さかなの夢を見る

さかなになった夢を見た。

吸い込まれるほど暗い湖底に目を背け、光の踊る水面を見る。
すると、見たこともない何か美しいものが、きらりと光りながら降りてきた。

腹を空かせていた訳じゃない。
なのになぜか、その見たこともないものが、欲しくて欲しくてたまらなかった。

大きく大きく口を開けて、それを飲み込もうとする。
水面に向かってきらりと光る、一本の釣り糸に気がついた時には遅かった。

喉の奥、胸にまで届いて針が突き刺さる。
なのになぜか、それが心地よくてたまらなかった。
こんなに胸が痛いのに。
引き裂かれるほど、痛いのに。

ただ釣り糸の成すがまま、身体は水面に吸い込まれる。
そして、揺らめく水面に写るその顔は――

――その顔は――



「――ック、おい、フリスリック!」

「……あっ……!」

雷声に我に返れば、クリスタルの天蓋が落とす真っ青な光が目に染みる。
フリスリックは頭を振って、声の主に向き返った。

「す、すみません……ぼーっとしちゃって……」

「ったく、また夜中まで本でも読み漁ってたんじゃねえだろうなぁ、しっかりしろよ」

マーヴィルはフリスリックの肩を軽く叩く。
これでも以前よりは遥かに当たりは優しくなった方だ。

「――フリスリック、少し働きすぎなんだよ。こないだも、休みを取るために倍の仕事をしてたろう。結局――」

「……うん、“彼”が来てたから。一日中話すのに夢中になっちゃって……」

口を挟んだロブに、マーヴィルは頭を抱える。

「ったく、漁師が魚のこと以外で疲れただなんて言ってられっかって話なんだよ、これだから若造はッ」

そう吐き捨てるとマーヴィルは、魚臭い手でフリスリックの袖を掴んで乱暴に机から引き離す。

「ねぼすけ野郎は仕事の邪魔だッ、ちょっくら一日、二日くらい休んできやがれっ」

「ま、マーヴィルさんっ!?」

「そんくらい俺たちに任せときゃいいんだよッ、ちょっと体調整えてこいッ」

フリスリックは呆気にとられた顔をして固まっていたが、ロブの笑顔に押し出されて工芸館を後にした。

事実、ここ数日は妙に寝付きが悪く、睡眠不測なのは否めない。
どこか身体が悪いわけでもなく、なのに食事もあまり喉を通らない。
思い当たるのは数日前、久しぶりに“彼”が顔を見せに来た時だ。
その時の会話が、不思議と頭に残響する。
とぼとぼと住居館に向かう道すがら、フリスリックは再び白昼夢のようにあの日の出来事を反芻した。



「――“タイコウボウ”?」

聞き慣れぬ言葉にフリスリックは問い直す。

「うん、なんだか、僕の世界の昔話に出てくる、釣り名人の名前らしいんだけど……」

無邪気な微笑みで、相手の白いロンゾ族が饒舌に語りだす。

「僕に釣りを教えてくれた人の話ではね、いろんな釣り場の“ヌシ”をたくさん――それこそ、百種類くらい釣り上げた名人だって言うんだよ」

“太公望”――それは釣りを極めた者の最大の称号だと語る相手は、旅人だった。
それこそ、“光の氾濫”に呑まれたこの世界の外からやってきた。
だから、フリスリックの知らないことをたくさん知っている。
それらを楽しそうに話す旅人の無邪気な顔が、フリスリックは好きだった。

「ファニドレイも、そのタイコウボウを目指しているの?」

「いやぁ、僕は忙しいからね……“あっち”の漁師ギルドの人たちは、見込みがある! なんて言ってくれるけど」

白いロンゾ族はそう言って鼻の頭を掻いた。



居住館の部屋に入るなり、フリスリックはベッドに身体を投げ出した。
妙に力が入らない、栄養に不足は無いはずなのに。
天井を眺めるその瞳は、しかし眼前の風景を観ていない。
フリスリックの頭の中には、変わらず白いロンゾ族の顔が浮かぶばかりだった。

――そういえば、ノルヴラントにもヌシの噂ってあるの?

