サールナートの悟りから今日に至るまで、仏の教えは様々な変容を起こしながら系統樹の枝葉を伸ばし続けてきた。
それは時に拡散を目的に簡易化、エンターテインメント化され、また一方ではよりシャーマニックな秘密儀式を伴い複雑化、秘匿化してきた。
ある時を境に類型他種との混雑が発生し、またある時には一個人のエゴイズムから突然変異を引き起こし、それらは時に互いの淘汰、併合を経て、有機的な新陳代謝を今もなお続けている。
今日、衆目を集めるトレンドの中に輝くのは、今までの中でより物質的に真に迫ろうとする革新的なアプローチだ。
意識体へのコンバートを経て完全に人工代替細胞に置換された脳の死は、今のところ物理的な事故死を除いて観測されていない。
医療により劣化を遅らせても百歳を越えて生体脳を維持するのは、どこか競技的な狂気性を発揮しなければ困難で、かつ今の人々にはそれほどの労力をもって生体脳を維持することに特段の意味を見いだせなかった。
しかして人工脳置換が可能になった今、実際のところ人間としてのアイデンティティをどれだけの期間保つことが出来るのかは未知の領域である。
それは意識体化した世代の老化、という単純な経過観察がまだ途上にあるためで、人工脳置換された人間、しかも、脳以外の臓器システムの劣化からも開放された意識体ともなれば、果たして外的要因を除いた死とは如何なるものかということすらも未だ曖昧なのだ。
仏教とは、人が仏に至るメソッドの探求である。
人は仏から提示されたメソッドの実践の果てに菩薩となり、さらなるメソッドの実践を経て如来仏に至る。
故に人は菩薩に至り、宇宙規模の時間への挑戦権を得るために、物質界にて苦行なるメソッドを実践し続けてきた。
時にその探求にはしばしば物質的身体からの解脱が試行され、死をひとつのメソッドとして仏に至ろうとするアプローチが生じている。
その結果如何については未だ結論が出ていない。
人は物質からの解脱は試行できても、その後の観測にはまだ到底至っていないのだ。
故に能動的な死をメソッドに組み込む試みはそう多くは実践されなかった。
死はどこか蓄積情報の喪失を思わせるし、どちらにせよ生の時間は有限なのだから、その間に試行し結果蓄積の可能なメソッドは大いに越したことはない、という形に収斂したのかもしれない。
しかして、人工脳置換技術の登場を受け、求道者はこれを新たにメソッドに組み込めないかと考えた。
物理的世界からの解脱とは、すなわち徹底的な五感入力からの遮断により成るのではないか。
インターネット、あるいはインターバースから切断され、人工脳維持の為の設備だけ残して、あらゆる接続を拒む場所……深宇宙へ向かうことにより、より真なる解脱、仏に至るメソッドが完成するのではないか。
かくして、とある仏教系新興宗教団体のシンパ達は人工脳置換を推進し、自らの人工脳をロケットに載せ、惑星スイングバイを利用して深宇宙を目指すプロジェクトを実行した。
仏舎利塔をモチーフにデザインされたそれは宇宙菩薩と呼ばれ、最初の登場者達が搭載完了され、星辰が正しく揃う旅立ちの日を、深い瞑想の内に待ち続けているのだという。
そんな人々の一縷の望みを、些末なPV稼ぎに利用するだけのデイリーメディアのひとコラムは、阿多村 武志(アタムラ タケシ)の心を凍らせた。
灰色の東京湾に浮かぶ千葉市(チバシティ)海上メガフロートにそびえる超巨大コングロマリッド“江野千代(Eno=Millennium.ltd)”が有する企業都市の一室、彼に与えられた単身者用一般向け社宅件個人事務所のデスクに、アタムラは今どきアナクロなペーパーメディアニュースを呆れた手付きで放り捨てた。
一都市が一企業として機能する江野千代の中では、社員一人ひとりにこの社宅件事務所があてがわれているが、これはただ体よく整備された所謂タコ部屋にすぎない。
社外秘事項を扱う以上、外出もメガフロート内に限定され、本土への渡航にも申請と江野千代独自の情報網を使った24時間監視が付く。
代わりに社員は衣食住の完璧な提供と生涯雇用、そして適正量の労働で一生分暮らせるだけの安定した収入と独自年金が保証されている。
今や、世界中であらゆる超企業が出現し、それらは一種の経済生命体として羽化しようとしている。
生命がその体内に共生細菌やミトコンドリアのような異生物を取り込んで発展を続けてきたように、人類はまもなくこの概念生物の一部として子飼いにされる日がやってくる。
果たしてそれは、人間のアイデンティティとして受け入れられるものだろうか。
その漠然とした不安を思えば、アタムラは脳を人工化してまで仏にすがろうとする宇宙菩薩の価値観に、多少なりの理解を示すことができる。
しかし、彼がこの絶望を前にしてなお、人としてのこだわりを捨てること叶わないのは、やはり“人間としてのアイデンティティ”を捨てきれない故であろう。
どれだけ人間という存在が劣化し、矮小に落ちぶれようとも、アタムラはひとりの人間でいることしか出来なかった。
それが、彼にひとつの後悔を残している。
立場に、仕事に縛られて、それは果たせなかった約束だ。
彼はその残影を、ただ追い続けている。
――せめて、一度逢いたい。
窓の外、海と同じ灰色の空に、白い影が踊った。
それは風に巻かれて舞う、一枚のゴミ袋だった。
最終更新:2021年06月09日 05:04