「答えよ沙門──否、“左門 ヤクモ”ッ!!」
「──!!」
その名に、“救者”の脳髄が揺さぶられる。
刹那、“演者”の持つ異形の剣が、空間を切り裂いた。
彼は、その裂け目から溢れた閃光に目を閉じる──
──ざわざわ、ざわざわ。
緑の葉が風に揺れる。
「……ボクはね、植物が好きなんだ」
男は麦わら帽を深く被り、風に飛ばされぬようその鍔を押さえている。
空は青く、金色の日の光が彼の顔に濃い影を落とす。
「何も変わらないようでいて、毎日、違う顔を見せてくれる……それこそ、ほんの少し目を離したなら、次にはもう違う顔をしているんだ」
ざわざわ、ざわざわ。
揺れた草木が騒いでいる。
「そして、手にかけた通りの答えを返してくれる。時には水をやり過ぎて、根を腐らせてしまったり──自然淘汰って言ってね、広がる力があまりに強くて、他の植物の余地を奪ってしまう雑草をうっかり見落として大変なことになったりもする」
男はその巨体を屈めて、足元の草木を見つめる。
「ボクは時に、それを間引いて──正しいように植物を育てようとする。作物たちのために──ボクはそうでない植物を、根付いた命を、引き抜いてしまう。畑を壊されてしまわないように」
男はこちらを振り向いた。
太い眉をハの字に垂らして、情けなく微笑んだ。
「──ボクは、臆病だから」
ざわざわ、ざわざわ。
風に麦わら帽が浮かび上がる。
男はそれを捕まえようと手を伸ばす。
「──ある時、名も知らない花の種が、ボクの心に迷い込んだ。それは今も、ボクの心に根を張って、葉を芽吹かせて。いつか花を咲かせて、たくさんの種を遺すんだろう」
飛び去ろうとした麦わら帽を、その土で汚れた手が捉える。
そして、男は帽子を胸に当てた。
「それはとんでもない毒を持った雑草かもしれない。凄まじい勢いで増えていって、他の植物を淘汰してしまうのかもしれない」
ざわざわ、ざわざわ。
風が綿毛を飛ばして行く。
「きっと以前のボクなら、そんな雑草は間引いてしまったのだろうけど──けれど今は、こう思う」
男は真っ直ぐ、彼を見た。
「──“どんな花が咲くんだろう”──ってね」
そして、男は、微笑んだ。
「──ボクの畑には、ボクの植えたものだけが成るはずだったんだ。大事に育てているつもりで──ボクは臆病だから。それ以外のものはすべて間引いてしまうんだ」
ざわざわ、ざわざわ。
花が揺れる。
「けれどボクは、その花の芽を間引けなかった。畑を壊してしまうかもしれない、他の作物をだめにしてしまうかもしれない、その花を」
ざわざわ、ざわざわ。
稲穂も揺れる。
「──でも、それでもいいんだと、ボクは思ったんだよ」
麦わら帽を彼に被せ、男は膝を曲げると、彼の肩を優しく抱いた。
汗と、太陽と、土ぼこりのにおいがした。
「ねえ……キミは、どんな花の種を運んできたんだい……?」
ざわざわ、ざわざわ。
風に草花が歌っている。
ざわざわ、ざわざわ。
風が二人を笑っている。
男は深く瞼を閉じたまま、彼の身体を自分の胸に押し付ける。
「ボクは臆病だから……大事にするつもりでキミを苦しめてしまうかもしれないよ。それでも──」
そして、彼の耳元に、自分の鼻先を擦り付ける。
「それでもキミは、ボクの心に根を下ろしてくれるかい……?」
そして彼は、深く、瞼を閉じる──
「──《剪定(カット)》」
──冷ややかな風が、頬を撫でていく。
眼下には星の海が広がっていた。
人々の生活が、営みが、輝やく街並みを見下ろして。
少年は空に、橇を滑らせる。
透き通った鈴の音を響かせて。
「──ずっと考えてるんだけど、まだ、見つからないんだ」
少年の横顔を見る。
冷えた空気に紅潮した頬の上で、青い瞳が真っ直ぐに前を見据えている。
「キミがくれたものが、ボクにはとても大きくて。サンタクロースなのに、まだ、それに見合うプレゼントが見つからない」
鈴の音が夜の街に消えていく。
空の星が瞬いている。
「ううん、たくさんあるんだ、キミにあげたいものだったら」
少年がふと、肩を抱き寄せる。
「──けれど、どれもなんだか、キミに押し付けてしまいそうで」
コート越しに、少年の心音が伝わってくる。
響き渡る鈴の音の様に、先走る。
「……ボクはサンタクロースなのに、キミにもらってばっかりだ」
少年は鼻先を真っ赤に染めて、微笑んだ。
「……キミと居ると、本当に毎日がクリスマスみたいで……ううん、クリスマスじゃなくても、そのくらい、楽しくて、幸せで……」
ぎゅっと、その肩を抱き寄せる。
「その分、そんな日が終わってしまうのが怖い。十二月二十六日の朝がやってくるみたいに、終わってしまうのが……」
少年は、少し考える。
「……あ、でもその朝には、枕元にプレゼントが届いてるんだった……えへへ、それじゃあ、寂しくないか……」
恥ずかしそうに、鼻を掻く。
「──決まり悪くてごめん、でも、聞いてほしい」
ひとつ、溜め息を吐く。
それが白く、たなびいて消える。
「ボクはね……ボクのすべてを、キミにあげたい」
彼はその言葉に、顔を上げる。
少年の目は、ただ真っ直ぐに、前を見据える。
「なんて言ったら、キミは、困るかな」
彼の額に、少年は熱い頬を寄せた。
鈴の音が街に響く。
街の明かりが、空の星が、銀の鈴のように輝く。
「これから、たくさんの思い出を、キミと作りたい。そのすべてを、キミにあげたい」
冷たい風が、二人を包む。
それでも、胸が暖かい。
「──だめかな……?」
少年が不安そうに、彼の顔を覗き込む。
顔を真っ赤にして、潤んだ瞳で、不安一杯の視線を合わせて、少年は再び、恥ずかしそうに目を背ける。
そして彼は、深く、瞼を閉じる──
「──《剪定(カット》」
入道雲が鮮やかな極楽鳥花色に輝く。
屋上庭園に立つ二人の間に、春の風が通りすぎた。
「……ったく、俺の柄じゃねえんだよな」
対面に立つ青年は決まり悪そうに顔を背ける。
「……綺麗だな、先輩」
鮮やかな彩雲は、風に動かず、遥かに佇む。
青年もまた、風に向かってただ凛として立つ。
「……俺……ううん、オイラ、やっぱりそう簡単に大人になれそうもないや」
照れ隠しに青年は笑う。
その表情は少年のように。
「……でもオイラ、それでも……先輩の背中預かれる男になりてえ」
照れ臭そうに両手をポケットに隠し、赤らむ顔を陽光に隠し、青年は精一杯強がってみせる。
「オイラ、強くなる。腕っぷしだけじゃねえ。心も……この魂も」
青年は意を決して彼を真っ直ぐに見据え、自らの胸板に拳を当てる。
「いつか……ううん、オイラ、待たせねえ。絶対、強くなって──胸、張って言うんだ」
そして、その拳を彼の胸板に当てた。
「……先輩はオイラのモンだって」
風が、暖かな春の風が、二人の間を通りすぎる。
だがその赤い瞳は、夕日を受けて鮮やかに輝きながら、真っ直ぐと彼を射抜いていた。
「……やっぱ、柄じゃねえッ!」
青年──いや、少年は、再び照れ臭そうに両手をポケットに突っ込んで、彼に背を向ける。
だがその頬が真っ赤に染まっていたことは、既に彼の伺い知るところであったのだが。
「お、オトナぶるだけじゃダメだな、ちくしょう!」
小さな、それでも肩幅のしっかりした、男臭い背中。
先ほどまでの、大人ぶった青年とは違う、少年の背中。
でもやがて、その背中も、広く、大きくなるのだろうか。
彼の背中を預かる程に。
「……まだ、待ってろよな、先輩」
少年は背を向けたまま、茜色の空に叫ぶ。
その雄叫びが、籠の鳥が恋う空の向こうの向こうに響き渡る。
「──文句言わせねェくらいッ、“硬派”な口説き文句ッ、考えておくからッ!」
そして彼は、深く、瞼を閉じる──
「──《剪定(カット)》」
月明かりに、波間が輝く。
宵闇に光る白砂浜を眺めながら、男は傍らに少年を抱いていた。
大きな手が、彼には小さな肩を包む。
他人には決してしないような行為だった。
「……」
だが、その指先は小さく震えている。
