「ホワイトルーム」と呼ばれるその白い空間は、SecAIユーザーが産まれて初めて見る、第二の世界の最初の姿だった。
脳に注入されるナノマシン、ノイロンネットワーク接続クライアント端末は、まるで擬態するかの様に脳細胞に溶け込んでいき、後の外部接続端子インプラント手術の完了後、初めてSecAIへの全覚没入が可能になる。
施術後、利用者はまずこのホワイトルームに飛ばされ、脳に注入されたナノマシンのシリアルナンバーと遺伝子情報の照合が行われ、アカウントの登録が行われる。
次に視界が晴れた時には、ごく普通に肉眼で見えていた世界と、情報化技術により再構築されたユビキタス世界とが重ね合わされて見えるようになる。
その瞬間は誰にとってもまるで魔法の世界に入り込んだかの様に素晴らしく、忘れられない体験になると言われている。
現在、あらゆる面からこの手術は義務化されており、殆どのSecAIユーザーは義務教育の終了する12歳ごろにはこの手術を行い、その目で幻想的に変貌した世界に没入していた。
だが、「彼」はそんな魔法の光景を見ることもできず、ただ真っ白な部屋の中央で立ち尽くしているだけだったのだ。
「彼」がインプラントの埋め込み手術を受けたのは、もう1年も前になる。
「彼」は喜びいさんでSecAIにアクセスし、ホワイトルームに足を踏み入れた。
だが「彼」にSecAIアカウントが発行されることは無かったのである。
ログインの最中に意識を失った彼は、気づいた時には知らない殺風景なアパート
の一室に横たわっていた。
「彼」には何が起きたのか全く理解出来なかった。
なにせ「彼」は自分の姿さえ視認することが出来なかったのだから。
視覚、聴覚、触覚、全ての感覚において「彼」は自分の姿かたち、声や足音すら認識することが出来なかった。
ショックのあまり大声を挙げてみたが、その声すらも自分自信で認識することはできなかった。
「彼」に次にできることと言えば、今一度SecAIにログインすることだった。
SecAIに繋がりさえすれば、なんとか助けが呼べるかもしれない。
「彼」はそう考えた。
だが、ホワイトルームに足を踏み入れた「彼」を待っていたのは、更なる絶望であった。
アカウント作成に必要な2つの確認情報……「ナノマシンのシリアルナンバー」と「当人の遺伝子情報に基づくユニーク番号」が、SecAI側で照合出来なかったのである。
「彼」という存在は、この世界から、完全に失われていた。
今の「彼」に、自分の存在を証明することなど不可能なのだ。
「彼」は、「彼」を「彼」たらしめるあらゆる情報を失っている。
その声、感覚、姿かたちに至るまで。
「彼」は確かにそこにいたが、「彼」を「彼」として認識できる情報は、この世界には存在しないのだ。
アパートの扉に鍵は簡単に開けることができた。
しかし触覚を失っている「彼」は、それすらも開けることが困難だった。
一週間に及ぶ格闘の末、なんとか鍵を開けることに成功した「彼」は、慌てて部屋を飛び出した。
自分の足の位置がわからず、階段を転げ落ちながらも「彼」は軟禁されていたアパートからの脱出に成功した。
「彼」は聞こえない声を張り上げながら、大通りへと駆け出していった。
途中何人かと真正面からぶつかりもした。
やっとこれで人に気づいてもらえると、「彼」はそう信じていた。
だが「彼」はこんなにも奇声を張り上げ、たくさんの人にぶつかりながらも、誰ひとりとして彼を見る者はいなかった。
否、誰ひとりとして「彼」の存在に気付かなかったのである。
「彼」は、最初自分が人々に無視されているのだと思っていた。
しかし、その視線が明らかに自分を見ていないことに気づくと、他人にも自分と同じように「彼を彼として認識していないのでは」という仮説にたどり着いた。
そしてその仮説は、そのまま「彼」に事実として受け止められた。
人々は今、「彼」を「彼でない何か」として無意識下で認識し、そしてそれは、「気に留める程のものではない何か」としてしか認識していないのだ。
それに気づいた次の瞬間「彼」は再び意識を失い、目覚めた時にはまたあのアパートの一室に戻されていたのだった。
食事は日に一度、固形の栄養食が室内の冷蔵庫型ポストに宅配されてくる。
彼は視界だけを頼りに、それをなんとか口に運びこんだ。
水道の蛇口からは常に水が垂れ流されており、水分はいつでも補給ができた。
排泄はしているようだが、その感覚が消されており排泄物の存在も認められない
