端末上では間もなく新年を迎えようとしていた。
我らが故郷では、日付変更線の巡りと共に喝采の声が順繰りに上がっていくのだろう。
おそらくその時、地上(おか)に居たのなら、その大波のソリトンが地表を洗い流していくのをそれとなく感じていたかもしれないが。
いま、宇宙は“うみ”に例えられる。
地表を包む喝采のソリトンも、この大海原には届かない。
イグナシオ・タナカは、いまはもう、少し違う世界に生きている。
世界中を包む浮かれたソリトンを支える、一筋のか細い糸を導く役目を担っている。
その場所(スタンス)に立って初めて、タナカは世界を俯瞰して見ていた。
日付変更線が出走するキリバスの地から始まるだろう喝采の大波に思いを馳せる。
それは、例えばこの宇宙の始まり、ビッグバンの大爆発も似たようなものなのだろうか。
どこかから始まり、どこかに向けて広がり続けるソリトンの波。
地球(テラ)を包むだろう喝采を、宇宙の始まりに結びつけてみる。
異星文明(ペイガン)の連中は、もう宇宙の始まりの場所にも到達しているのだろうか。
そんな考えても詮無いことを振り払い、タナカはレク室のソファから身を起こす。
「おい、これ忘れてンぞ──“レオ”」
「……はい?」
聞き慣れた酒焼け声が発した聞き慣れない名に、タナカは首を傾げた。
「男の名前入りの時計なんざ、シャワー室に忘れてンなよ」
ゴローが投げて寄越したそれは、いまどき珍しい機械式時計だった。
「ああ、すみません……端末で時間見れちゃうとつい……」
微妙に不似合いなその厳つい時計を手首に巻こうとして、タナカは気がついた。
「……ああ、そういうことか……」
「妬けるなぁ、俺も“イグナシオ”って時計置いて見せつけてやろうかな」
「そういうのじゃないですよ」
時計の裏側、刻印された“Leonard”の文字をゴローに見せる。
「“レオナルド・タナカ”──僕の父さんです」
その言葉に、ゴローの胸はチクリと痛む。
「わ、悪ィ……形見だったのかよ」
「そんな自覚、全くないんですけどね……シャワー室に忘れてたわけで」
慣れない金属の質感を、タナカは手首に巻き付ける。
「母親から押し付けられちゃって……結婚記念日に買ったまま、実家に置きっぱだったんですって」
「ふぅん……」
母親の感傷に付き合わされた、概ね二人の認識は一致していた。
イグナシオが船乗りになった事実を受け入れるのに、母親なりの“繋がり”が欲しかったのだろうか。
どのみち、イグナシオ・タナカ当人が乗り気でないのは事実だった。
装身具としての役にしか立たないその時計が刻む時間は、タナカの故郷のタイムゾーンを示し、宇宙生活者であるタナカとは別の時を刻んでいる。
そも、機械式腕時計のような不便な代物は今どき金持ちの道楽か、よほどの記念品でなければ身に付ける人間はいないだろう。
もし、これがレオナルド・タナカであったなら、故郷と同じ時間を刻むことに意味はあったかもしれない。
だが彼は、それを故郷に仕舞い込んで、宇宙(うみ)の向こうへと行ってしまった。
不馴れな腕時計に擦れて赤くなった手首を掻いて、イグナシオ・タナカは真夜中の当直に向かった。
イグナシオと言う名には、“炎のような”、という情熱的な意味が込められていると言う。
それを両親が知っているかは定かでないし、そも、イグナシオ・タナカは自分の生きざまに沿わないその名前を気に入ってはいなかった。
その上で、出来の良い実兄がナチョだのナチョスだのといった渾名で自分を呼ぶことも不愉快だったし、タナカという特徴的なファミリー・ネームも合わせて、イグナシオ・タナカは自分を指し示すその言葉に良い思い出を持たなかった。
テクスメクス・スタンドの不味いナチョ・チップスのように情けない自分に、不釣り合いな名前。
だからまだ、日本では典型的とされるファミリー・ネームであるタナカと呼び捨てられているほうがまだ自分らしかった。
ごつくて重い機械式時計の似合わなさは、タナカにそれを思い出させる。
記憶の中の、ごつい父親の腕ならば、それは似合ったかもしれないが。