怯えていた。
その肩の小ささに。
その思いの儚さに。
「……お前と居ると、む、胸が……苦しくなる」
その言葉と裏腹に、男はその肩を強く抱き寄せる。
波が、寄せては返す。
月明かりに煌めきながら。
「……で、でも、おれは、おれは……」
彼はただ、言葉を待つ。
寄せては返す、波の間に間に。
「……おれ、は……お前と……一緒に、居てえ……ッ」
男は、想いを、絞り出す。
「……ッ!!」
男は、彼を砂に押し倒す。
波が、寄せては返す。
月明かりに煌めきながら。
「……だめだ……おれは……」
男は後悔の表情を浮かべた。
「……おれはやっぱり……“おさえ”が効かなくなっちまう……お前のことも、メチャクチャにしちまうよ……」
砂を握り、身を焦がす想いを噛み殺す。
その瞳から、涙が一筋、月に輝く。
「……おれはやっぱり、ひとりがいいんだ……」
彼はただ、その頬に触れる。
寄せては返す、波の間に間に。
「……」
戸惑いの表情を、男は浮かべている。
その顔の向こうに、満天の星が煌めく。
「……お前はそれでも、おれのそばに居てくれるのか……?」
男は、彼の胸に額を当てる。
心音が伝わる。
こんな小さな身体にも、命が宿っている。
孤独だった男が、こんなに近くに感じたことのない命。
少しでも扱いを誤れば、壊れてしまいそうな命が。
「……あぁ……お前のことを考えると……おれの心が、メチャクチャになっちまう……」
波音が、囁く声を飲み込んでいく。
「……なあ……おれを、もっと──メチャクチャにしてくれ──」
星空が、二人を遍く見つめている。
「もっと、おれの胸を──心を締め付けてくれ……」
潤む瞳が訴えかける。
「……おれを、ひとりにしないでくれ……」
小さく震える男の肩に、彼は静かに手を回す。
そして彼は、深く、瞼を閉じる──
『──《剪定(カット)》ッ!!』
──四つの未来が、無惨にも切り裂かれる。
散り散りになった“場面(シーン)”が、物語の空白の中に散らばっていく。
カンダタは、“彼”は……いや、“左門 ヤクモ”はただ膝を突き、その様を呆然と見ていることしかできなかった。
黒騎士は、鋏の如き異形の剣をヤクモに向ける。
「──貴様に降りた蜘蛛の糸はこの私が“剪定”した」
ヤクモはただ、呆然としていた。
「……悔しくはないのか?」
「……」
「──悔しくはないのかと聞いているッ!」
黒騎士は“ヴォーパルの剣”を薙いだ。
散らばる“場面”が、さらに細かく“裁断”された。
「無下にするのか? お前が此処まで紡いできた想いを! それすらも惜しくはないと!?」
「────」
「──貴様はその程度の男か!」
騎士は再び、ヤクモの眼前に刃を向けた。
「……僕は……」
「……」
「……僕は……皆を……救わないと……」
ヤクモは、騎士の足元を見る。
「──」
「……僕は……それしかないから……」
「……そうか」
騎士はヤクモを斬った。
被されていた表層(テクスチャ)が破れ、ヤクモ本来の姿が現れる。
だが、やはりヤクモはどこか、呆然としていた。
「……貴様には出来ないのか、彼らの想いに答えることが」
「──」
「臆病者め」
騎士はそう吐き捨て、ヤクモの鼻先を斬った。
ヤクモはそれでも、動けなかった。
「……では貴様の未来を“剪定”する。いや、最早“間引き”だな──このまま“夢幻地獄”に囚われるがいい」
「……」
「──まだ他人事か。貴様を想う、彼らも一蓮托生だぞ」
「!?」
漸く、ヤクモが顔を上げる。
「──なぜ」
「当然だろう。彼らが身を呈して貴様を此処まで繋いだのだ。彼らの想いが、貴様を此処に繋ぎ止めている……貴様は最早ひとりではない」
「……ッ」
「──そうだ、いい顔になったな」
ヤクモは、立ち上がる。
ひとりではない。
ひとりではいられない。
その意味を漸く、咀嚼し始める。
「……なぜ……僕は……」
「彼らに聞け。私は知らん」
騎士は再び、剣を構える。
「──こんな腑抜けに“恋”をするとは」
「ッ!!」
なぜかその時……ヤクモの心が奮い立った。
おかしい。
今までそんなに、激しく感情が揺さぶられたことは無かったのに。
「彼らだけではない……貴様が忘却の彼方へと追いやった多くのものたちが、此処まで紡いできた想いも、最早無為」
「……ッ」
「貴様はそれすらも忘却した。貴様が救えるものなどなにもない」
胸が痛む。
魂が叫んでいる。
その声が、自らの慟哭が“わからない”。
でも。
たしかに、己を繋ぎ止めようとする、己を支える“誰か”が、傍らに居る。
“消えるな”と、“誰か”がこの身を支えている。
それは──
それは──
それは──
それは──
「──では、《剪定(カット)》だ。貴様はここで“降板”し、私はまた“始めから(リテイク)”だ」
「……っ」
「“役割(ロール)”は《演者》、“権能(ルール)”は《剪定》──!」
異形の鋏が暗き波動を孕む。
「──貫きて尚も貫く、ヴォーパルの剣が刻み刈り獲らん!」
騎士がゆらりと剣を構える。
「《堪惚脱退》ッ、《ヴォーパル・スウォード》────!!」
「────ッ!!」
躍りかかる騎士の昏き一閃がヤクモを貫く──
──否。
「……ッ!!」
輝く“光”が、その刃を受け止めた。
無我夢中で、ヤクモはその“力”を行使した。
その“力”は、ヤクモが忘却した“力”。
だが、その“役割”も“権能”も忘れたその“力”が、《剪定》の結末を拒絶する。
「──そうだ、“思い出せ”!!」
騎士が叫ぶ。
「貴様が振るう“権能(ルール)”は何だ、それ故に負う“役割(ロール)”は何だ!!」
「────ッ!!」
「思い出せッ、“左門 ヤクモ”!!」
──“ヴォーパルの剣”が、ひび割れ始める。
その昏き刀身が割れ、内側から──眩い光が溢れ出す。
「貴様が持つべき“力”はなんだ、貴様が掴む“未来”とはなんだ!!」
光が、光が二人を包む。
「私が剪み定めようとするその運命を──」
「────!!」
「──貴様は“断ち離せ”!!」
“ヴォーパルの剣”が、砕け散る。
ヤクモは、その“光”の奔流に吹き飛ばされた。
そして騎士は、その手に残る“離断の剣”を翻し──
「──っ!!」
ヤクモの胸へと、突き立てた。
「あぁぁ───────────ッ!!」
ヤクモは、絶叫する。
いままで、彼を支えていた“信念”が、“離断”される。
倒れることも、膝を突くことも許さなかったその“信念”を、剣が無情に断ち放つ。
「あ、あ……」
涙だった。
止めどなく、止めどなく、その瞳からこぼれ落ちた。
「あ……ッ……」
ヤクモは、騎士の足元に倒れた。
そして、赤子の如く慟哭した。
「────」
「──救い、たかったんだ……」
ヤクモは絞り出すように告げる。
「……みんなを……誰もかもを……そうしないと──僕は──」
“誰にも省みられない”。
それが何より恐ろしかった。
自分には“役割”があると、だから生の終わりも受け入れられた。
「……僕には……皆を……救えない……」
「────」
騎士は何も応えない。
「……僕は……ッ」
ヤクモは、身を丸めて泣いた。
その胸に突き立ったはずの剣は、そこにはもう無い。
「……ッ……」
「──貴様は、救えない」
騎士は告げる。
「……いや、むしろ貴様は確かに“救ってきた”のだ。そしていま、貴様こそが“救済を必要としている”」
「────」
「“救われる”のは貴様なのだ。今まで“救ってきた”ものたちに──」
ヤクモは、騎士を見上げた。
「貴様はそれにも気づかずに、自らを救済の薪として燃やし尽くすつもりだったのか? それこそが貴様の思い違いだ」
「……」
「貴様のいない世界など──誰の救いになると言うのだ」
騎士はヤクモの手を無理矢理引き、その身を起こさせた。
「立て。そして“目覚めよ”」
「────」
「思い出せ、貴様の“役割”を──そして、この物語を“断ち離せ”──!!」
ヤクモは顔を上げ、涙を拭い、そして、思い出す。
