トニー・楼(ロウ)のことは、まるでこわれもののように儚い存在だと感じていた。
いつかのサイクルアウトの時、香港サーバーのバー・フォーラムで初めて出会い、まるで無垢な少年がバーに迷い込んでしまったのかのような場違いな雰囲気を感じたアタムラは、ニヒリスト気取りの割に捨てきれないお人好しの部分が顔を出して、つい声をかけたのが始まりだ。
アタムラ・タケシは日本の典型的“さらりまん”ではあったものの、果たして彼が典型的の枠に収まる人物であったかは疑問である。
40を迎えて結婚もせず、社内の接待を除いて社交的な人物でもない。
この時代において“生き甲斐”などというポジティブな言葉は最早絵空事とも言えたが、それにしてもアタムラのライフスタイルは、仕事と小説を読むこと、たまに当たり障りのない音楽を嗜むこと、その程度のものしか知られていなかった。
もっとも、他の典型的“さらりまん”は、他人のライフスタイルにさほどの興味も抱かないのが普通のことではあったのだが。
それでも、彼もまたひとりの人間だった。
どこで見た格言だったかは思い出せないが、日本語における“人間”とは、“人の間にあるもの”と書くと説く。
生物学的ヒトの個体ではなく、人間性とはヒトとヒトの間に生じるコミュニケーションにより生じるものだと言うのだ。
単体でヒトはヒト足り得るが、人間性は単体では生じない。
人間はコミュニケーションの上で成り立つものであり、人間社会はそれを前提に作られている。
最早ヒトは単体での生存性を重視していない。その規範の中では孤独は耐え難いものとして定義されていた。
前述の通りアタムラ・タケシは社交性とは無縁の男だった。
しかしそれでも、社会は彼を単体動物として生きさせてはくれないようにできていた。
例えコミュニケーション能力に問題があろうと、孤独は推奨されないものとして強要されてきた彼の価値観は、寂しさを感じるたびに悲鳴を上げている。
だから彼はニヒリストの仮面(アバター)で自身のキャラクターを演じながら、ひとりの青年とコミュニケーションを試みた。
硝子細工のように透明で儚く脆いトニー・桜に。
ほんとうの自分の姿も同じように脆く儚いのだと、そう認めてもらいたくて。
「――だからねェ!!」
「あたしはあ、また棄てられたのよォ!!」
「オトナになったからってェェ!!」
店内になだれ込むなり、その等身大のチャーミン人形はプリントされたままの笑顔でオイオイと泣き叫びくだを巻いた。
「みんなオトナになっちゃうのよォッ、あたしをおいてさぁ、あたしだけがずぅっと取り残されてぇッ!」
「ハイハイ、わかった。わかったから、とりあえず座りなさいよ」
幻視人酒吧(ヴィジョナーズ)のマダム鱬(ルゥ)は、ボディコンシャス姿のチャーミン人形に寄り添い、泣きわめく彼女を支え起こした。
「マダムぅ……あたしもオトナになりたいよォ……棄てられないオンナになりたい……」
「人生なんて、棄てる棄てないとかじゃないのよ……通り過ぎてゆくだけ。貴女が棄てられたって思うから、貴女だけ取り残された気分になっているだけよ」
「……だってそれってさぁ……」
チャーミン人形は、目のプリントが落ちそうな程、何度も何度も、涙を拭うような手振りを見せる。
突然、店内で始まった人形劇を前にして、“アターソン”は呆然と立ち尽くしていた。
「貴女が棄てられたんじゃないの。お互いに通り過ぎて行っただけよ。お互いの時間が過ぎさっただけ……また新しい時間が始まるわ」
「……ほんとう?」
「だって貴女はここにいるじゃない。貴女が貴女でいるかぎり、貴女の時間は貴女のものよ」
マダムはアブストラクトな指先で、優しく撫でるように、くしゃくしゃの人工毛を解いてやった。
「……あたしの時間……」
「そうよ、それでいいの。ただ2つの時間が言っとき交わっていた……それだけなのよ」
マダム鱬はアブストラクトな聖女として、棄てられたチャーミン人形を優しく諭す。
風刺戯画的なその光景に、アターソンはただ黙すばかりだ。
自分は一体何を見せられているのだろう。
アターソンの記憶が確かならば、チャーミン人形は中国でよく出回っていた安価な女児向け着せ替え人形だ。
無論彼の人生において縁のあるアイテムではなかったが、日本ではディスカウントストアに半ばコピー品同様の扱いで叩き売られているイメージが根深い。
それにしても、着せ替え人形が等身大になるとここまで恐ろしいものか。