。
どのような仕組みになっているのかは「彼」には想像もつかなかった。
1年間もの軟禁生活のなか、彼の精神は次第に病んでいった。
何故こうなってしまったのか。
何故こんな目に遭わなければならないのか。
「彼」は常に考えなければならなかった。
何故なら、今「彼を彼たらしめるもの」は「彼の思考」そのものでしかなかったからだ。
「彼」が考えるのを止めてしまえば「彼」はそこに居なくなってしまうのだ。
「彼」が今思考の寄りどころにするのは、あらゆる「願い」だった。
ここから出たい。
誰かと触れ合いたい。
家族に会いたい。
ここにいると気づいてほしい。
おいしいものが食べたい。
テレビが見たい。
マンガも読みたい。
ゲームもしたい。
自分をこんな目に遭わせた奴に一矢報いたい。
それらの漠然とした願いは次第に細かなディテールを帯び、まるで只の石の塊が美しい彫刻に姿を変えるが如く「彼」の中で発展し、美化されていった。
ホワイトルームの、先が見たい。
「彼」の願いは一つ残らず、ホワイトルームの虚空の中へと消えて行った。
「彼」が全てを失ってから、どのくらいの月日が過ぎただろうか。
もう「彼」は、時間の感覚すら失うほど衰弱していた。
「彼」はもう、何故自分がこんな目に遭わなければならないのかという問いすら浮かばなくなっていた。
自分はもう、ここにはいない。
それが「彼」の結論だった。
自分の肉体すら感知できず、食事をしているのかすらわからない。
冷蔵庫型の食品ポストに届く固形食品すら「彼」は口にする事を諦めてしまった。
今どうして自分が生きているのかすら、「彼」にはもうわからない。
“地獄”とはこういう状況を言うのかもしれないと、「彼」はそう考えた。
何も受けることもできないまま「彼」はひたすら生かされ続けている。
それは、耐え難い苦痛を与えられるよりも残酷な生であった。
考えることをやめた「彼」は、ただひたすらホワイトルームの虚空を見つめていた。
「彼」は今、ただ真っ白ななにもない空間に溶け込むことで、完全な無になるつもりだった。
その「彼」の眼前に、残酷なまでの“希望”が現れた。
それは、真っ白な空間に浮かぶ、幾何学的な黒い多角形の“穴”として知覚された。
物理的空間と仮想空間の重ね合わせで構成されるSecAIは、そこに物理的に存在しないものを“あるように脳に知覚”させることで、本来そこに無いものに触れることができる画期的な技術により作られている。
新しいエンターテイメントとして誕生したその機構の根底にあるのは、物理的ストラクチャーと完全に連動した空間座標認識技術だ。
SecAI上に表示されるあらゆるデータは、全て個別の空間座標値を持っている。
これは乱暴な言い方をすれば“物理空間のどのあたりにこのデータはあるのか”という値で、空中に浮かぶ広告など、これの開発は物理的制約からあらゆるメディアを解き放った。
しかし、この値が何らかの事情で狂ってしまうと、SecAI上には様々な弊害が生じる。
例えば目に見えているものと衝突判定データに誤差が生じるとあるはずのものに触れることができなったり、脳に誤った情報が送られると無いはずのものと衝突したと認識され転倒事故を起こしたりもする。
もちろんSecAIの裏側では自動プログラムが常に座標値のキャリブレーションを行っているが、それでも稀にSecAIには小規模な“ほつれ”が生じることがある。
まさに今「彼」が見ているのは、ホワイトルームの無の壁に生じた小さな“ほつれ”に他ならなかった。
その小さな小さな穴に、「彼」はどれだけ心踊らせたことだろう。
きっと「彼」は、その穴を手を伸ばしたに違いない。
その穴の向こうに、この白い地獄とは違う七色の世界が広がっていると、そう想像したに違いない。
だが彼には、伸ばす手も無ければその先に飛び出せるチャンスも無かった。
次の瞬間には空間の“ほつれ”は何事も無かったように自動プログラムにより修正され、再びそこには純白の虚空が広がっていた。
「彼」は、想像した。
まるでカートゥーンのヒーローのように、この白い壁を貫いて情報の海の中を泳
ぎ回る自分の姿を。
もう誰にも束縛されない、究極の力を得た自分の姿を。
その夢想すらもむなしく虚空へ飲み込まれ、ホワイトルームには再び静寂と無が戻っていった。
<to be continued...>
最終更新:2010年06月16日 02:30