待つものが居ることを。
この物語の果てに、待つものが居ることを。
「──役割(ロール)は──《流者》ッ!!」
ヤクモの手に光が集まる。
「──権能(ルール)は──《離断》ッ!!」
そして光は一条の“貌(かたち)”を顕わす。
「──我が“銘”において“銘”ずる──出でよッ──」
そして、ヤクモはその“剣”を降りかぶる。
「────《鉄刀送尾》────ッ!!」
虚無の如き白い空間が、ヤクモの一太刀にて断ち斬られる。
「──嘘でしょう」
その先の闇の中から、少女の声がした。
「わたしの紡いだ“物語”を──結末に向けて“断ち斬る”だなんて」
空間が千切れ、闇が広がる。
否、結末に向けて斬られた“場面”が消え去ったのだ。
「──これが本当の“離断”の力なのね。ああ、なんて理不尽。機械仕掛けの神(デウスエクスマキナ)の仕業にも程があってよ」
闇の中に、影が蠢く。
「そしてそんな神がかりの結末を据えた物語は総じて駄作なの。これではもう台無しね、では終わりに致しましょう」
そしてその赤き暴君は、姿を現した。
「ご機嫌よう、黒の騎士(ナイト)さん、そして“招かれざる結末”さん──」
仮面で顔を隠した“赤の女王”は、ドレスの裾を広げて頭を垂れた。
「そしてさようなら。次回の作品にご期待くださいまし」
闇が晴れると共に、ヤクモはその全貌を捉えた。
玉座の間は“神殿”か何かにも見え、その後方には、巨大な──
「ッ……!」
巨大な、あの、“白い門”があった。
彼方への、彼方への旅路において、幾度となく呑み込まれた、あの“白い門”。
だが、開きかけたそれは、強靭な“蜘蛛の巣”に阻まれていた。
“蜘蛛の巣の玉座”に鎮座する“赤の女王”の威容は、まさしく黒鋳薔薇の脚を持った“女郎蜘蛛”そのものだ。
赤いドレスを纏う仮面の少女の半身が、足先までの長さだけでも何メートルもありそうな巨大な蜘蛛と化している。
そして──
「君……は……」
仮面で隠されていれど、何故かその面影には引っ掛かる部分がある。
大きく巻かれた髪、見透かしたような口調にも──
だめだ、やはりまだ記憶が定かではない。
あと少しなのに、靄がかかっているようだ。
「──それは貴方の夢(ユメ)だもの」
「──なに!?」
赤の女王が、口にしなかったはずの疑問に応える。
「これは貴方の夢、でもこれはわたしの観るユメ──胡蝶の夢を知っていて? これはどちらのユメかしら?」
鋳薔薇の鉤爪が床を削る。
「──けれどこれは“わたしのユメ”よ。“あなたはわたしのユメの中”。ユメの中で観る夢はいったいどんな夢かしら?」
「──往生際が悪いのではないか?」
黒騎士が赤の女王に剣を向けた。
──その剣は、何の変わりもないただの剣だった。
「あら、お言葉ねナイト様。それはまだ早計ではなくて?」
女王が蜘蛛の巣の玉座を昇る。
その中心には──
「あなたは“主役”をここまで引きずり出したつもりでしょうけど──生憎“彼”はまだわたしのものよ」
繭のごとく絡まった糸玉が、黄金の光を放つ。
「──“左門 ヤクモ、貴方はまだここで眠っているのよ”」
「──どういう事──」
ヤクモが黒騎士を見た。
「──“これは貴様の観る夢だ”」
「──“夢”!?」
「そうよ。わたしがここに閉じ込めた」
赤の女王が笑った。
「ある“不幸な事故”によって──貴方の存在が危ぶまれた。だからわたしは苦肉の策で、“人界”の外へ続く“門(ゲート)”を抜けようとする貴方をこの“ユメ”に閉じ込めた」
「だがそれだけでは貴様を留め置くことは出来なかった──消えかけた貴様自身を、どうにか立て直さない限りは、現世に送り返せない」
「──ちょっと待って、君たちは──」
ヤクモは、騎士と、女王と、互いに顔を見合わせた。
「──“我々は同じ目的で貴様をユメに捕らえたのだ”」
「──それは、“左門 ヤクモの救済(サルベージ)”」
だが、騎士は女王に剣を向ける。
──なぜ?
「それは互いに“価値観”の相違があったから」
「──違う。それは奴の利己的な“エゴ”が絡んだからだ」
二人の言葉が交錯する。
「いいえ、同じことよ。あなたもまた自らの“エゴ”で事を急いだ挙げ句にこんな悲劇を招いたのよ」
「かといって貴様のように日和見を繰り返し、永遠にヤクモを“手元に置く”などという選択は選び得ない!」
ヤクモはその言葉を疑った。
──赤の女王は笑みを返す。
「──彼はもうここに居る。彼を解放しろ」
「“それは出来ないわ”」
赤の女王が凄まじい殺気を放つ。
「……“いつか見たユメ”にも似ているわね……でもこれは違う、感情論の話じゃない」
「──何をッ」
「第一にあなた、今共にある“彼”が、“あなたのユメの産物でない”とする証拠はあるの」
──騎士が言い澱む。
「今、この状況は錯綜しているわ。わたしのユメ、あなたのユメ、それともヤクモのユメ──そして──こんなユメの縺れ合い(エンタングル)の中で、確かなものなど有りはしない」
「──それは──ッ」
「ただでさえ、わたしが用意したユメの元型(アーキタイプ)ですら、こんなにも侵食されてあなたですら取り急ぎの補強を纏わなければ存在を保てない状況じゃない。それはわたしも同じだけれど」
故に騎士は“演者”の“役割(ロール)”を纏う必要があった。
“物語”で自らの外殻(テクスチャ)を補強しなければ、変質した“物語”から弾き出される可能性があったからだ。
無論、ヤクモにとっては到底理解の及ばぬ話だ。
「そんな中で、左門 ヤクモを解放するのはあまりにも危険すぎる──彼は今や起爆装置の起動した核爆弾そのもの──いやそれ以上に危険なのよ」
「──え」
「──“だが彼は人間だ”!!」
騎士が剣を構える。
「──本当に──“あなたらしくない”」
赤の女王は、両手を前に突き出した。
そしてその指先に、“蜘蛛の糸”が輝く!
「ッ!!」
玉座の間に散らばっていた鎧兜がひとりでに集まりだし、二体の鎧騎士に組み上がると、凄まじい速度で二人に斬りかかる!!
「なッ!?」
「──貴様、ここで我々を退けて何とする……ッ!!」
同時に剣を防ぎ、鍔を競り合う!!
「決まっているわ。計画を元通り遂行するだけよ──」
赤の女王が指先の糸を手繰り、自在に鎧騎士を操る。
「“安全の確認が取れるまで、左門 ヤクモをこのユメに《封印》する”──安全対策(フェイルセーフ)も完璧よ」
「ふざけるな──それこそ貴様の私情ではないか!!」
「──“そうよ”──」
二人は鎧騎士に力負けし、後方へ吹き飛ばされる!!
「“だって、これはわたしのユメだもの”」
──床を割り、さらに数体の鎧騎士が出現する。
「目的は十分果たしているわ。その上で“わたしが好きなようにして構わないでしょう”!?」
「──貴様ァアアアア!!」
絶叫する黒騎士に、鎧騎士が殺到する!!
「──ッ!!」
ヤクモは咄嗟に、騎士の名を叫ぼうとした。
だが、その名を、彼は知らない。
「やるじゃない……彼から封じた《離断》の“権能(ルール)》を、《演者》の“役割(ロール)”の特性を使ってエミュレートするアイデアには脱帽したけれど」
「く……ッ!!」
「そうして《剪定》なんて“権能(ルール)”を捏造するなんて──例えユメの中とは言え、強力な“権能(ルール)”を制限つきでも行使する為に裏の裏をかくとは恐れ入ったわ」
黒騎士は徐々に圧されていく。
「──そうか!!」
ヤクモは騎士に向かって走る!
「──《鉄刀送尾》ッ!!」
「ッ!!」
《離断》の剣が、鎧を操る蜘蛛の糸を絶ち斬った!
「──あらあら、そうだったわね……失念していたわ」
ガラガラと音を立てて、鎧騎士たちが崩れ去る。
「実力行使は好みではないけれど──」
そう呟いた瞬間、蜘蛛の巣から赤の女王の巨体が“消えた”。
「──さあ、踊りましょう!!」
そして次の瞬間には、ヤクモたちの頭上に現れ、その巨体で二人を押し潰さんと迫る!!