「お疲れ様です、交代です」
「ん」
ブリッジの椅子に腰かけていたボルトがひとつ大きなあくびをした。
「あ、日付変わってんじゃん。ハッピーニューイヤー」
「……そういうの気にする人です?」
「いや、挨拶程度」
大きく伸びをしたボルトの背中が、小さくパキパキと音を立てた。
「……隣、居ていいか?」
「どうぞどうぞ」
ボルトの隣の席に腰掛け、タナカは端末の管理アカウントを切り替える。
「さっき、腕時計シャワー室に忘れてたろ」
「ああ、ゴローさんが届けてくれました」
「ンだよ、取りに来るかと思って置いといたのに。親父、そう言うとこ目ざといよな」
腕時計を掲げて見せたタナカに、ボルトはそう悪態をつく。
「あ、お前と入れ違いで、ゲイルとガノフがレク室入ってったぜ。面白いとこ見れるかも」
「もう……やっと進展したんだからそう言うのヤメましょう。“宇宙(うみ)の男の秘密”とかなんとか言ってたくせに」
「ハハッ、生意気言いやがって」
そうボルトは、愉快そうに笑った。
「──お前も新年に帰れない仕事に就いちまったなぁ」
「別にいいですよ。毎年いい思い出なかったんで」
タナカは持参したタンブラーをボルトに勧める。
「ゲイルさんにナイショで、リキュール垂らしてきました」
「図太くなったなぁ、お前も」
──暖かなココアが、腹の奥底に染み渡る。
「イグナシオさ、次、地球に帰ったら実家に顔出すのか?」
──嫌いなはずの名前。
なのに、何故か、この男から呼ばれると快い。
「新年だし、一応。これ、返してこようと思ってて」
それが示すのは、イグナシオの腕時計だ。
「ほら、父親の形見だし。ただでさえ無くしそうなんで」
「え、使えばいいじゃん。似合ってるのに」
「……」
意外な言葉に、返すべき言葉がわからなくなった。
「……似合ってます?」
「もうちょい使い込んだら、いい感じになると思うけど」
幾度となく、自分の手首と、相手の顔を見比べる。
「……仕舞い込んでるよりかは、イグナシオが使ってくれた方が、親父さん喜ぶんじゃねぇ?」
「……でもこれ、父さんも使わなかったヤツですよ」
「ほらさ、自分が使うには大事過ぎるモノってあるじゃんか。壊したら取り返しつかないと言うか」
──それは自分も同じはずなのだ。
──否、それは少し違うのかもしれない。
使いたくても、失うのが恐ろしいもの。
失うと面倒だから、使いたくないもの。
それは、決してイコールではないはずだ。
「……イグナシオと一緒に宇宙(うみ)に行ける方が、おれだったら嬉しいけど」
「……」
ボルトは、少し口を尖らせてそう言った。
その言葉が照れ臭くなり、イグナシオは時計の文字盤に視線を落とす。
文字盤の小さなダイヤモンドが、さりげなく輝いた。
──レオナルド・タナカがこの時計を使わなかった理由を、誰も知ることはない。
ただ黙々と、故郷の時間に囚われたまま、この時計は新しい時を刻むことなく保管され続けてきた。
故郷の時計が零時零分を刻んだのを見届けて、イグナシオは竜頭を回して自分の生きる時間に針を向ける。
こうして、イグナシオ・タナカの腕時計は、新たな時間を刻み出した。
傍らで寝息を立てる男に呼ばれ、イグナシオは漸く自分の輪郭を手に入れた。
その内で、優しく静かに燃える炎のようなその熱を、イグナシオは静かに唇に灯して傍らの男にそっと口づけた。
「アンカー完了、ワイヤー巻き取り開始します」
ブリッジの高座に座り、宇宙(うみ)の隙間を見定める仕事を誇らしく思う。
「フィールド同期開始。脱出まで20、19、18──」
いつかは、この腕時計に馴染む男になれるだろうか。
「15、14、13──」
文字盤の小さなダイヤモンドが、さりげなく輝く。
「10、9、8、7──」
幾万、幾億輝く、宇宙(うみ)の星のように。
「6、5、4」
Shine on you Crazy Diamond.
「3、2、1──」
狂おしく輝け、ダイヤモンドのように。
【LOG#EX:WISH_YOU_WERE_HERE】-LOG OUT-
最終更新:2020年01月01日 00:11