“彼”は純粋な興味でそう訪ねてきた。

光の氾濫により大半の地域が無の大地と化し、それに伴い数多くの生物種が同じように滅び去った。
しかし、辛うじて生き残った水源や海洋には、未だ多くの水棲生物がそのままの姿で生き残っていることがわかっている。
ミーン工芸館調達科代表ケシ・レイの調査結果が示すところでは、おそらく天から降り注ぐ無尽光が水中では拡散し、地表と比べて光の属性の偏りを遅らせているのではないかと考えられている。

――そういう事実もあって、実は今でも各所で“ヌシ”と呼ぶのに相当するであろう大物の目撃例は決して少なくない。
無論それは、光の氾濫が起こるより以前の言い伝えになぞらえた、半ば都市伝説じみたものも含まれる訳だが。
しかしケシ・レイによれば、環境が光の氾濫以前の姿を取り戻しつつある今こそ、そういった“ヌシ”に相当する大物が再び跋扈するのではないかと予想していると言う。

例えば、グルグ火山の水源からコルシア島を二分するワッツリバーの下流。
そこには長らくゼブラキャットフィッシュという種が分布しているのだが、夜間、妙に大型の個体を見かけたと噂されており、地元ではそれを――

「……」

――フリスリックは何かに思い当たり、部屋の片隅の書架を漁り始めた。
そこには自分が漁業科を任されるより前、まだ漁業が調達科の範疇にあった頃から、生き残っている水棲生物種の調査を行ってきた記録のすべてがある。
コルシア島ワッツリバー、そこに棲むゼブラキャットフィッシュについても、もちろん調べて写し取ってあった。
はるかな昔、光の氾濫直後の混乱の中では食用にもされていたと言われているが、ユールモア政権が変わってからは別のものに代わられたようだ。
しかし、かつて漁師だった人々の伝聞は、それでもまだ残っている。
半ば伝説のように、漁師の子供の寝物語の中に言い継がれてきた“ヌシ”の存在。

――“ホワイトロンゾ”。

その名の由来たるロンゾ族であるフリスリックは、はじめに資料でその名を見たときから好奇心を抱いていた。
今でこそ漁業科の代表という要職に在るが、それを除けばただ一人の釣り好きの若者だ。
クリスタリウムという一つの都市で、貴重な蛋白源となる魚の流通を担う重責に埋もれてこそいたが、その本質は一人の釣り道楽であったはずなのだ。
“釣り”という行為を愛するものであるからこそ、その重責にも負けることなく、都市の漁師を纏め上げることも叶ったに違いない。

「……っ」

……フリスリックの胸が震えた。
なにしろ、彼にはその“名”があまりに感傷的すぎた。
忙殺されて忘れかけていた漁師の心が、弛緩しかけていた四肢にみるみるうちに情熱を送り込む。

――“ヌシ”を釣りたい。

それは、おおよそ初めての衝動だった。
長らく命を繋ぐための漁ばかりをしていた中で、自身の道楽の為に魚を釣ろうとするのは今までに無い経験だ。

それでも、その想いの火種は確かに胸中に灯っていた。
孤独と不安に塗れ、たった一人で漁業科の窓口に立っていた時に現れた、とある一人の来訪者。
困難と思われた希少な魚すら釣り上げた、漁業科の救世主。
いつの日か、イル・メグの花に紛れて共に並び立ち、谷底に釣り糸を垂らすその横顔にフリスリックは確かに感じた。
――おなじ、釣りを愛するものの表情を。