「──くッ!」
二人は鋳薔薇の脚の隙間に辛うじて逃げ込むが、落下の衝撃で壁にまで吹き飛ばされる!
「──“瞬間移動”!?」
「言ったはずよ、“これはわたしのユメだもの”」
赤の女王が不敵に笑う。
「このユメではわたしが女王──さあ捕らえたわ。赤の女王がお怒りよ?」
少女が指を回す仕草をした瞬間、ヤクモの身体に蜘蛛の糸が巻き付いた!
「ではそのままご退場くださいまし──」
「ッ……はぁッ!!」
《離断》の剣が光り輝き、蜘蛛の糸を断ち離す!
「あらいけない──わたしは学習しないわね」
「────!!」
他方から斬りかかった騎士の斬撃を、赤の女王は蜘蛛の巣の盾で防ぐ!!
「“権能(ルール)”を失ったあなたに勝ち目があって?」
「クソッ──!!」
「“英雄”でも演じているつもりでも、あなたにその“演目”は似合わなくてよ」
強靭な蜘蛛の糸が、空中で騎士の身体を縛り上げる!
「騎士さんッ!!」
ヤクモは剣を構えて囚われの騎士に向かうが、鋳薔薇の脚がそれを阻む!
「──取り上げたはずの鋏を振り回す貴方は悪い子ね……お仕置きをしてあげる」
「ぐゥッ!!」
蜘蛛の脚の一撃を剣で防ぐが、凄まじい力にヤクモはまたも跳ね飛ばされる!
「──わたしの想いも知らないで──」
構えた指先に蜘蛛の糸が輝く──
「“わたしの想いも知らないでッ!!”」
糸が鞭のごとくしなると共に、ヤクモの背後の脊柱が無惨に斬り刻まれる!!
「そんなのアリかよッ──!」
どうにか騎士を解放しようとヤクモは奔走するが、赤の女王は神出鬼没の転移でそれを阻む。
「“ユメ”は、終わらないわ」
再び鎧騎士が再構築され、ヤクモに波状攻撃を仕掛ける。
「“貴方を閉じ込めるだけの理由があるもの”、このユメは簡単に終わらせられない」
「ぐ、あぁッ!!」
「それにね、このユメにわたしは“終わり”を定めてはいないから──結末は永遠に訪れない」
ヤクモは苦戦を強いられる!
「“招かれざる結末”さん、あなたが物語を打ち切りでもしない限りはね」
「──じゃあ、やってみせようか!」
「無理よ。このユメは貴方のユメでもあるのだから──それを断ち斬ることが貴方にできて?」
蜘蛛の巣の玉座に、四枚のタペストリーが飾られる──
それは、黒騎士が剪定した、あの夢の一幕。
蜘蛛の糸で繕われた、ヤクモが“夢見た”一幕の再現。
「──貴方は甘いユメに包まれていればいい──それで──いいの──」
──女王の表情に影が落ちる。
鎧騎士を操る糸が緩んだ瞬間、ヤクモは活路を見いだし、その支配を“離断”する!!
「──走れ、ヤクモ!!」
「ッ!!」
吊られた騎士が叫ぶ!!
「これは“夢”だ──ならば“目覚めよ”!!」
「──あなたは口を挟まないでッ!!」
「“夢をユメで終わらせたくないのならばッ!!”」
──その言葉に、ヤクモは応えた!!
走る、走る、走る、走る!!
この夢の“源”へ──蜘蛛の巣の玉座、自らが捕らわれる輝く“繭”へ!!
「──何をしようと言うの──止めなさい!!」
赤の女王が狼狽する!
「それは“貴方”よッ、“自分を斬る”なんてとんでもない!!」
「──いいや、僕はこの“夢”を“離断”するッ!!」
走る、走る、走る、走る!!
「この“夢の向こうに”──“待たせてる人がいるから”──ッ!!」
「嫌あぁぁぁぁぁ──────ッ!!」
「──役割(ロール)は──《流者》ッ!!」
ヤクモの剣に光が集まる。
「──権能(ルール)は──《離断》ッ!!」
そして光は彼の往く道を照らし出す!
「──我が“ヤクモ”の名において“銘”ずる──出でよッ──」
蜘蛛の巣を駆け登り、高く高く跳躍し、ヤクモはその“剣”を降りかぶる!!
「──《鉄刀ッ、送尾》いぃぃぃぃぃぃぃぃ────ッ!!」
一閃、と共に、眼前に光が広がる。
そのなんと穏やかなこと。
悪夢に魘され、目覚めた瞬間の安堵にも似た感情が、ヤクモの身体を突き抜けていった。
『──“愛”──』
何者かが、語りかける。
『──“愛”とは、なんぞや──』
蓮華のように広がる波紋の中心に、誰かの人影が見える。
『──それは魔羅の見せる幻想か──あるいは種の保存に係る本能、けものの名残か』
光に包まれた、その人物はあまりに遠い。
かろうじて人の形をしているということしか、ヤクモにはわからない。
『なぜ“愛”はある──それ故に人は苦しみ、それ故に人は狂う。だがそれ故に人は生き、それ故に人は輝く』
蓮華座の中心の人物は、思惟を延々続けている。
『あるいは末法の世、この生き地獄の中にあって、生きてゆかねばならぬものが孕む“狂気”の方便か』
「……」
『救いなき者がそれでも生きるために夢想する幻想、その狂気を“愛”と呼ぶのだろうか──』
光の人物が顔を上げる。
『──“そうであってたまるか”──そなたはそう想うのであるな──』
「──えっ」
『先に繋がらぬものよ、流れ流れゆく者よ──それでもそなたは、繋げてゆくのだな──』
蓮華座が一層輝く。
その光がヤクモを包む。
『幸いなれ地涌の菩薩よ。祈り、祈り、祈り続けよ。そなたの生き様こそが祈りなり──』
「────」
『我は未だ思惟せり。“救済”とはなんぞや、“愛”とはなんぞや──』
──“菩薩”が、光に消えていく。
そして、それすらも曖昧になり、ヤクモは──
「────────!!」
《鉄刀送尾》が、“赤の女王”を両断する。
「……ッ!?」
玉座の“繭”を庇おうと転移したのだ。
だが、その《離断》の力は、赤の女王の願い虚しく、“繭”を真っ二つに切り裂いた。
その中には──彼女の“夢”が、詰まっていた。
「あ、あ──」
蜘蛛の半身と分かたれた少女の半身が、無念の表情でその様を見る。
“空っぽ”の繭から、夢色の蝶が舞い飛んで消える様を。
「──わたしの、ユメが──」
──少女の半身は蜘蛛の巣に引っかかり、ニ、三度転げて床に落着した。
「──!!」
着地したヤクモが、少女に駆け寄った。
「……!!」
「──結局、わたしは自分のユメに溺れてしまったというわけね──」
抱き起こされた少女の顔から、仮面が剥がれて地に落ちた。
その顔を、ヤクモは、知っている。
「────」
「けれど、貴方を助けたかったのは本当。貴方が危険な状態にあったのも──それにかこつけて、貴方を捕らえたのも本当よ」
少女は青ざめた顔で笑みを返す。
「──何故」
「それがわたしの仕事だから。でも、役得を甘受しようとしたのも本当」
「……」
柘榴石色に輝く瞳が、ヤクモを見据える。
「だからこれは自業自得よ──ユメは醒めなければいけないの」
少女が、手を伸ばす。
その鉤爪に飾られた手が、ヤクモの丸い頬を撫でる。
「──ねえ、このユメが醒める前に──ひとつだけお願いを聞いて頂戴」
「……なんだい」
「貴方に──受け取ってほしいのよ──」
そしてその瞳が妖しく輝く──
「わたしの想いを──」
鉤爪が鋭く輝く──
「──この身を焦がす“毒”を込めた“提婆達多の爪”を!!」
「!!」
「────」
ヤクモは、恐る恐る瞼を開く。
「──!!」
そこで見たのは──本来、自分が居たはずの場所で、女王の爪に貫かれた黒騎士の姿だった。
「なん、で──」
「言ったのは貴様ではないか。“これはわたしのユメだもの”と」
渾身の一撃をしくじった女王は、無念の表情のまま貌(かたち)を失って消失した。
「──ッ」
もうもうと黒い煙を立ち上らせながら、騎士が仰向けに倒れる。
「騎士さんッ!!」
転移されられたヤクモが今度は黒騎士に駆け寄った。
「そういうワンパターンなところが大根なのだ、貴様は」
毒に侵され、脆くなった兜が崩れ落ちる。
「──あ──」
その中から、美しい金色の長髪が、月明かりに照らされて溢れ出した。
「──少なくとも落とし前はついた。これにて終劇とあいならん──」
“女”は不敵な笑みをヤクモに向ける。
その瞳はサファイアの輝きを秘めていた。
「……“ア──”」
「やめろ、この姿でその名を呼ばれたくはない……」
傷口からもうもうと煙が立ち上る。
その傷はもはや内臓に達しているようだった。
「──わたしの目的は一つだった。けれど、どうしても私情が抜けきれなくて……ユメを制御しきれなくなり、わたしたちは“分かれてしまった”」
「赤の女王と、黒騎士は……」
「故に互いに知りうる物語の配役を演じることで存在を保つ必要があった。それが重ね重なって何者でもなくなってしまったがね」
女の顔が苦痛に歪む。
「──構うな。貴方の想いを愚弄した。その罰にしては軽いものだ──」
「……あ」
鈍い轟音とともに、“白い門”が閉じていく。
「……わたしが仕組んだこととは言え……“羨ましくなってしまった”んだ」
「──え」
重い振動と共に、“門”は完全に閉じてしまった。
「さあ、ユメの終わりだ。これ以上この恥ずかしい姿も見られたくはない」
神殿が、夢が、解れていく。
「ア──」
「さらばだ大根役者、せいぜいプロポーズの時までには腕を磨くがいい!!」
光の奔流に飲み込まれ、騎士の姿はバラバラに崩れて消えていった。
そして────
──ヤクモはうたた寝から目を覚ます。
「……いてっ」
伏していた机から頭を上げようとして、何かが頭上に降ってきた。
それは一冊の古びた文庫本。
“ライ麦畑でつかまえて”、というタイトルが記されていた。
たしかヴォーロスが読んでいた本だ。
少なくとも自分が読むような本ではない。
「……」
ようやくヤクモの意識が晴れてくる。
身を起こして、周囲を見渡す。
そこは古めかしい図書館のようだった。
自分が座す席の周りには、無数の文学書が散乱していて足の踏み場もない。
少なくとも、自分が読んでいたであろう本ではない。
シロウに付き合って着いてきた先で寝てしまったのだろうか。
……よくよく考えれば、こんな立派な図書館が東京にあるのかということすらヤクモは知らない。
なぜ、自分はこんな場所に……?
