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万華鏡皇華園_05:Guru Meditation

■蜃気楼湾-Mirage Bay- AM04:48

――彼はいつも、物思いに耽っている。

明け方の蜃気楼湾の空が白むころ、エヌ・イー・エスはひとり、物思いに耽っている。
否、正確にはエヌ・イー・エスは三人組だ。
レトロ・ゲームデッキをそのまま頭にした少年の周囲には、必要に応じてドットアートのキャラクター三人組が飛び出してくる。
その姿は気分で変わるが、概ね青色をしているのがエヌ、緑色をしているのがイー、赤色をしているのがエスで、その三人組が操縦しているゲームデッキ頭の少年を指してエヌ・イー・エスと呼ぶそうだ。
便宜上、アバターのモデルから“彼”と呼称しているが、どのみち元の性別は誰もわからない。

エヌ・イー・エスは喋らない。
なぜなら頭がゲームデッキなのだから。
コミュニケーション必要とする場合は基本的にエヌがスポークスマンとして前に出る。
場合によってはイーやエスも出てくるが、付き合いきれない相手は概ね彼をエヌと呼称している。

――無論これは、このアバターの持ち主が“そういう設定で”相手に強要しているロールプレイだ。
決して一つのアバターを三人が共有しているわけでも、三重人格であるわけでもない。
エヌ・イー・エスはただそういう夢見がちな人物で、そういう近寄りがたい雰囲気を創り出すことで物思いに耽るためのスタンスを維持している。

虹色に滲む蜃気楼湾の水平線を真っ直ぐに見つめる。
潮騒は白む空に溶け込み、ひとりの静寂を確かに構成する。
何かと真剣に考えがちなコンピュータ頭と現実(Boot)では揶揄された、その皮肉として彼はレトロ・ゲームデッキを頭にしている。



――ふと、テレヴィジョンの電源が入った。
蜃気楼湾にはこういう物がよく打ち上げられる。
そしてそれらはふと思い出したかのように、こうして発作の如く自身の記憶を再生するのだ。

エヌ・イー・エスはそれを眺める。
いつかの時代の映像記録のようなそれはノイズ混じりで、流れてくる音楽はどろりと引き伸ばされてもとの面影すら残していない。

だがエヌはそれが良かった。
商用に歌われる薄っぺらい言葉すら引き伸ばされて、意味を消失し、それでも揮発した言葉が確かにそこにある。
そこには何か新しい意味があるような気がしたし、それが誰かが棄て去ったものだというノスタルジアも良かった。



――海に塩が溶けているように、この蜃気楼湾には誰かが棄てた思い出が溶け込んでいる。
果たしてそれがどのようなプログラムなのか、そもプログラムされたものであるのか、その詳細はわからない。
だが、海に溶けた思い出はこうして稀に結晶化し、人知れず再生されている。

エヌはこういうものに対し、一定のノスタルジアと共に、これをどうにかできないか、と一種の使命感のようなものを感じる。
そしてアーティストはこの棄てられた素材を拾い集めては使命感にまかせて新しく形を与えてきた。

例えば華園のどこかから聞こえてくる引き伸ばされたような音楽はエヌが拾い集めてた音源を切り貼りしたもので出来ていたり、それこそ華園のどこかの構造物すら彼が記憶から再生して作られたものだったりする。

アーティストとしてのエヌ・イー・エスは、知る人ぞ知る人物として一定のリスペクトを以て評価されているのだ。



「で、どうすんの」

“エヌ”が呟く。

「とりあえず気に入ったんでしょ、持ち帰るんじゃん?」

“イー”が触れた途端、断末魔のようにちらつく映像を流していたテレヴィジョンは砂と化して崩れた。
蜃気楼湾のビーチの砂粒ひとつですら、こうして誰かが棄てた思い出に由来する。

「悪くは無かった。ありきたりな割には」

“エス”がそうつぶやきながら、砂の山の中から一本の“テープ”を取り出した。
嘗ての記憶メディアは、情報をこうして磁気テープの上に儚く保っていたものだそうだ。

三体のドットアート・キャラクターは次元の概念すら無視してこの“テープ”を拾い上げ、“本体”の元へ歩み寄る。
慈しむように“テープ”を手に取り、エヌ・イー・エスは静かに瞑想を始めた。

「どうせまたくだらないことが起こるのよ」

“エス”が呟く。

「くだらないことじゃないことってある?」

“エヌ”が否定する。

「知らない。それはぼくが決めることじゃないよ」

“イー”がそう吐き捨てて、白んだ空を眺めた。



過去の慣習では、優れたハッカーには導師(Guru)という尊号がつけられていたのだという。
彼のフォロワーたちはそれに習い、長考するエヌ・イー・エスの様子に“導師の瞑想(Guru Meditation)”という呼び名をつけた。

瞑想の中で、エヌ・イー・エスはこの記憶メディアの時代に想いを馳せる。

VHSと呼ばれたメディアが台頭する時代では、ちょうどひとつの希望(幻想)が終わりを告げていた。
それからやがて、幻想(希望)はより小さく切り売りされるようになり、その持続時間も短くなってしまった。

彼の抱くノスタルジアの中には多少なり嫉妬の成分が含まれている。
失われたものは戻りはしない。
だが、今、時代は再度幻想の刻を迎えている。
その幻想の中に、彼は過去の幻想を入れ子にして保存しようとしている。

例えば、万華鏡皇華園という空間に、失われた香港の不夜城“九龍城塞”のモチーフを持ち込んだ者も、恐らく同じなのだろう。
人は、失われたものに恋焦がれた時、“浪漫”なる魂の阿片窟に囚われる。

彼はただ、“浪漫”に溺れていたかった。
そして、それを呼び起こすものを、彼は他人の棄てたものに見出してきた。

希望を失った今の時代には、例え誰かが過去に棄てたものだとしても、“浪漫”というその幻想に縋りたい人間は少なからず存在するのだ。


最終更新:2021年02月10日 06:22