最も、それは彼がプライバシー保護用アバターのデフォルト・テーマの一つであるローポリゴン・モデルのテディベアだからこそ、より顕著なサイズ比となっている可能性もあるのだが。
プリントされた目を見開いたまま、チャーミン人形はテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。
「――ごめんなさいね」
その謝罪は恐らく、急な来客によって優先度を下げざるを得なかったことを指している。
「急ぐ旅じゃない……問題ないよ」
「紳士ね」
モニタ・フェイスに愛らしくウィンクを表示させてマダムは答えた。
「誰かを探していらっしゃるのよね?」
「ああ。名前はトニー。トニー・桜」
「ここで逢った人?」
「いや――最初は香港のサーバーだった」
首を横に振るアターソンに、マダムはモニタ・フェイスになんとも言い難い表情を浮かべる。
いわばデフォルト・フェイスなのだが、それが絶妙なオブジェクト配置により、どこか蔑んでいるようにも、憐れんでいるようにも見えなくはない。
「……ああ、香港のサーバーから、裏サーバーであるこちらに流れたのではないかと……そう仰るのね」
「心当たりはすべて探した……あとはもう裏サーバーしか無くて」
「――言いたくはないのだけれど、それは多分……不毛な旅になるわ」
マダムはインベントリから毛布のオブジェクトを取り出して、眠るチャーミン人形の肩にかけてやった。
「裏サーバーと言うのはね、表に出せない自分になるための場所なのよ」
「それは……わかっているが」
「この子だってそう」
マダムが指したのはチャーミン人形だった。
「誰が好んで棄てられたチャーミン人形にわざわざ成ると思う?」
「……個人の楽しみだろう?」
「そうね、そう割り切るほうが楽よ。でも実際はそうじゃない……この子は、望んでいないのに、棄てられたチャーミン人形でいたいのよ」
「……?」
「そうでなければ……そうしなければ、“棄てられない”想いがあるの」
マダムはデフォルト・フェイスのまま、アターソンに向き返る。
その表情は変わらないのに、まるで聖母の絵画を観るようにその威厳、救いがたき者を蔑み、憐れむような圧が増したようにアターソンには思えた。
「“ここ”はね、そういう場所なの……自らを貶めて……でも、そうじゃないと棄てられない想いを棄てに来る場所。“ここ”は、そうやって棄てられてきたものでできている」
「この店が、か?」
「違うわ」
聖母は応えた。
「“ここ”のすべて、よ」
「――ねえ“探偵さん”」
力になれなかった詫びにと出されたドリンクの氷が鳴る頃に、マダムがアターソンにそう呼びかけた。
「貴方の探す人は――何かを棄てに来るような人かしら」
「――さあ」
アターソンは首を横に振る。
「だが、俺だったら――マダムの言うとおりなら、棄てに来るのかもしれない」
「そう」
マダムは少し思惟すると、アドレス・メモを一枚、アターソンのグラスの側に添えた。
「さっきも言ったけれど……不毛な旅になるかもしれない。けれど、何かの手がかりは見つかるかもしれない」
「ここに――何が?」
「誰かが棄てたものが、そのビーチには漂着するの。それを好んで集めている人が居る」
趣味が悪い、とも思ったが、それを口にするのは悪手と考えた。
棄てられたチャーミン人形に成ることで癒やされる者が居るのなら、そうして他人の棄てた何かを収集することでしか癒やされない誰かも居るのだろう。
「――なぜ、彼女はあえてチャーミン人形に?」
「貴方だって、仮面を被って“探偵さん”をしてるのでしょ?」
――そう言語化されると、図星と言わざるを得ない。
「“探偵さん”が誰かを探してる……そうやって、癒やされている貴方が居るのではなくて?」
「……わからないな」
「きっとこの旅路でわかるわ。わたしの占い」
「占い?」
「当たるも八卦、当たらぬも八卦――」
そしてマダムは愛らしくウィンクを表示した。
その仕草でようやく、アターソンは聖母から赦された気持ちになる。
「……目覚めたら、彼女に一杯――」
アターソンはそう振り返る。
しかしそこにチャーミン人形の姿はなく、ただ毛布がソファに引っかかっているだけだった。
「夢のようなものよ」
マダムは状況をそう説明した。
「ここはね、“棄てられた夢で出来ているの”――」
最終更新:2022年04月29日 17:52