眠い目を擦りながら、ヤクモは立ち上がる。
散乱する本を避けながら、人影を探して辺りを見渡す。
──誰の姿も見えない。
リョウタも、ケンゴも、ここには居ない。
ただ、長いこと、誰かと一緒だったはずなのに。
ヤクモはそれが思い出せない。
「──」
ふと、振り替えると、あれだけ散らばっていた本が一冊も見当たらない。
代わりにヤクモが座していた席には、黄色い花弁の並んだ花木の枝が一本添えられていた。
──微かに何かが聞こえてくる。
それはヤクモの知る音楽だった。
暖かな風に紛れて聞こえる懐かしさすら感じるリズムを、ヤクモは耳を澄ませて追っていく。
重厚な造りの階段を登り、眼前に現れた硝子戸が微かに開いているのを見つけた。
「──」
ヤクモはその戸をゆっくりと開き、バルコニーへと足を踏み入れる。
『……ma-ia-hi……ma-ia-hu……』
軽快なリズムに合わせて、軽やかな男性ボーカルのコーラスが聞こえてくる。
先ほどまでの荘厳な雰囲気にはあまりにも似合わない、俗にまみれた楽しげなメロディ。
『……ma-ia-ho……ma-ia-ha-ha!……』
ヤクモは、その歌を知っている。
何年も前に流行った海外の曲で、誰もがその聞きなれない言葉を面白がって口にしたものだ。
「……」
ヤクモが怪訝な顔をしたのは、それを聴いている少女が、そんな俗っぽい曲を楽しむような相手だとは微塵にも思えないからだ。
他人の趣味をとやかく言うつもりは毛頭無いが、それにしてもその組み合わせには目を疑う。
肝心の少女はと言えば、テーブルの対面に兎とおぼしき継ぎ接ぎのぬいぐるみを座らせて、レトロなラジカセから流れてくる嘗ての流行歌に足を揺らしてリズムを取り、その一方で優雅に紅茶の薫りを楽しんでいる。
その向こう側。
ヤクモが見飽きたあの白い門が開き、その先には何処かへと階段が続く。
横には見知らぬ花木が無数の小さな黄色い花をつけていて、仄かに香水を思わせる甘い香りが風にちぎれて踊っていた。
「──そうそう悪い曲でもないわ。わたしの趣味じゃないけれど」
所謂ゴシックロリータ趣味のドレスに身を包んだ少女は、ヤクモが疑問を投げ掛ける前に自らその感想を述べた。
「あなたの記憶の書架に残っていたのよ。あなたの道標にするために持ち出してきたの」
「……」
「夢の果てへようこそ、お寝坊の旅人さん」
アリスはサファイア色に深く輝く妖しい瞳をヤクモに向けて微笑んだ。
「……あら、あなたカカシになってしまったの? 席ならひとつ空いているわ」
呆然と立ち尽くすヤクモに、アリスが着席を促す。
「──ここでいいよ。お茶会の邪魔しちゃ悪いし」
ヤクモはそう、肩を竦めて微笑んだ。
「……わたしの苦労も知らないで良く言うわ。別にいいけれど」
その態度を軽く鼻で笑ってから、アリスはラジカセの電源を切る。
門の向こう側から、微かに微かに鐘の音が響いてきていた。
「……あなた、とんでもないことを起こしてくれたのよ。あなたの所為ではないのだけれど」
アリスはヤクモに向けて座り直し、氷の様な視線を向けた。
「──もう済んだことだから、端的に言うわ。あなたという人間のあり方が──とんでもないものと重なってしまった。門(ゲート)を通じてね」
「そう言われても」
「ええ……これは“運営”も意図しなかった“例外処理”よ。二十三の異世界、二十四の神話の枠に含めていいかもわからない、四十六億七千万年後の未来の神仏とあなたが繋がるなんて」
ヤクモは呆然とした。
「……はい?」
「とんでもないスケールの存在よ。通常なら“門(ゲート)”を通ってこれる様なものではない……人類が願う“救済”の概念」
呆れたような口調でアリスはその名を口にする。
「そうね……“弥勒菩薩(マイトレイヤ)”とでも呼びましょうか」
「……」
「仏陀入滅後、四十六億年の時を経て一切衆生を救済のするもの……“救者”の役割(ロール)をもつものが、“流者”であるあなたに重なってしまった……この東京でのあなたのあり方がそうだったのでしょうね」
アリスはトパーズ色に変わった瞳でヤクモの顔を見る。
だがヤクモにとっては“そんなこと言われても”と顔に浮かべていることしかできない。
「“救者”の“役割(ロール)”そのものは、他にも持っている者はいるけれど……あなたとの“組み合わせ”が奇跡的に良くなかったのよ。あなたには“救者”の“役割(ロール)”が上書きされ、そしてその“権能(ルール)”に基づいて、すべてが“救済”される……でも考えてみて」
アリスは再び、ヤクモに着席を勧めた。
“あ、話が長くなるんだな”と察したヤクモは、促されるままに席に座る。
「“弥勒菩薩”は、四十六億年先の未来に在る仏なの──それは、その仏のあり方に組み込まれた“理(ルール)”、だから、弥勒菩薩の顕現はそれに伴い、地上の時が四十六億年分、いっぺんに進むことに等しい」
「……それ、大丈夫なの?」
「大丈夫なわけがないわ。今生きている人たちが四十六億年先まで生きていると思って?」
アリスがルビー色に燃える瞳でヤクモを睨む。
それを誤魔化そうとしてヤクモは紅茶を一口すすり、その熱さに小さく声を挙げた。
「──それに気づいた“運営”が、緊急的にあなたと弥勒菩薩との切断を決定したわ。でも、そう簡単なことではなかったの」
アリスは一息ついて、深く瞼を閉じる。
再び開かれた瞳はエメラルド色に輝いていた。
「幸いだったのは、あなたが《流者》の“役割(ロール)”と《離断》の“権能(ルール)”を持っていること……わたしは、それを利用した」
「……利用」
「《流者》の特性をループバックすることで、上書きされかかっているあなたの“役割(ロール)”を補強したの。同時に、《救者》が求める《救済》の役割(ロール)の力が抑えきれなくならないように、“救済を必要とする世界”の夢を創り出して、擬似的な処理を行わせたのよ……あなたのお陰であまりにも蔵書を使いすぎたわ。最後のあたりではもう形振り構ってられなかったの」
それが、あの散乱した本の理由だろう。
この図書館はアリスの見せた夢なのだ。
「問題はそれだけじゃなかった。あなたをその“夢幻地獄”から引き揚げるためのエスコートが必要だったの。放っておけばあなたは“救者”になってしまう……だから、あなたを“あなたとして”救済できる別の人間が必要だったのよ」
「……それが」
「……あなたが覚えているのは、あなたをちゃんと“あなた”に引き留められた人達との夢だけ。それ以外の人たちでは、あなたを救済できなかったか、あるいはあなたと一緒になって“世界”を救ってしまったのでしょう。あなたの日頃の行いを見れば、そんな人も少なくはなかったでしょうね」
再びヤクモは困惑の表情を浮かべる。
そんなことを言われても。
「それが“あなた”のために良くなかった。その事実があなたに《救者》としての“役割(ロール)”を強制してしまうから……ある種の賭けではあったの。誰か一人でも、あなたを“人界”に繋ぎ止めることができれば、あなた自身の《離断》の“権能(ルール)”でなんとかすることが出来るはずだと」
想像していたより行き当たりばったりな作戦だった。
よく戻ってこれたものだとヤクモは胸を撫で下ろす。
「──そして“夢幻地獄”を経て、あなたはここに辿り着いた。最後には“わたしの問題”に巻き込んでしまったけれど……許して頂戴。わたしですら“救者”の物語に呑まれかかってしまったのよ」
