コートの襟を立ててもなお、冷たい風が俺の首を締めてくる。
吐く息は白く、電灯の光に縁取られては消えていく。
冷たい雨は止まなかった。
虫の羽音に似た不快な音を立てて明滅するネオン管の輝きに我に返ると、水たまりに自分の哀れな姿を見た。
極彩色の光に浮かぶずぶ濡れコートの姿はさながら、誘蛾灯に誘われた蛾の様に情けなく思えた。
幸い貯金は残っていた。
今後数ヶ月の間命をつなぎ止められる程度にはだが。
手首まで流れてきた雨の雫が昨日つけたばかりのためらい傷に沁みた、その痛みで再度我を取り戻した。
深く眠れない日々が続く。
下手に目を閉ざせばあの朝を思い出す。
あれから一年。
未だに立ち直れない俺をあいつは笑うだろうか。
それとも。
「あら、とうとう傘まで差さなくなったのね」
あざ笑うでもなく、憐れむでもなく、ただ率直な感想のような垢抜けた声が耳に飛び込んできた。
「座れば? 今日はお客もこないし」
ふと辺りを見渡せば、俺は見慣れた飲み屋にいた。
彼女の言う通り、他の客の姿は見えない。
「こないだはメガネ忘れてたじゃない、眼、悪いのに」
彼女は俺の濡れたコートをポールハンガーに掛けながらそう言った。
そういえば、彼女の名前はなんと言ったろうか。
「冷えるわよ、一杯だけサービス」
椅子に座って黙っていると、彼女がスコッチの瓶と小さなグラスを持ってきた。
「……まだ、立ち直れないのね」
グラスに酒を注ぎながら、彼女はそう言った。
その言葉に初めて、憐れみが籠もった。
「忘れようともできないんだ。眠ろうとすると思い出す」
「……ユーゴ、誰だってそんなもんよ、あたしだって、母さん死んだ時はそうだった」
「いつかは忘れられるかな」
「……忘れはしないわ、慣れてはくるけど」
彼女は視線をグラスに落としたまま、そう微笑んだ。
あいつとの出会いは、この店の帰りだった。
最初は真似事のつもりでピアノを弾き始めたが、しばらくするうちに様になってきたのか、マスターが小遣いをくれるようになった。
それから調子に乗って小遣いを稼ぐようになり、下手なりに曲を書いてみたりして、それなりに楽しい日々が続いていた。
そんなある日、ちょうど今日みたいな冷たい雨が降りしきる夜だった。
店にひとり、見慣れない少年がフラフラと入り込んで来た。
身なりからして、貧民か孤児かのどちらかであったのは明白だった。
最近はそんな子供も増えてきて、物乞いやそれを装う強盗も多い。
相手にしないのが一番だったが、その少年はそれとは何か違った雰囲気を持っていた。
衰弱した少年に最初に気づいて話しかけたのは俺だった。
彼はか細い小さな声で、何度も謝りながらこう言った。
ただ、ピアノが聴きたかったんだと。
ふと気づけば自分のアパートの入り口に立っていた。
いつ店を出たのだろう、それすらも思い出せない。
鍵を開け、そのまま脱衣場に向かう。
びしょびしょの服をまとめて洗濯機に放り込み、全裸姿になる。
シャワーを浴びた後はそのままの姿でベッドに横たわった。
今、この寂しさを紛らわせてくれるのは、酒でも、薬でも、ましてや他人でもなく、この羽毛布団の冷たさだった。
最初はひやりと、だが段々と自分の体温で暖まっていく感覚。
これだけは嘘をつかない。
本物の体温だ。
ふわふわの布団はあいつのお気に入りだった。
いつもこうして両腕に抱き、大腿に絡めて眠っていた。
その姿が愛らしくて、いつも眠るまで眺めていた。
ただ、ピアノが聴きたかったと、彼は言った。
その言葉を聞いていたたまれない気持ちになった俺は、そのまま彼を部屋に連れ込んだ。
料理に自信は無かったが、適当に作ったスープを彼は美味いと言ってくれた。
数日間は寝たきりだった彼も、食べ物さえしっかり採ればみるみる内に回復した。
とうとうたまらなくなり、手を出してしまった晩も、彼は最初は戸惑ったものの、優しく受け入れてくれた。
男を抱いたのは、何もそれが初めてじゃない。
だが、彼のような何も知らない子供も抱いたのは生まれて初めてだった。
さらに言うなら、男に恋したのも、彼が最初で最後だった訳だが。
柔らかな肌の質感。
快楽に歪むあどけない表情。
俺は夢中だった。
それこそ、只でさえ感心事の少ない俺の心を、唯一繋ぎ留めてくれるかのように……
俺の体温で温まった羽毛布団の柔らかな質感は、なぜかあいつを思い起こさせる。
俺は布団を抱き締めると、すべらかなシーツが俺の裸体に絡みついてくる。
まだあいつの匂いが染み付いているような気がして、それが愛おしく、切なく俺の中に駆け巡っていく。
気づいた時には、俺のモノは堅く隆起していた。
我ながら、生物としての本能が馬鹿馬鹿しく思えた。
心ではこんなにも傷ついているのに。
大腿で布団を締め付け、腰をゆっくりとこすりつけていく。
あいつは俺が行為に浸ると、少し荒っぽくなるところが雄々しくて好きだと言った。
一方で俺は、そんな俺の荒ぶる気持ちを優しく受け入れてくれるあいつの気丈さを愛していた。
何度あいつを思い出しては自慰に耽り、その度に自己を嫌悪したことか。
愚かしい。
虚しい。
いくら思い続けたところで、あいつはもう、還ってはこない。
……ゴトリ。
突然の物音に、俺は自慰を中断した。
アパートの金属のドアに、何かがぶつかる音。
時計を見れば、既に夜中の三時を過ぎていた。
こんな時間に、何が?
