■維多利亞平台-Victorian Terrace- PM00:13
四方を高層雑居ビルに囲まれた吹き抜けの空間に、工事用と思しき広大なプラットフォームがクレーンアームに支えられたまま静止している。
丁度四方のビルを繋ぐ様に橋渡しされた二基のプラットフォームの上に更に鉄骨を渡し、その上に無理やり床を作ってテラスだと言い張っている。
“万華鏡皇華園”が誰かが捨て去っていったもので出来ているの言うならば、これもまた誰かが勝手に造り、捨て去っていったものなのだろう。
影になる四隅にプラットフォームの名残こそ残ってはいるが、大理石風の床板に所々生け垣まで誂えたそこは、気づかなければそれなりに美麗なテラスに映るだろう。
西側のビル壁面の超大型モニターには、何処かの無人のビーチの映像がエンドレスで流れ、夕方にはちゃんと日が沈む凝りようだ。
ただ、このテラスのベンチに座り、この映像を眺めているだけで時間が過ぎてゆく時もある。
――アレックスもそうやって、ただ呆然と海の映像を眺めていた。
ベンチにもたれかかり、ただ寄せては返す波を見つめる。
そうしていると、満たされない胸中の虚ろを忘れていられた。
なにをしても埋まらない、その虚しさを。
「――浮かない顔だ」
「――あ」
声を受けて、我に返る。
「久しぶり。覚えてなくても構わないが」
男は狼の顔をしていた。
体格の良いアバターに、日本の作務衣(サムエ)とか言う衣装スキンを適用している。
その名はこの男から教わったものだ。
「……前に逢った時も、こんな感じでしたね」
アレックスは微笑みを返す。
――男の名はグレイ・ロウ(灰狼)。
初めてこのブートレグ・サーバにやって来たニュービー・ビジターのアレックスに、最初にコンタクトした男だった。
自らを“おせっかい”と称すグレイ・ロウは、アレックスのアバターのセンスを見て即座に同好の士であろうことを理解した。
元々、好き好んでこのサーバの案内所的な個人領域を構えてフォーラムを主催しているような男ではあったが、その上でアレックスのことは気にかかったらしい。
灰狼喫茶房(Gray-Row Cafe)は、この維多利亞平台にグレイ・ロウが作ったフリーフォーラム・スペースだ。
ブートレグ・サーバでは特にまともな保守がなされている訳ではないため、こうして空き領域に勝手に住み着く輩というのも現れる。
グレイ・ロウも、滞在中は概ね自らのフォーラムで、訪れる相手の話し相手になることを好んだ。
もっとも、この歪んだブートレグ・サーバで好き好んでコミュニケーションを取りに現れる輩はそう多くはないわけだが。
「――前のと同じでいいか」
カフェの一席で、アレックスはグレイの饗しを受けている。
目前に置かれたトレイの上には、まるで陶器の実験器具のような小さな茶器が並んでいた。
「覚えているか怪しいですけど」
「まぁ俺の道楽だ、気楽に付き合ってくれよ」
茶盤の上に置かれた茶壺に、熱湯を零していく。
流れるように茶海、茶杯へと、同じく熱湯を注いで温める。
「前に逢ったときと、同じ顔をしていた」
「えっ……?」
「不安そうな、寂しそうな顔だ」
茶壺に注いだ湯は全て茶盤の中に捨て、改めて茶葉を入れ、並々と湯を注ぐ。
そして蓋をした上から、更に湯を零していく。
「良い思いはできなかったか?」
「……」
アレックスは言い淀む。
決して良い思いが出来なかったわけではない。
全て望み通りのはずなのだ。
――望み通りの、はずなのに。
「……どうしてか、虚しくて」
「……ふぅん?」
「好き放題できて、満足出来るはずなのに」
グレイ・ロウは他の茶器の湯を捨て、茶壺から温かい茶海へと茶を注いでいく。
「――この身体でなら、望みが叶うはずだと思ってました。現実(Boot)では、相手にしてもらえなかったし」
そしてまずは、背の高い聞香杯に茶を注いで、アレックスに勧めた。
「……それなのに」
「……ふむ、なるほどな……」
グレイは、細長い聞香杯から口の広い茶杯に茶を移して、小さな器に残る香気を楽しんだ。
アレックスもそれを見よう見真似して、茶を移した器を鼻に近づけ、息を吸う。
香ばしい香りが、胸に満ちていくのが確かに心地よかった。
「俺もわからんでもないよ」
「グレイさんが、ですか」
「そもそも、他人の話を聞きたくてこんなフォーラムまで開けてるのに、まともな奴は近づいてもこないからな」
ここで漸く、グレイは茶杯で唇を湿した。
それを真似て、アレックスも太い指で器用に茶杯を口に持っていく。
苦味の中に、確かな甘味と澄んだ香りが通り抜け、暖かな温度が胃の中に落ちてくる感覚に安らぎを覚えた。
「だがまぁ、期待していたのとは違うが、たまーに良い事がある」
「たまに、ですか」
「例えば、君みたいなのと出会う、とかな」
真っ直ぐなグレイ・ロウの視線に、不思議と居心地が悪くなり、アレックスは目を逸らす。
「ふん、悩める青年の苦い体験とか、俺じゃあもう味わえないものだからなぁ」
「……グレイさんはお幾つなんですか」
「少なくともしがない中年だよ」
そうはぐらかすグレイの態度に、アレックスは肩透かしを喰らったような気持ちになり、それを誤魔化そうと再び聞香杯を嗅いだ。
冷えた器に残る香りは、先程の香ばしさより華々しい香水のようだった。
「苦い体験なんて、したくないですよ」
「そりゃあそうだな、だが、何故か不思議とそれが恋しくなる時もあるのさ」
アレックスの杯が空いたのを認めて、グレイは茶海に残る茶で再び聞香杯を満たす。
「そう言うのを聞きたくて、ここを開いているようなもんさ」
「……再び味わえないものだから?」
「俺が若かったころ、誰かに吐き出したかったって思いもしたから、かな」
アレックスはやはり、グレイの真っ直ぐな視線から逃れるように目を背ける。
こうも真っ直ぐに見られると、まるでアバターを通り越して惨めな自分を透かし見られている様な気分になった。
「まぁ、快楽ってのは別にセックスだけじゃない。もう少し歳を取ればそれもわかるよ、多分な」
「多分……ですか」
「そのうちに、それを教えてくれる出会いがあれば、かな」
グレイは目を閉じて、杯の香りを楽しむ。
それと同じように、自分を面白がっているのだろうと、アレックスは感じた。
「――グレイさんにはあったんですか、そういう出会い」
「さてな」
再び、煙に巻かれた気分になる。
だがグレイは、その後にこう付け加えた。
「……それが上手く行かなかったから、俺はこうして出会いを待ち続けているのかもわからんね」
「……」
その言葉に呆然として、アレックスは無意識に聞香杯を直接口につけた。
あ、と小さな声を上げる目前の青年の表情に、グレイはふと笑顔を浮かべていた。
最終更新:2021年01月07日 03:50