アリスは深く瞼を閉じたままそう告げた。
「……もう大丈夫。“救者”と“あなた”の救いは最早、決定的にかたちの異なった“救済”よ。彼は未来に還ったことでしょう」
“白い門”が、ゆっくりと閉じていく。
「“仏界”に至る門も閉じたようね。おめでとう、あなたは“人界”に留まった」
「……あ、そう……」
他人事のようにヤクモは呟く他になかった。
実際、彼自身もただ成り行きに巻き込まれただけに過ぎないのだから、それは仕方ないことかもしれない。
「……ねえ、アリス」
「なによ」
アメジスト色の瞳でヤクモを見る。
「シロウや、ケンゴ、リョウタ……“サモナーズ”のみんなのこと、思い出せなくなったのは、なんで?」
「──あなたから色々な記憶が失われたのは──いいえ、実際には失われたわけではなかったの。“すり替わってしまった”だけよ」
「すり替わる?」
アリスは少し思慮して答える。
「──弥勒菩薩にも“記憶”があるわ……あなたが“救者”に近づくに伴い、近しい人たちから順に、あなたの記憶が“弥勒菩薩”の記憶に差し変わった。だから、彼らの協力を得ることは出来なかったの。あなたの記憶から彼らに繋がるものがすり替えられてしまったから」
「じゃあ……他の友達のことを覚えていたのは? 弥勒菩薩に友達が居なかったから?」
「バチが当たるわよ、あなた」
ヤクモは早速、ティーカップを持つ指を滑らせかけた。
「──でも、案外、的を射ている所はあるのかもしれないわね」
「?」
「……あなたが勝手に“友達”だと思っていただけで、弥勒菩薩が知らない“何か”が、彼らにあったんでしょう……」
アリスはヤクモから目を反らし、兎のぬいぐるみを遠い目で眺めた。
「世界よりまず、“あなたを救いたい”と思えるほどの、“何か”がね……」
「……」
ヤクモは、口に運びかけたカップを戻した。
「……アリス」
「なによ」
「──ありがとう」
ヤクモの感謝の言葉には、どうしようもない切なさが色濃く現れていた。
「……これは夢、ぜんぶ幻。目が覚めれば、忘れてしまう」
ヤクモから目を背けたまま、アリスは続けた。
「ひとときの夢……菩提樹の下の恋──そういうことに、しておくの」
「……」
深く目を閉じるアリスに、菩提樹の甘い香りが届く。
美しく花を香らせ、短く儚くそれを散らす。
それは時に実らぬ恋に例えられた。
彼女自身も認められらない、いや、認めてはならない、その一時の恋を、夢まぼろしとして忘れてしまうことを彼女は望んだ──
「……きゃッ!?」
ふと瞼を開いたその眼前に、ヤクモが仏頂面で見つめていた。
「なッ、なによッ!?」
アリスは即座に瞼を閉じた。
ああ、今、わたし、どんな眼をしていたんだろう。
「──綺麗な色だね」
「っ!」
想定していないその答えに驚いてもう一度ヤクモの顔を見返してしまい、アリスは即座に顔を覆う。
「なッ、なによぉッ、捻じ切るわよッ!!」
アリス相手に初めて一本取ったヤクモが、したり顔で笑みを返した。
「──はぁぁぁッ……」
顔を赤らめたまま、アリスは大きなため息をひとつ吐く。
再び顔を挙げた時、その瞳の色はスピネルより真っ赤な怒りの色に染まっていた。
「──まあいいわ。か弱い鼠の子守りはうんざり。さあ、何時まであなたは寝ているつもり?」
アリスが澄まし顔でそう唱えると、対面に座す兎のぬいぐるみがスクッと立ち上がる。
「えっ」
「──六道輪廻を知っていて? 人界の下には修羅界があるの。目覚めた先に修羅が待ち構えてたらどうしましょうね。八方美人の四面楚歌はさぞかし愉快に見えましょう」
芝居がかった手振りで語るアリスを気にも留めず、兎はスタスタとバルコニーの先へ進んでいく。
「え、えっ」
「二兎を追うもの一兎も得ず、なんて言葉もあったかしら。さてさて、他人の修羅場は蜜の味、どれほど甘美なものかしら?」
軽く準備運動を済ませた後、兎は見事なフォームでバルコニーの下へとダイブしていった。
「お、おい、アリス!?」
「では千夜一夜の物語、今宵はここまでと致しましょう!」
突如、バルコニーが地震の如く揺れ出した。
ヤクモは半ば転げる様にして、バルコニーの下を覗き込む。
「っえぇぇぇえッ!?」
その階下。
螺旋階段で繋がる幾つもの層を、縫われた口を引き裂いて巨大な兎のぬいぐるみが租借する。
「これは、ユメ」
餓鬼界。
「ぜーんぶ、マボロシ」
畜生界。
「そういうことに、しておくの!」
修羅界までも噛み砕き──
「……ね、色狂いの三月兎(マーチヘア)──」
「うわあああああああああ────!?」
「……」
窓から差し込む朝焼けを浴びて、ナイトウエア姿のアリスはベッドからゆっくりと身を起こす。
ひとつ、小さく欠伸をして、傍らに横たわる三月兎のぬいぐるみを手に取り、抱き締める。
ひとつの夢の終わり。
数多の夢を知る夢使いの“役割(ロール)”にあって、久方ぶりに覚えた感傷だった。
「……ふぁぁあ……」
ベッドの下で、大きな毛むくじゃらがもぞりと動いた。
「……んぁ、アリス、おはよう」
朗らかな笑みを浮かべた熊獣人の顔に、三月兎が直撃した。
「痛いぃッ、なんだよォアリス、藪から棒にいぃ」
「おはようじゃないわよ。わたしはあなたに何を命じたか覚えていて?」
アリスは跳ね返ってきた三月兎を拾い上げ、ベッドの上に仁王立ちした。
その瞳の色はパライバトルマリンよりも冷たい。
「ちゃ、ちゃんと寝ずの番してたんだよォ、アリスが緊急事態だって言うから……」
ジャンバヴァンはそう口を尖らせた。
「なのにアリスはいきなり僕のベッドで寝ちゃうし……でもちゃんと、見張りは続けたよ!」
「あらそう……」
「でもやっぱり、暖かくなってくるとやっぱり眠たくなって来ちゃうねえ……でも、寝ちゃったら怒られるから、ちょっと目を瞑って頭スッキリさせようとして……あれれぇ?」
ジャンバヴァンの記憶はそこで途絶えていた。
「ねぇジャンバヴァン、わたし言ったはずよね……夢の国に行く間、無防備になるわたしを護る衛士(ビショップ)になりなさいって」
「だっ、だから、ちゃんと寝ずの番してたんだよう……! でも……ん……あれれぇ……?」
「誰も寝てはならぬ、誰も寝てはならぬ、誰も寝てはならぬッ!」
トゥーランドットを三度唱えながら、アリスは三月兎の片足を掴んで三度ジャンバヴァンに振り下ろした。
「痛いッ痛い! また千切れちゃうよォ、もっと大事に扱わないと!」
「これはわたしの大事な三月兎からの愛の鉄槌よ! なんの為にわたしがわざわざあなたの部屋まで忍び込んだと思ってるのよ……わたしの苦労も知らないで……」
気が済んだのか、アリスはベッドに腰かける。
「もう二度とやらないわ……特にスーパーハッカーとかわたしの趣味じゃない……」
「な、なんのこと……?」
「あなたの知る必要のないことよ」
三月兎を抱きかかえながら、アリスはラピス色の瞳で上目遣いに睨みつつ、ジャンバヴァンに言い放った。
「さて……他のひとたちが起きてくる前にわたしはここから逃げ出さないと──」
パジャマ姿のジャンバヴァンはどうしたものかと呆然としていた。
「……なによ」
「なによって……なによ」
「なによじゃないわよ、あなたレディの着替えをそこで見ているつもりなの!? はやく出ていって頂戴!」
またも三月兎を振りかぶるアリスの姿に怯え、ジャンバヴァンは慌てて自室のドアから飛び出した。