すっかりと萎えてしまった俺は、そのままの姿で玄関に向かった。
覗き窓の先に人影はない。
酔っ払いでも通ったのだろうか。
俺は確認の為に、ドアを開いた。
ドサッ。
最初は何が倒れてきたのか理解できなかった。
それは確かに人のかたちをしていて、ぐっしょりと濡れたボロボロの布切れに包まれていたせいで、それが痩せた子供であることを理解するのに数秒必要だった。
紛れもない貧民の子だ。
「……大丈夫か?」
突然のことでその声を出すのにもまた時間が必要だった。
「……」
抱きかかえた子供は虚ろな目をしていて、呼吸はしていたが危険な状態なのは目に見えていた。
「……」
俺はひとまず、その少年を部屋に引きずり込んだ。
ボロボロの衣服を脱がし、バスタオルで体を包む。
俺は戸惑っていた。
この少年には、あいつの面影がある。
いや、そんな筈はない……気のせいだろうか?
「……い」
「何?」
「……むい」
あまりか細い声だったが、俺には寒いと確かに聞き取れた。
俺は少年の軽すぎる体を持ち上げると、バスルームに急いだ。
この子は、助からないだろう。
不思議と俺は冷静だった。
ならばせめて安らかに送ってやろうと、俺はバスタブに横たえた少年の体に暖かなシャワーを浴びせてやった。
「……暖かいか?」
俺の問いに少年は答えなかったが、少しだけ安堵の表情を浮かべているように思えた。
だが、やはり少年は、そのまま呼吸を止めてしまったのだった。
この部屋で、また幼い命が消えてしまった。
この冬の時代、仕方がないこととは言え、見ず知らずの子供の命が失われてしまうと言うのは悲しい事だ。
俺は少年の遺体をベッドに横たえると、その体に布団を掛けてやった。
明日、知り合いの牧師に連絡を取って、この子を引き取って貰わないといけない。
だが、見れば見るほど、彼は何故だかあいつに似ているような気がしてならなかった。
無論、そんな筈は無いのだ。
俺はあいつの埋葬を見ているし、まさかあいつが墓から出てきたとも思わない。
部屋で死んだ貧民の子供、という共通点があいつを思い出させるのだろうか?
俺は遺体の顔を覗き込んだ。
……やはり、似ている。
同じではないが、似ていると感じる。
頬に手を這わすと、まだ少し暖かい。
だがその妙な弾力は、生きている者とはまるで違う、あたかもゴム人形のような
違和感があった。
彼も、寂しかったのだろうか。
そう思うと、いたたまれない気持ちになった。
徐々に冷たくなっていく彼の体が寂しかった。
痩せた体は、出会ったばかりのあいつを思い起こさせる。
冷えた体を抱き寄せると、その手足は力なく俺の体にもつれてくる。
そっと唇に口づけると、柔らかくも力ないその唇は簡単に俺の舌の侵入を許してしまう。
やはりどこか、あいつに似ている。
そう思えば思うほど、俺の中で何かが狂っていった。
大腿を彼の股の間に滑り込ませ、背中に腕を回し、唇に舌をねじ込む。
しだいに俺の体が熱を帯び、同時に冷えていた彼の体も暖かさを取り戻していく。
力ない四肢が快楽に沈むあいつを思い出させると、俺のモノは再び力強く脈打ち始めた。
俺は唇を離すと、銀色に糸を引く唾液を掬い取り、濡れた指を彼の臀部へと伸ばした。
当然、彼は抵抗ひとつせずに俺の指を飲み込んでいく。
どうして嫌な顔ひとつしないのだろう。
俺は十分に彼の菊門を濡らすと、いきり立つモノを無理やりねじ込んだ。
否、無理やりと言う程の抵抗すらなく、俺のモノは柔らかな肉の感触に包まれた。
その後俺は随分と乱暴に腰を振ったが、彼は安らかな顔のまま声も上げなかった。
どうして何も言わないのだろう。
痛いはずだ。
気持ちいいはずだ。
なのになぜ顔色ひとつ変えないのだろう。
俺は、悔しかった。
もっと声が聞きたい。
もっと俺を求めて欲しい。
俺はこんなにもお前が愛おしくて、こんなにもお前に飢えているのに。
なのにお前は上の空で、涼しい顔のまま動かないだなんて。
俺は締まりのない彼の内部を乱暴に突き回し、終いには彼の細い首まで締めてみたが、彼は何も言わなかった。
そう。
彼が死んでいるという事実を思いだしたのは、彼の体内に大量の精液をぶちまけた直後のことだったのだ。
<to be continued...>
最終更新:2010年01月03日 23:33