「おや、フリスリックさんじゃないですか」

すっかりと宵闇に包まれたアマロ桟橋に現れたフリスリックは、珍しく釣り道具一式を背負っていた。

「すみません……今からコルシア島に行きたいのですが大丈夫ですか?」

「今からですか、もちろん問題はありませんが……随分とお忙しいのですね」

ズン族のアマロ使いは、大きな手で器用にアマロ貸し出しのための書類にサインしながら微笑みかける。

「え、ええ……ちょっと夜行性の魚が要り用になりまして」

「わかりました、夜間飛行に十分慣れたアマロ使いを紹介しましょう。お迎えは日の出以降になりますので、ご準備をお願いします」

新米のアマロ使いは手慣れた様子で手続きを進めていく。

――他愛ないこととは言え、嘘を吐いてしまった。
別に、火急で必要な魚などではない。
それも、あくまで個人の欲求のままに求める、居るともわからないような魚だ。
未だホブゴブリンが跋扈するコルシアの夜闇の中で、本当にその欲求に身を任せてよいものか。
フリスリックが思慮する間に、彼を目的地に誘うアマロ使いが現れて、言われるがままにアマロの背に跨った。

――漆黒の翼をはためかせて、アマロが翔ぶ。
白い月光がその行く先を照らしていた。



コルシア島、ワッツリバー下流。

断崖を真っ直ぐに切り裂く白い滝を臨み、フリスリックは釣り道具一式を開いて臨戦態勢に入る。
伝承を元に推測したところでは、ゼブラキャットフィッシュの大型個体――食性はそう大きく変わらないはずだ。
元より影を好む性質は、かつての生態が夜行性であることに起因する。
これはケシ・レイの推測だが、実際にそう予測された多くの魚が夜間の漁獲量増加を確認できることからかなり信憑性がある情報と言えよう。
昆虫食であるゼブラキャットフィッシュに合わせ、余程の大型個体であるなら並大抵の餌では見向きもしない。
そこで餌には河川で集めた虫を詰めた蟲箱を用意した。
大物狙いの伝承に登場するものを、ミーン工芸館で再現したものだ。

「……それっ!」

フリスリックの竿がしなる。

風切り音に続いて、重い蟲箱が川底に落ちる水音が続いた。



一筋の釣り糸が月光に煌めく度、フリスリックは、考える。

今まで、彼はクリスタリウムの人々の心身を護るために、魚を獲ってきた。
栄養失調に苦しむ人々の為にあらゆる文献を読み漁り、百余年も前の人々が残してきた記録を頼りに、その先に命をつなぐために、魚の命を獲ってきた。

今、彼を突き動かす欲求は、決して人の命を繋ぐためのものではない。
彼が今、獲ろうとする命は、ただ人につけられたその呼び名が故に狙われるものだ。

それに、なんの意味があるだろう。

彼が本当に望むものは、“ホワイトロンゾ”という一匹の魚ではないはずなのに。

――コルシアの黒い海に、月光が煌めく。
ユールモアの樹状の城は終わらぬ宴の光を讃え、天の星すらも霞ませている。

道楽で魚を獲る行為は、遥かな昔に失われた人の営みだと言う。

――否、失われたわけではない。
無尽光の脅威が去った今、サレン郷やスティルタイドに暮らす漁師たちが、決して自身の生存の為だけに魚を獲っているのが全てではないはずだ。

“闇の戦士”である彼が取り戻した正常な世界の営みの中で、自分が欲するままに生きて何が悪いのか。

――手に入らないのは、わかっている。

わかっていても、どうしようもない想いもある。

ならばせめて。

ただひとつ、慰みとしても、一縷の可能性を求めたい。

――自分の愛する、そして、彼も愛する、一つの方法で。



「――!!!」



竿の先が激しく揺れた。

重い。

あの大きな蟲箱を丸ごと呑み込むだけの、大物が掛かったことに間違いない。

「……くっ、う……ッ!!」

引絞られた弓そのものの孤を描いて竿が引かれる。

――持っていかれる――!