「──ここ、僕の部屋なのにぃ……」
そこは、ジャンバヴァンの暮らす飢野学園の学生寮。
アリスはジャンバヴァンの部屋を勝手に自らのセーフハウスとして利用していた。
ヤクモに見せた夢幻地獄に自ら介入するために、脱け殻になる自らの身体をジャンバヴァンに護衛させるつもりで忍び込んで来ていたのだ。
「──今日のアリスは、なんだかいつもに増して機嫌が悪いなあ」
「──ねぇ、ジャンバヴァン」
「はいぃぃい!?」
ドアの向こうで唐突にアリスが尋ねた。
「……あなた、今朝はどんな夢をみて?」
「──えっ、とお……」
ジャンバヴァンは少し考えて答える。
「……忘れちゃったけど、なんだかすごく長くて──でも、楽しい夢だったような、気がするよ」
「──そう」
応じたアリスの声は、不思議と穏やかだった。
「それなら、いいの」
ヨウルが珍しく寝坊をしたのは、その日の夢があまりにリアルで、あまりに切なく、ただ終わってしまうにはあまりに惜しい夢だったからだ。
普段の日曜なら朝の七時には目覚め、サンタスクールの周囲を一時間ほどジョギングし、シャワーで汗を流してさっぱりとした面持ちで食堂に向かっているはずが、今日は二時間も目覚めるのが遅かった。
『ばいんばいんばい──ん!!』
『そこまでだ、サンドイッチ怪人・バインミイ!』
部屋に備え付けのテレビから小さく、特撮番組の音声が聞こえてくる。
ヨウルは知っている。
これは寮の同居者にとって大切な日曜朝の儀式なのだ。
『ばいんばいん!? 一体何者だミイ!?』
『悪人に名乗る名前などない! ……と言いたいところだが!』
どうやらヨウルが寝ていたのでそれなりに配慮したつもりらしい。
『特別に教えてやろう!』
「特別に教えてやろう!」
──だがその配慮も限界を迎えた。
まるで少年のように目を輝かせて、筋骨隆々の巨体が即座に立ち上がる。
『日輪に愛され! 大地にのさばる悪と戦う、正義の使者!』
「日輪に愛され! 大地にのさばる悪と戦う、正義の使者!」
──今朝もそのタイミング、声の音程まで見事なまでに一致した。
『蒼穹戦士ッ!! サ────ン、ファイタ────ッ!!』
「蒼穹戦士ッ!! サ────ン、ファイタ────ッ!!」
──決めポーズも完璧に決まった、今日は良い日になりそうだ。
「ハーッハッハッハッ……」
「──おはようございます、先輩」
一連の儀式が完了したのを見届けてから、ヨウルはクランプスに微笑んだ。
「……ッ」
クランプスはしばらく唖然とした顔をヨウルに向けてから、顔を真っ赤にして静かにテレビの電源を切った。
「あッ、いいんですよ先輩ッ!? それ今やってるヤツでしょう!?」
「……しにたい……」
「気にしなくていいんですよッ、もうボク知ってますから! 誰にも言いませんからッ!」
ああ、余計なことをしてしまったかなと、ヨウルは後悔した。
──遅めの朝食を済ませたヨウルは、同居者が気兼ねなく休日を過ごせるようにと、何をするでなく新宿の街に出た。
よく晴れた空にうっすらと、中央公園へと降りていく“門(ゲート)”の淡い光が見える。
行き交う人はまだそれほど多くはない、静かで、穏やかな、いつもの日常がそこにあった。
まだ少し早いけれど、何もしないのであれば、一人で居るより友達の顔でも見に行くのも悪くない。
ポケットからスマートフォンを取り出して、ショートカットから複合アプリ“SUMMONS”を立ち上げる。
そして何気なしにリストから呼び出したのは、“左門 ヤクモ”の名前だった。
──そのとき、ヨウルの胸中に、妙な胸騒ぎが沸き起こる。
「……あ、もしもし、ヤクモ……?」
『……う、ひぐっ、ひぐっ』
通話に出たのは、ヤクモではない。
「も、もしもし、ヤクモ!?」
啜り泣く子供の声に、ヨウルはビデオ通話に切り替えた。
『うわああああああぁぁぁぁん、ヨウルううううぅぅ、あぎじゃびよぉぉぉ────!!』
『──ごめんね、キジムナーが大げさな事言うから……』
画面の向こうでリョウタが申し訳なさそうに微笑んだ。
「大ごとじゃないみたいで良かったよ……みんな今は渋谷にいるの?」
『マリアちゃんの伝で依々祇学園のミネアキ先生の所に来てるんだ』
『先生が言うには、状況そのものは特殊だが、状態自体は完全な“レム睡眠”……“夢”を見ている状態らしい』
隣に居たシロウにカメラが向いた。
『誰かの“権能(ルール)”の仕業と思うが……今のところ、ヤクモは無事だ』
『俺が揺さぶっても起きなかったのを無事って言うのもアレだけどよ……』
『むしろケンゴがヤクモの首折っちゃうんじゃないかってヒヤヒヤだったよー』
リョウタの話では、突然ヤクモが倒れたのは昨日の夕食前だと言う。
シロウが機転を効かせ、青山のマリアを通じて渋谷区の病院にヤクモを搬送し、ミネアキに診てもらったのだ。
部屋に居候しているキジムナーはヤクモが落とした携帯を預かり、万が一の時に学校と連絡が取れるよう、新宿で待機していたらしい。
そしてヨウルの電話を受けた所に繋がる。
不安に押しつぶされて話どころでは無いキジムナーから大まかな事情を聞き出したヨウルは、そのままリョウタへ連絡を取った訳だ。
『さっきミネアキ先生から、脳波にベータ波が見られると連絡があって集まったんだ。目覚めの傾向らしい』
『念のため、もう一日は病院に居ることになりそうだけどね』
「そっかあ、せっかくの日曜日なのに大変だったね……」
と、口にしてヨウルは思い立つ。
「──ねえ、これからお見舞いに行っていい? 本当はヤクモのところに遊びに行くつもりだったんだ」
『うん、ヤクモ喜ぶよ! ──起きてたらだけど』
「じゃあ、お邪魔しに行こうかな。あとで病院の住所、メッセージにもらっていいかな」
『オッケー、待ってるよッ』
最初は心配したものの、リョウタ達の様子を見てヨウルは深く安心した。
だが、なにかが胸の奥で引っ掛かる。
──そもそも、なぜ急にヤクモの顔が見たくなったのだろう。
「……?」
新宿御苑の傍らを駅方面に向かう道すがら、少し進んだ先でワゴン車が徐に停車した。
「──やっぱり、ヨウル先輩! せんぱぁーい!!」
窓から身を乗り出した小柄な猫顔の少年が手を振った。
「……シトリー君?」
ヨウルは車に駆け寄った。
「ホントだ、よく見つけたねえ」
「へへッ、あのツノは流石に見間違えないよ」
窓を覗き込むと、シトリーの隣でハンドルの握るのはヴォーロスだった。
「やぁヨウルくん、元気? 光合成してる?」
「メリークリスマス、お久しぶりです、ヴォーロスさん」
「……相変わらずだけどもうちょっと会話噛み合わせる努力しない?」
ヤクモの共通の友人である、という以外に接点の少ない三人が、この広い新宿で顔を合わせると言うのはなかなか珍しいことだ。
ヨウルが見れば、ヴォーロスの運転するワゴン車にシトリーが乗っていることがまず珍しいことなのだが。
「ヨウル先輩聞いた? ヤクモ先輩の話」
そして示し合わせた訳でもなく、こんな話題が飛び出してくるのを誰が想像しただろう。
「えっ、う、うん、今偶然リョウタから……」
「そうなのかい!? ボクたち今、ヤクモのお見舞いに行くところだったんだよ?」
「えぇッ!?」
三人とも目を丸くした。
こんな偶然、あるのだろうか。
「オイラ、ケンゴ先輩から今朝聞いて……ヤクモ先輩とこに遊びに行くつもりだったんだけど」
