■布拉德伯里路-Bradbury Avenue- PM09:14
維多利亞平台(Victorian Terrace)西側の壁面を構成する高層雑居ビルディングである布拉德伯里大厦(Bradbury Mansion)から、揺頭中心(Dope Center)方面へ伸びる大通りの灯りは、ブルータルで無愛想な建物が並ぶ薄暗い通りを虹色に彩っている。
アーケードを覆う立体ネオンの多重構造広告群のジャングルの下、濡れた道路がそれを反射してアンドロメダ銀河を創り出す。
行き交う人々の黒い影がまるで回遊魚のようだった。
夜市の賑わいから逃れるように、またひとつのペアが気づかぬうちに消えている。
排煙を思わせるどこからか流れてきたスモッグが、淡い色彩を与えられて形を変えていく。
ここはネオンカラーに彩られた密林の狩場だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
意図的に空けられているのだろう飯店裏の路地で、肉の塊が機械のような一定のリズムで揺れていた。
荒いふたつの息遣いと、同じリズムで漏れ出す押し殺したような喘ぎが、どうしようもない衝動を吐き散らすだけのマシーンに相応しかった。
アレックスがマシーンになる十数分前。
布拉德伯里路の夜市の灯が、濡れて鏡になった路を虹色に輝かせる。
並ぶファストフード・スタンドとカフェスタイルのアドホック・チャンネル・フォーラムの横を通り過ぎる時、アレックスは確かに自分に注がれる視線を感じていた。
ここでまず、視線を浴びない瞬間は無い。むしろ流れ弾を喰らわない方がよほど幸運と言える。
アプローチの面でも、サクセス時の面でも、ここはとにかくやりやすかった。
そこまで御膳建てされていれば、狩人も獲物も自然と集まる。
後は流儀次第。それぞれのカードを出し合って、都合が付けば人知れず路地裏へと消えていく。
スタンド・バーから男はアレックスに熱視線を注ぎ、それに気づいたと解ればさり気なく自らの下腹部を撫でてアプローチした。
アドホックな関係で済ますのならば、それだけで十分に意図は伝わるものである。
後は相手のカードの切り方次第だった。
相手がコミュニケーションを求めているのなら同じテーブルで手頃なドリンクでも注文するだろう。
後のトークの内容次第でドリンクの支払い方法が変わる。
相手の分まで払う姿勢を見せれば自然とその後のポジションも決定する訳だ。
もしそうでなく、別のアプローチをしてくるのならばそれに乗ればいい。後は成り行きでどうにでもなる。
相手が去るのであればそれまでだ。ハンティングはシンプルな駆け引きである。
アレックスは男のサインに気づくと、目にかかる前髪を後頭部まで撫でつけて、店の路地へと入っていく。
残りの仮想アルコールを喉の奥に流し込み、男はその影を追った。
アレックスが前髪を上げるのは一種のスイッチだった。
自分が求める男の性を自分の身に降ろす儀式と行ってもいい。
路地裏の物陰で、アレックスの唇は行きずりの男の喉笛を捉えていた。
快楽に身を捩り、男は賭けの勝利を悦ぶ。
アレックスのベルトのバックルに即座に手を掛け、跪いて目前の栄光に頬擦りをした。
――アレックスは好きなようにさせた。
誘いに乗ったのは自分の筈なのに、なぜか乗り気にならなかった。
露わになった自身を頬張る目の前の男は、確かに自分の欲情をくすぐった筈なのに。
この期に及んで男はアレックスの興味から外れていた。
正確には“醒めてしまった”と表現するのが正しいか。
自身ではない自身に欲情している男の“向こう側”が透けて見えてしまう。
尤もそれは飽くまでアレックスの想像に過ぎないが。
それでも自分がまさにそうであるように、目の前の男もまた、自身の欲求を叶えるためにここにいて、その手段としてこの姿を得たのであろう。
アレックスは、未だに夢の中に居られるこの男が羨ましかった。
この男にとって自分はただ願望の捌け口でしかない夢の登場人物に過ぎないのだ。
目前の男がアレックスにとってそうであるように。
それが、異様に淋しかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
意図的に空けられているのだろう飯店裏の路地で、肉の塊が機械のような一定のリズムで揺れていた。
荒いふたつの息遣いと、同じリズムで漏れ出す押し殺したような喘ぎが、どうしようもない衝動を吐き散らすだけのマシーンに相応しかった。
アレックスが相手に投影するのは、情けない自分のリアルの姿だ。
妄想の中のキャラクターに滅茶苦茶にされる自身の姿を虚しく思い描きながら、アレックスは自分を求めた男の期待に応えている。
まだこのアバターを使わずに華園を訪れた時。
アレックス・李は理想郷の中で蚊帳の外に置かれていた。
同じように布拉德伯里路を歩いたあの日、アレックスは誰の視線も感じなかった。
まるで泥沼の激戦区で小銃の弾丸が往来する中で、何もできずに立ち尽くす透明な幽霊に等しかったのだ。
それが姿を変えればどうだ。
一時はアレックスはその結果を喜び享受したものの、今となっては虚しさが勝った。
これは自分ではない。
求められたのは自分ではない。
その感情は関係を重ねるごとにプライオリティを駆け上り、相手の言葉が、視線が、決して自分を求めているのではないことを否応なしに気づかせた。
結局は、自分が妄想を相棒にマスターベーションを繰り返していたあのときと変わらない。
むしろ、妄想することすら億劫になって、他人の妄想に相乗りすることで代用しているに等しいのだ。
