漆黒の無を思わせる水槽の中を、鈍いスペクトル反射光を放つ鱗を纏った龍魚が進んでいく。
ヴィンテージ・シンセサイザーで演奏されたものであろう古のアンビエント・ミュージックも相まって、まるで舞を見ているかのような気分だった。
灰狼(グレイ・ロウ)はいつもの席で気ままな龍魚のダンスを眺めながら、幽かな照明にプリズムの様に乱反射するグラスの氷を鳴らしている。
仮想酒はいつも利用者に最適の酩酊を与えてくれる。
そして、そこで輝くのは提供元のセンスだった。
「かわいい顔してる」
「惚れたかい?」
「生憎、坊やと火遊びするのはやめたのよ」
マダム鱬(ルゥ)は絶妙の調整が施された合成音声で囁いた。
「――すてきな事があったんでしょう」
「どうかな。そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「……そうね、わからなくはないけど、あなたのは嘘」
バツが悪そうにはにかむグレイに、マダムはモニタ・フェイスに愛らしくウィンクを表示してみせた。
「顔に書いてあるもの、嬉しいんだって」
「マダムにポーカー・フェイスで勝てる輩はエヌ・イー・エスくらいだよ」
グレイはそう返して氷を鳴らした。
「けれど、何故か浮かれた気持ちにならない。不思議とね」
「……不思議と、ね」
ロー・ポリゴンの指先が、深い深海を映す鏡のように黒いテクスチュアのカウンターに降りてきた。
マダムはアブストラクトな四肢を魅惑的にくねらせて、モニタ・フェイスに頬杖を突く。
「占いは信じる?」
「一日の参考程度には」
「じゃあ教えてあげる」
愛らしくウィンクをひとつ表示して、マダムは真っ赤なリップを動かした。
「きっとそれは、貴方が自分で外した指輪のようなものなのよ」
「……指輪?」
「永らく着けていた指輪を外したとき――それが自分の意思で外したものなのに、どうにもその跡が寂しくて」
グラスの氷が、カラリ、と鳴った。
「ふと、もう一度指輪を通してみようか――悩む気持ち」
「……」
「意地のようなものもあるの、自分で外したのにって。なのに、指輪はあの頃の締め付けすら思い出して、嬉しい」
ロー・ポリゴンの指がカウンターをなぞる度、その鏡面に波紋が広がる。
「……それが、占い?」
「当たるも八卦、当たらぬも八卦――」
まじないのように、いくつかの波紋をなぞって、指が止まる。
「けど、その顔は当たってる」
そう微笑むマダムに、グレイは困り眉のまま、グラスの中身を飲み干して答えた。
「……何か、忘れてしまいたいはずのことを思い出して。そいつの顔を見ると」
そして、酒の香りを纏って言葉が紡がれた。
「でも、それが何だったのかは思い出せない。思い出せないし、それはあいつに関係ない」
「……そう」
「……うん、関係ないんだ」
そこで言葉を断つことを促すように、龍魚が水槽を横切った。
否、それは終わりにするための言い訳だと、灰狼(グレイ・ロウ)はわかっていた。
こうして、自分が忘れている何かから逃れたいのだ。
逃れたいから、こうして酒を呑んでいる。
けれど、たぶん、そうじゃない。
本当は言葉にしたいのだと、マダム鱬(ルゥ)はわかっているのだろう。
そうであってほしい、それはグレイの「祈り」だった。
幻視人酒吧(ヴィジョナーズ)のマダム鱬(ルゥ)は、捉えどころの無い人物だった。
如何なる美貌を纏うことができるこの仮想現実で、彼女はあえてアブストラクト型のロー・ポリゴン・アバターを纏っている。
四角錐を並べただけの細腕に、マネキンのトルソーを思わせるボディの上には、無機質なモニタ・フェイス。
そこに映るのは情報を潔く切り落とした切れ長の目の女のイラストレーションだ。
このアーティスティックな風貌の女性は、悩めるものにそれとなく助言を与えてくれる。
それ故に彼女の詳細なプロファイルに挑む輩は少なくないが、ミスティックな彼女の言葉はいつもそれを奥ゆかしく阻んでいる。
彼女は、この電子の龍宮城に住まう天女。
それ以上の情報は不要なのだ。
漆黒の無を思わせる水槽の中を、鈍いスペクトル反射光を放つ鱗を纏った龍魚が進んでいく。
グレイが去り、ただヴィンテージ・シンセサイザー・サウンドが酩酊を思わせる優美なメロディを奏でる中、マダムはただぼんやりと、龍魚の行く末を眺めている。
こうして誰かを待つとき、マダムは指輪を外した指の気持ちになる。
誰かとの触れ合いを捨てて、このように近寄りがたい風貌を得たのではなかったか。
なのにこうして誰かの訪れを心待ちにしている。
けれど、これは、誰の夢なのだろう。
――もしも、わたしが誰かの夢の登場人物でしかなかったとして。
それは、誰のための夢なのだろう。
そして、わたしはその夢の主を待ち望んでいる。
それとも、これは、誰かを待つわたしの夢なのだろうか。
時折、酩酊と微睡みのなかで、彼女は考える。
――我想う、故に我在り。
それが、夢に輪郭を与えてくれる気がするから。
「――あら、いらっしゃい」
……待ち人来たれりか。
ビジターの来訪(ログイン)に、マダムは微睡みを止めて応じた。
「……」
彼は、その小柄な見た目相応の非常に小さなファイル・サイズのロー・ポリゴン・ボディの頭部を巡らせて、辺りの様子を伺った。
「いらっしゃい。お好きに過ごして」
来るもの拒ます、去るもの追わず。それがマダムのスタイルだ。
彼はしばらくしてマダムに向き返ると、デフォルト・ボイスで告げた。
「――俺は探偵だ。人を探してる」
最終更新:2021年05月07日 07:11