年は笑みで返し、公園の向こうへと消えていった。
『……』
鉄の大腿に撒き散らされた精液に、男は虚しさと切なさ、そして何とも言い難い、男の感情を思い出す。
惚れた男。
鋼の身体を捩るほど燃え上がったはずの感情。
何年も前、まだ微かに“ハッテン場”の名残が残る頃。
複数の男たちの慰みものにされ、生々しい性で汚された身体を、まるで道具のようにホースの水で洗い流されたあの恥辱。
なのに、必要とされる矛盾した悦びだけが、人間の部分を満たしてくれた。
そして、その感情の行き着いた先で、男は“悦び”を失った。
『……』
無いはずの感情が、鉄の胸中で跳ね回る。
やがて、無くなるこの公園の記憶を薄めるように、見上げた空は深い蒼に変わっていた。
─ END ─
最終更新:2019年12月18日 00:38