フリスリックは咄嗟に弓なりに曲がる竿の中頃を掴み、大魚の力に負けて竿が折れぬように支えた。

「……ぅ……あ……!!」

河面に僅か、ぬらりとした影が現れる。
激しく暴れまわるそれは、並のゼブラキャットフィッシュではない。
白きロンゾの名を冠するに相応しい、雄々しい印象にフリスリックは狼狽する。

「これがッ……“ヌシ”……!!」

竿の柄を無理やり腹で支え、リールを巻く。
強制的に巻き戻されていく釣り糸で、フリスリックは少し手を切った。
普段の気弱で繊細な彼の風貌からは想像できないような、力まかせの闘いとなった。

――そこまで必死になって、何を――?

脳裏に過る疑念の数だけリールを巻いた。

ロンゾ族の発達した筋肉を持ってしても、状況は不利だ。
腹筋にめり込んでいく竿の柄に、フリスリックは顔を歪めて呻きを上げる。

――それでも。

手を伸ばせば届きそうな河面に、その大きな影は確かにある。

竿が折れるか、糸が切れるか。
或いは今、自分の体力が尽きることもありなん。

――それでも――。

白いロンゾ族の、あの横顔を忘れることができない。

例え、彼が自分と違う場所に生きるものだとしても。

それこそ、水面と釣り人の関係の如く、決して交わらぬ世界に生きるものだとしても――

「く、あ――」

みしり、と竿が鳴った。

そして。

「――ぁ――!」

――魚が、跳ねた。

月光にその姿を現して。

水の抵抗を失った竿も同じく跳ねて、鞭の如く糸が踊る。

――そして、その口に掛かった針が、無慈悲にきらりと輝いた。



――フリスリックが河原に背を打つのと、魚が河底に逃げる水音はほぼ同時だった。

視界に、星が舞う。

遅れて背に痛みが奔り、だが両手脚は力を失って身を屈めることも出来ない。

それからやがて、だんだんと現実が還ってきた。

――ホワイトロンゾ。
その白い柄がロンゾ族の体毛にしばしば現れる縞になぞらえてそう呼ばれるようになった。
だが、一瞬見えたその色は、彼の白い鬣に何ら似た点を見いだせなかった。

白い月光に目を細めて、フリスリックは思い出す。

――そも、彼はロンゾ族でない。

彼らの世界の言葉では……彼は“ロスガル”と言う名で呼ばれるのだと、そう教えてくれたっけ。

「……ふふ……ははは……」

なぜかふと可笑しくなって、フリスリックは寝たまま笑った。

そして、その瞳から、一筋の涙が月光に煌めいた。



数日後、ミーン工芸館の手工科から、愛用の竿が帰ってきた。
漁業科のマーヴィルは、傷んだ竿を見て最初は咎めようとしたようだが、フリスリックの晴れ晴れとした顔を見て何かを察したらしい。

「……俺もそのうち、釣り道楽に勤しみたいもんだぜ」

それっきり、傷んだ竿については何も言わなかった。



ただ、フリスリックは時折、人待ち顔で呆けてしまう時間が増えた。
それに関しての小言は前より増えた。

それでも、フリスリックはあの“ヌシ”との闘いを、彼に話す日が来るのを指折り数えている。
そして、今度は夜闇のコルシアへ、二人で出かけるのだ。
ノルヴラント初の“タイコウボウ”の座を巡って。



さかなになった夢を見た。

吸い込まれるほど暗い湖底に目を背け、光の踊る水面を見る。
すると、見たこともない何か美しいものが、きらりと光りながら降りてきた。

腹を空かせていた訳じゃない。
なのになぜか、その見たこともないものが、欲しくて欲しくてたまらなかった。

大きく大きく口を開けて、それを飲み込もうとする。
水面に向かってきらりと光る、一本の釣り糸に気がついた時には遅かった。

喉の奥、胸にまで届いて針が突き刺さる。
なのになぜか、それが心地よくてたまらなかった。
こんなに胸が痛いのに。
引き裂かれるほど、痛いのに。

ただ釣り糸の成すがまま、身体は水面に吸い込まれる。
そして、揺らめく水面に写るその顔は――

――その顔は、白い獅子の顔をしていた。


―了―


最終更新:2021年11月05日 01:22