それに気づいてしまえば、あとはただ虚しいだけだ。
それでもまだ、自分の妄想した理想郷に近いこの場所に立てるだけまだマシなのかもしれないが。
――男の絶頂を見届けて、あっという間に萎えていった自身を服の下に収めると、アレックスは事務的にハグを返して路地裏を後にする。
そして何事もなかったように、再び布拉德伯里路の飛び交う銃弾の雨を浴びながら、透明な幽霊だったときと同じように夢の中を朧気に歩いていく。
思えば、理想郷と思っていた華園ですら、出会いは現実より遥かに非常だった。
望むならこの仮想現実は、自分が見て取るに足らないと判断しうる他者を事前に振るい分けることすら可能なのだ。
フィルタリングに弾かれた他者はもうその者の世界には存在せず、可視アバターも衝突判定も失って文字通りの幽霊になる。
こうして誰かを機能的に葬っていることすら、いつの間にか忘却の彼方だ。
アレックスもまたそうして、誰かを透明な幽霊として扱っていることを忘れていた。
どの分際で、と、自傷的に溜息を吐く。
すでに前髪は、もとのように視界に被っていた。
「……?」
アレックスが正面を向いたのは、妙に多くのアバター達が一方向から足早に移動してきたためだった。
同時に目に入ったのは、転げたいくつものカフェテーブルと、地に腰を突いた一人の男。
ギリシャ彫刻のように整った顔立ちの男は呆然と向こうを眺めていたが、ふとアレックスの方に顔を向けると、恐怖に歪んだ顔で駆け寄りこう嘆願した。
「お願いですッ、あの人を助けて――!」
虎頭の大男は、警官風ルックの男が浴びせる罵詈にも雑言も意に介さず、その目はどこか別の物事に視線を向けているように見えた。
それが腹立たしいのだろうか、警官風ルックの男は一度、横たわる大男の大腿を踏みつけ、二度その虎顔を警棒で殴打した。
まず、前提としてインターバース内では痛覚が制限されている。
一種の催眠状態にある現実の脳に仮想痛覚が与えられると、生理的反射により現実の肉体にダメージがフィードバックされる事象が研究にて明らかになったためだ。
この施策は却って現実での注意力散漫などの弊害を及ぼしつつあるが、仮想現実においてまで傷病の苦痛を味わいたくないと言うのは万人の共通認識であったため、問題提起さえあれど具体的な解決案を挙げる者は無い。
そして、ブートレグ・サーバである万華鏡皇華園に、防犯という概念は存在しない。
そのためのブートレグ(海賊版)・サーバなのだから、それを警邏する者は好きでやっている変態に他ならない。
良識があると自覚するのであるなら安全な正規サーバを利用すれば良いだけのことで、わざわざここまで来て正義を振りかざす者は普通ではない。
ただ正義という大名義分の下で、自身の良心を咎めることなく暴力性を正当化したいだけなのだ。
無論、そういうプレイは華園の中に横行し、それを求め合うからこそプレイは成立する。
咎められることを目的に悪事を成すもの、それを目敏く見つけて咎めるもの、双方の駆け引きがそこに存在する。
――しかし、今、暴行を受ける虎頭の男の目は完全に“醒めていた”。
幻想の外に居るとき、まだ夢の中に溺れている相手のプレイにただ身を任す時間のなんと虚しいことか。
アレックスには、それが解った。
それがたとえ、苦痛のない電子の夢の中だとしても。
「……おい」
なるべく低く、威圧感のある声色を使ったつもりだった。
しかし、紡がれた言葉はどこか溜息混じりで、圧の抜けた声で口から吐き出される。
「流石に目に余る……やめてくれないか」
声の主は、それなりに見応えある肉体をした、牛頭鬼(ミノタウロス)のアバターだった。
「……あ?」
あと12打もすれば飽きて終わるだろうと予想していたが、それより早く相手の手を止めさせたその声の主をサンダーは一瞥する。
親切心などと言う面倒な正義暴力の連鎖だ。
目前のモンスターに対して自己正当性を高めるためのマウントにサンダーは興味を抱かない。
……ただ少し様子が違ったのは、前髪に隠れた牛頭鬼の目が憐憫の視線をしていなかったことだ。
ならば蔑みかとも考えたが、そういうわけでもない。
「……」
――相手の目は、完全に“醒めていた”。
その目が侮蔑しているのは“この幻想(ゆめ)そのもの”で、一方でまた自身もこの幻想(ゆめ)に含まれていることに気がついてしまっている目だった。
そういえば、あのライノセラスとの出会いの時、相手も同じ目をしていたことを思い出す。
だからこそ夢を喰らい尽くすモンスターに仕立ててやったつもりだったのに、むしろ夢に沈んでしまった。
サンダーはそれが腹立たしかった。
アカウントをブロックして自身の世界から消し去ったつもりでも、記憶には未だこびりついている。
「クソが」
忘れ去ったつもりの諸々をその言葉と共に吐き捨てて、サンダーは立ち上がる。
そして呆気に取られたままの警官ルック・サディストの肩を突き飛ばし、苛立たしげに肩を揺らして立ち去ろうとする。
その時、アレックスとサンダーは、共に表情なくお互いを
一瞥してすれ違った。
だが互いにそれ以上振り返ることもなく、そのまま距離を開けてゆく。
当事者を失って意味を喪失した転げたカフェテーブル等がポジション・リセットされて何事も無くなったのと同じように、アレックスは再び夜市の喧騒へと帰っていく。
――そしてサンダーもまた、夜市の幽霊として七色のホログラフィの先へと消えていった。
ただ、何時もの夜と少し違ったのは。
暴行を止めさせたあのおせっかいのアカウントを、ブロックせずにそのままにしていたことだった。
最終更新:2021年09月08日 07:51