「ボクは今朝、アステリオスくんとヤクモの話になって……あ、彼のところに、試作した肥料を届けに行ってたんだ。彼も畑持ってるから」
虫の知らせ、とでも言うのだろうか。
「それで、ヤクモに電話したらキジムナーくんが……」
「あ、ボクもだいたいそんな流れです……」
三人は顔を見合わせる。
「──とりあえず、ヨウルくんも乗って行くかい? ちょっと土臭いけど……」
「あ、はい、じゃあお言葉に甘えて……」
妙な空気になりつつも、成り行きでヤクモは後部の扉を開く。
「──ひゃッ!?」
「あッごめんっ、座れるかい!?」
ワゴン車の後部は、大量の花束で埋め尽くされていた。
「ヴォーロスさん、こんどは花屋さんになるの……?」
「そ、それ、アステリオスくんがヤクモに持ってけって押し付けてきたんだ……彼もお見舞いに誘ったんだけど、自分が行くと迷惑がかかるとか言うから……」
「あのひともそういうとこ“硬派”だよなぁ、ただこの花はやり過ぎ……」
ヨウルは花を避けつつ、重い鞄を──それでも、いつもに比べれば余分なものを省いて少しは軽くなった鞄を下ろし、角を擦らない様に気を使いながら車に乗り込んだ。
「それで途中、歩いてたシトリーくんを見つけて、話聞いたらヤクモの所行くって言うからそこで拾ったんだ」
「そしたらこんどはヨウル先輩だろ、ヤクモ先輩ってなんかそういうとこあるよな……人を寄せるって言うか」
「あはは、確かに」
「ベルトしたかい? じゃあ、行くよ」
三人の獣人と、満載の花を乗せたワゴン車が、渋谷に向けて走り出す。
「ヴォーロスさん、車運転できたんですね……」
「学校の車だけどね。作物を他の学校に卸したりしてるから、その搬入に使うんだ。顧客はほとんど代神山学園の青山ギルドだけど、神宿学園やサンタスクールにもたまに卸してるよ」
ヴォーロスの大きな身体に運転席は手狭そうに見えた。
『──代神山学園芸能コースがお送りするOrdinary Sunday! 5月担当パーソナリティ、みんなのジブリールちゃんとッ』
『あっ、助っ人パーソナリティのマリアです。午後も宜しくお願い致します』
カーラジオから溢れる軽快な音楽が、この奇妙な三人の間に流れるこれまた奇妙な空気感を和らげる。
『もうマリアったら、助っ人パーソナリティとは言えもっとかわいく挨拶しなさいよぉ』
『だ、だってわたし芸能コースじゃないから……あっ、お便りのコーナー始めなきゃ! ジブリール、お願いね』
『はいはーい、では午後一番目のお便りいっちゃうゾ☆ 新宿区のラジオネーム“ハードボイルド探偵N”さんから』
「──ぶふっ!?」
思い当たるその名前にシトリーが怪訝な顔をする。
『“5月担当ジブリールさん、マリアさん、いつも楽しくラジオ拝聴しています”、ありがとー☆』
『あ、ありがとう……☆』
『“さて僕は今限りなくお金がありません。最近は具なしのパスタに塩コショウだけかけて食べています──”』
「ダメだなぁそんな食生活。パスタを茹でる時にキャベツも一緒に刻んで茹でればビタミンも──」
「ヴォーロス兄ちゃん静かに」
「あとでレシピ教えてください」
止まらなくなる前に二人が同時にヴォーロスを制した。
『“探偵業も長くなりましたがなかなか依頼が集まらず困っています。はあ、お肉が食べたい。牛丼が食べたい。なんならハムでもいい。もしこのお便りが読まれて、困っている人が居たら、是非新宿駅の掲示板にXYZと書き込んで──”……新宿駅に掲示板ってあったっけ?』
『電光掲示板のことかしら……ともかく探偵Nさん、炭水化物ばかりの食生活は身体に良くありません、お肉やお野菜も、ちゃんと計画的に使ってお腹の満足する食事をしないとどんどん余計なお金を使ってしまいます!』
『ま、マリア?』
『お肉が高くてダメでも卵は日持ちしますし、安くてタンパク質も採れますから……缶詰とか出来合いのお惣菜ばかり買っているとすぐお金は無くなってしまいますよ。もやしとかも安く買えて良いですね! 茹でてよし、炒めてよし、もやしをうまく使って──』
「そう、もやしはコスパが最高なんだ! 水分がほとんどだけれど食物繊維が乱れた食生活で崩れたお腹の調子も良くしてくれるし、含まれるミネラルが鉄分の利用を促して貧血防止にも──」
「ヴォーロス兄ちゃん五月蝿い!」
「あとで効能教えてください!」
止まらなくなる前に二人が同時にヴォーロスを制した。
『あはは、な、生々しい節約術ありがとう☆ 顔に似合わず苦労してるのね……』
『こう見えて、私、結構頑丈なんですよ☆』
『人は見かけによらないって事だねー……でもなんだかこのリスナーさん、あたしの知り合いのような気がするわ……さて誰かしら……』
「知ってる、オイラそのひと知ってる……」
シトリーが小さく呟いた。
『そいつの顔思い出したらなんだかこの曲聴きたくなっちゃったな、ちょっぴり懐かしのナンバーいっちゃいますか!──』
「──そういえば、ちょっと変なこと聞いてもいいかな」
ヴォーロスがふと、口を開く。
『それでは一曲お送りしましょう、O-ZONEで《Dragostea Din Tei》!』
「……今日、ヤクモが夢に出てきたりはしなかったかい……?」
露店の店先に置かれたラジオから、懐かしの流行り歌が流れてくる。
春の暖かな風にも誘われて、街行く人々の心がほんの少しくすぐられた様に浮き足たつ。
原宿を行く少女の姿は、この街では特に奇異の目では見られなかった。
いや、むしろ、誰も彼女を見つけることが出来ないのだ。
人知れず、この世の奇異を、理不尽を、夢幻の彼方に追いやることが彼女の“役割”。
夢の中の少女を見つけることは誰にもできない。
でも彼はあの日、戦禍の新宿に彼女を見出だしたのだ。
そしてか細いその手を取って、混乱のなかを走り抜けた。
彼女にはその必要は無かったのに。
彼は、その優しさで、一人の少女を救ってしまった。
『──Alo...Alo...Sunt Iarasi Eu...Picasso, ──(もしもし、ぼくだよ、きみにいかれたピカソだよ)』
少女にはちゃんとわかっている。
その恋が実らぬことを。
ただ、一瞬のときめきが見せた、幻想に過ぎないことを。
『──Ti-Am Dat Beep, Si Sunt Vonic, Dar Sa Stii, Nu-Ti Cer Nimic─(電話を掛けてしまったけれど、きみに無理強いをするつもりはなかったんだ)』
ああ、だけど。
あのひとが見たわたしの瞳は、どんな色をしていただろう。
そう思うと、少しだけ胸がチクリと痛む。
「──これは夢、全部まぼろし──そういうことにしておくの」
少女は小さく、そう唱える。
「──ね、色狂いの三月兎(わたし)──」
初めての恋がそうして散っていく様を彼女はそう笑い飛ばし、春の空めがけて僅かに背伸びをする。
Vrei Sa Pleci Dar, Nu Ma, Nu Ma Iei
きみはぼくを残して行ってしまうんだろう
Nu Ma, Nu Ma Iei
ぼくを連れては行けないんだろう
Nu Ma, Nu Ma, Nu Ma Iei
ぼくを連れては行けないんだろう
Chipul Tau Si Dragostea Din Tei
面影を、菩提樹の下でのあの恋を、
Imi Amintesc De Ochii Tai
きみの眼差しを想い出す──
「菩提樹の木の下で」 -END-
最終更新:2020年03月07日 03:37